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月曜日、約束の時間通りに島崎がやってきた。
「荷物はそれだけ?」
「ええ。入院中は病院が用意した服を着ないといけないので。洗面用具だけ持っていけばいいんです」
管理と衛生面から、入院患者の寝巻は病院が用意したものを着ることになっている。着脱が簡単な作務衣か浴衣もどきの服が選べて、色はピンクとグリーンがある。入院手続きを済ませ、手首にはプラスチックのタグ、グリーンの作務衣に着替えれば、すっかり入院患者だ。タグは鋏で切らないと取れない仕様になってて、バーコードにはカルテが入っている。晴れてタグを外せるのは娑婆に出る時だ。
「そういう格好をすると、本当に入院患者だね」
島崎がしんみりと言った。
「ですねぇ。でもこの服のクリーニングは病院がやってくれるから、楽チンなんですよ。1日に何回着替えてもいいし」
出来たら、そういう状況は避けたいが、不測の事態もあり得る。汚れた寝間着は蓋のついたダストボックスに入れて、隣の棚にサイズ、色別にずらりと並べてある作務衣か浴衣を着ればいいのだ。術後は身体から色んな管が出てるので、浴衣を着せられる。以前、緑の作務衣を着ていたはずなのに、麻酔から覚めたらピンクの浴衣になっていて、びっくりした。で、その浴衣のサイズが大きすぎてしょっちゅう胸元がはだけてしまう。管だらけの身動きできない身体で、浴衣を直すのに苦労した。
なんてくだらないことを思い出していたら、島崎が言った。
「尚子さんは落ち着いているなぁ」
「事前に詳しい説明をしてもらったから」
二度目なので、とは言わない。
「落ち着いたら連絡して」
「ありがとう」
「待ってるよ」
島崎は両手でしっかりと私の手を握った。
手術の当日は水も飲めないのがツライ。風呂は許可が出るまで入れないから、前の日は念入りに髪と身体を洗い、朝は念入りに歯磨きをすませた。
ひんやりとした手術室に入り、麻酔を打たれたら、ストン、と穴に落ちるように眠りに落ちた。
飴切りの音にのってカンコロカンコロ歩いている。島崎の背中が見えている。背中がどんどん遠ざかっていくのに、カンコロカンコロのリズムが急に緩慢になって、前に進めない。
「島崎さん、待って!」
やっと声が出た。島崎が振りかえった。とたんに、水の底から浮上するように目が覚めた。
「お名前言えますか」
緑色の手術着を着た真壁が顔を覗き込んでいる。唾を飲み込み、口の中を湿らせてから質問に答えた。
「坂口尚子です」
声がガラガラだ。
「手術、終わりましたよ。病巣はきれいさっぱり除去しましたからね」
こんな時にドヤ顔をする真壁は、いい主治医だと思う。
「ありがとうございました」
口は利けるが、尿道管が浴衣の隙間から出ているし、頭の上から点滴パックがぶら下がっていている。ストレッチャーにのせられたまま、手術室を出ると、島崎が駆け寄ってくるのが見えた。日頃にまして真っ白な顔をしている。
「いらしてたんですか」
「尚子さんに呼ばれているような気がして。来ちゃった」
照れ臭そうに島崎が笑った。
「島崎さんが、どんどん先に行っちゃうから。私、呼んだんです。島崎さんっ、て」
「やっぱり、呼んでくれたんだね」
「ありがとう、島崎さん」
シーツの間から、手を伸ばすと、島崎がしっかりと手を握ってくれた。人の温もりが心地いい。あの時と同じ、和紙のような温かい手だった。冷たい手術室から無事に帰還したのだ。
「また、明日来るよ。ゆっくりお休み」
頷くと、急に眠くなってきた。
術後は順調で、無事退院できた。肺機能のリハビリトレーニングも、そのくらいで止めにしましょう、と言われるくらいガッツリやっている。
術後すぐに島崎が来てくれたが、結局、次に島崎と会ったのは、退院の日だった。
胸水を抜くパックやら点滴やらぶら下げた姿で島崎と会うのがイヤだった。その点、会わないで話しが出来るスマホはありがたい。チューブだらけで格好悪いから、と正直に言って、何とか納得してもらったのだ。
タグを看護士がハサミで切ってくれて、久しぶりに洋服に着替えた。二週間ぶりの娑婆だ!
