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深淵からの迎え
しおりを挟む唐突に、肩をおされるようにして、ソファの上に倒された。
顔の横には尽の手が置かれている。
上から見下ろす形で琥珀の顔を覗き込んでいる彼は、そのまま覆いかぶさるようにしてさらに距離を近づける。
尽の狗神にどことなく似た端正な作りの顔が、徐々にぼやける。
相手の息遣いまで分かるほどの近さに、琥珀は呼吸を止めた。
唇が触れ合うのではないかというところまで近づいた瞬間、尽は気が変わったように離れると、自嘲気味に笑う。
「……俺は、漆間涼ほど優しくない」
――今のは、何だったんだろう。
分からないけれど、でも、ずっとソファに転がっているわけにもいかない。
琥珀は息を止めていたせいで少し苦しくなった呼吸を整えながら、起き上がる。
尽は何かを吐き出す様に長い溜息をつく。
「今は、お前を穢す事を考えてる。那智がお前を手に入れるより前に、お前を穢せば少しは気が晴れるんじゃないか、あいつを良い気味だと嘲笑えるんじゃないか、ってな」
那智に恨みがあるような口ぶりだった。
「……尽がそうしたいなら、私は構わない」
何のことかはわからないけれど、琥珀は失われてしまうのだから、尽に何かを差し出すことに躊躇いはない。
尽が満足するなら、それで良いと思う。
感謝の気持ちとして何かを差し出して、終わりにできるなら、その方が良い。
尽は薄く笑う。酷薄な笑みだったが、何かを隠しているだけのようにも見える。
「お前はずっと独りだった。独りだったお前を、俺が最初に手元に置いた。そうする事が必要だったから、お前が俺に懐くように、優しいふりをした。俺はお前を、騙していただけだ」
「全部が、嘘だったと思わない」
「それは、勘違いだ」
困ったように、幼い子供にいいきかせるように彼は言う。
それが本当だとしたら、果たして自分は傷つくのだろうかと琥珀は考える。
尽をじっとみつめると、彼は視線をそらした。
「尽は私を無知な子供だと思っているだろうけど、私にも少しは考えることができる。あなたの全てが嘘だったとしても、別に構わない」
そう。
別に、構わない。
真実が別にあるとしても、琥珀にとってのそれは、琥珀が見て聞いて、感じたことだけだ。
「あの場所から連れ出してくれたことや、私を神楽じゃなく琥珀だと言ってくれたこと、あなたが私を救ってくれたことは、……尽にとっての嘘なのかもしれないけど、私には本当だから」
相手の心の奥底など、分からない。
分からないのだから、そんなことは知らなくても良いのではないかと、琥珀は思う。
本当の事なんて知らなくて良い。
自分の感じたことをだけを信じるのは、心地の良い夢の中にいるようなものかもしれない。
でも、琥珀にはそこから抜け出したいと足掻くほどの時間は残されていない。
尽は怒ったような表情を浮かべていたが、何も言わなかった。
琥珀はソファから立ち上がると、乱れてしまった髪や服を手で軽く整える。
「尽、ありがとう。私は、帰るよ」
微笑んだつもりだったが、うまく笑えていただろうか。
決心が鈍るのが怖くて、逃げてしまったけれど、最後にきちんと話をすることが出来て、感謝を伝えることができて良かったと思う。
琥珀が那智の元に行くことは、尽の思い描いていた形ではないかもしれないけど、結果が一緒ならば構わないだろう。
涼の事は少し心配だけれど、影虎にお願いして、一緒に来ることができないようにしてもらおう。
涼は怒るかもしれない。
でも、陽詩が死んだあと昴が自分の人生を歩んだように、涼もそうしてくれる筈。
死んでしまったら、そこで終わってしまう。
そんなことは、あらかじめ決まっていた自分だけで十分だ。
尽から視線を逸らすと、部屋から出るために琥珀は彼の横を通り過ぎる。
足を一歩踏み出す前に、腕を掴まれた。
強引に体を引かれたと思ったら、力強く抱きしめられていた。
両腕が背中に回り、縋る様に指先が背中に食い込んでいる。
柔らかく頼りない琥珀のそれとはちがう硬い身体は、驚いて離れようと押してもびくともしなかった。
「……琥珀、俺は」
苦し気に、尽が名前を呼ぶ。
抵抗をやめて両手をそっと彼の背中に添わせると、さらに力が強くなる。
体が軋むほど抱きしめられ、息がつまった。
肌が触れ合う居心地の悪さと、ぞくりとした言いようのない熱さを同時に感じる。
離れたいような気もしたし、このままずっとこうしていて欲しいとも思う。
うまく、呼吸ができない。
「俺は、お前に触れる資格なんてない。悪いな、今だけだから、許してくれ」
大丈夫だからと、小さく頷く。
許すもなにも、尽には感謝しかしていない。
切ないような、苦しいような感情が胸を過る。
それは神楽がかつて那智を愛したような、深く激しいものとは少し違うような気がした。
何と表して良いのかは分からない。自分でもそれが何かよく分からないのが、もどかしい。
「……俺は確かに那智の封印を解きたかった。お前は、その為に必要だった。ただそれだけだった。でも、今は違う」
「それだけでも、私は別に構わない」
「違うんだ、琥珀。……那智の元には行かせない。俺はお前に生きていて欲しい。できるなら、俺は……!」
祈る様な彼の言葉は、途中で途切れる。
ふと、明るい部屋なのに、闇が深くなったような気がした。
ぞわりとした寒気が足から這い上がってくるような錯覚に、琥珀は眉を潜める。
「——八津房も世迷い事を。私と同じ存在なのだから、酷くお前に惹かれたのだろう。随分と抵抗していたようだが、とうとう惑ったようだ」
琥珀の耳元で、歌うようにだれかが言う。
尽の体で、尽の声だけれど、でも、違う。別の何かだ。
琥珀は嫋やかに紡がれるその言葉の持ち主を、知っていた。
「……那智、様」
「神楽……今は、琥珀だったか。待っていた。永劫とも思われる間、ずっと」
琥珀を見下ろす瞳は、尽の翡翠色のものではなく、暗闇に浮かび上がる怜悧な月を思わせる、金色に変わっている。
人の形をしているが、彼の体から伸びる影は何本もの足と、節のある体を持った百足の姿をしていた。
身を捩らせて彼から離れようとしたが、彼は静かな表情の中に喜色を滲ませて、琥珀の体を抱え込む。
「何人ものお前が落ちて死ぬのを繰り返し見続けた。ようやく、八津房を通してだが、外に出られるようになったようだ」
「那智様……封印が……」
「いや、まだだ。私は暗い岩屋に縛られ続けている。これは私の力の一部に過ぎない。お前は私の元に来るのだろう――迎えに来た」
愛しげに、尽の姿をした那智は言う。
それは神楽に向けられた言葉で、自分のためのものではないと琥珀は思う。
「尽は、那智様だったのですか……?」
「そうだが、違う。違うが、似たようなものだ。あれにはあれの、考えがあったようだが、私の元にお前が来るのならば些少な事だ」
尽は、尽として存在している。
那智の言葉は難しかったが、多分そういうことなのだろう。
それなら良い、良かったと、安堵した。
「さあ、おいで」と那智が言う。琥珀の視界は闇に包まれ、やがて意識を失った。
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