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(10)調査
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霞が関の中央合同庁舎5号館には、厚生労働省と環境等が主に入居している。白いタイルが特徴の日比谷公園に面した26階建ての建物であるが、完成後30年以上を経過しており、その外観は既にかなりくすんでいる。ただ、官庁らしい飾り気のないファサードは、ガラスが多用されがちな煌びやかな高層ビル群とは一味異なる、堅実な自己主張をしているようにも見える。
そのビルの一室。部屋と部屋に隙間にある資料室に置かれた既製品の長机を挟み、二人の大柄な男たちがヒソヒソと話をしていた。
「で、俺に一体何を聞きたいのでしょうか!」
「おいおい、何も取って食おうという訳じゃない。そう警戒するな」
一人はいかにも典型的な官僚といった風合いの黒縁眼鏡をかけ、くたくたになったワイシャツにノーネクタイの男性。年のころは30代前半であろうか。そしてもう一人も年代はほぼ同じに見えるが、派手な柄シャツにGパンと、こちらは堅実さのかけらも見えない服装。首からはセキュリティ用のICカードがぶら下げられている。
「最初に言っておくけど、お前に対しても言えることと言えないことがある」
「分かってるさ。そんなことは十分に知ってますよ。高級官僚さま」
「お前、馬鹿にしているのか!」
「悪い、悪い」
そう言いながら軽妙に、しかし神妙な態度で頭を搔く男はフリージャーナリストの垣淵健次。一方の、体躯の大きさにも関わらず威圧感のかけらも感じさせず、真面目がそのまま歩いていると言っても過言ないような官僚は、田中聡一郎。同じ東京の有名私立大学を出た同級生。とは言え、卒業してから既に10年以上経過しており、それでも時々出会っている関係でもある。友人ではあるが、腐れ縁というほどにはこじれていない。
田中は国家公務員Ⅰ種採用、いわゆるキャリア組。現在、厚生労働省で大臣官房の厚生科学課で課長補佐をしている。雰囲気どおりの硬い職業は、まさに天職と言えるだろう。ただ、官僚は真面目すぎると心を病むという噂もあるので、親戚からは多少の息抜きを覚えた方が良いと良く言われている。
一方の垣淵は、大手新聞社に就職したもののわずか三年で退職。その後は雑誌記者などを経験して二年前よりフリーのジャーナリストになっている。ただ本人曰く、新聞記者もフリージャーナリストも共に社会に巣くうクズであり、同じクズならかける迷惑の小さな方を選んだだけとのこと。もっとも、本心をめったに見せない垣淵が本当にそう思っているのかは明らかではない。
「で、わざわざここまで来たんだ。何が聞きたい?」
田中は、垣淵にそう尋ねる。良い面も悪い面もあったが、人間としての垣淵を信じているからこその問いかけである。
「じゃあ、率直に聞くぞ。今、秘密裏に準備が進められている国際会議。京都の国際会議場を押さえているって話だが、お前のところで手配しているんだってな」
「おい! 声が大きい!」
押し殺した声で、田中が垣淵の頭を押さえ込むようにして慌てて言う。その驚き様を見て、垣淵はぺろりと舌を出して笑う。細面で飄々とした顔立ちは、決して二枚目と言えるものではないが、それでも十分な愛嬌があった。
「ヤバいやつなのか?」
「俺にも言えないことがあるって言っただろう!」
「そこを何とか。先っちょだけでもいいから、ね?」
「この件に、先っちょも根元もないわ!」
田中は必死に何かを隠そうとしているが、その態度や姿勢こそが会議の重要性を赤裸々に示していた。その素直さが田中の美点であり、二十代半ばで結婚できたのはそれを見出してくれた嫁のおかげであった。今では、二人の子供を持つ優しき父親でもある。数少ない休みの日には、公務員官舎近くの公園で子供たちと遊ぶ姿を見ることもできる。
「じゃあ、その内容はいいや。それは別口を当たる。話が変わるけど、感染症研究所が理化学研究所と揉めてるってのも、何か関係あるってか?」
田中は難しそうに考え込み、1分近く腕を組み悩んだ後、垣淵を睨みながら問い返した。
