ある不条理な出来事と、呪いの獣

雫川サラ

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8. 解呪

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 生きて、この男の好きにされていることを、ラングレンに知られるくらいならば死んだほうがましだと、そう言外に含ませる。

 言葉を切って唇を噛むアルーシャの胸中を読んだかのように、ランヴェールがやや鼻白んだ表情を浮かべる。

「全くもって、麗しいことで。まあ、面白くはないけど、僕は心が広いから、姫のたっての願いは叶えてあげるとしよう」

 姫呼ばわりを自分ですっかり気に入ったらしいランヴェールが、少し考えるそぶりを見せてからもう一度口を開いた。

「では、こういうのはどうだい? 君の希望通り、君の家で、青年にかけた術を解くことを約束しよう。そして、彼にはしばらく眠ってもらう。そうすれば目が覚める頃には君の姿はなく、君の置き手紙で彼は『真実』を知る」

 アルーシャは黙って頷いた。

 ——今は、これしかない……

 激しい怒りと嫌悪、悲しみの渦巻く心の中で、アルーシャは必死になって、答えを探していた。


 日が暮れ、夜の帳が街をすっかり覆い尽くす頃、2人は連れ立って馬車でレッキアに向かう道を走っていた。

「ここでいい」

 レッキアの町並みが遠目に見えてきたあたりでアルーシャが短く言うと、ランヴェールは御者に声をかけ、馬車は止まった。

 アルーシャは、懐にしまった、ラングレン宛の置き手紙を服の上からそっと撫でる。
 それを横目に捉えたランヴェールが、薄く笑った。

 置き手紙は、家を出る前にランヴェールの目の前で、言う通りに書かされた。
 ラングレンがかかったのは病ではなく呪いであったこと。
 それをかけた呪術師を突き止めたが、解いてもらうために、自分の命を代償とするよう要求され、それを自分が承諾したこと。
 ラングレンがこの手紙を読めているということは、自分の要求通りに呪いは解かれ、その代償として自分はもうこの世にいないだろうこと……。
 この手紙を読んだ時のラングレンの受ける苦痛を思うと、アルーシャの心は張り裂けそうだった。
 だが、今はこれしか方法がない。

 レッキアに入る前に馬車を降りたのは、アルーシャの希望だった。
 ラングレンが重い病に倒れているのは町中の人の知るところであり、そこへアルーシャが魔術師を連れてきたとあれば必ず噂になる。
 アルーシャは死んだことになっていなければいけないのだから、それは避けなければならなかった。

 町は、寝静まっていた。この時間でも開いている酒場の方から微かに騒めく声が聞こえてくるが、アルーシャの家の周りはみな明かりが消え、それぞれが明日の日の出までの休息をとっているようだった。

 音を立てないよう、そっと家に入る。寝床に横たわるラングレンは、眠っているようだった。
 この数日で呪いはさらに進行し、一日のほとんどは意識が朦朧としており、かろうじて目が覚めた時にようやく水を口にできるかどうかというほどまでに衰弱していた。
 別人のようにやつれてしまったその顔に、アルーシャは悲しみと憎悪を新たにする。

「さっさとやってもらおうか」

 ラングレンが目を覚ましたら必ず目に入るだろうダイニングテーブルの上に、持ってきた手紙をそっと置き、アルーシャは低く唸るようにランヴェールを促した。

 ——これで、ラングレンの苦しみは終わらせることができる……

 自分のせいで、無関係の恋人をこれほどに苦しめてしまった罪は、これからの生をかけて償おう。
 ランヴェールが懐から鈍く光る石を取り出して手のひらに乗せ、ラングレンの胸の上にかざすのを見つめながら、アルーシャは心に誓った。

 聞き取れないほどの低い声でランヴェールが何かを詠唱し始めると同時に、ラングレンの身体から、ゆら……と黒ずんだもやのようなものが浮かび上がる。
 目にするだけで言いようのない不快感が込み上げ、思わずアルーシャは手で口を覆った。

 ——これが、呪術……

 呪術が禁ぜられている理由が、言葉で説明されるよりも遥かに圧倒的な説得力を持って理解できる光景だった。
 こんな力を人が行使していいわけがないと、理屈ではなく直感で分かる。
 これは人の心を蝕む力に他ならない。
 ランヴェールに対する嫌悪と怒りで占められていたアルーシャの心に、ほんの少しだけ哀れみにも似た何かがすり抜けていった。

 なおも詠唱を続けるランヴェールの声に従うように、ラングレンの身体から立ち上っていた黒いもやは、声の主の手の上の石に吸い込まれるようにして消えた。

 後には、先ほどまで土気色だった顔が嘘のように血色を取り戻したラングレンの立てる、微かな、しかし規則正しい寝息と、夜の静寂だけが残された。
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