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第14話 終焉

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 いくら待っても衝撃は訪れなかった。
 
 ——まさか、痛みも感じないうちに死んじゃった?

 恐る恐る目を開ける。
 次の瞬間、目の前に広がる光景に金切り声を上げた。

「ニケ! ニーナ! どうして!」

 射手に身を晒したベアトリーチェを庇い、ニケとニーナが重なり合うように抱き合っていた。前から二人がかりでベアトリーチェを包み込む格好だ。そしてニーナの背中には、射手から放たれた矢が深々と突き刺さっている。

「……くそっ!」

 顔を怒りで染めたニケがナイフを捨て、地面から拾い上げた短剣を手に射手に向かっていく。制止したが聞く耳を持っていないようだ。たとえニケの方が強くとも、足に傷を負っている上、向こうにはまだ仲間がいる。明らかに無謀な行動だった。

 ——どうしよう。どうすればいいの?

 射手と交戦し始めたニケを前にオロオロしていると、呻き声をあげたニーナがその場にくずおれた。後ろ手を縄で拘束されたままだ。とても支えきれず、二人とも地面に膝をつく。それでも、ニーナはベアトリーチェを抱く手を離そうとはしなかった。

 傷口からじわりと血が広がっていく。それを見てようやく頭が冷えた。パニックになっている場合ではない。一刻も早くニーナを治療しなくては。

 幸いにも矢は飛んでこない。ニケと同じく、エンリコも交戦中なのかもしれない。

「ニーナ! そこに落ちてるナイフ拾える? この縄を切って! すぐに治すから!」

 顎でニーナの肩を叩き、ニケが捨てたナイフを目で指し示す。しかし、ニーナは首を横に振るばかりで、その場から動こうとはしなかった。

「もう……手遅れ、です……さ、すがのあなたも……毒を、治療する力……まではない……これ以上……無駄に、力を……使っては……いけま、せん……」
「そんなの、やってみなきゃわからないじゃない! 私ならまだ大丈夫よ! だからお願い、ニーナ! 言うことを聞いてよ!」

 そう叫ぶと、ニーナはふふっと笑みを漏らした。

「……いや、です。いつもの、仕返し……ですよ。私の、気持ち……少しは、わかって……くれ、ました?」

 全てを受け入れたような笑みに、音を立てて血の気が引いていく。ニーナはこのまま死ぬ気なのだ。こうしている間も、ベアトリーチェを抱く力が弱くなっていく。顔はもうベスタ領の砂浜のように白い。呼吸だって、今にも止まりそうだ。

 ずっと精霊の力なんていらないと思っていた。なのに、こんなに切望する日が来るなんて。

 昨日までの自分を殴りたい。どうして家宝のペンダントはベアトリーチェの願いを聞き届けてくれなかったのか。もしも時を遡ることができたなら、なんだってするのに。

「わかった! わかったから! だからお願い! 縄を切ってよ! 私が憎いんでしょ? 元気になって私を殺さなきゃ! ニーナが死ぬなんて嫌よ!」

 支離滅裂なことを言っているとはわかっている。しかし、今はニーナを奮い立たせられるなら何でもよかった。泣き叫ぶベアトリーチェに、ニーナが切なげに目を細める。そして震える手を伸ばすと、乱れたベアトリーチェの髪にそっと触れた。

「私の……可愛い……お嬢様……最初から……こうして、いれば……よかった……」

 愛おしむようにゆっくりと頭を撫でる。その仕草は、いつものニーナと全く変わらなかった。

「……あのね……あなたに、眠り……力……使った、のは……最初の、一度……だけですよ」

 耳元で優しく囁き、まるで親が子供に頬擦りをするように、ニーナはベアトリーチェの顔に頬を寄せた。同時に手から力が抜け、地面にぱたりと落ちる。

 いや、手だけではない。体全体が錘になったように、ずるずると滑り落ちていく。咄嗟に膝で支えたニーナの顔は、安らかに微笑んでいた。

「ニーナ?」

 何度呼んでも、ニーナはぴくりとも動かない。いつもみたいに、笑っても嗜めてもくれない。目からこぼれ落ちた雫が、ニーナの頬に降り注ぐ。

 足元の影は消えた。海の向こうよりも遠いところへ行ってしまった。ベアトリーチェを残して、たった一人で。

「嘘よ! こんなの嘘! どうして私を助けたのよ、ニーナ!」

 そう叫んだ時、目の前でニケの短剣が弾き飛ばれた。ニーナの死に動揺したのかもしれない。体勢を立て直そうとするニケを嘲笑うように、射手が剣を振りかぶる。

 ——ニケも死ぬの?

