上 下
8 / 12

Side :ギルバート: レイナ嬢

しおりを挟む
 恋心に気が付くまで、俺は間抜けな遠回りを繰り返していた。

 ルースと出会って、彼の衝撃的なまでの聡明さの虜にすっかりなったのに、自分がルースに性的にも惹かれているということをなかなか認められなかったのだ。ルースと会って話すたびに心に湧き上がるどろりとした感情を宥めたくて、派手であけすけな女性と付き合ったこともある。だが流行りの観劇だのドレスだのばかりの会話にすぐに嫌気がさしてしまった。そして今度はルースに似た女性を探し始めて……でも彼女らとルースとの違いばかり探してしまって、そこでようやく俺は自分がルースを恋愛の対象として見ていると気が付いたのだ。

 ふいに振った小雨に濡れた髪。夕焼けで赤く染まった肌。木の蜜のように輝く瞳。小ぶりな唇から紡がれる詩。羽ペンを握る細い指先。そんな何気ない瞬間の彼の美しさが俺の中にゆっくりと降り積もり、いつからか誰にも取って代わることのできない大事な存在になっていた。

 ルースはとてつもなく可愛い。彼は自分のことを地味だの引っ込み思案だのと卑下するけれど、俺から言わせれば控えめで奥ゆかしく思慮深い。彼の素晴らしさを全世界に向かって大声で言って回りたい気分にもなるし、同時に彼を大事に隠しておいてしまいたい気分にもなった。こんな相反する感情が身の裡から沸き起こり、もどかしい気分になるなんて彼に出会うまで知らなかった。彼が自己評価が低いがゆえに今まで誰にも目を付けられずに済んだということに感謝しつつ、彼に誰も気が付かないということに腹を立てる。全く身勝手なものだと思う。

 そんな感情に振り回されつつ、彼の『親友』としての立場を何年もかけて確かなものにしてきた。
 ルースは本当に可愛らしくそして無垢なのだ。俺が彼を親友だと呼べば頬を染めて喜び、俺が性的な目で彼を見ていることに気が付きもしなかった。シャワーを浴びた彼の濡れた髪をそっと掬っても、図書館で眠そうに目をこする彼の頬を指でつついても、まるで気が付くことはなかったのだ。彼は聡明だけれど恐ろしく恋愛感情に対して鈍かった。だから俺はずっと『親友』としての立場を守り、傍に居続けた。

 それでいいはずだった。

 いいはずだったのだが……、人間というのはどうにも欲深くできているらしい。

 ルースは誰にも興味がない。少なくとも恋愛的には。だからそれで彼が幸せそうにしているならいいだろう。もし結婚することになっても、きっと彼にとっては俺の方が大事な存在だ。彼の心が奪われないのならばそれでいい。
 そう自分に言い聞かせてきたつもりだったのだが、彼に惚れてから日を重ねるごとに、自分のなかに醜い感情が湧き出てくるようになってしまったのだ。

 ルースを傷つけたい。

 こんなに近くで見てきたのに、なんで俺の気持ちに気が付かないんだ。彼の一番傍で一番無防備な姿を見ることがどれほど苦しいか。これほど恋焦がれても、こちらの気持ちに気が付きもしない男など傷ついてしまえばいい。俺がこの手で傷付けてしまいたい。そんな暗い感情がいつからかまるで影のようにぴったりと俺に付きまとうようになった。

 俺に完全に気を許しているルース。第2王子の補佐になってからも学生の頃のまま、夜半に訪れても嫌な顔ひとつしない。それどころかいつでも歓迎だとまなじりを下げて両手を広げる。彼をベッドに突き飛ばして押し倒したらどんな顔をするだろうか。ルースの部屋は分厚い扉に守られていて、悲鳴を上げても外には聞こえない。いや使用人が来たって俺が命じればすごすごと退散するだろう。
 親友に裏切られ、使用人に見捨てられたらルースはどんな顔をするだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。彼の涙はどれほど美しいだろう。傷つけてしまいたい。泣かせてしまいたい。嫌われたくないのに彼をめちゃくちゃにしてしまいたい。だってルースは俺の方なんて見向きもしないのだから。だったら彼の心に傷をつけてしまいたい。笑っていて欲しいのに、同時に泣かせてしまいたくてどうしようもない。

 10年かけて煮詰め過ぎた感情はすっかり澱み切り暴走しかけていて、だが恋心を捨てることも叶わずに俺は持て余していた。


 その汚い感情を抱えたまま出席した夜会で出会ったのが、レイナ・マクレガーだった。
しおりを挟む

処理中です...