「やぁ、やっと会えた!」
「無事退院です。島崎さんのライン、すごく嬉しかった。写真、上手ですね!」
「本当は寅吉の写真も送りたかったけど。ダメだった」
「やっぱり……」
周囲に人がいるので、寅吉の話しをするときは、何となく小声になる。
島崎とひそひそ話をしている。今日から菊水庵で寝起き出来る。些細なことがやたら嬉しくて、目頭がウルウルしそうになる。入院中はやっぱり気が弱っていたのだろう。情けない。が、今回は一度も泣かなかったので、良しとした。
「寅吉が撮れるもんなら撮ってみな、なんて言うもんだから。僕もムキになって撮ったんだけど。何にも写らなかった」
「心霊写真ってどうやったら撮れるのかしら」
「へ?」
「亡くなった女の亡霊とか、よくあるでしょう?」
島崎が吹き出した。
「あれはねえ、作り話だよ」
「えっ、ウソ」
「女が自殺したとか、事故があったとか。いかにもなキャッチコピーにひっかかっちゃダメだよ。百歩譲って本物が混ざっていたとしても、其処らの人間に写真を撮られるような霊はよほどの間抜けだね」
不服そうな顔をしていたら、島崎が笑った。
「僕みたいな人間ばっかりだったら、カメラマンも商売がし辛いよ。尚子さんみたいな素直な人がいるから、皆が食っていけるんだ」
「はぁ、まぁそうですけど」
なんだか巧くはぐらかされたような気がする。
「さぁ、早く菊水庵に帰ろう。皆が待っているよ」
「はい!」
家に帰るのだ。皆が待っている菊水庵に。
「荷物はそれだけ?」
「ええ。入院中は病院が用意した服を着ないといけないので。洗面用具だけ持っていけばいいんです」
管理と衛生面から、入院患者の寝巻は病院が用意したものを着ることになっている。着脱が簡単な作務衣か浴衣もどきの服が選べて、色はピンクとグリーンがある。入院手続きを済ませ、手首にはプラスチックのタグ、グリーンの作務衣に着替えれば、すっかり入院患者だ。タグは鋏で切らないと取れない仕様になってて、バーコードにはカルテが入っている。晴れてタグを外せるのは娑婆に出る時だ。
「そういう格好をすると、本当に入院患者だね」
島崎がしんみりと言った。
「ですねぇ。でもこの服のクリーニングは病院がやってくれるから、楽チンなんですよ。1日に何回着替えてもいいし」
出来たら、そういう状況は避けたいが、不測の事態もあり得る。汚れた寝間着は蓋のついたダストボックスに入れて、隣の棚にサイズ、色別にずらりと並べてある作務衣か浴衣を着ればいいのだ。術後は身体から色んな管が出てるので、浴衣を着せられる。以前、緑の作務衣を着ていたはずなのに、麻酔から覚めたらピンクの浴衣になっていて、びっくりした。で、その浴衣のサイズが大きすぎてしょっちゅう胸元がはだけてしまう。管だらけの身動きできない身体で、浴衣を直すのに苦労した。
なんてくだらないことを思い出していたら、島崎が言った。
「尚子さんは落ち着いているなぁ」
「事前に詳しい説明をしてもらったから」
二度目なので、とは言わない。
「落ち着いたら連絡して」
「ありがとう」
「待ってるよ」
島崎は両手でしっかりと私の手を握った。
手術の当日は水も飲めないのがツライ。風呂は許可が出るまで入れないから、前の日は念入りに髪と身体を洗い、朝は念入りに歯磨きをすませた。
ひんやりとした手術室に入り、麻酔を打たれたら、ストン、と穴に落ちるように眠りに落ちた。
飴切りの音にのってカンコロカンコロ歩いている。島崎の背中が見えている。背中がどんどん遠ざかっていくのに、カンコロカンコロのリズムが急に緩慢になって、前に進めない。
