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優しい口付け

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 触れた唇が、一度離れた。
 由良様は僅かに頬を染めて、軽く目を伏せる。

「薫子……柔らかくて、甘い。男女のことに、俺はあまり詳しくない。そういったことは、百蘭が詳しい。兄上も、詳しかったな。どうせ家など継がないのだからと、浮名を流していた」

 いつも落ち着いている印象の由良様が、恥ずかしさを誤魔化すように、私から視線を逸らしながらぽつぽつと言った。

「……由良様、お兄様のこと、ご家族のこと、お辛かったですね」

 はじめての口付けは甘くて優しくて、私も赤くなった顔を隠すように俯いて、返事をした。

「あぁ、すまない。今話すべきことではなかった。……雰囲気を、壊してしまって」
「いえ……」
「兄も両親も、仕方ないことだった。我らは人ならざる力を持つ身、だから心を強く持ち、過ちを犯さないよう、しなければならない」
「由良様は、お強い方だと思います」

 私が傷を癒すことができないと知ってもなお、私の境遇を気遣い、そばに置くことを選んでくれたのだから。
 自分の傷よりも、私を気遣い優先してくれた。
 強くて、優しい方だ。

「そうでもないんだ。九尾の力を継いでいるが、普通の男だよ。今も、心臓がうるさいぐらいに、鳴っている」

 私の手を取り、由良様は胸の上に導いた。
 呼吸のたびに、胸が上下しているのはわかる。

「手のひらからは、鼓動の音は伝わらないか。こうすれば……」

 ぐいっと手を引かれて、私の体は簡単に由良様に抱き込まれた。
 私の耳が、由良様の胸の辺りに触れる。
 着物からは、とてもよい香りがする。金木犀似た、甘い香りだ。
 由良様のさらりとした着物の感触が、私の少し着物が乱れて顕になった腕や頬に触れる。
 どくん、どくんと、早い鼓動の音が鼓膜を揺らした。
 それは、私と同じぐらいに早い。

「……あまり、緊張を悟られないようにしていた。けれど、俺も慣れていないんだ。だから口づけは、何かおかしくなかったか、これでよかったかと、考えてしまって」
「私も、はじめてで、……恥ずかしい以外は、まだ、よくわからなくて」

「よかった。君に幻滅されたらと、不安だった。顔のこともあるし、玉藻家の騒動のことも、俺があまり、女性に慣れていないことも含めて、全部、君に嫌われたらどうしようかと、少し、悩んでいた」
「嫌うなんて……私は、私でいいのかと、思うばかりで」
「君がいい。俺は、君がいいんだ、薫子。……俺の相手が、君でよかった」

 由良様の手が、私の髪を撫でて、背中を撫でる。
 どくどくと脈打つ鼓動の音も、さあさあと、先ほどよりも激しく降り始める雨の音も。
 全部が、心地よくて、同時に愛しくて。
 八十神の家に住んでいた時の私の世界はとても狭かった。
 起きて、家事をして、お父様やお父様に叱られて、また家事をして眠るだけの毎日で。
 好きなものは、好きだと思えるものは、ほんの僅かだった。

 一人きりの部屋で、冬の寒さに凍えながら、自分の体を抱き締めるようにしていると、窓からそそぐ月明かりがまるで月へと誘う光の階段に見えた時の愛しさとか。
 まだ涼しい春の日に、洗濯を干しているときに、そよ風と共に広がる石鹸の香りだとか。
 暑い夏の日に打ち水をして、できる小さな虹だとか。
 秋の夜に、寂しさを紛らわしてくれるように鳴り響く、虫たちの声だとか。

 好きだと思えるものを、心の奥に、宝物のようにしまい込んでいた。
 けれど今は、由良様がそばにいてくれる。私を選んでくれた。私がいいと、言ってくれた。

 それだけで、私の心の中にあった宝箱がいっぱいになってしまったみたいに、由良様が、好きだと思う。
 冬の終わりに梅の花が咲いたように嬉しくて、雨上がりの空にかかった虹を眺めるぐらいに幸せで。

「由良様、私も……私を、選んでくださって、ありがとうございます。星空羊羹も、甘酒も、水まんじゅうも美味しくて、お布団は温かくて、着物も綺麗で、お風呂も温かくて……ここは、みんな優しいです。誰も私を、叱らない。殴らない、ので」

 お礼を、言いたかったのに。
 なんだか胸がいっぱいになってしまって、はらりと涙がこぼれ落ちた。
 お礼を言って、嬉しいと笑いたかったのに。
 私はどうして、泣いているのだろう。

「薫子。ずっと、俺のそばにいろ。君は俺の妻だ。絶対に、離したりしない。約束する」
「……由良様」

 由良様の唇が、私の目尻に触れる。
 目尻や頬に。何度も、ゆっくり触れては、離れていく。
 それからもう一度唇が重なった。
 重なって、離れてを繰り返すうちに、私の体からまるでとろりとした甘い密にでもつけられたかのように、力が抜けていった。

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