 心臓が大きく跳ねた気がした。全身を巡る血の音がやけに明瞭に聞こえる。沸々と胸の奥から湧いてくるこの感情は怒りなのか、憎しみなのか。

『——許さない』

 噛み締めた奥歯の奥から未知の言葉が飛び出してきた。古語とも違う発音だ。なぜ自分が話せるのかも、意味を理解できるのかもわからない。しかし、今はそんなことどうでもよかった。

 ——これ以上、家族に手出しさせやしないわ。

 腕を拘束していた縄が激しい音を立てて燃え盛り、瞬く間もなく灰になった。まるで意思を持っているかのように、ざわ、と髪が逆立つ。それに呼応して空が俄かに暗くなり、激しい雷鳴があたりに轟いた。

 ぽつぽつと降り始めた雨が頬に当たる。きっと、ベアトリーチェの代わりに泣いているのだろう。濡れないようにニーナの周りに空気の膜を張り、そっと地面に横たえる。色の失せた頬には、もう体温は残っていなかった。

「お嬢様……その虹色の瞳……まるで山猫みたいな……」

 ゆっくりと立ち上がり、地面に座り込んだまま呆然と呟くニケに目を向ける。その顔には困惑の色が濃く張り付いていた。射手も剣を振り下ろすことを忘れ、ぽかんと口を開いたままこちらを見つめている。

 ベアトリーチェを促すように、ひゅう、と耳元で風が鳴った。どうしてだろうか。とても体が軽い。次から次へと力が湧き出してくるように感じる。

 ——ようやく解放されたね。

 そう何かが囁いているような気がした。

 一歩踏み出した大地から次々と草木が芽吹き、色とりどりの花が咲き乱れていく。その尋常ではない光景に、射手が引き攣った悲鳴をあげる。

「ば、化け物っ!」

 手にした剣を放り出し、射手が身を翻した。森の奥へ逃げるつもりだろう。愚かな行動に、ふ、と笑みが漏れる。森は精霊の住処だ。どこへ行こうと逃げられるわけがない。

『——森よ。古き森よ』

 気づけば勝手に口が動いていた。何をどうすれば精霊が力を貸してくれるのか手に取るようにわかる。くすくす、けらけら、と笑い声が響く中、ベアトリーチェの手の動きに合わせて地面から伸びた木の根が、瞬時に男を拘束して空中に引きずり上げた。

「やめろ! やめろ離せ! こんなの聞いてない! 相手がこんな化け物だったなんて!」

 顔を青ざめた射手がうるさく喚く。一体どちらが化け物なのか。辛い境遇には同情もするが、自分たちの利益のために他者を害する人間を許してはおけなかった。ここで逃せば、きっとまたいつか舞い戻ってくるだろう。今度はさらに手練を引き連れて。

 ——それに、あいつはニーナの仇だわ。

 ベアトリーチェに同意するように、声が囁く。

 ——そうそう。許しちゃダメだよ。
 ——僕たちの愛し子。さあ、声を上げて。僕たちが仇を討ってあげる。

「お嬢様! 駄目です! 殺せば後戻りできなくなる!」

 ハッと顔色を変えたニケがこちらに駆け寄ろうとしたが、地面から伸びた根に行方を阻まれた。精霊たちがベアトリーチェの意思を汲んだのだろう。周囲に響く笑い声がさらに大きくなり、強く吹く風がざわざわと森の木々を揺らし始めた。

 その隙に、射手に巻きつけた根に力を込める。強く締め上げられ、相手はもう悲鳴を上げることもできないようだ。

『呪われろ! 簒奪者よ! 精霊の怒りを思い知るがいい!』
「やめろ! ベアトリーチェ嬢!」

 射手を握り潰そうとした瞬間、茂みから飛び出してきたエンリコが必死の形相で叫んだ。手にした剣が血に濡れている。どうやらもう一人も無事に仕留めたらしい。異常を察知して全力で駆け戻ってきたのだろう。らしくもなく焦った様子で、しきりに肩を上下させている。

