冬の水葬

束原ミヤコ

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瓶の中の海に溺れる

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 全身が鋭い刺で刺されたような冷たさに息が詰まる。
 詰まった息を逃そうとすると、ごぼりと一気に口から空気が漏れて、気泡がこぽこぽと水面へと登っていく。
 ただただ、暗くて、深くて、冷たくて、苦しい。

 意識が濁る。
 閉じているのか開いているのかも分からない瞼の裏側に、白昼夢が浮かんだ。

 ◆◆◆


 お皿の割れる音がする。
 幼い私にはその音は、世界が崩壊したような爆発音に聞こえて、耳を閉じてひたすらに震えていた。

 皿の破片が、リビングに飛び散っている。
 ソファの影に蹲る私の方まで白い割れた皿の死骸が飛んできて、私の足を浅く切った。

 家の中は、怖い。
 一頻り暴力に耐えているお母さんの小さな呻き声が聞こえなくなると、私の順番がくる。

「七瀬。怪我をしてる」

 公園のブランコで一人きりで揺られていると、ハスミちゃんがやってきて、私の足の切り傷を見つけて言った。

「転んじゃったの」

 にこにこしながら私は答えた。
 知られてはいけない。
 傷は足だけじゃなくて見えないところにいっぱいあるけれど、知られてはいけない。

「七瀬、……もしかして、酷いことをされているのか?」

 中学一年生になったばかりの時のことだ。
 私よりもずっと大人びているハスミちゃんは、まるで見知らぬ大人みたいな口ぶりで、私に尋ねた。
 ブランコに揺れる私の足には切り傷がある。
 相変わらずお皿は割れて、お母さんは静かに耐えていた。

「七瀬が悪い子だから、叩かれるんだよ」

 私はへらへら笑いながらそう答えた。

「お父さん、最近あんまり帰ってこない。お母さんとは違う人が好きらしいよ。それでも、お母さんの実家がお金持ちだから、別れてくれないんだって。難しいことよくわかんないけど、だから、私とお母さんが死んじゃえば、良いんだってさ」

「……いつからだ、七瀬」

「わかんない。忘れちゃった。でも大丈夫だよ。私にはハスミちゃんがいるから。大丈夫」

「警察に行こう、七瀬」

「そういうことすると、もっと酷いことされるから、嫌」

「他にも傷があるんだろう?」

「うん、見る? ハスミちゃんは特別だから、見せてあげる」

 私は服の裾をたくし上げた。
 脇腹や背中に、ミミズ腫れの跡がある。
 古いものから新しいものまであるそれは、プールの授業で見られてしまうと困るから、お父さんに命令されて、お母さんは皮膚の病気で水に入れないと、担任の先生に伝えているらしかった。

 プールの水に入ったら、冷たくて気持ち良いのだろうなと思う。
 けれど、醜く爛れた体を見せたら、きっと皆嫌がるだろうなとも思う。

「もう良い、七瀬。見せてくれて、ありがとう」

 ハスミちゃんは、私の傷を見て息を飲んだ後、苦しそうに言った。

「逃げようか、七瀬。どこか、遠くに」

「ありがと。でも、大丈夫。学校は楽しいよ。皆、優しいし。ハスミちゃんも、いるから」

「ずっと気づかなかった。小さな時から傍にいたのに。ごめん」

「気にしないで。ごめんね、余計な心配させて。私は元気だよ。大丈夫。足も早いし」

 陸上部に入ったら、腕を隠すために長袖のジャージを着ていることを体育教師に咎められた。
 せっかく足が早いから、活躍できると思ったのに。
 怒る男の人は苦手だ。
 陸上部はもう辞めようと思っている。
 私はこのまま、変わらない毎日が続いてくれたら、それで良い。

 家の外にいる私が、本当の私。
 難しいことはよく分からなくて、明るくて楽しくて、元気な私が、本当の私。
 ハスミちゃんには、そんな私だけを見ていて欲しかった。
 上手く隠せていたつもりなのに、駄目だったみたいだ。

「何もできなくて、ごめん」

 ハスミちゃんは、私の手をそっと握って俯いた。
 私の体の傷よりもずっと、ハスミちゃんの方が傷ついているように見えた。

 それからしばらくして、お父さんは死んだ。
 お母さんのお父さん、つまり、お爺ちゃんが、たまたまお父さんが興奮している時に家に来て、私やお母さんを守るために、お父さんをやっつけてくれたからだ。
 
 警察の人たちがたくさん来た。
 真っ赤に染まった私の姿を、大勢集まってきた近所の人たちと一緒に、ハスミちゃんは見ていた。

 私の世界は、平穏になった。
 お母さんは昔のことなんて全部忘れたように、のんびり屋さんになった。
 外の世界だけが本当だった私は、家の中でも本当の私に戻ることができるようになった。

 そして私は、いつも私のそばにいてくれたハスミちゃんが、好きだと気づいた。

 
 ◆◆◆
 
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