カオルの家

内藤 亮

文字の大きさ
上 下
21 / 32

21

しおりを挟む
 そろそろ午前中の外来診察が終わる時間だ。清算の終わった患者が次々と中央ホールに出てくる。総合受付の女性が所帯なく立っている宥己に声をかけてから三十分以上はたっている。愛想よく会釈をしてその場をしのいだつもりなのだが、その場にずっと立っている宥己に受付嬢はさっきから不審そうな視線を向けている。とうとう警備員に声をかけられそうになって、宥己はさりげなく自動販売機の傍に場所を移動した。この位置からだと大きな自販機が邪魔になって出入り口が見えづらいが仕方がない。受付嬢がまだこちらを見ているので、飲みたくもないコーヒーを買った。苦いだけでちっとも旨くないコーヒーだった。芳が出てきたのはコーヒーを飲み終わってしばらくしてからだった。
「芳さん!」
 走り寄ってきた宥己を見て芳は困ったような顔をした。
「わざわざ来たの? 結果は知らせるって言ったじゃない」
「心配で」
「先生にこんな分かりづらい位置のしこりをよく見つけましたねって、褒められちゃった」
 そういうと、芳はふふっと照れ臭そうに笑った。
「これから癌と一戦交えないと。忙しくなるわ」
 宥己が口を開こうとすると、芳は手を上げて制した。
「二度目だし、慣れているから」
「家族の方には話したんですか」
「事後報告よ、そんなの。弟も美里さんも仕事があるし。ちびちゃんを二人も抱えて手一杯なのよ。入院は一週間だからその間は仕事を休んで、あとは仕事をしながら治療ね。まあ、何とかなるでしょ。今日はありがとう。これ、お昼に食べようと思っていたのだけれど、貴方にあげるわ。病人みたいな顔をして。ご飯をしっかり食べないといい仕事が出来ないわよ」
 大きな紙袋を押し付けると、芳はじゃあね、といって踵をかえした。
「待って! 手術はいつ?」
「今週はいろいろ細かい検査をして、手術は再来週の月曜日。心配いらないわよ。おっぱいの手術は簡単なんだから」
 詳しい病状を知りたいのに、芳はそんなを宥己の気持ちを見通したかのようにぴしゃりと質問を封じてしまった。
「お見舞いに行ってもいいですか」
 辛うじて言えたのはそれだけだった。
「ええ、もちろん」
 笑顔で応えると、芳はじゃあ、またね、とあっさり駐車場に行ってしまった。
 一人で車に戻り紙袋を開けると、優に一斤半はある食パンと、ブラックチェリーのペストリー、シナモンロール、チーズとスモークサーモンを挟んだ大きなクロワッサンのサンドイッチが出てきた。
「こんなに沢山、一人で食べるのかよ」
 声に出して言うと不安が和らぐような気がした。

