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第六章 匈奴襲来
第三十七話
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始建国三年(西暦十一年)春、立国将軍孫建に指揮された新軍の一隊が、匈奴軍に破壊された国境の城塞に入城した。風に晒されていた新軍兵士の遺体が埋葬され、城頭に大新帝国軍の黄旗が再び掲げられた。瓦礫が片づけられ、城門が修復された。孫建の総指揮の下で、長城の南に侵入している匈奴軍の掃討作戦が行われた。匈奴軍を指揮していた左骨都侯は戦闘を避け、長城の北へ後退した。機を見て再び長城を越えるべく、斥候に新軍の様子を偵察させた。南から新軍が続々と国境の城塞に集結していることを偵知した。新軍は国境の防備を強化している、と左骨都侯は考えた。十日が過ぎ、二十日が過ぎた。国境を目指す新軍の列は途切れず、城塞の南側の大地を黄旗と仮設兵舎が埋めた。左骨都侯は新軍の目的が防備の強化ではないことに気づき、タリム盆地へ急使を走らせた。
タリム盆地では、烏珠留単于率いる匈奴軍本隊と、大新帝国のタリム盆地駐留軍の戦いが続いていた。本拠地の烏塁へ集結しようとする新軍を烏珠留単于は急襲し、数度の勝利を収めたが、その間に新軍は烏塁の守りを固めた。烏珠留単于は烏塁へ兵を進めたが、烏塁の守りの堅さを見て攻囲せずに去り、帝国に従属しているオアシス都市を襲撃した。都市を救援するために新軍が烏塁を出れば新軍と戦い、烏塁を出なければ襲撃を繰り返し、帝国に従う諸市を動揺させて単于国へ寝返らせようとした。新軍は烏塁を出ず、一つ、二つと都市が炎上した。三つ、四つと帝国から単于国へ都市が靡き、じわじわとタリム盆地の勢力図が塗り替えられた。これなら勝てる、と烏珠留単于が確信を持ち始めた時、左骨都侯の急使がタリム盆地に到着した。
「時間切れか」
烏珠留単于は馬上で天を仰いだ。馬首を巡らし、タリム盆地から撤退することを指揮下の将兵に伝えた。右屠耆王輿が黒馬を走らせ、烏珠留単于の許に馳せつけた。馬を進める烏珠留単于を追いながら、タリム盆地から撤退することに反対した。
「おれたちが兵を退けば、ようやく手に入れた都市を新軍に奪われます。これまでの戦いが、匈奴の戦士たちの死が無駄になる」
「右屠耆王」
単于の馬を追う輿の黒馬の横に、右骨都侯須卜当が馬を並べた。
「敵が匈奴の領土へ攻め入ろうとしている時に、戦士たちを率いて敵を防ぐべき単于が不在となれば、民の心が離れます。おれたちの父の時代のように、匈奴が分裂することも起こり得る。一つに団結していてさえ勝利は遠いのに、二つに分裂すれば匈奴は新に勝てない。匈奴の分裂を防ぐために、今は東へ戻るべきです」
匈奴軍はタリム盆地での作戦を中止し、東へ引き返した。烏塁に籠城していた新軍が動き出した。固く閉じられていた烏塁の城門が開かれ、匈奴軍に与したオアシス都市に黄旗の大群が攻め寄せた。都市が陥落した、親匈奴派の人間が殺された、という凶報を振り切るように匈奴軍は疾駆し、楼蘭の郊外を過ぎ、彷徨える湖に到達した。湖の畔で馬を休ませていると、また東から急使が到着した。
匈奴単于国の北西部総督、右谷蠡王の軍が、帝国と単于国の戦争に乗じて攻めてきた丁零の軍に敗れた。
「負けたのか」
烏珠留単于は呻いた。丁零は匈奴単于国の北に割拠する民族で、右谷蠡王を撃破した後は大いなる湖へ軍を進め、湖畔に点在する集落を攻撃していた。集落では漢人系の定住民を中心に農業、漁業、そして、製鉄業が営まれており、もし大いなる湖が丁零の手に落ちれば、匈奴軍は今以上に鉄の不足に苦しむことになる。