「お前、一体何を掴んでる?」
「ちょっと、目が怖いんですけど」
「茶化すな。そんな簡単な問題ではないんだ。これは」
「簡単どころか、下手すりゃとんでもないことに繋がると思ったからこそ、俺は今ここに来ているつもりだけどね」
「まあ、そうだろうな。お前のことだから、既にかなり裏を取っているんだな」
「取材元は、秘密だぜ」
田中は、笑いながら肩をすくめる垣淵を前にして、わざとらしく大きすぎるほどの溜息を吐き、話し始めた。
「俺が最後のピースってとこか。相変わらずお前は、、、」
「悪いな。性分なんだ」
「それは昔から知っている。なら、『獣人』と呼ばれる存在のことはもう押さえているんだろ」
「ああ、狼男か虎男か。何でもファンタジー世界から抜け出してきたたような生物だと聞いている」
「現物は見たか?」
「さすがにそれは、警戒が厳重すぎてまだだな。感染研になんで自衛隊まで控えてんだか!?」
すると、田中は頭を抱えて机の上に伏せる。
「一体、どこから情報が漏れているんだ。まったく!」
「まあ、じゃの道は蛇ってな」
「ほんと、困るんだよ。この情報が社会に出ると」
「下手すりゃ、パニックってか?」
「突飛過ぎて、誰も信じてくれないというのならいいんだけどな」
「すると、一般人がその怪物に変化したって情報も本当ってことか!?」
「ああ、この前、身元が明らかなケースが出た。更に言えばその『獣人』のDNAは元の人間どころか、人類のそれとも全く異なる」
「おいおい、それはもはや感染とかどうかのレベルじゃないだろう。俺は文系だから詳しくはわからんが、DNAって簡単に変化するものなのか?」
「遺伝子操作は不可能ではないが、それは細部に限られた問題だ。全体を組み替えるなんてできるはずもない。だから問題なんだ!」
垣淵は一瞬深刻そうな表情をするが、すぐさま軽薄な笑いに戻る。
「なるほど。だから世界中の知恵を集めようってことか」
「この現象は日本だけじゃない。いや、むしろ世界中で発生してる」
「じゃあ、なんで日本で開催する? 本場は欧州かアメリカだろ。ライカンスロープ、いやワーウルフだったっけ?」
「日本じゃ、『犬神』と呼んでいるそうだ。だが、これからは呼称を『ビースト』で統一すると聞いた」
「ふ~ん、でも呼び名なんてどうでもいいや。で、これって感染症なのか?」
「俺個人の意見を言わせてもらえば、違うと思う」
「じゃあ、一体何なんだ?」
「わからない。俺も文系だ。専門的なことはさすがに知らない。けど、」
「けど?」
「いや、特にない」
「おいおい。そこまで言っておいて、お預けか?」
「垣淵、お前『進化論』は知っているか?」
「ダーウィン、って程度の言葉ならな」
「だが、実際の進化は連続的ではなく離散的に発生する。場合によっては突然に」
「おいおい、お前が今言わんとしていることはわからなくもない。だが、昨日まで一緒に仕事していた奴らが突然進化する、なんて話はさすがにあり得んだろう」
「常識的に考えれば、確かにその通りだと思う。けど、」
「人間という種の、パラダイムシフトが起ころうとしているってことか」
「自然発生的なのか、あるいは人為的か、それともその両者が複合しているのか」
「おいおい、おっかない話だな」
「これは、仕事に疲れた俺の妄想だと思ってもらって構わない」
「なるほど、だがそれがお前の個人的見解ってことだな」
「俺の見解には、大した意味も権威もないよ、根拠すら」
「そうかもしれないが。いや、でも参考になった。ありがと! 恩に着るよ」
「垣淵…。一つだけ忠告しておく。この件からは、出来る限り手を引いた方が良い。俺が言えるのはそこまでだ」
「ああ、それを含めて参考になった。国会対応で忙しいこの時期に、貴重な時間貰ってすまなかったな。あと、妙ちゃんによろしく!」
そう言いながら、垣淵は相変わらずの飄々とした歩き方で、資料の山で出来上がった部屋から手を振りながら出ていく。
「まったく、俺はお前が羨ましい…」
