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Side :ギルバート

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 この人を傷つけたい。

 傷ついて、泣いて、絶望してしまえばいい。
 自分の中にそんな醜い感情があると、彼に出会ってはじめて知った。
 これほど恋焦がれても、こちらの気持ちに気が付きもしない男など、傷ついてしまえばいい。
 
 そんな感情を、俺は持て余していた。



◇◇◇◇◇




 ルースに出会ったのは貴族学院という国中の盆暗を集めた掃きだめのような場所だった。そんなことを言うと両親は激昂するだろうし家令は倒れ乳母は金切声を上げるだろうけど、俺にはそうとしか思えなかった。
 
 由緒正しき貴族学院。全国から貴族の子息が集められ国の発展のために水準の高い教育を施される場所……のはずだが、実際はぬるま湯だ。教授陣はそれはそれは優秀だけど、残念ながら血筋だけで才能もなければ努力もしない、そんな貴族のお坊ちゃんたちは、彼らの素晴らしい授業を理解しているとは思えなかった。
 
 と言っても、貴族学院へ子息を通わせる理由の一つは人脈作りなのだからしょうがないのは俺にも分かっていた。彼らにとっては崇高な哲学の問題や難解な数式を理解するよりも、高位貴族とともに食事をとって気に入られることのほうがはるかに重要なのだ。

 それに中には優秀な人間がいて、俺だって成績が一番というわけではなかった。だがその成績優秀な人間たちは別に本当に勉学が好きなわけでも、国のためにやっているわけでもない。この学院で優秀な成績を収めると、王宮での職にありつくことができるのだ。だから弱小貴族の次男三男あたりは、休日に家庭教師を雇ったり、酷い時は教授に賄賂を贈って答案を貰ったりして成績を維持しているのだ。そんなことを知っているせいで、俺はあまり貴族学院というものを好きになれなかった。

 どれだけ振り払おうとしても付いてくる取り巻きたち。そしてそれを『友情』と勘違いする教師たち。そしてそれに嫌気がさしながらも、貴族学院を飛び出すほどの勇気のない自分。どれもが滑稽で虚しかった。

 そんな幼い苛立ちを抱えたまま過ごしていた時、偶然風邪をひいてしまった。体は強い方だったのに油断していたのだろう。一日授業に出ていなければ当然勉強に遅れが出る。自分で教科書を読んだだけで分かるような授業ではないから、級友の誰かに教えを請わなければいけなくなったのだが――。

 そこでルースと出会った。

 いつも控えめな少年。さらさらの黒髪に深い琥珀色の瞳。同じ年なのが信じられないくらい薄い体。決して目立たずでしゃばらない彼が、同じ学年にいるということは知っていたけれど、それまで関わったことはなかった。この少年もきっと他の人間と同じだろう。親の威光を笠に着て育ち、そのまま漫然と学生時代を過ごしてまた親の庇護のもとに帰る愚鈍な男だろう、そう思っていた。

 彼に見せてもらったノートには俺がまるで知らない世界が広がっていた。ただ教師のいう事を書き写しただけかと思いきや、少々古びたノートにはびっしりと彼の意見が書き連ねてあった。借りたのは古典のノートだけれど、その時代の歴史的背景や当時の風俗、流行りの哲学までもが書き記されていた。そしてその背景から展開される彼独自の推論。それは深い知識があるからこその鋭い考察で、到底俺なんかでは考えが及ばないようなものだった。

 あまりのことに一瞬で心臓が跳ね、ノートをめくる手が止まらなくなった。一ページ進むごとに驚きと感動があり、今まで読んだ教本が子供だましに見えてしまうほど。もちろん中には粗削りなものもあったけれど、それでもまだ10代の俺を魅了するには十分だった。
 息をするのすら忘れて一気に読み進め、そして

『……これ、君が書いたの?』
『そうだけど、どこか変だった?』
『いや、変どころか……すごいな。こんなの見たことない』

 ひっそりと、森の奥に密やかに隠れていた宝石の塊を見つけたような気分だった。
 とんでもない逸材がこんなところにいたなんて。なんで今まで気が付かなかったんだ。じっと彼の顔を見ると、すっきりとした控えめな顔の中の細い眉が困ったように垂れ下がっていた。
 
『いや、ごめん。俺はギルバート。……もし良かったら俺に勉強を教えてくれない?』
『勉強?』
『嫌かな? 面倒?』

 嫌だろうか。だってこれだけ優秀なノートを付けるということは、彼はきっとクラスで一番の秀才だろう。俺のような平凡な頭の人間なんて相手にされないかもしれない。知らず知らずのうちに体に力が入り、思わず一歩踏み込む。

『ねぇ、駄目? 詳しく説明してくれなんて言わないから、お願い』
『いや、嫌じゃ、ないよ。ただ……』
『ただ?』

 ただ、なんだろうか。もし自分が差し出すことができるものがあるなら、言ってくれればいい。幸いにも実家は高位貴族。金銭も人脈も不自由していない。彼の唇から出る言葉は何だろうかと待ち構えていると、少年は何度か口元をもごもごと動かした後、小さく首を振ってから答えた。 

『……なんでもない。……私でいいなら、教えるよ』
『良かった! ありがとう、えーっと……』
『ルース。ルース・エヴァット』
『すまない。俺はギルバート。ギルバート・ウィングフィールド。ギルって呼んでくれ』

 同じ教室にいても、誰の名前も特段覚えようとしていなかったのが、その時にはじめて恥ずかしいと思った。彼は俺が名前すら覚えられないような愚鈍なお男だと思っただろうか。まるで初めて美しい人を目の前にした子供のようにソワソワと落ち着かない気分になり、彼から有難くノートを拝借すると俺はまるで逃げるように教室から退散した。

 その夜は一晩かけて彼のノートを辿り、そしてルースがいかに優れた人間かということを理解した。彼は優れた頭脳を持っているというだけではなく、とてつもなく長い時間不断の努力を積み重ねてきたのかということを、私は字の滲むノートから感じ取った。こんな人が傍にいたなんて。ただ周囲の人間を見下し腐っていたばかりの自分と比べて、なんて素晴らしいんだ。

 そして次の日から、ルースのことをもっと知りたいと彼を追いかけまわすようになった。
 ともに学び語らううちに、彼にどんどん惹かれていき……いつしか憧れと友情は、その繊細なラインを超えて恋心と独占欲へと変化していった。変化してしまった。
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