贄の巫女と千年の呪い

束原ミヤコ

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冬の庭

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 ――その時、琥珀は自分の在り方に、疑問を抱いては居なかった。

 冬の足音と共に越冬植物以外の雑草が枯れて死に絶えた荒れ放題の庭に、そっと雪が降り積もっている。
 全てを綺麗に浄化してくれるような冷たい空気の中、琥珀は縁側に座っていた。

 世界は眠りについたように静かだ。
 景色を白で包み込む雪は、音も飲み込んでしまうんだろうか。

 琥珀は、自分と外界を繋ぐ唯一の景色を、熱心に眺めている。
 こうして外に出た気になっても、井の中の蛙が円形の小さな空を眺めているようなものだ。
 醒めた瞳で先の見えない林を眺め、そう思う。

 昼の、冬特有の晴れているのに何か足りない光が、庭に差し込んでいる。
 それは覆いかぶさる雪帽子にぶつかり、見えない所で弾けて飛んでいるのだろう、目の奥が少し痛い。

 成長期を迎える前の幼い四肢を投げ出して座る姿は、歳相応にあどけないけれど、不思議な色の瞳が映すのは、儚い諦めと、淋しさだけだ。
 白い庭と同じように、琥珀も、着ている着物も、ひたすらに白い。
 まるで、この場所だけ色を失ってしまったように。

 長い息を吐く。
 空気の中に白い軌跡を残して溶けていくそれを眺めると、目を細める。

 琥珀の側には誰もいない。
 けれど比べる対象がないので、環境の不自然さを、あっさりと受け入れてもいた。

 村の為に、神様の貢ぎ物になるのだという。
 どうやらそのために生まれたのだと、聡明な彼女はものごころついた時には気づいていた。

 唯一琥珀の傍にいる世話係の松代は、琥珀から話し掛けない限り、石のように押し黙っている。
 屋敷から、外にできることはできない。
 両親が会いに来ることも、滅多にはない。

 はじめのうちは、体が弱いせいかと思っていた。
 産まれた頃より良く熱を出し、起きている時より布団で寝ている時の方が長かった。
 だから、外から隔離されているのかと考えていた。

 しかし、少しづつ動けるようになっても、それは変わらなかった。
 そして、あるとき。
 何故外に出られないのか聞いた自分に、いつも無表情な父の後ろで黙っている母が言った。

『琥珀は、神様のお嫁さんになるのよ』

 と。
 母は、そう言ったきり俯いてしまった。
 それを見た時、それが自分の生きている意味だと悟った。
 疑問は持たなかった。

 両親がそういうのだから、そうなのだろうと思った。
 そこには、選ぶ権利など、初めから存在していない。

 我が儘も言わず泣きもせず、それ以来何も言わなくなった琥珀を、母は以前にも増して哀しそうな様子で見るようになった。
 母が悲しむのが嫌だったから、琥珀は極力話さないようにした。
 琥珀が母を慕うほど、母は塞ぎ込んでしまうことが分かったからだ。

 やがて、その母も顔を見せないようになった。

 仕方がない。

 そう。

 仕方がない。

 呪文のように、何度も繰り返す。
 母は私を好きだから、悲しいんだろう。
 だから、恨んだりはしなかった。
 かわいそうだと思った。

 母も父も来なくなり、琥珀は流れる月日にただ、海月のように身を任せた。
 林から、兎でも跳ねて来ないだろうか。
 そう思って、縁側に出ることだけが、唯一の楽しみだった。
 或は。
 だれかが、迷い込んで来ないだろうか。

 もう、神様は琥珀をいらないと言っている。
 だから、お嫁さんにならなくていい。

 そう言ってくれないだろうか。
 そう空想することの虚しさを痛いほどよく知りながら、何度もそれを考えては、風に揺れる木々のざわめきにふと顔をあげたりすることを繰り返した。 

 部屋の中に置かれたストーブから仄かに暖かさを感じるが、全身を外気に晒していては焼石に水でしかない。
 指先の体温が失われてきたので、そろそろ部屋に戻ろうかと、危機感を覚えるでもなく怠惰に考えた時だった。

 ふと、人の気配を感じた。
 それは風に揺れて消える蝋燭の炎のように儚いものだったが、確かに庭の奥から誰かの視線を感じた。
 琥珀は一度瞬きすると、注意深く景色を観察する。

 しかし、誰の姿もない。
 白々しい程静かな、ただの庭だ。
 気のせいだったのだろう。

 失望と諦めという、慣れた感情を味わいながら、そっと溜息をつく。

 暫く、じっと足袋を履いた自分の爪先をみつめた。
 縁側の縁から投げ出した足は、地面から這い上ってくる冷気に侵食されて、少し痛む。

 そろそろ戻らないと、本当に風邪をひいてしまう。
 しかし先程の感覚が忘れ難く、琥珀は辛抱強くその場所に留まり続けた。

 さくり、と雪を踏む音が鼓膜に響く。

 飛び上がるように顔を上げた彼女は、庭の真ん中に立っている見知らぬ男を、信じられない物を見るように見上げた。
 銀色の髪をした背の高い男だった。
 村の人が、迷い込んだのだろうかと思う。
 だとしたら、早く逃げないといけない。誰かに見つかれば、怒られてしまう。