狭い空間に一人残された田中が、力なくぽつりと呟いた。妙は学生時代には垣淵の恋人だった。そして田中とも友人関係。ところが働きはじめてすぐ垣淵と別れ、気が付けば田中と結婚することになっていた。ちなみに、垣淵は未だ独身。女性の影は偶のうわさで聞かないことも無いが、結婚のそぶりも見せない。だからこそ、この状態が本当に妙の望みであったのか、田中は未だに確信が持てていない。
◆
「さて、じゃあ次に行くか」
霞が関近くは駐車場不足で、民間のそれは非常に高い。そもそも、地下鉄が張り巡らされているのだから、それを使うのが合理的な方法だろう。都心の道路も、昔ほどではないにしても相変わらずの渋滞状況である。ナビの情報で、多少避けられるようになったとは言えど、それにも限界がある。
だが、それでも車での移動を選択する垣淵にはそれなりのポリシーがあった。もちろん、そのこだわりに他者が同意するかはまた別の話。
垣淵の愛車は赤いアルファロメオ・スパイダー。2シーターミッドシップの軽快な足回りが気に入っている。地を這うような位置に来る目線は、1750ccと大きくはない排気量にも関わらず、6速オートマチックの変速機構とと一体になり、ダイナミックさと躍動感を体感させてくれる。
回転式の立体駐車場から車を出した垣淵は、道路に出る前にナビを操作して次の行先を確認する。次の行先は、医薬系を核として世界的なシェアを急激に伸ばしている澄田製薬の関連会社である。今や買収したグループ会社を加えれば相当の規模になっている。確か、現在は三代目に指揮を譲ったと聞いているが、今回の調査対象はグル-プ企業である澄田バイオ。感染症研究所と深いつながりのあるメーカーでもあるが研究を中心とした会社である。
そこの主任研究員も、また垣淵にとって大学時代の知己であった。
◆
「片田ちゃん。なんとかならないかなぁ?」
「可愛く言っても駄目です」
「そんなツレナイことを言わないで、ね?」
「駄目なものは駄目です」
白衣のままで、感情をあまり表に出さず垣淵に対応しているのは、片田有紀。巨大私学なら当然のことだが、学部が異なればキャンパスも違い、本来出会う可能性の低かった二人が知り合いなのは、大学時代のパーティーが理由である。もちろん婚活パーティーなどではなく、所謂『合コン』の拡大版。
垣淵が参加したのは、将来への人脈の布石のため。そして、片田が参加していたのは入学時になし崩し的に友人にされてしまった女子大生の影響。無口な片田をダシに自分の社交性をアピールするための駒として。
そして、出会った垣淵が注目したのは片田の美貌ではなく能力だった。
「片田ちゃんと俺の仲じゃないの。ちょっとくらい教えてよ」
「駄目です。規定ですから」
こんな詮無き会話を続けているのは、垣淵が片田の特性を良く知っているためである。会話の苦手な片田であるが、多少は垣淵に心を許しているため、全くの無視はしない。そして、この様なひっかけにすぐかかる。
「えー、どんな規定?」
「未確認生物の取り扱い規定で、って、駄目です!」
少し動揺したようだ。そして、この様な動揺が重なるほどにボロが広がっていくタイプであった。感情が無い様に見えているのは、そのように振る舞っているから。正直すぎる性格であり思ったことを思わず口に出してしまうという、ある意味で素直な美点でありながらも、それ以上に社会人として大きな欠点でもある特徴。
「でも、もう自衛隊も入っているのは知られているよ。拠点を理化学研究所に移さないかって話もね」
「うそ…、そんなはずはありません!」
「あれ? 片田ちゃん知らなかった? 与党の方針で、研究設備のより整った理研に移した方が良いって話になっているんだけど」
「でも、もう少しで生体エネルギーの問題が見えてきそうなのに…」
「生体エネルギーって?」
「人と異なるエネルギーを活動原理にしている、、、って、駄目です!」
「やっぱり、片田ちゃんは可愛いな。俺と付き合わない?」
「何を言っているんですか!?」
そういう、片田は顔を真っ赤にしている。まんざらでもないようだが、30歳を越えてこれで大丈夫なのかと、垣淵から心配と同情の気配りが行われる。もちろん、勝手に気を配るだけ。すなわち、何もしないのだが。
「でも、一体だけでそんなにうまくわかるのかな?」
「何を言ってるんですか! 生きた素材ですよ! … あっ!」