「ニケ! お前はその男を根から引き剥がせ!」

 させないよ、と精霊たちが囁く。

「うるさい! どけ!」

 エンリコは剣を投げ捨てると、精霊が伸ばした根を強引に引きちぎり、矢のように早く距離を詰めてベアトリーチェの両手首を掴んだ。

 右手しか使えないのに、恐ろしいほど強い。さしもの精霊たちも、エンリコの気迫に力負けしたらしい。葉擦れの音と共に、何あいつ、というドン引きした声が聞こえてきた。

「離して! エンリコ様!」

 振り払おうと必死にもがくが、単純な力では叶わない。身を捩るたび、みし、と骨が折れそうな嫌な音が響く。こっちも必死だが、エンリコも必死だ。逞しく盛り上がる肩の向こうで、ニケがエンリコが捨てた剣を手に根を切り払おうとしているのが見えた。

「やめて、やめてニケ! そいつはニーナを殺したのよ!」

 悲痛な叫びにも、ニケは一切躊躇しなかった。まるでさっきのニーナみたいだ。こちらを振り向くことなく、黙々と根に剣を振り下ろしていく。咄嗟にそちらに向かおうとするベアトリーチェを力ずくで引き戻し、エンリコが吠える。

「しっかりしろ! 憎しみに飲み込まれるな! 自分と同じ道を辿るあなたを見て、ニーナが喜ぶと思うのか?」
「何よ! あなたに何がわかるの! あなただって、ミゲル様たちが死んだら同じことを——」

 続きは言えなかった。柔らかい感触が唇を塞いだからだ。大きく目を見開くベアトリーチェの耳に、ハレンチ! と叫ぶ精霊たちの非難の声が届く。

 ——え? 何これ。まさか、キスされてるの?

 自覚した途端、まるで息の仕方を忘れてしまったかのように苦しくなった。突然のことで思考も気持ちも追いついていかない。なんだか急に霞がかかったように頭がぼんやりとする。

 気づけば、あれだけ騒がしかった精霊たちの声は聞こえなくなっていた。

 ちゅ、とリップ音を立てて唇を離したエンリコが、こちらをまっすぐに見つめる。その瞳は初めて会った時と変わらず、とても澄んだ色をしていた。

「俺は憎しみで人を殺さない。報復は何も生まないんだ。あなたにも、そうであって欲しい。俺が……いや、俺たちが愛したあなたには、全てを焼き尽くす業火ではなく、夜を照らす篝火でいて欲しいんだ」

 それは普通なら飛び上がるほど嬉しい言葉だっただろう。しかし今のベアトリーチェには、呪いの言葉のように聞こえた。

「そのせいで、ニーナは苦しんだわ! 篝火なんて、なんの役に立つの? 何も見えない方が、人は幸せでいられるのよ!」
「明かりがあるから、影は自分の居場所がわかるんだ。目指す場所も、確かなぬくもりも、全部火がくれるもんだろ。だから、ニーナは笑ってるんじゃないのか」

 エンリコの指差す先で、ニーナは相変わらず微笑みを浮かべている。それを目にとめた途端、ぼろぼろと涙がこぼれた。足元で咲き乱れていた花が散り、伸びた根がするすると地面に戻っていく。膝が震えてとても立っていられない。地面に跪き、這うようにニーナに近づく。

「ニーナ……。ニーナぁ!」

 冷たくなった手のひらを握りしめる。嬉しい時も、悲しい時も、常にベアトリーチェを撫でてくれた手だ。

 今もはっきりと耳に残っている。眠りの力を使ったのは最初の一度だけだと。ただの思い上がりではない。二人の絆は確かに存在していたのだ。

 もう動かない体に伏せて号泣するベアトリーチェの背中を、エンリコが優しく撫でてくれる。その手は、まるで篝火のように温かかった。

「お嬢様……」

 近くからニケの声が聞こえる。そして、遠くから聞き慣れた家族たちの声も。

「ベアト!」
「姉さん!」

 ゆっくりと、涙で濡れた顔を上げる。雲間から差し込む光が、ベアトリーチェたちを優しく照らし出した。
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