始まりの順序

春廼舎 明

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その後9

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 やたらと眠い日々が続く。予定通り消退出血も起きた。ホッと一安心したのもつかの間、意識を保持してるのも困難なほど、気がつくとウトウトしてる。起きようとすれば、体を軽く動かして気分転換してみようにも、脳みそを直接殴られた様に暴力的なまでに眠い。
 新しいシートの一列目を半分まで飲んでおきながら、実はアレ着床出血だったのでは? と不安に駆られる。

「翠、ちょっといい?」

 夕飯にスープを作ろうと鍋をコンロに乗せ、具はどうしようかとボーッとしているところに声をかけられた。
 手を引っ張られ、ソファに連れていかれた。

「なんでしょう?」   
「最近ボーッとしていること多いけど、仕事大変? 通勤辛い?」
「…どっちも大変だけどあとちょっとだから、週末ゆっくり休めれば大丈夫です。」
「無理はするなよ? 疲れてる時は家事しなくていいんだよ? ここは俺の家でもあるんだから、翠だけが家事を負担する必要は無いんだぞ。」
「…はい」

 まだ何かありそうな雰囲気を漂わせたまま、竜一さんが私の髪を撫でる。

「どうしました?」
「来週末から1週間ちょっと出張に出るんだけど、留守の間無理するなよ?」
「1週間…どちらに行かれるんですか?」
「ドイツ。ずっと通らなかった申請が通ってね、工場の視察。」
「そうですか…」
「帰ってきたらいなくなってるとか、ないよな?」
「ないです。帰り、お待ちしてます。」


 彼を見送り、一人になる。ドラッグストアでテスターを買って来たとして、検査後、ソレどうするの? という問題が解消される。
 無香料のハンドクリームと一緒にテスターを買う。

 結果は衝撃だった。ただひたすら眠気と混乱でどうやって過ごしたのか、日が過ぎた。彼が出発してから毎日メッセージのやり取りはしてるのに、何と返したか覚えてない。送信履歴を見ればわかるけど、見る気が起きない。
 プロジェクトも大詰めなのにミスを連発する、朦朧とした状態の私に上司から早退の指示が出る。帰宅し、泣いているうちに竜一さんが帰って来た。また、眠っていた。今日が、彼の帰国の日と知っていてわかっていなかった。帰って来たら具沢山のお味噌汁、湯豆腐を作ってあげたかったのに、できなかった。寝ても寝ても眠くて、起きていられない。怖くなる。眠りについてそのまま起きる事がなくなってしまうんじゃないか? 竜一さんの顔を見てまた泣いてしまった。

「ただいま、って、あれ、翠?」
「……」

 おかえりって言えなくて、代わりに抱きついた。

「どうしたの?」

 抱きついたまま、おでこを押し付ける。

「感動の再会って程大げさなもんじゃないし、嬉し泣きって感じでもないなぁ。」

 背中をぽんぽんと叩かれる。

「どうしたのさ、仕事は? 顔色悪いね。」
「早退。ご飯、作ってない…」
「いいよ。早退するほど具合悪いなら、俺の飯の心配しなくていいよ。」
「帰ってきたらおいしいお味噌汁食べさせてあげたかったの…」
「気持ちはすごく嬉しいけど、それはいつでもいいよ。それより俺は翠が笑っていてくれる方が嬉しいんだよ?」

 背中を支えながら、頭を撫で額にキスを落とされる。時差ボケで頭もシャッキリしないだろうし、長時間の移動で体も辛いだろうに、優しい仕草にますます涙が出る。

「翠、何があったの?」

 頭の上に顎を乗せられ、ゆっくり背中を撫でられる。これで私が彼の肩におでこを乗せればうとうとする態勢の出来上がり、今までなら。
 先延ばしにすることは、解決方法でも何でもない、むしろ悪化させるだけ。覚悟を決めて口を開く。先週行った病院の話をした。
 竜一さんは目を丸くして聞いてくれた。
 口を閉じれば、おでこに、頬に唇にまぶたにゆっくりとキスが降る。濡れた頬を指先で拭われる。また肩に頭を乗せさせ、ゆっくり髪を撫でられる。