「なるほど、アメリカのは死体だと聞いていたが、日本では生きたまま捕えていると。それは、日本が注目されるはずだってね」
「それは秘密なので、、、」
「分かってる、解ってる。片田ちゃんから漏れたってことは絶対にわからない様にするから」
「そうではなくって! 出たら困るんです!」
「うん、分かってるって。で、お礼のデートはいつ頃が良い?」
「それは、、、いつでも、、、」
「じゃあ、また連絡するよ。メールで良いよね」
「うん…」
いつもは鉄壁の無表情を通す片田有紀が、少しだけ感情を表すのは垣淵の前だけなのだが、目的に貪欲すぎる彼はまだ気づいていなかった。デートと言っても、毎回一緒に図書館によるだけの健全なものなのだ。もちろん、片田の職場における立場が不味くなる様なことは決してしないと心に決めているが、これも彼自身のポリシーに殉ずる故のプライベートな問題であり、実のところ相手のことを考えていない事実については、垣淵自身も気づいていない。
◆
既に調査のための取材は30か所を越えている。フットワークの軽さと、人脈の広さは垣淵の強み。現在は、都内の喫茶店で情報の再整理を行っている。目の前にある手帳には山の様な書き込み。乱雑な文字は、あたかも暗号のように他者には読みこなせない。さらに書き方も独特であり、事実関係のつながりが容易には判別できない様になっている。
この癖は、高校時代から彼が自己流で編み出したモノ。彼の父は中学時代に亡くなっていた。その後も、好意的な親戚に引き取られて大学まで不自由なく通うことができた。そういう意味では恵まれていたと思っている。
だが、政治家秘書だった父が自殺に追い込まれたことについては、今も心の奥底にどろどろとした情念が渦巻いている。この世界に飛び込んだ一番の理由でもあった。
「しかし、澄田グループか。どうしてこの件に噛むことになったのか。今はそれが最も知りたいところだな。政治家繋がりの可能性は高いが、それは、、っと」
そう言いながら、分厚い手帳をめくる。彼はあまり電子関係の機器を信用していない。もちろん、スマホもPCも使いこなしてはいるし、クラウドの情報を上げている分も少なからずある。だが、肝心だと思う人脈や情報源については決して漏れることが無い様に注意を払っていた。自分の情報を他人に預けるなんてぞっとする、というのが彼の身上の一つでもあるのだった。
そのビルの一室。部屋と部屋に隙間にある資料室に置かれた既製品の長机を挟み、二人の大柄な男たちがヒソヒソと話をしていた。
「で、俺に一体何を聞きたいのでしょうか!」
「おいおい、何も取って食おうという訳じゃない。そう警戒するな」
一人はいかにも典型的な官僚といった風合いの黒縁眼鏡をかけ、くたくたになったワイシャツにノーネクタイの男性。年のころは30代前半であろうか。そしてもう一人も年代はほぼ同じに見えるが、派手な柄シャツにGパンと、こちらは堅実さのかけらも見えない服装。首からはセキュリティ用のICカードがぶら下げられている。
「最初に言っておくけど、お前に対しても言えることと言えないことがある」
「分かってるさ。そんなことは十分に知ってますよ。高級官僚さま」
「お前、馬鹿にしているのか!」
「悪い、悪い」
そう言いながら軽妙に、しかし神妙な態度で頭を搔く男はフリージャーナリストの垣淵健次。一方の、体躯の大きさにも関わらず威圧感のかけらも感じさせず、真面目がそのまま歩いていると言っても過言ないような官僚は、田中聡一郎。同じ東京の有名私立大学を出た同級生。とは言え、卒業してから既に10年以上経過しており、それでも時々出会っている関係でもある。友人ではあるが、腐れ縁というほどにはこじれていない。
田中は国家公務員Ⅰ種採用、いわゆるキャリア組。現在、厚生労働省で大臣官房の厚生科学課で課長補佐をしている。雰囲気どおりの硬い職業は、まさに天職と言えるだろう。ただ、官僚は真面目すぎると心を病むという噂もあるので、親戚からは多少の息抜きを覚えた方が良いと良く言われている。
