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しおりを挟む与えられた居室についている浴室の中のバスタブには並々とお湯が溜まっていて、獅子を象った蛇口からはざぶざぶとお湯が流れている。中に入ったらとても気持ちよさそうだけれど、ジルベルト様をあまり待たせるわけにはいかない。
私はさっさと服を脱ぎ捨てると、洗面桶にお湯を汲んで顔と手と、足先を洗った。
「五分、五分で終わらせますわよ、私」
小さな声で呟く。
ここまでくるとバスタブの中に入っても一緒な気がしたので、少しだけ考えたあとに体をお湯の中に沈める。
とてもあたたかく、疲れた体がほぐれていく。このまま眠ってしまいたいと思う。
「リディス、君は一体なにを考えているんだい?」
やはり、来た。
予想通り薄目を開けると、バスタブの前に半透明のカミシールが浮かんでいた。
若干演技がかった口調で神様ぶっているが、少年の姿とはいえ少女の湯浴みを堂々と覗くとは、なにを考えているのか尋ねたいのは私の方だ。
「カミ様、ごきげんよう。随分と、久しぶりの気がいたしますわね」
「我は何回か話しかけたような気がするんだがな」
「そうでしたかしら。私、このところ少し忙しくて、お構いできずに申し訳ありませんわ」
悠長に話している時間はないので、私は湯から上がると柔らかいタオルで体を拭いた。
地下室の部屋と違い、必要なものが揃っているのが有難い。
体にタオルを巻きつけると、室内履きに足を通してクローゼットに向かう。
「リディス、アスタロトの時もそうだったが、お前には羞恥心というものがないのか?」
「堂々と私の裸体を覗きに来たカミ様に、羞恥心について責められるなんて思いませんでしたわ」
「覗きに来たわけじゃない、お前が一人になるのを待っていたら、たまたまお前が、だな」
「私の体に恥じるべき場所などありませんので、見ていただいても構いませんのよ。……と、言いたいところですけれど、私もまだ十六の幼気な少女ですから、恥ずかしいに決まっています」
クローゼットの中のドレスを確認する。
仕事用のメイド服と、持参した簡素な服の他に、見慣れない美しいドレスが数着。新しい下着をつけてから、どれにしようか暫く悩む。
「それは、悪かったな……、てっきりお前は他者の感情に鈍感な挙句、羞恥心すらないのかと思っていた」
「私の見事な造形をもった体に恥じるべき場所がないのは本当ですけれど、だからといって見られても平気、だということはありませんわ。動揺を表に出さないことも完璧な令嬢としての嗜みですので、そういうふうにみせているだけですのよ」
「いや、そこは動揺して照れた方が良いんじゃないのか?」
「湯浴みの最中に賊に襲われたとします、動揺して恥ずかしがっていたら、相手の思う壺でしてよ」
「お前は一体なにを想定して生きてるんだ……?」
私は肩がざっくりと開いている、真紅のドレスを着ることに決めた。
ジルベルト様の髪は黒に近い赤い色をしているので、合わせるのが良いだろう。
そういった気遣いもできてしまう私。自分の色を身に纏った支配欲をそそられる私の姿を見て、ジルベルト様は単純なのでさぞお喜びになることだろう。
「ところで、カミ様。今回は一体なんの用ですの? ジルベルト様の前で獣を捌いたことについては、私もちょっとどうかと思っておりましてよ」
「ほ、本当か、リディス!」
「えぇ。ジルベルト様が、食欲を失ってしまったらどうしようかと、思っておりましたの。……でも、そんなことはなさそうでしたわね。魔族の方というのは、少しばかり血生臭くても平気なのかしら」
「獣を捌くお前の姿を見てときめくというのも、どうかと思うがな。言いたいことは色々あるが、ジルベルトとは何故か今のところ上手くいっているみたいだな」
「私の魅力の前には二百年守った清らかさなどあってないようなものですわ。あとは私に溜まりに溜まった欲望をぶつけていただければ、晴れて私はジルベルト様の妻であり、魔界の王妃ということになりますのよ」
「慎め! その小綺麗な顔でそういうことを言うんじゃない、リディス」
「かなり慎んで表現致しましたわ。……なんと言えばいいのかしら、……子作り?」
「間違ってはいないが、頼むから恥じらってくれ」
「カミ様、先ほどから私に恥じらえ恥じらえと、随分おっしゃいますけれど。カミ様はそういう方向がお好きですのね」
赤いドレスは背中が腰の辺りまであいていて、胸の少し上ぐらいで生地が終わっている。リボンを首の後ろで結んで支えるデザインで、豊かさの片鱗が見えはじめている私の大きめの胸が少し顔を覗かせている。
ふわりとしたレースが重なっているスカートは足元まで隠れるデザインになっている。靴は折角なので、黒いヒールを履くことにした。銀色の髪は折角背中があいているつくりなので、三つ編みを二つつくり、残りの毛束と一緒に頭の上でくるりと止めた。
妖艶かつ愛らしい、大人びた装いの私を鏡で確認する。真紅のドレスを着るのははじめてだが、とても良く似合っている。
「……こんなことを言うのははしたない、のですけれど……、私、ジルベルト様に、触れていただきたいのです……、とでも、言えば良いと、そういうことですのね」
「やればできるじゃないか、リディス! 間違っても、子作りとか言うんじゃないぞ、リディス」
カミシールは満足げに頷くと、「子作りは駄目だからな」と念押しして消えていった。
一体なにをしにきたのだろう。考えても仕方ない。ともかくジルベルト様を待たせてしまっているので、私は急いで調理場へ戻ろうとして、部屋の扉を開いた。