 乳がん、再発をキーワードにして検索をすると気の滅入るような情報ばかり目に入ってくる。芳は一人で手術までの時間を過ごしているのだ。何か手伝うことはありますか、とメッセージを送ったら、大丈夫! とすぐに元気のいい返信が返ってきた。宥己には、早すぎて、そのうえ短かすぎる返答が、芳と自分を隔てる堅牢な壁のように思えてならなかった。 
 芳からのメールが入った。朝食の写真が添付してあった。
 手術は無事終了です。糊のような薄いお粥が出てきました。袋に入っている赤い液体は梅干(もどき)です。お腹が減って困ってます。夕食に期待をしているけど、どうかしらねえ。
 見舞いに行ってもいいか問うと、いつでもいいわよ! と元気な返事が返ってきた。
 食事制限のない患者は、病院の中にあるコンビニエンスストアで勝手なものを買って食べているそうだ。県内では先端医療を行っている総合病院だが、患者はけっこう自由にやっている。許可が出れば外出や外泊も可能だそうだ。
 芳に貰ったパンの店は駅近くに新しくオープンした店だった。洒落た内装で並んでいるパンはどれも旨そうだ。パンだけでなく、様々な焼き菓子も売っている。真空パックされた焼き菓子は、常温でも日持ちがするとのことだった。店主お勧めの焼き菓子の詰め合わせを芳に持っていくことにした。
 病室は男女に分かれているが、病棟と同じ階にある談話室は男も女もごちゃまぜだ。日の当たる場所では患者たちが将棋を指したり、新聞を読んだりして思い思いに過ごしていた。
 入院患者は一様に作務衣のようなパジャマを着せられて左の手首にバーコードの付いたプラスチックのバンドをつけている。ベッドに寝ている患者もいる病室に入るのは遠慮があるから大抵の見舞客はここで患者と会う。テーブルとパイプイスが並んでいるだけの殺風景な部屋だが、羽目殺しの大きな窓からは真っ青な空と積雪で白く染まった山々がよく見える。小さな本棚には雑多な小説や雑誌が並んでいて、微かに漂う消毒薬の匂いが無ければ図書館の閲覧室のようだった。
「まあ、よく来てくれたわね!」 
 手を、手術をしたほうの右手を大きく振りながら芳が近づいてきた。
「傷は大丈夫なんですか」  
 手術は数日前に行われたのだ。見舞いに来た宥己の方が慌ててしまった。
「ええ。おっぱいに傷跡が増えちゃったけど」
 芳はちょっと肩をすくめると、宥己の持ってきた紙袋を目ざとく見つけた。
「まあ! 私に?」
「はい。食事制限はないって伺ったので」
「ここ、大好きなパン屋さんなのよ。嬉しいわ! 一階のラウンジに美味しいコーヒーのお店があるの。ちょっと待ってて。財布、取ってくる」
 カーディガンを羽織った芳が直ぐに戻ってきた。
「入院中って退屈なのよ。お見舞いに来てくれる人はもう大歓迎」
 玄関ホールの片隅にあるカフェテラスは、入院患者やその家族と思しき人々でかなり混雑していた。
「席、無いわねえ」
 芳がきょろきょろと席を探していると、ジョギングウェアを着た若い女が飲みかけコーヒーに蓋をしながら席を立った。
「こちらにどうぞ」
「いいのよ。空くまで待つから」
「そろそろ授乳の時間だから。戻らないと怒られちゃうの。助産師の秋谷さん、怒ると恐いんだもの」
 芳の後ろに立っているスーツ姿の宥己に気が付くと、
「いい息子さんですね」
 と芳に笑いかけ、宥己に会釈をした。芳はおかげさまで、といかにも母親のような顔をしてほほ笑んでいる。
 「これ、よろしかったら」
 芳は今持ってきたばかりの焼き菓子の包みを一つ女性に渡した。
「ありがとう! 甘いものに飢えていたから嬉しいわ」
「こちらこそ、席を譲っていただいてありがとう」
 女性はぴょこん、とお辞儀をすると足早にエレベーターへ向かっていった。
「出産で入院している人は好きな格好でいいのよ。病気じゃないからでしょうね。でもね、この作務衣を着ていると病院の中では無敵なの。点滴パックでもぶら下げて歩いていたら、もう完璧。それこそ特別扱いで、どんなに混んでいても待つ必要ないのよ」
 芳の言う作務衣を着た、鶴のように痩せた老人がゆっくりと近づいてきた。老人が売店のレジに並ぼうとすると、前に立っていた平服の客がさっと順番を譲った。
「ほらね。コンビニでもそうなのよ」
 芳はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 優雅な手つきで包みを開き、焼き菓子を口に運んだ芳は目を細めた。
「アーモンドの焼き具合がたまらないわね。貴方もお食べなさいな。息子って言われたこと、怒ってるの?」
 そういいながらも、芳の口調は、母親が息子を諭すようだった。
「怒ってなんかいません」
 宥己が仏頂面のまま答えると、芳が含み笑いをした。
「私もまだまだ捨てたもんじゃないわね。貴方のそういう顔を見るとなんだか嬉しくなるわ」
 憮然としたまま、宥己は芳が奢ってくれたコーヒーを飲んだ。豆の香りが口中に広がって芳の言う通り、確かに旨いコーヒーだった。
「退院はいつですか」
「今度の土曜日よ」
「迎えに行きます。荷物とかあるでしょう?」
「弟夫婦が迎えに来てくれるから、大丈夫」
 芳にも家族がいることを忘れていた。退院した最初の週末はあの家で一緒に過ごすもの、と何とはなしに思っていたのだが、家族と過ごすのなら宥己の出る幕はない。宥己は残りのコーヒーを黙って飲み干した。 

しおりを挟む

処理中です...