一方の垣淵は、大手新聞社に就職したもののわずか三年で退職。その後は雑誌記者などを経験して二年前よりフリーのジャーナリストになっている。ただ本人曰く、新聞記者もフリージャーナリストも共に社会に巣くうクズであり、同じクズならかける迷惑の小さな方を選んだだけとのこと。もっとも、本心をめったに見せない垣淵が本当にそう思っているのかは明らかではない。
「で、わざわざここまで来たんだ。何が聞きたい?」
田中は、垣淵にそう尋ねる。良い面も悪い面もあったが、人間としての垣淵を信じているからこその問いかけである。
「じゃあ、率直に聞くぞ。今、秘密裏に準備が進められている国際会議。京都の国際会議場を押さえているって話だが、お前のところで手配しているんだってな」
「おい! 声が大きい!」
押し殺した声で、田中が垣淵の頭を押さえ込むようにして慌てて言う。その驚き様を見て、垣淵はぺろりと舌を出して笑う。細面で飄々とした顔立ちは、決して二枚目と言えるものではないが、それでも十分な愛嬌があった。
「ヤバいやつなのか?」
「俺にも言えないことがあるって言っただろう!」
「そこを何とか。先っちょだけでもいいから、ね?」
「この件に、先っちょも根元もないわ!」
田中は必死に何かを隠そうとしているが、その態度や姿勢こそが会議の重要性を赤裸々に示していた。その素直さが田中の美点であり、二十代半ばで結婚できたのはそれを見出してくれた嫁のおかげであった。今では、二人の子供を持つ優しき父親でもある。数少ない休みの日には、公務員官舎近くの公園で子供たちと遊ぶ姿を見ることもできる。
「じゃあ、その内容はいいや。それは別口を当たる。話が変わるけど、感染症研究所が理化学研究所と揉めてるってのも、何か関係あるってか?」
田中は難しそうに考え込み、1分近く腕を組み悩んだ後、垣淵を睨みながら問い返した。
「お前、一体何を掴んでる?」
「ちょっと、目が怖いんですけど」
「茶化すな。そんな簡単な問題ではないんだ。これは」
「簡単どころか、下手すりゃとんでもないことに繋がると思ったからこそ、俺は今ここに来ているつもりだけどね」
「まあ、そうだろうな。お前のことだから、既にかなり裏を取っているんだな」
「取材元は、秘密だぜ」
田中は、笑いながら肩をすくめる垣淵を前にして、わざとらしく大きすぎるほどの溜息を吐き、話し始めた。
「俺が最後のピースってとこか。相変わらずお前は、、、」
「悪いな。性分なんだ」
「それは昔から知っている。なら、『獣人』と呼ばれる存在のことはもう押さえているんだろ」
「ああ、狼男か虎男か。何でもファンタジー世界から抜け出してきたたような生物だと聞いている」
「現物は見たか?」
「さすがにそれは、警戒が厳重すぎてまだだな。感染研になんで自衛隊まで控えてんだか!?」
すると、田中は頭を抱えて机の上に伏せる。
「一体、どこから情報が漏れているんだ。まったく!」
「まあ、じゃの道は蛇ってな」
「ほんと、困るんだよ。この情報が社会に出ると」
「下手すりゃ、パニックってか?」
「突飛過ぎて、誰も信じてくれないというのならいいんだけどな」
「すると、一般人がその怪物に変化したって情報も本当ってことか!?」
「ああ、この前、身元が明らかなケースが出た。更に言えばその『獣人』のDNAは元の人間どころか、人類のそれとも全く異なる」
「おいおい、それはもはや感染とかどうかのレベルじゃないだろう。俺は文系だから詳しくはわからんが、DNAって簡単に変化するものなのか?」
「遺伝子操作は不可能ではないが、それは細部に限られた問題だ。全体を組み替えるなんてできるはずもない。だから問題なんだ!」
垣淵は一瞬深刻そうな表情をするが、すぐさま軽薄な笑いに戻る。
「なるほど。だから世界中の知恵を集めようってことか」
「この現象は日本だけじゃない。いや、むしろ世界中で発生してる」
「じゃあ、なんで日本で開催する? 本場は欧州かアメリカだろ。ライカンスロープ、いやワーウルフだったっけ?」
「日本じゃ、『犬神』と呼んでいるそうだ。だが、これからは呼称を『ビースト』で統一すると聞いた」
「ふ~ん、でも呼び名なんてどうでもいいや。で、これって感染症なのか?」
「俺個人の意見を言わせてもらえば、違うと思う」
「じゃあ、一体何なんだ?」
「わからない。俺も文系だ。専門的なことはさすがに知らない。けど、」