扉を開くと、先ほど目にした人型の炎を纏った猫のような姿の、愛らしい火精の方々が、四人私の目線に合わせて浮かんでいた。
「あら、ごきげんよう、火精の皆様。……なんとお呼びしたらよろしいのかしら、クロネアさんみたいに、名前がありますの?」
「地下牢のクロネアは良い気味ですね。精霊には、個としての自我が、本来はあまりないんです。私たちは皆で一つですから、名前を呼ぶ必要はありません」
「名前はあるのに、呼んではいけませんのね」
「呼ぶ必要がないんです」
皆が同時に話しているようにも、それぞれが一語づつ話しているようにも聞こえる。
幼い子供のような高い声だが、丁寧で理知的な話し方だ。
「わかりましたわ。火精の皆様、何かご用かしら」
「ジルベルト様がお待ちです。私たちとともにいらしてください」
火精の方々が、私の手を軽く掴んでくいくい引っ張る。
それはほんのり温かくて、炎を纏っているのに私の手が焼け焦げるということはなかった。
私は火精の方々に促されるまま、一階の調理場ではなく二階へと向かった。
「どちらに、いくのでしょうか。ジルベルト様は調理場で待っているはずですけれど」
「調理場は、私たちの仕事場でした。リディス様の作った料理は素晴らしくて、私たちもひさびさに自分たちの役目を思い出したのです。本来なら私たちは、人の世界から見放されたこの世界で、王の心を慰めるために美味しい料理を振舞うのが仕事でした。ところが、ユール様は食事をやめてしまって、ジルベルト様もなにも召し上がってくれず、私たちは仕事に飽きてしまったのです」
「そういえば、魔族の方は長命なのですよね。今までの王は、ジルベルト様と、ユール様だけですの?」
「大戦が起こった時は、ルシス様。ルシス様がいなくなり、ユール様になりました。次代がジルベルト様です」
「そうなのですね。ルシス様は、よく食事をしてくださいましたの?」
「ルシス様も、ユール様も、人に憧れていたんです。ジルベルト様も。王の器とは、記憶も引き継ぐものですから、きっと興味はあるのだと思いますよ」
「記憶も……」
「王は、力も記憶も全て受け継ぐのです。長い年月で忘れることもありますが、どうしても忘れられないこともあるのですよ。ルシス様は、人間の少女を、女神の器の少女を、いたく気に入っておりました」
私は首を傾げる。
女神の器とは、はじめて聞く言葉だった。
私は私のことを女神のように美しいと思っているが、女神とは王国の神話でいう、愛と平和を齎す豊穣の女神エルヴィーザ様のことだ。よく彫刻や絵画の題材になっているが、それはお伽話の類である。
今はエルヴィーザ様が本当に存在していると思っている人間などいない。
女神の器についてもっと聞きたかったのだが、その前に火精の方々の案内は終わってしまった。
階段を上がった先の、重厚感のある扉を開くと、そこには白い清潔なテーブルクロスの上に、私の作った食事が美しく並べられていて、赤い薔薇や燭台で飾り付けられている。
それは料理長としての私が行いたかった理想の食卓だった。
役目を終えたからだろう、火精の方々の姿がするりと消えたと思ったら、私の手を優しくジルベルト様が握っていた。
「……あら、いつもと、違いますのね」
ジルベルト様は、いつも着崩している服を、きちんと身に纏っている。
詰襟の、騎士服に似ているが、装飾が少ないものだ。黒に金糸で縁取りがされていて、よく似合っている。ぼさぼさと伸びて跳ね乱れている髪も、それなりに綺麗に整えてられていた。
粗野な印象がなくなってしまうのも、少し寂しいような気がした。今のジルベルト様は、精悍で雄々しいという言葉がしっくりくる。
「手を」
言葉とともに、手のひらがあたたかくなる。
連日の仕事で、切り傷や手荒れの目立った手のひらが、もともとの傷のない肌へと変わっていた。
「ありがとうございます。治して、くださいましたの?」
「……あぁ。料理の礼だ。リディス……、その服、よく似合ってる」
「ジルベルト様も、素敵ですわ。でも、私いつもの、だらしのないあなたも、気に入っておりましてよ」
「服装の乱れは心の乱れ、とかいうのかと」
「私の周りには、ジルベルト様のような方はいらっしゃらなかったので、驚いたのですけれど、慣れというものがありますわね。見慣れてしまえば、そう悪くはありませんわ」
ジルベルト様は「そうか」と小さく呟くと、詰襟の前を開いて安堵したように深く息をついた。
「首がつまって落ちつかねぇんだよな。これでも良いか?」
「えぇ。私は、いつものジルベルト様が良いです。我が家のような安心感、とでも申しましょうか」
「よく意味はわからねぇが、お前が良いなら、良い。調理場で待ってたら、火精どもが、無礼だってうるさくてな。はじめての食事ぐらい、きちんとして欲しいとせがまれた」
火精の皆様が部屋の準備をしてくれたのだろう。
ぎこちないエスコートで、私は席についた。
長テーブルの真ん中、私の正面の席に、ジルベルト様も腰を下ろした。
料理は冷めることなく、あたたかな湯気がたっている。これも火精の皆様の力なのかもしれない。
金色の瞳が私をみつめている。
胸の鼓動がいつもよりも早いような気がした。どういうわけか、私は少し緊張しているようだった。しばらくの間、掃除婦や料理長でいたせいかもしれないし、先程カミ様に羞恥心についてうるさく言われたせいかもしれなかった。
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