「単于」
顔を蒼褪めさせている烏珠留単于へ、須卜当が馬を近づけた。
「おれを大いなる湖へ行かせてください」
「右骨都侯」
「必ずや丁零を大いなる湖から撃ち払います」
「五百騎。それ以上は、大いなる湖の防衛には割けない」
「二百騎で十分です」
「右骨都侯」
「二百騎で十分です」
須卜当は繰り返した。数秒、烏珠留単于は沈黙して須卜当を見つめた。
「おまえの勇気に、天が報いることを祈る」
「感謝します」
須卜当は馬首を返した。走り出した須卜当の馬の横に、盧芳の馬が並んだ。当然のように隣を並走している盧芳を、須卜当は横目で見た。
「おまえも行くのか?」
「大いなる湖には友人がいる。助けてやらねえとな」
「足手纏いになるなよ」
須卜当は二百騎を率いて北へ駆けた。大いなる湖へ急ぐ途中、草を求めて移動する兵站用の羊群を前方に見た。羊群の横を駆け抜けようとした時、須卜当の妻、須卜居次云が馬を駆り、羊群の中から走り出た。
「須卜当さま!」
云は馬を須卜当と並走させた。手にしていた革袋を須卜当へ投げ渡した。須卜当が革袋の口を開くと、出来たばかりの乾酪が詰められていた。
「君期も!」
云は盧芳にも革袋を投げ渡した。盧芳は革袋を受け取ると、ありがとうよ、今日も匈奴一の美人だぜ、と破顔した。云に続いて槖駝で走り出てきた女たちが、須卜当の後ろを走る二百騎へ次から次へと革袋を投げた。頑張りな、負けたら穹廬に入れないからね、と手を振る女たちに笑顔を返し、二百騎は大いなる湖へ駆けた。
須卜当を大いなる湖へ向かわせた烏珠留単于は、左骨都侯の軍と合流するために東へ急いだ。途中、またしても凶報に接した。新帝国と交渉を試みていた右犂汗王が新軍に捕らえられ、万里の長城の南へ連れ去られた。
「……そうか」
烏珠留単于は瞑目した。右犂汗王の三人の子、助、登、角が、父を救出するために帝国に潜入させてほしい、と単于の背中に懇願した。危険すぎる、と烏珠留単于は退けた。三兄弟は、願いを聞き入れてもらえなければ軍を脱走して救出に向かう、と言い出した。烏珠留単于の横にいた左骨都侯が、軍を脱走すれば死刑であると言い、三兄弟を止めようとした。しかし、助、登、角は、父を救い出すためならば、と馬首を返した。駆け出そうとした三兄弟を、待て、と烏珠留単于は呼び止めた。
砂塵を含んだ風が沙漠を過ぎた。助、登、角の騎影が、烏珠留単于に見送られて軍から離れた。三騎の生還を天に祈り、烏珠留単于は軍を東へ進めた。幾日も沙漠を駆け、左骨都侯の軍と合流した。牧民の避難は進んでいるか、と左骨都侯に訊ねた。抜かりなく、と左骨都侯は答えた。烏珠留単于は頷き、新軍の侵攻に備えて兵馬を休ませた。何事もなく十日が過ぎ、二十日が過ぎた。五十日が過ぎ、百日が過ぎた。タリム盆地の親匈奴勢力が駆逐された、という報告が西から届き、大いなる湖の戦況が芳しくない、という報告が北から届いた。大いなる湖へ援軍を送るべきではないかと思い、右屠耆王輿と左骨都侯を呼んで相談した。援軍を送るべき、と左骨都侯は言い、須卜当を信じるべき、と輿は主張した。更に百日が過ぎた。斥候が息を切らして烏珠留単于の馬前に駆けつけた。ついに新軍が攻めてきたか、と表情を緊張させた烏珠留単于に、斥候は報告した。
新軍に捕らわれていた右犂汗王が、助、登、角に救出された。
「右犂汗王が」
烏珠留単于は驚いた。驚きすぎて気が遠くなり、どさりと馬から落ちた。側近たちが驚いて馬を下り、気を確かに、と烏珠留単于を助け起こした。助け起こされた烏珠留単于の口から笑い声が漏れた。