「けど?」
「いや、特にない」
「おいおい。そこまで言っておいて、お預けか?」
「垣淵、お前『進化論』は知っているか?」
「ダーウィン、って程度の言葉ならな」
「だが、実際の進化は連続的ではなく離散的に発生する。場合によっては突然に」
「おいおい、お前が今言わんとしていることはわからなくもない。だが、昨日まで一緒に仕事していた奴らが突然進化する、なんて話はさすがにあり得んだろう」
「常識的に考えれば、確かにその通りだと思う。けど、」
「人間という種の、パラダイムシフトが起ころうとしているってことか」
「自然発生的なのか、あるいは人為的か、それともその両者が複合しているのか」
「おいおい、おっかない話だな」
「これは、仕事に疲れた俺の妄想だと思ってもらって構わない」
「なるほど、だがそれがお前の個人的見解ってことだな」
「俺の見解には、大した意味も権威もないよ、根拠すら」
「そうかもしれないが。いや、でも参考になった。ありがと! 恩に着るよ」
「垣淵…。一つだけ忠告しておく。この件からは、出来る限り手を引いた方が良い。俺が言えるのはそこまでだ」
「ああ、それを含めて参考になった。国会対応で忙しいこの時期に、貴重な時間貰ってすまなかったな。あと、妙ちゃんによろしく!」
そう言いながら、垣淵は相変わらずの飄々とした歩き方で、資料の山で出来上がった部屋から手を振りながら出ていく。
「まったく、俺はお前が羨ましい…」
狭い空間に一人残された田中が、力なくぽつりと呟いた。妙は学生時代には垣淵の恋人だった。そして田中とも友人関係。ところが働きはじめてすぐ垣淵と別れ、気が付けば田中と結婚することになっていた。ちなみに、垣淵は未だ独身。女性の影は偶のうわさで聞かないことも無いが、結婚のそぶりも見せない。だからこそ、この状態が本当に妙の望みであったのか、田中は未だに確信が持てていない。
◆
「さて、じゃあ次に行くか」
霞が関近くは駐車場不足で、民間のそれは非常に高い。そもそも、地下鉄が張り巡らされているのだから、それを使うのが合理的な方法だろう。都心の道路も、昔ほどではないにしても相変わらずの渋滞状況である。ナビの情報で、多少避けられるようになったとは言えど、それにも限界がある。
だが、それでも車での移動を選択する垣淵にはそれなりのポリシーがあった。もちろん、そのこだわりに他者が同意するかはまた別の話。
垣淵の愛車は赤いアルファロメオ・スパイダー。2シーターミッドシップの軽快な足回りが気に入っている。地を這うような位置に来る目線は、1750ccと大きくはない排気量にも関わらず、6速オートマチックの変速機構とと一体になり、ダイナミックさと躍動感を体感させてくれる。
回転式の立体駐車場から車を出した垣淵は、道路に出る前にナビを操作して次の行先を確認する。次の行先は、医薬系を核として世界的なシェアを急激に伸ばしている澄田製薬の関連会社である。今や買収したグループ会社を加えれば相当の規模になっている。確か、現在は三代目に指揮を譲ったと聞いているが、今回の調査対象はグル-プ企業である澄田バイオ。感染症研究所と深いつながりのあるメーカーでもあるが研究を中心とした会社である。
そこの主任研究員も、また垣淵にとって大学時代の知己であった。
◆
「片田ちゃん。なんとかならないかなぁ?」
「可愛く言っても駄目です」
「そんなツレナイことを言わないで、ね?」
「駄目なものは駄目です」
白衣のままで、感情をあまり表に出さず垣淵に対応しているのは、片田有紀。巨大私学なら当然のことだが、学部が異なればキャンパスも違い、本来出会う可能性の低かった二人が知り合いなのは、大学時代のパーティーが理由である。もちろん婚活パーティーなどではなく、所謂『合コン』の拡大版。
垣淵が参加したのは、将来への人脈の布石のため。そして、片田が参加していたのは入学時になし崩し的に友人にされてしまった女子大生の影響。無口な片田をダシに自分の社交性をアピールするための駒として。
そして、出会った垣淵が注目したのは片田の美貌ではなく能力だった。
「片田ちゃんと俺の仲じゃないの。ちょっとくらい教えてよ」
