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「兄さんの会社、株価が五十円を割ってるぜ」
「ふうん。そうなんだ」
このところ会社が苦戦しているのは知っている。中堅のゼネコンで堅実な経営をしていたのだが、あの熱狂の中で浮かれて土地を買いまくり、バブル崩壊の波をもろに受けた。
ただでさえ利益を出しづらいのに、今のご時世で強気の値段設定などできない。手頃な価格で、かつ見栄えのいい建物を作るべく、宥己の属する設計部はずっと苦戦していた。
「あのさ、株価が五十円を割るっていうのは会社が潰れるかもってことなんだよ」
銀行の資産運用部にいる泰明は宥己の無知を憐れむような顔をして言った。
「へ?」
姪の麻友と一緒にお絵描きをしていた宥己の手が止まった。今日は麻友のお年玉と入園祝いを届けにきたのだ。
「兄さんは昔から要領が悪いから。沈みかけた船に最後まで乗ってるクチだろ」
「そんなこと、ないさ」
語尾が段々と小さくなる。反論はしたものの、泰明の言うことはあながち間違ってはいない。
大学を卒業し今の会社に就職した。大手ではなかったが留学制度があるのが魅力だった。会社の制度を利用して修士号を取得しようと思っていたのだが、宥己が入社して間もなくすると、経費削減の名の下に留学制度は無くなってしまった。修士号を持つ社員は、いつまでたっても上がらない給料にうんざりして、次々と会社を辞めている。慌てた会社側は、辞めるなら会社が負担した留学費用を返せ、といって留学組を引き留めようとしたのだが、違約金を払ってでも会社を辞める者が後を絶たなかった。
このご時世で学士号しか持たない宥己に条件のいい会社がそうそう見つかるはずもない。会社が潰れなければいい、とあきらめ半分で悠長に構えていたのだ。
「退職金とかさ、ちゃんと出るうちに次の会社のこと考えたほうがいいぜ。なんだったら不動産部に同期の三橋って奴がいるから紹介してやろうか。就職先、いろいろ斡旋してもらえるぜ。ゼネコンは厳しいだろうけど、兄さんくらいの給料なら、出せる会社、いくらでもあるだろ」
「ありがとう。いざというときは頼むよ」
屈辱を腹の底に押し込んで宥己は愛想のいい返事をした。我ながら卑屈だとは思うが、泰明のほうが給料の桁が一つ多いのは厳然たる事実なのだ。
「泰明の言う通りだ。転職の事、本気で考えろ。お前はだいたい愚図なんだ。さっさと行動しろ」
メガバンクで専務まで上り詰めた父親の義明は、苦虫を嚙み潰したような顔をして言った。
「アドバイスありがとう。そろそろ帰るよ」
「夕飯、食べていかないの?」
母の綾が言った。
「まだ仕事が残ってて。明日はちょっと会社、出ないとだから」
「正月だってのに。お前は仕事も愚図なんだな」
宥己は力なく笑って応えた。人が減っても人員の補填はされないから、仕事が山積みになっている。誰がやっても休日出勤になると思うが、ここで言い訳をしても無駄だ。一度張られたレッテルは簡単には覆せないし、あからさまな反論をして、家族の団欒をわざわざ壊す必要はない。まだ遊ぶ、と駄々をこねる麻友を、由利が臨月間際の大きな腹の上に抱き上げた。
「おじちゃんは明日お仕事なんですよ。我儘を言わないの。麻友のお年玉と入園祝い、ありがとうがとうございました」
宥己が小さく頭をさげると、由利の艶やかな笑顔が返ってきた。
高学歴、高収入、高身長、と三拍子そろった泰明に寄ってくる女は後を絶たなかった。熾烈な競争をかいくぐっただけあって由利はモデルのような身体と顔の持ち主だ。嫁入りした当初は見た目も儚げでごく大人しい女のように思えたのだが、今の由利はどっしりとした腰回りになって自信と貫録のようなものさえ漂わせている。
「アパート代だって馬鹿にならないでしょう? 何だったら戻っていらっしゃいよ」
綾が言った。
「ありがとう。またね、麻友ちゃん」
麻友が紅葉のような手を振ってバイバイをした。
本当にここに引っ越して来たら母はどんな顔をするのだろう。宥己はちらりと意地の悪いことを考えた。綾の言葉はいかにも耳障りがいいが、この家に宥己の部屋はもうないのだ。
家は泰明の結婚を機に二世帯仕様に建て替えられた。十分な広さがある土地に効率よく建てられた二世帯住宅は、左右に分かれた完全別個型で、かなりの延床面積がある。
宥己も一級建築士の免許を持っているが、家を建て替えるにあたってついぞお呼びはかからなかった。この家の設計をしたのは義明や泰明と同じ大学を卒業した、著名な建築家だ。コンクリートを打ち放しにしたモダンアートのような家は高台に建っていて、閑静な住宅地を見下ろすかのように屹立していた。
重厚な門扉を閉めると宥己の口から思わずため息がもれた。
キンと凍った夜空から次々と雪片が舞い降りてくる。道理で冷えるはずだ。空に向かってもう一度息を吐くと、白い吐息があっという間に凍り付いた。
アパートに戻った宥己は、エアコンのスイッチを入れ、どこも締め付けないくたびれたスウェットに着替えた。風呂のスイッチを入れ、万年床に寝転んで手足を延ばす。頭を空っぽにしていると、お風呂が沸きました、と電子音がした。