「聞いたか。右犂汗王が助け出された。右犂汗王が助け出されたぞ」
烏珠留単于は笑いながら側近の肩を叩いた。側近たちは顔を見合わせた。数秒の間を置き、歓声を上げた。久しく聞いていない朗報に、皆、気分を昂揚させた。烏珠留単于は斥候へ目を戻した。
「それで、右犂汗王たちは今、どこにいる?」
単于に問われ、斥候は顔を俯かせた。右犂汗王を救出する過程で助が命を落とし、登が新軍に捕らえられたことを、斥候は烏珠留単于に報告した。烏珠留単于の顔から笑みが消え、先程まで歓声を上げていた側近たちが沈黙した。
二日後、右犂汗王と角が烏珠留単于の馬前に現れた。右犂汗王を於粟置支侯に降格とすることを、烏珠留単于は父子に言い渡した。角が伏せていた顔を上げ、父を弁護しようとした。烏珠留単于は右手を上げて角を制し、少しの間、於粟置支侯と二人だけにするよう周囲に命じた。
陽が落ちて空が暗くなり、風が冷たさを増した。暖を取るために、家畜の糞を乾燥させたものを烏珠留単于は燃やした。於粟置支侯を火の近くに座らせた。径路刀を抜き、自らの顔に押し当て、引いた。径路刀を鞘に納め、胡羚羊の肉を乾したものを於粟置支侯に勧めた。自らも一切れ、口の中に入れた。入れたものを噛みながら、助と登のことを話すべきか、考えた。
「新軍が、長城に兵を集めている」
烏珠留単于の顎の先から、血が滴り落ちた。
「長城の防衛にしては多すぎる数だ。恐らくは我らの領土に攻め入ろうとしているのだろうが、一向に攻めてこない」
「皇帝は――」
於粟置支侯が口を開いた。
「――三十万の大軍で匈奴を攻め、単于を大いなる湖の北へ追いやり、匈奴を分割して十五人の単于を立てようとしています」
新軍に捕らえられている間に知り得た情報を、於粟置支侯は烏珠留単于に話した。新軍が三十万の大軍を六つに分け、六路から北へ攻め込もうとしていることを話した。新軍が擁立しようとしている十五人の単于の中に、自分も含まれていたことを話した。新軍が三十万人分の食糧を調達することに手間取り、未だに北へ進軍できずにいることを話した。話しながら、一口、また一口と乾し肉を齧り、咀嚼した。
「単于」
風が鳴り、於粟置支侯の双眸に映る炎が揺れた。
「単于、どうか――」
「駄目だ」
於粟置支侯が何を言おうとしたのか、烏珠留単于は察した。
「おまえが行けば、必ず角も共に行く」
「角には、おれから言い聞かせます」
「無駄だ。あんなことが起きた後で、おまえを一人で行かせるわけがない」
「おれが説得します」
「不可能だ」
「説得します」
「咸」
於粟置支侯の名を、烏珠留単于は呼んだ。
「咸、よく聞け」
家畜の糞を乾燥させたものを、烏珠留単于は火の中へ抛り入れた。
「皇帝が新たに十五人も単于を立てようとしていて、おまえが十五人の単于の一人にされようとしていたのなら、恐らく登は、おまえの代わりにされるはずだ。おまえが生かされていたように、登も殺されることはない。焦らずとも、登を救出する機会は必ず訪れる」
抛り入れられた糞が燃え上がり、地面を赤く照らした。夜が更け、火が灰になり、朝になり、曙光が灰を照らした。烏珠留単于は灰の近くに側近たちを集めた。新軍が食糧を集められず、匈奴単于国へ侵攻できずにいることを、共に馬上で朝食の乾酪を食べながら側近たちに伝えた。左骨都侯が口をもぐもぐさせながら、動けない新軍を放置して大いなる湖の救援に向かうことを提案した。於粟置支侯咸が、三十万の大軍で侵攻してくることはなくとも、一万から二万程度の兵力で攻めてくる可能性はある、と反対した。続けて、季節は既に秋を過ぎ、多数の遊牧民が冬を越すために南へ移動していることを指摘した。貴重な製鉄所を守るために大いなる湖へ向かうべきか、それとも新軍の万一の侵攻から遊牧民を守るために留まるべきか、烏珠留単于は食事の手を止めて思案した。勝つためには賭けに出ることも必要と考え、乾酪を口の中へ押し込もうとした時、東から急報が届いた。
