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プール掃除と仲直り
しおりを挟むサリエルは、自分だけ屋外プール横にあるベンチに優雅に座っている。
広大な面積の屋外プールの底は、冬の間に蓄積された落ち葉や泥や、埃の汚れがこびり付いていて、とても汚い。
とても二人きりで掃除する面積ではないのだけれど、私と三月さんは裸足でプールの床に降り立って、それぞれデッキブラシと洗剤と、ホースを手にしている。
掃除中に制服は保健の先生が洗って乾燥機にかけてくれることになった。
だから私たちは体操着に着替えている。
心なしか、体操着がゆるい気がする。
昨日の鬼教官の筋肉トレーニングの成果が出ているわね。
今日もプール掃除の後に、あれが待っているのかしら。恐ろしいわね。
「なんで、こんなことに……全部あんたのせいよ」
「口を動かしている暇があったら、手を動かしなさいな。これだけ広いのだから、明日の朝まで終わらないかもしれないわよ」
「最低……」
ホースでびしゃびしゃになった足元に、洗浄用の洗剤をかけて、デッキブラシで擦っていく。
落ち葉や汚れは最終的に一箇所に集めて、まとめて捨てたほうが良いかしらね。
というか、サリエルの天使の力で、プールなど一息に綺麗にすることができるのではないかしら。
これは罰だそうなので、仕方ないのだけれど。
三月さんはこれっぽっちもやる気がなさそうに、プールの端の方で壁によりかかっている。
役立たずである。
「あなた、いい加減になさい。不貞腐れていても、プールは綺麗にならないわよ」
「帰る。付き合ってらんない」
「私に水をかけたり、悪口を言うぐらいしか脳がないのね。まるで役に立たないわ」
役立たずだと思ったので、そう言った。
三月さんが帰ろうが、サリエルに怒られようが、私にはどうでも良いことだけれど。
「あんたになんか言われたくないわよ……!」
三月さんが、床に置きっぱなしにしてあったホースを手にして私に向けた。
すごい勢いで私に水がかけられる。
再び水浸しになった私は、無言で自分のホースを三月さんに向けた。
このホースの先端を、指で押しつぶすようにすると、水が勢いよく飛ぶのね。面白いわね。
「何するのよ……!」
「水をかけるのが好きね、三月さん。水泳部に入る? 一緒に」
「どうしてあんたなんかと……あんたなんか……私のお母さんを返してよ……!」
「三月さんの、お母様を?」
「あんたの父親が、私のお母さんを盗んだんじゃない……返してよぉ……!」
不意に思い出した記憶がある。
これは果林のものだろう。
果林の過去について私は思い出すことができない。わかるのは、物の名前とか、使い方とか、それぐらいのことだ。
きっと果林は私に過去を知られたくないのだろう。
だから、頭の中の記憶の箱に鍵をかけて隠しているのだと思う。
そうだったわね。
三月さんと私は、中学一年生ぐらいまではとても仲良しだった気がする。
果林の父親と、三月さんのお母様が仲良しだったから、みんなで出かけることが何度かあってーー。
幼い果林たちは気づかなかったのね。
その時からずっと、果林の父親と三月さんの母親は恋愛関係にあったこと。
そうして、先に三月さんの母親が家を出て行った。
果林の父親は三月さんの母親が一人暮らしをしているアパートに入り浸るようになって、そして、帰ってこなくなった。
果林はそれを知っていた。だから、三月さんに何も言い返すことができなかった。
母親を失った三月さんがどれほど辛い思いをしたか、近くで見ていて、知っていたから。
三月さんの母親がいなくなった理由を作ったのが、自分の父親だと知っていたから。
「お母さん、いなくなって、お父さんは仕事が忙しくて夜遅くまで帰ってこなくて……私は一人ぼっちで……! 全部、あんたのせいじゃない、あんたの父親の……! 知っていたくせに、あんたは何も私に教えてくれなかったわよね。何も知らないであんたと仲良くしてた私を、心の中で笑ってたんでしょ!?」
「それは、違うわ」
ある日突然、友達だった三月さんが敵になった。
果林にはその理由が全部わかっていたけれど、何もすることができなかったのね。
無力感が、胸を支配する。
私には何もできない。
どうすることもできない。
何を頑張れば良いのかすら、これっぽっちもわからない。
頑張っても、うまくいかない。
死にたい。
消えたい。
そうしたらきっと、楽になれる。
「嘘つき! 友達だって思ってたのに。私を騙して……!」
「友達よ」
「違うわ!」
「父親が出ていく前から、……私の家も、酷い有様だった。蒼依は私を馬鹿にして、鬱憤を晴らすようになったし、母親は、私を甘やかすことで寂しさを紛らわすようになった。すごいのよ。毎日、山のようなご飯が食卓に並ぶの。蒼依は食べなくても何も言われないけれど、私が残すと、母親が泣くのよ。半狂乱になって」
床に向けたホースの水からは、水が流れ続けている。
排水溝に吸い込まれる前に足元に溜まった水が、足首にまでたどり着いた。
排水溝に流れていく水のように、過去も、感情も、洗い流せたら良いのに。
「……何それ」
三月さんは、訝しげに私に尋ねる。
「食べなきゃいけないから、私は太ってしまったし、毎日のご飯が拷問みたいで憂鬱だった。三月さんを傷つけたことも、三月さんに傷つけられることも憂鬱で仕方なくて、何度も、死んじゃいたいって思ったわ」
これは、私じゃない。
果林の記憶の話だ。
本当は、果林は自分の言葉で、自分自身で伝えなければいけないことなのだろう。
けれど私の頭のなかは空っぽで、果林は消えて、記憶だけが残っているように感じられた。
「自分も辛いから、許せっていうの?」
「違うわよ。……私もあなたも辛いなら、余計に辛くなる必要がある? ろくでもない家族を持った者同士、仲良くしたら良いじゃない」
「だって、嘘をついたじゃない、果林。私のお母さんの居場所知っていたくせに、ずっと知らないふりをして、教えてくれなかったじゃない」
「それは、あなたのことが好きだったからよ。三月さんが傷つく姿を見たくなかった。友達で、いたかったのよ、ずっと」
果林の方が先に、父親の不貞と、その相手を知った。
どうして良いのかわからなかった。
何も知らない三月さんが「お母さんがどこかに行っちゃったの」と言って泣くから、慰めることしかできなかった。
だって、仲良しだったから。
ずっと、仲良くしていたから。
私たちの間にあるあたたかくて穏やかな何かが、壊れるのが、怖かったのだ。
結局、壊れてしまったのだけれど。
「…………今更、そんなこと言われたって。だって、私、ずっと……果林に、ひどいこと、してきたじゃない」
「…………ごめんね、三月ちゃん」
今、勝手に口が動いたような気がした。
三月さんは、ハッとしたように私を見つめて、大声をあげて泣き始める。
私は三月さんに近づくと、その肩にそっと触れた。
振り払われたりはしなくて。
三月さんは私の体に思い切り抱きついてきた。
バランスを崩した私は、三月さんと一緒に見事に泡と水溜りと泥の中に、尻餅をついた。
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