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右腕の聖廟

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 ミューエ辺境伯領の端にある、凍った山の中腹へと、私たちはやってきた。
 地面の上には地表を見下ろすことができないほどの氷がはっていて、山全体を氷が覆っている。
 今日は天気が良かったはずなのに、見上げた空はぶあつい灰色の雪雲がひろがっていて、吹きすさぶ風の中を雪が舞っている。

「寒いですね、レイン様。こんな雪山の中に聖廟があるのでしょうか」

 声を出すと、吐息が白く濁った。
 レイン様は私を一瞥すると、目の前にそびえ立つ氷の崖へと手をあてた。

「六芒星がしめしていた場所は、ここアイシクルコルディエラ。万年氷に覆われた山は広大すぎて、一日ではとても踏破できない……どころか、足を踏み入れたらそこには絶望が待っていると言われている、死の山脈ですよ。氷の洞窟が中にありますので、聖廟はおそらく奥に」

「ど、どうしましょう、結構なんでも知っている私ですけれど、聖廟の詳しい場所までは知らないのです。間違えたら、時間が足りなくなってしまうかもしれません……」

 私は両手に抱えている邪神の像と、聖遺物の入った布包みをぎゅっと抱きしめる。
 結構なんでも知っているーーなんて思っていたけれど、百回も繰り返している割に私は知らないことが多い。
 学生時代の記憶は、型にはめられたようにして毎回同じだ。卒業式の後、牢に残るかレイン様と逃げるか、家族の元に行くかレイン様と二人きりでミューエ辺境伯家に行くかで少し変わるぐらいでーー

(……何か、忘れているような気が)

 喉の奥に魚の小骨が引っかかったようななんとも言えない気持ち悪さがある。

(まぁでも、これで百一回目なのだから、忘れることぐらいあるわよね)

 そもそもなぜ私は、百回繰り返していると思っているのだろう。
 数えたわけでもないのに、どうして今が百一回目だとわかるのだろう。

(でも、そんな気がするのよ。今は百一回目。百一回目の私と、レイン様)

 レイン様が触れた氷の壁に、紫色に鈍く輝く魔法陣が現れる。

「大丈夫ですよ、ロザリア。聖遺物を失った聖廟は、禍つ気配に満ちています。魔物があふれていると君は言いましたね。奥で蠢く薄気味悪い強大な魔力の気配を感じます。ダルダリオスの残り香、とでもいいましょうか」

「わかるのですか、レイン様?」

「ええ。私も魔性のようなものですから、同族の気配はわかります」

「私もレイン様と同じ烏……ではなくて、ゲンネ、と言うのですよね。ゲンネなのに、そういった気配はまったくわかりません。鈍感だからでしょうか」

「先ほど、シュミット公爵が言っていましたね。古の昔、この国には二神がありました。まずはじめに、女神であるジェリジェンヌ。ジェリジェンヌのつくった原初の男にして、息子でもあり夫でもある、ダルダリオス」

「夫でもあり息子でもあるというのは、なかなか複雑ですね」

「そうですね。二つの血が混じり合い、今の私たちがある。ダルダリオスの血が濃く出た者を、ゲンネと呼んだ。昔はゲンネは私のように魔法を使えたけれど、今は特徴的な黒髪と赤目であるというだけで、魔法の力は失われてしまった。混じりあって、血が薄れたのでしょうね。ロザリアに魔力の気配が分からないのは、そういう理由からです」

 レイン様は氷の壁に浮かんだ魔法陣の中へと、するりと体を潜らせる。
 すると壁などそこには存在していないかのように、レイン様の体は魔法陣の奥へと半分以上消えていってしまう。
 私も後を追った。

 魔法陣は何の抵抗もなく、私の体を飲みこんだ。
 魔法陣を抜けると、そこは広い空間になっていた。

 天井も壁も足元も全て氷で覆われている。太い氷柱が何本も、天井や地面から迫り出していて、まるで鋭い牙が何本も生えている巨大な生物の口の中にでも飲み込まれてしまったかのようだ。
 魔法陣を抜けた私とレイン様が立っている氷室の手前に、通路が一本だけある。

 明かりが入り込む余地のない、閉じた空間なのに、私たちの周りは不思議と明るい。
 視線を巡らせると、光の玉を口にくわえた狐に似た小さな黒い動物の形をした影が、私とレイン様のまわりをふわふわと飛んでいた。