湯殿に身体を沈め、耳を澄ませていると微かに雪の降る音が聞こえてくる。こんな夜は学生時代を思い出す。
「ふうん。そうなんだ」
このところ会社が苦戦しているのは知っている。中堅のゼネコンで堅実な経営をしていたのだが、あの熱狂の中で浮かれて土地を買いまくり、バブル崩壊の波をもろに受けた。
ただでさえ利益を出しづらいのに、今のご時世で強気の値段設定などできない。手頃な価格で、かつ見栄えのいい建物を作るべく、宥己の属する設計部はずっと苦戦していた。
「あのさ、株価が五十円を割るっていうのは会社が潰れるかもってことなんだよ」
銀行の資産運用部にいる泰明は宥己の無知を憐れむような顔をして言った。
「へ?」
姪の麻友と一緒にお絵描きをしていた宥己の手が止まった。今日は麻友のお年玉と入園祝いを届けにきたのだ。
「兄さんは昔から要領が悪いから。沈みかけた船に最後まで乗ってるクチだろ」
「そんなこと、ないさ」
語尾が段々と小さくなる。反論はしたものの、泰明の言うことはあながち間違ってはいない。
大学を卒業し今の会社に就職した。大手ではなかったが留学制度があるのが魅力だった。会社の制度を利用して修士号を取得しようと思っていたのだが、宥己が入社して間もなくすると、経費削減の名の下に留学制度は無くなってしまった。修士号を持つ社員は、いつまでたっても上がらない給料にうんざりして、次々と会社を辞めている。慌てた会社側は、辞めるなら会社が負担した留学費用を返せ、といって留学組を引き留めようとしたのだが、違約金を払ってでも会社を辞める者が後を絶たなかった。
このご時世で学士号しか持たない宥己に条件のいい会社がそうそう見つかるはずもない。会社が潰れなければいい、とあきらめ半分で悠長に構えていたのだ。
「退職金とかさ、ちゃんと出るうちに次の会社のこと考えたほうがいいぜ。なんだったら不動産部に同期の三橋って奴がいるから紹介してやろうか。就職先、いろいろ斡旋してもらえるぜ。ゼネコンは厳しいだろうけど、兄さんくらいの給料なら、出せる会社、いくらでもあるだろ」
「ありがとう。いざというときは頼むよ」
屈辱を腹の底に押し込んで宥己は愛想のいい返事をした。我ながら卑屈だとは思うが、泰明のほうが給料の桁が一つ多いのは厳然たる事実なのだ。
「泰明の言う通りだ。転職の事、本気で考えろ。お前はだいたい愚図なんだ。さっさと行動しろ」
メガバンクで専務まで上り詰めた父親の義明は、苦虫を嚙み潰したような顔をして言った。
「アドバイスありがとう。そろそろ帰るよ」
「夕飯、食べていかないの?」
母の綾が言った。
「まだ仕事が残ってて。明日はちょっと会社、出ないとだから」
「正月だってのに。お前は仕事も愚図なんだな」
宥己は力なく笑って応えた。人が減っても人員の補填はされないから、仕事が山積みになっている。誰がやっても休日出勤になると思うが、ここで言い訳をしても無駄だ。一度張られたレッテルは簡単には覆せないし、あからさまな反論をして、家族の団欒をわざわざ壊す必要はない。まだ遊ぶ、と駄々をこねる麻友を、由利が臨月間際の大きな腹の上に抱き上げた。
「おじちゃんは明日お仕事なんですよ。我儘を言わないの。麻友のお年玉と入園祝い、ありがとうがとうございました」
宥己が小さく頭をさげると、由利の艶やかな笑顔が返ってきた。
高学歴、高収入、高身長、と三拍子そろった泰明に寄ってくる女は後を絶たなかった。熾烈な競争をかいくぐっただけあって由利はモデルのような身体と顔の持ち主だ。嫁入りした当初は見た目も儚げでごく大人しい女のように思えたのだが、今の由利はどっしりとした腰回りになって自信と貫録のようなものさえ漂わせている。
「アパート代だって馬鹿にならないでしょう? 何だったら戻っていらっしゃいよ」
綾が言った。
「ありがとう。またね、麻友ちゃん」
麻友が紅葉のような手を振ってバイバイをした。
本当にここに引っ越して来たら母はどんな顔をするのだろう。宥己はちらりと意地の悪いことを考えた。綾の言葉はいかにも耳障りがいいが、この家に宥己の部屋はもうないのだ。
家は泰明の結婚を機に二世帯仕様に建て替えられた。十分な広さがある土地に効率よく建てられた二世帯住宅は、左右に分かれた完全別個型で、かなりの延床面積がある。
宥己も一級建築士の免許を持っているが、家を建て替えるにあたってついぞお呼びはかからなかった。この家の設計をしたのは義明や泰明と同じ大学を卒業した、著名な建築家だ。コンクリートを打ち放しにしたモダンアートのような家は高台に建っていて、閑静な住宅地を見下ろすかのように屹立していた。
重厚な門扉を閉めると宥己の口から思わずため息がもれた。
キンと凍った夜空から次々と雪片が舞い降りてくる。道理で冷えるはずだ。空に向かってもう一度息を吐くと、白い吐息があっという間に凍り付いた。
アパートに戻った宥己は、エアコンのスイッチを入れ、どこも締め付けないくたびれたスウェットに着替えた。風呂のスイッチを入れ、万年床に寝転んで手足を延ばす。頭を空っぽにしていると、お風呂が沸きました、と電子音がした。
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