「駄目です。規定ですから」
こんな詮無き会話を続けているのは、垣淵が片田の特性を良く知っているためである。会話の苦手な片田であるが、多少は垣淵に心を許しているため、全くの無視はしない。そして、この様なひっかけにすぐかかる。
「えー、どんな規定?」
「未確認生物の取り扱い規定で、って、駄目です!」
少し動揺したようだ。そして、この様な動揺が重なるほどにボロが広がっていくタイプであった。感情が無い様に見えているのは、そのように振る舞っているから。正直すぎる性格であり思ったことを思わず口に出してしまうという、ある意味で素直な美点でありながらも、それ以上に社会人として大きな欠点でもある特徴。
「でも、もう自衛隊も入っているのは知られているよ。拠点を理化学研究所に移さないかって話もね」
「うそ…、そんなはずはありません!」
「あれ? 片田ちゃん知らなかった? 与党の方針で、研究設備のより整った理研に移した方が良いって話になっているんだけど」
「でも、もう少しで生体エネルギーの問題が見えてきそうなのに…」
「生体エネルギーって?」
「人と異なるエネルギーを活動原理にしている、、、って、駄目です!」
「やっぱり、片田ちゃんは可愛いな。俺と付き合わない?」
「何を言っているんですか!?」
そういう、片田は顔を真っ赤にしている。まんざらでもないようだが、30歳を越えてこれで大丈夫なのかと、垣淵から心配と同情の気配りが行われる。もちろん、勝手に気を配るだけ。すなわち、何もしないのだが。
「でも、一体だけでそんなにうまくわかるのかな?」
「何を言ってるんですか! 生きた素材ですよ! … あっ!」
「なるほど、アメリカのは死体だと聞いていたが、日本では生きたまま捕えていると。それは、日本が注目されるはずだってね」
「それは秘密なので、、、」
「分かってる、解ってる。片田ちゃんから漏れたってことは絶対にわからない様にするから」
「そうではなくって! 出たら困るんです!」
「うん、分かってるって。で、お礼のデートはいつ頃が良い?」
「それは、、、いつでも、、、」
「じゃあ、また連絡するよ。メールで良いよね」
「うん…」
いつもは鉄壁の無表情を通す片田有紀が、少しだけ感情を表すのは垣淵の前だけなのだが、目的に貪欲すぎる彼はまだ気づいていなかった。デートと言っても、毎回一緒に図書館によるだけの健全なものなのだ。もちろん、片田の職場における立場が不味くなる様なことは決してしないと心に決めているが、これも彼自身のポリシーに殉ずる故のプライベートな問題であり、実のところ相手のことを考えていない事実については、垣淵自身も気づいていない。
◆
既に調査のための取材は30か所を越えている。フットワークの軽さと、人脈の広さは垣淵の強み。現在は、都内の喫茶店で情報の再整理を行っている。目の前にある手帳には山の様な書き込み。乱雑な文字は、あたかも暗号のように他者には読みこなせない。さらに書き方も独特であり、事実関係のつながりが容易には判別できない様になっている。
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だが、政治家秘書だった父が自殺に追い込まれたことについては、今も心の奥底にどろどろとした情念が渦巻いている。この世界に飛び込んだ一番の理由でもあった。
「しかし、澄田グループか。どうしてこの件に噛むことになったのか。今はそれが最も知りたいところだな。政治家繋がりの可能性は高いが、それは、、っと」
そう言いながら、分厚い手帳をめくる。彼はあまり電子関係の機器を信用していない。もちろん、スマホもPCも使いこなしてはいるし、クラウドの情報を上げている分も少なからずある。だが、肝心だと思う人脈や情報源については決して漏れることが無い様に注意を払っていた。自分の情報を他人に預けるなんてぞっとする、というのが彼の身上の一つでもあるのだった。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
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