「まぁ、可愛い」

「影の獣です。それは、ただの影。偽物ですよ」

「レイン様の魔法で作った獣ですね。名前はあるんですか?」

「ありません。影。もしくは、獣」

「じゃあ影狐ですね」

「きつねに見えますか?」

「はい。お父様たちを守護してくれている獣は狼に見えましたが、道標の獣は狐に見えますね。嫌でしたか?」

「いえ。好きなように呼んでかまいません」

 私は影狐を撫でたかったけれど、何せ手が塞がっているので撫でることができなかった。

「あ! ごめんなさい、レイン様。お話の途中だったのに、さえぎってしまいました」

「何か話をしていましたか?」

 レイン様が氷室の奥へと進んでいく。
 影狐と私は、レイン様の少し後ろをついていった。足元が氷なので、つるつるとよく滑る。
 残念ながら私は、投獄された時から着替えさえしていない。

 薄汚れてところどころ破れたドレスと、ヒールのついた靴は、どう考えても雪山探検向きじゃない。
 でも、寒いとか、歩きにくいとか、弱音を吐いている場合でもない。
 レイン様を急かしたのは私なので、私が不自由を主張するのは間違っている。

「ジェリジェンヌとダルダリオスの神話について、レイン様はお話をしてくれていましたよ」

「そうでしたか。……私はあまり、多く言葉を話す方ではないと思っていたのですが、ロザリアといると、自然に会話をすることができているようですね」

 レイン様はご自分のことなのに、まるで他人事みたいに言った。
 私の記憶の中で、私はレイン様の生い立ちと、ミューエ辺境伯邸で何が起こったのかを聞いている。

 物心ついてからのレイン様は、一人の時間の方がずっと長かった。
 誰かと話をするきかいもほとんどなくて、学園でも一人きりで過ごしていることが多かったのだという。
 私も、学園ではひとりきりだった。

 だから、レイン様の気持ちは、なんとなくわかる。
 それでも私は家族に恵まれていたから幸せだったけれど、レイン様にはその家族さえいなかったのだ。
 長く誰とも話をしないと、自分の声を忘れてしまう。自分の形さえ、忘れてしまう。
 私はもっと、レイン様の声が聞きたい。

「誰かと共に過ごすという経験もなくて。気がきかなくて、ごめんね。……荷物、重たいでしょう。やっぱり私が持ちましょうか」

 レイン様は私から荷物を奪おうとするので、私は両手で荷物を抱きしめて首をぶんぶんと横に振った。

「大丈夫です、これは私の役目なので」

「そうですか。では、せめて寒くないように、防寒の守護を施しましょう。それから滑らないように、騎乗の獣に乗ってください」

 レイン様の言葉と同時に、体がふわりと温かい何かに包まれたような気がした。
 それから私の両足の下に、ふさふさとした体毛を持つ黒い大きな獣が現れた。

 獣は大きな犬に似ている。目もくちもない。影が犬の形をしているだけだ。
 けれど肌触りはある。ふかふかしている。
 私はふかふかした影の獣の背中に乗せられた。

「影犬さん」

「名前はありません」

「じゃあ影犬さんで」

 影犬さんの首から、赤い紐が伸びている。
 私は荷物を抱えながら、なんとか片手で赤い紐を掴んだ。
 氷室を滑るように奥に進んでいくレイン様の隣を、影犬さんは音もなく追いかける。とっても快適だった。

「レイン様、右腕が無事に封印できたら、その、あの、キスとか、しても良いですか?」

「何故?」

「い、いえ、封印できた記念にどうかな、って思って。ご褒美があった方がやる気が出るかと思いまして」

「ご褒美?」

「私に」

「ロザリアに」

 レイン様が私の言葉をぽつぽつと繰り返した。
 言うんじゃなかった。欲望を丸出しにしてしまった。すごく優しくして頂いたので、嬉しくて調子に乗ってしまった。

「なんでもないです……」

「良いですよ」

「はい、あの、なかったことに……って、良いんですか……! やった、レイン様、約束ですよ!」

「ええ。封印できたら。それは、ご褒美というものなのですね」

 私は影犬さんの背中の上に座って、レイン様の綺麗な横顔を見つめた。
 いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべているレイン様が何を考えているのかよく分からないけれど、良いと言ってくれたということは、多分嫌われてはいなさそうだ。
 好かれているかどうかは分からないけれど、嫌われていないだけで十分嬉しい。

「俄然やる気が出てきましたね。レイン様、急いで終わらせて、私たちの愛の巣に帰りましょうね。子供の名前は何にしましょうか、男の子だったら、そうですね、ソレイユとかはどうでしょう?」

「あぁ、やはりいますね。ロザリア、すぐに終わらせましょう」

 私が一人で盛り上がっていると、レイン様が冷静な声で言った。
 いつの間にか、私たちは氷室の最奥へとたどり着いていた。

 そこには氷でできた棺が置かれている。
 棺からは、びっしりと鳥の羽が細かく生えた大きな爪を持った、私の体よりも大きな、腐臭のする爛れた手が、ずるりと生えていた。

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