新帝国の従属国の一つ、高句麗が、帝国に叛旗を翻した。
タリム盆地では、烏珠留単于率いる匈奴軍本隊と、大新帝国のタリム盆地駐留軍の戦いが続いていた。本拠地の烏塁へ集結しようとする新軍を烏珠留単于は急襲し、数度の勝利を収めたが、その間に新軍は烏塁の守りを固めた。烏珠留単于は烏塁へ兵を進めたが、烏塁の守りの堅さを見て攻囲せずに去り、帝国に従属しているオアシス都市を襲撃した。都市を救援するために新軍が烏塁を出れば新軍と戦い、烏塁を出なければ襲撃を繰り返し、帝国に従う諸市を動揺させて単于国へ寝返らせようとした。新軍は烏塁を出ず、一つ、二つと都市が炎上した。三つ、四つと帝国から単于国へ都市が靡き、じわじわとタリム盆地の勢力図が塗り替えられた。これなら勝てる、と烏珠留単于が確信を持ち始めた時、左骨都侯の急使がタリム盆地に到着した。
「時間切れか」
烏珠留単于は馬上で天を仰いだ。馬首を巡らし、タリム盆地から撤退することを指揮下の将兵に伝えた。右屠耆王輿が黒馬を走らせ、烏珠留単于の許に馳せつけた。馬を進める烏珠留単于を追いながら、タリム盆地から撤退することに反対した。
「おれたちが兵を退けば、ようやく手に入れた都市を新軍に奪われます。これまでの戦いが、匈奴の戦士たちの死が無駄になる」
「右屠耆王」
単于の馬を追う輿の黒馬の横に、右骨都侯須卜当が馬を並べた。
「敵が匈奴の領土へ攻め入ろうとしている時に、戦士たちを率いて敵を防ぐべき単于が不在となれば、民の心が離れます。おれたちの父の時代のように、匈奴が分裂することも起こり得る。一つに団結していてさえ勝利は遠いのに、二つに分裂すれば匈奴は新に勝てない。匈奴の分裂を防ぐために、今は東へ戻るべきです」
匈奴軍はタリム盆地での作戦を中止し、東へ引き返した。烏塁に籠城していた新軍が動き出した。固く閉じられていた烏塁の城門が開かれ、匈奴軍に与したオアシス都市に黄旗の大群が攻め寄せた。都市が陥落した、親匈奴派の人間が殺された、という凶報を振り切るように匈奴軍は疾駆し、楼蘭の郊外を過ぎ、彷徨える湖に到達した。湖の畔で馬を休ませていると、また東から急使が到着した。
匈奴単于国の北西部総督、右谷蠡王の軍が、帝国と単于国の戦争に乗じて攻めてきた丁零の軍に敗れた。
「負けたのか」
烏珠留単于は呻いた。丁零は匈奴単于国の北に割拠する民族で、右谷蠡王を撃破した後は大いなる湖へ軍を進め、湖畔に点在する集落を攻撃していた。集落では漢人系の定住民を中心に農業、漁業、そして、製鉄業が営まれており、もし大いなる湖が丁零の手に落ちれば、匈奴軍は今以上に鉄の不足に苦しむことになる。
「単于」
顔を蒼褪めさせている烏珠留単于へ、須卜当が馬を近づけた。
「おれを大いなる湖へ行かせてください」
「右骨都侯」
「必ずや丁零を大いなる湖から撃ち払います」
「五百騎。それ以上は、大いなる湖の防衛には割けない」
「二百騎で十分です」
「右骨都侯」
「二百騎で十分です」
須卜当は繰り返した。数秒、烏珠留単于は沈黙して須卜当を見つめた。
「おまえの勇気に、天が報いることを祈る」
「感謝します」
須卜当は馬首を返した。走り出した須卜当の馬の横に、盧芳の馬が並んだ。当然のように隣を並走している盧芳を、須卜当は横目で見た。