「島崎さん、待って!」
やっと声が出た。島崎が振りかえった。とたんに、水の底から浮上するように目が覚めた。
「お名前言えますか」
緑色の手術着を着た真壁が顔を覗き込んでいる。唾を飲み込み、口の中を湿らせてから質問に答えた。
「坂口尚子です」
声がガラガラだ。
「手術、終わりましたよ。病巣はきれいさっぱり除去しましたからね」
こんな時にドヤ顔をする真壁は、いい主治医だと思う。
「ありがとうございました」
口は利けるが、尿道管が浴衣の隙間から出ているし、頭の上から点滴パックがぶら下がっていている。ストレッチャーにのせられたまま、手術室を出ると、島崎が駆け寄ってくるのが見えた。日頃にまして真っ白な顔をしている。
「いらしてたんですか」
「尚子さんに呼ばれているような気がして。来ちゃった」
照れ臭そうに島崎が笑った。
「島崎さんが、どんどん先に行っちゃうから。私、呼んだんです。島崎さんっ、て」
「やっぱり、呼んでくれたんだね」
「ありがとう、島崎さん」
シーツの間から、手を伸ばすと、島崎がしっかりと手を握ってくれた。人の温もりが心地いい。あの時と同じ、和紙のような温かい手だった。冷たい手術室から無事に帰還したのだ。
「また、明日来るよ。ゆっくりお休み」
頷くと、急に眠くなってきた。
術後は順調で、無事退院できた。肺機能のリハビリトレーニングも、そのくらいで止めにしましょう、と言われるくらいガッツリやっている。
術後すぐに島崎が来てくれたが、結局、次に島崎と会ったのは、退院の日だった。
胸水を抜くパックやら点滴やらぶら下げた姿で島崎と会うのがイヤだった。その点、会わないで話しが出来るスマホはありがたい。チューブだらけで格好悪いから、と正直に言って、何とか納得してもらったのだ。
タグを看護士がハサミで切ってくれて、久しぶりに洋服に着替えた。二週間ぶりの娑婆だ!
「やぁ、やっと会えた!」
「無事退院です。島崎さんのライン、すごく嬉しかった。写真、上手ですね!」
「本当は寅吉の写真も送りたかったけど。ダメだった」
「やっぱり……」
周囲に人がいるので、寅吉の話しをするときは、何となく小声になる。
島崎とひそひそ話をしている。今日から菊水庵で寝起き出来る。些細なことがやたら嬉しくて、目頭がウルウルしそうになる。入院中はやっぱり気が弱っていたのだろう。情けない。が、今回は一度も泣かなかったので、良しとした。
「寅吉が撮れるもんなら撮ってみな、なんて言うもんだから。僕もムキになって撮ったんだけど。何にも写らなかった」
「心霊写真ってどうやったら撮れるのかしら」
「へ?」
「亡くなった女の亡霊とか、よくあるでしょう?」
島崎が吹き出した。
「あれはねえ、作り話だよ」
「えっ、ウソ」
「女が自殺したとか、事故があったとか。いかにもなキャッチコピーにひっかかっちゃダメだよ。百歩譲って本物が混ざっていたとしても、其処らの人間に写真を撮られるような霊はよほどの間抜けだね」
不服そうな顔をしていたら、島崎が笑った。
「僕みたいな人間ばっかりだったら、カメラマンも商売がし辛いよ。尚子さんみたいな素直な人がいるから、皆が食っていけるんだ」
「はぁ、まぁそうですけど」
なんだか巧くはぐらかされたような気がする。
「さぁ、早く菊水庵に帰ろう。皆が待っているよ」
「はい!」
家に帰るのだ。皆が待っている菊水庵に。
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