「迷った?」

 そう声をかけると、彼は頷いた。

「そこは、寒い。こっちに来ても良い。ストーブもあるし」

 琥珀は自分の隣を指差した。
 寒いのに変わりないが、少しは良いだろうと思う。

 彼は頷くと、さくさくと足跡を残して庭を歩き、琥珀の隣に座る。
 本当は、早く逃げた方が良いと言うべきなんだろうとは思うが、はじめての侵入者に好奇心が自制心に勝ってしまった。

「村からきた?」
「こんな日に、縁側で何をしてるんだ?」

 質問に答えずに、逆に質問された事に特に気を悪くすることもなく、琥珀は答える。

「外を見ていた」
「どうして?」
「兎が、いるんじゃないかと思って」

 琥珀が言うと、彼は少し笑う。

「庭に降りて、探しに行けば良い」
「駄目。外にでたら、いけない」
「どうして?」
「私は、神様のお嫁さんだから」

 彼は首を傾げる。

「それで、閉じ込められてるのか」

 ――閉じ込められている。
 そう、なのだろうかと琥珀は思う。

 あまり実感は湧かなかった。外に出たいと本気で嘆願した事も、出ようと実力行使をしたこともないからだ。
 どちらかといえば。
 自分の意志で、ここにいる、ような気さえする。

「逃げたくないか?」

 この人は、迷子なのに何故そんな事を聞くのだろう。
 まるで、全て知っているような口ぶりで。

「私がいなくなると、皆困る」
「お前は、皆の為に生きてるのか?」

 質問の意味が良く分からない。
 琥珀は男の顔をじっと見る。鋭い目つきと、靱かそうな筋肉に覆われた体は、野性の狼を思わせる。
 見ていると、本当に村の人なのだろうかと、やや不安になる。

「他に、行くところなんてない……それに、私がいなくなれば、母様は悲しむと思うから」
「神様の嫁になるっていうのは、死ぬって事だ」
「死ぬって、どんな感じかな」

 分かっていた。
 物語に出てくる貢ぎ物の牛や豚は殺されるのだから、きっと自分もそうなんだろう。
 漠然とそう考えていた。

 ただ、死という単語があまりにも遠い世界の言葉のようで、言葉以上の意味を理解することができなかった。
 それは無くなる事だろうか。

 どうせ。
 生きているのか生かされているのかも分からないような生活だから、世界から自分等消えても構わない。
 それで皆が喜ぶなら、それでいい。

 それが一先ずの結論だった。
 琥珀が産まれてから覚えた事は、何もしなくても月日は勝手に流れていくという事だ。
 だから、この場所でじっとその時をまっている。

 時々、本当に生きているのかすら分からなくなる。

「痛く、なければいいけど」

 足先を見つめてそう言うと、隣に座っている男が苦笑した。

「痛いのが嫌なのか」
「痛いのも、苦しいのも嫌。怖いのも、嫌」
「まぁ、そんなものが好きな人間なんて居ない」

 そうか。といって、琥珀は溜息をついた。
 皆同じだといわれたようで、少し安心した。
 待ち受けている死を享受しているつもりなのに、些細な事に怯えているようで、恥ずかしかったのだ。

「そろそろ行かないと、見つかったら怒られる」

 庭をぐるっとまわれば外に出られる、と琥珀は彼に教えた。

「……ここには、何人もの女が閉じ込められた」

 立ち上がるでもなく、男が唐突にそんな事を言ったので、琥珀は目をぱちくりさせる。

「私、みたいに?」
「そうだ。お前が死ねば、次は妹の子供が閉じ込められる」

 妹。
 どうして、この人は瑠璃のことを知っているんだろう。
 それは、母が屋敷に来なくなった原因のひとつでもある。
 瑠璃は、まだ小さい。
 会わせて貰えないけど、きっとかわいい女の子だろうと思う。

「私が、死ねば、終わりじゃないの?」
「終わらない。この呪は永遠に続くものだ」

 男は立ち上がると言った。

「それでも、怠惰に死を望むのか?」

 低く掠れた声は白い庭に、男の姿と共にとけて消えた。
 琥珀はその日から、数日熱を出して寝込んだ。
 そして、あの邂逅が現実なのか夢なのか、静かに混乱し、季節のうつろいの中ですっかり忘れてしまった。
 ただ。
 終わらない呪縛の真ん中に張り付けられているような、酷い閉塞感だけは残った。

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