「おまえも行くのか?」
「大いなる湖には友人がいる。助けてやらねえとな」
「足手纏いになるなよ」
須卜当は二百騎を率いて北へ駆けた。大いなる湖へ急ぐ途中、草を求めて移動する兵站用の羊群を前方に見た。羊群の横を駆け抜けようとした時、須卜当の妻、須卜居次云が馬を駆り、羊群の中から走り出た。
「須卜当さま!」
云は馬を須卜当と並走させた。手にしていた革袋を須卜当へ投げ渡した。須卜当が革袋の口を開くと、出来たばかりの乾酪が詰められていた。
「君期も!」
云は盧芳にも革袋を投げ渡した。盧芳は革袋を受け取ると、ありがとうよ、今日も匈奴一の美人だぜ、と破顔した。云に続いて槖駝で走り出てきた女たちが、須卜当の後ろを走る二百騎へ次から次へと革袋を投げた。頑張りな、負けたら穹廬に入れないからね、と手を振る女たちに笑顔を返し、二百騎は大いなる湖へ駆けた。
須卜当を大いなる湖へ向かわせた烏珠留単于は、左骨都侯の軍と合流するために東へ急いだ。途中、またしても凶報に接した。新帝国と交渉を試みていた右犂汗王が新軍に捕らえられ、万里の長城の南へ連れ去られた。
「……そうか」
烏珠留単于は瞑目した。右犂汗王の三人の子、助、登、角が、父を救出するために帝国に潜入させてほしい、と単于の背中に懇願した。危険すぎる、と烏珠留単于は退けた。三兄弟は、願いを聞き入れてもらえなければ軍を脱走して救出に向かう、と言い出した。烏珠留単于の横にいた左骨都侯が、軍を脱走すれば死刑であると言い、三兄弟を止めようとした。しかし、助、登、角は、父を救い出すためならば、と馬首を返した。駆け出そうとした三兄弟を、待て、と烏珠留単于は呼び止めた。
砂塵を含んだ風が沙漠を過ぎた。助、登、角の騎影が、烏珠留単于に見送られて軍から離れた。三騎の生還を天に祈り、烏珠留単于は軍を東へ進めた。幾日も沙漠を駆け、左骨都侯の軍と合流した。牧民の避難は進んでいるか、と左骨都侯に訊ねた。抜かりなく、と左骨都侯は答えた。烏珠留単于は頷き、新軍の侵攻に備えて兵馬を休ませた。何事もなく十日が過ぎ、二十日が過ぎた。五十日が過ぎ、百日が過ぎた。タリム盆地の親匈奴勢力が駆逐された、という報告が西から届き、大いなる湖の戦況が芳しくない、という報告が北から届いた。大いなる湖へ援軍を送るべきではないかと思い、右屠耆王輿と左骨都侯を呼んで相談した。援軍を送るべき、と左骨都侯は言い、須卜当を信じるべき、と輿は主張した。更に百日が過ぎた。斥候が息を切らして烏珠留単于の馬前に駆けつけた。ついに新軍が攻めてきたか、と表情を緊張させた烏珠留単于に、斥候は報告した。
新軍に捕らわれていた右犂汗王が、助、登、角に救出された。
「右犂汗王が」
烏珠留単于は驚いた。驚きすぎて気が遠くなり、どさりと馬から落ちた。側近たちが驚いて馬を下り、気を確かに、と烏珠留単于を助け起こした。助け起こされた烏珠留単于の口から笑い声が漏れた。
「聞いたか。右犂汗王が助け出された。右犂汗王が助け出されたぞ」
烏珠留単于は笑いながら側近の肩を叩いた。側近たちは顔を見合わせた。数秒の間を置き、歓声を上げた。久しく聞いていない朗報に、皆、気分を昂揚させた。烏珠留単于は斥候へ目を戻した。
「それで、右犂汗王たちは今、どこにいる?」
単于に問われ、斥候は顔を俯かせた。右犂汗王を救出する過程で助が命を落とし、登が新軍に捕らえられたことを、斥候は烏珠留単于に報告した。烏珠留単于の顔から笑みが消え、先程まで歓声を上げていた側近たちが沈黙した。