「…そっか。……翠?」
「…はい…」

 両腕で抱きかかえられる。

「それで、怒られると思ったの? 俺が離れていくとでも思ったの?」
「!」

 予期せぬ、思ってもみなかった。思い至らなかった。思いを馳せる余裕すらなかった。ピタリと私は固まった。

 ゆるゆると辛うじて息を吐く。

「一人で頑張ったんだね。気づいてあげられなくてごめん、話してくれてありがとう。」

 ありがとうなんて言われる側じゃないのに。せっかく拭ってくれた頬がまた濡れていく。

「翠は、今日はゆっくり横になってな。」
「でも、竜一さん疲れてるでしょ?」
「ヨーロッパから戻ってくるのは、行きより楽なんだよ。機内でたっぷり寝たから大丈夫。」

 むしろ夜まで動いていないと、時差ボケ起こすと言われ、ベッドへ運ばれてしまった。
 抵抗も虚しく眠りに落ちる。

 ふと気がつけば、このところまともに料理をせずにいて乾燥していた部屋に湯気が漂う。ふわりと、すっきりとした湯気の香り。そっとベッドを抜け出てリビングに行けば、竜一さんがテーブルに土鍋を置いて、食器の用意をしていた。

「お、起きたね。ちょうど起こしに行こうかと思ったところだった。」

 にっこり笑って、土鍋の蓋を取って、中を見せてくれる。途端に立ち上がる湯気、出汁の香り。
 竜一さんに作ろうと思っていた湯豆腐だった。
 肉厚な出汁昆布が鍋底に敷かれ、出汁用のタラがぷるぷるの豆腐と一緒に沈んでる。

「銀鱈っていつの間に高級魚になっちゃったの?」
「子供の頃はしょっちゅう食卓に並んでたのにね」
「出汁用に使っちゃうの、勿体無かった?」

 これも食べてと差し出された小さな碗には、近所の団子屋の山菜おこわが盛られていた。出汁が出切ってバサバサになったタラの切り身に、ネギたっぷりの醤油ダレをつけて一緒にいただいた。


 翌日目が覚めると久し振りに竜一さんの体温を感じた。背後から抱きかかえる様に、片手はお腹を撫でる。そこから滑り、胸をふにふにするのは無意識なのだろうか、起きているのだろうか?
 くるりと反転し、彼の胸におでこを寄せる。じんわり温かくて、彼の胸は頼もしくて安心できて、そっと抱きしめられるときゅんと体が疼く。こんな温もりを感じるのはすごく久しぶりで、こんなにも幸せになれるものなんだと、知った。

「おはよう、起きた?」
「おはようございます。」
「こういう朝、すっごい久しぶりだな。」

 習慣化しているスマホのアラームが鳴る。
 竜一さんが着替えて、コーヒーを淹れにいく。私にはちゃんとデカフェを淹れてくれた。彼が出張で行ったのは脱カフェインの処理をする工場だった。たくさんお土産に買ってきてくれた。
 日差しと暖房で温まってきた部屋に、ふんわりとコーヒーの香りが漂う。ゆっくりリビングに行くと、キッチンから流れてくる目玉焼きを焼く匂いが妙に鼻についた。

 気がついたら見慣れぬところに寝ていた。
 横を向けば、憔悴という言葉がぴったりな表情で竜一さんが座っていた。

 ピルを飲み忘れていたと気がついて、焦ったのはつい昨日のことの様なのに、消退出血でホッとして、検査薬に病院での診察結果に、漸く竜一さんに話せたと思ったのに、温もりを感じる幸せを噛み締めた朝から一瞬で暗転、意識が吹っ飛んで、今。
 早すぎる。何もかもがあっという間で、ついていけない。待ってよ、私まだ何も決めてない、決められてない。


翠さん、これもこっち移動させちゃいましょうか?

あ、やりますよー。掃除機持ってきますね~。

 二人の後輩が引越し前の部屋で、何故か天袋の掃除を手伝ってくれていた。
 埃だらけだし、隅っこ蜘蛛の巣張ったりしてて恥ずかしいから、手伝ってくれなくていいよー。そう思ったのに、脚立は竜一さんの部屋に引っ越したから要らなくなって、棄ててしまったんだった。私より10cm15cm背の高い二人にありがたく高いところの掃除は任せた。
 状況の矛盾に気がつかない夢。

 いつの間にかまた眠ってしまっていて、隣にはたった一晩ですっかり老け込んだ竜一さんが座っていた。

「竜一さんがいる時でよかった。」
「え…?」
「私一人だったら、119番に無言電話するところだった」
「…翠、もう大丈夫だから、ゆっくり寝てな。」

 意外とあっさりしたもので、昼には家に戻らされた。

 麻酔のキレが悪く朦朧とした半日を過ごした後、翌日からは通常運転に戻った。しかし彼は私と対照的にトイレすら一人で行かせてくれない勢いで過保護になった。
 週末しっかり休んだから、週明けから仕事に出ようとしたら怒られた。しかしプロジェクトが大詰め真っ只中で会議やミーティングの予定すら入っておらず、私の仕事は完全なデスクワーク。トイレで席を立つ以外椅子から立ち上がることすらない、ペンより重たいものも持たないと説明して納得させた。
 ウールのコートの方がよっぽど重いのに。
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