二日後、右犂汗王と角が烏珠留単于の馬前に現れた。右犂汗王を於粟置支侯に降格とすることを、烏珠留単于は父子に言い渡した。角が伏せていた顔を上げ、父を弁護しようとした。烏珠留単于は右手を上げて角を制し、少しの間、於粟置支侯と二人だけにするよう周囲に命じた。
陽が落ちて空が暗くなり、風が冷たさを増した。暖を取るために、家畜の糞を乾燥させたものを烏珠留単于は燃やした。於粟置支侯を火の近くに座らせた。径路刀を抜き、自らの顔に押し当て、引いた。径路刀を鞘に納め、胡羚羊の肉を乾したものを於粟置支侯に勧めた。自らも一切れ、口の中に入れた。入れたものを噛みながら、助と登のことを話すべきか、考えた。
「新軍が、長城に兵を集めている」
烏珠留単于の顎の先から、血が滴り落ちた。
「長城の防衛にしては多すぎる数だ。恐らくは我らの領土に攻め入ろうとしているのだろうが、一向に攻めてこない」
「皇帝は――」
於粟置支侯が口を開いた。
「――三十万の大軍で匈奴を攻め、単于を大いなる湖の北へ追いやり、匈奴を分割して十五人の単于を立てようとしています」
新軍に捕らえられている間に知り得た情報を、於粟置支侯は烏珠留単于に話した。新軍が三十万の大軍を六つに分け、六路から北へ攻め込もうとしていることを話した。新軍が擁立しようとしている十五人の単于の中に、自分も含まれていたことを話した。新軍が三十万人分の食糧を調達することに手間取り、未だに北へ進軍できずにいることを話した。話しながら、一口、また一口と乾し肉を齧り、咀嚼した。
「単于」
風が鳴り、於粟置支侯の双眸に映る炎が揺れた。
「単于、どうか――」
「駄目だ」
於粟置支侯が何を言おうとしたのか、烏珠留単于は察した。
「おまえが行けば、必ず角も共に行く」
「角には、おれから言い聞かせます」
「無駄だ。あんなことが起きた後で、おまえを一人で行かせるわけがない」
「おれが説得します」
「不可能だ」
「説得します」
「咸」
於粟置支侯の名を、烏珠留単于は呼んだ。
「咸、よく聞け」
家畜の糞を乾燥させたものを、烏珠留単于は火の中へ抛り入れた。
「皇帝が新たに十五人も単于を立てようとしていて、おまえが十五人の単于の一人にされようとしていたのなら、恐らく登は、おまえの代わりにされるはずだ。おまえが生かされていたように、登も殺されることはない。焦らずとも、登を救出する機会は必ず訪れる」
抛り入れられた糞が燃え上がり、地面を赤く照らした。夜が更け、火が灰になり、朝になり、曙光が灰を照らした。烏珠留単于は灰の近くに側近たちを集めた。新軍が食糧を集められず、匈奴単于国へ侵攻できずにいることを、共に馬上で朝食の乾酪を食べながら側近たちに伝えた。左骨都侯が口をもぐもぐさせながら、動けない新軍を放置して大いなる湖の救援に向かうことを提案した。於粟置支侯咸が、三十万の大軍で侵攻してくることはなくとも、一万から二万程度の兵力で攻めてくる可能性はある、と反対した。続けて、季節は既に秋を過ぎ、多数の遊牧民が冬を越すために南へ移動していることを指摘した。貴重な製鉄所を守るために大いなる湖へ向かうべきか、それとも新軍の万一の侵攻から遊牧民を守るために留まるべきか、烏珠留単于は食事の手を止めて思案した。勝つためには賭けに出ることも必要と考え、乾酪を口の中へ押し込もうとした時、東から急報が届いた。
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裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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