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第13話 影の正体
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「ベアトリーチェ嬢!」
「お嬢様!」
何度も呼びかけられる声に、遠ざかりそうな意識を引き戻される。ごほ、とむせながら目を開くと、血相を変えたニケとエンリコに左右から抱えられているところだった。
目の前には妖しく笑うニーナがいる。いつの間に取り戻したのか、右手には先ほどベアトリーチェを突き刺したナイフが握られていた。
「しっかりしろ! 意識はあるか? 俺の目を見るんだ!」
「エンリコ……様……」
呻きながら身じろぎすると、大きく切り裂かれた胸元から短剣が滑り落ちた。
ニケから預かっていたものだ。これが刃を防いでくれたらしい。それを見たニーナが、さらに目を細めておかしそうに笑う。
「あら、運のいい子。道理で血が出ないわけですよ。でも、仕方ありませんね。人を刺すのは初めてですもの」
「ニーナさん、どうして! あんたが密偵だったのか⁉︎」
ベアトリーチェを庇うように立ち塞がったニケが、青ざめた顔で叫ぶ。
さっきニケも肯定したように、ニーナはベアトリーチェの祖母の代からベスタ家に仕えている古株だ。たとえ太陽が西から昇っても、ベスタ家を裏切るとは思わなかった。だからこそカテリーナも屋敷の守りとしてニーナを残したのだ。
ニーナはニケの言葉に不愉快そうに眉を顰めると、まるで犬を追い払うような仕草で左手を払った。
「失礼ね。あなたと一緒にしないでくださいな。私は正真正銘ベスタ家の使用人ですよ。密偵なんかじゃありません」
「だったらなんで……。なんでお嬢様を殺そうとするんだ!」
「聞いてどうするんですか? 今さら何も変えられないのに」
そう言ってニーナは左の手のひらをこちらに向けた。
精霊の力を使う時の仕草だ。明かりの力しか使えなくとも、ここで目を眩まされては命に関わる。ニケは丸腰で、エンリコの左腕は折れている。ここで戦えるのはベアトリーチェただ一人だ。
「ニーナ! やめて!」
咄嗟にその場に跳ね起き、眠りの力を向ける。たとえ殺されかけたとはいえ、事情もわからずにニーナを攻撃したくなかった。
ベアトリーチェの力なら難なく眠らせることができるはずだ。しかし、もう少しで届くというところで力と力がぶつかり合う感覚がして、周囲に激しい閃光と音が炸裂した。
「何、これっ……!」
眩しすぎて目を開けていられない。今まで何度も力を使ってきたが、こんな現象が起きたのは初めてだ。ニーナの明かりの力なのだろうか。いや、それにしては強すぎる。
ひどい耳鳴りの合間に、ニケとエンリコの呻き声が聞こえた。同時に体をぐいっと引き寄せられる感覚がして、両手首に鈍い痛みが走る。
ようやく視界が元に戻った時、ベアトリーチェはニーナの腕の中にいた。しかし、優しく抱き止められているのはない。後ろ手を縄で縛られ、首にはニーナの細腕が巻き付いていた。
力を使おうとしても途端にかき消されてしまう。メリッサを拘束した時のように、縄には女王陛下の髪が織り込まれているのだろう。さすがのベアトリーチェも、ケルティーナを統べる女王の力には敵わない。
「動かないでくださいね、お嬢様。その可愛いお目目に刺さっちゃいますよ」
宥めるように囁き、ニーナはベアトリーチェの眼前にナイフを突きつけた。銀色に光る刃には赤い血が付着している。ハッと窪みの中に視線を走らせると、足から血を流したニケとエンリコが折り重なるように倒れていた。
「ニケ! エンリコ様!」
どれだけ叫んでも、二人は呻き声を上げるばかりだった。傷はそれほど深くなさそうなのに、身動き一つできないとは普通ではない。薬? 毒? わからないが、傷以外の要因があるのだ。
「ニーナ! 二人に何をしたのっ!」
「眠りの力ですよ。同じ力をぶつけ合うと、激しい拒絶反応が起こるんです。その隙に二人にもかけました。勉強嫌いのあなたは知らなかったでしょう?」
予想もしなかった言葉に愕然とする。ベアトリーチェと同じ力を、ニーナも持っていたというのか。
「本当にいい子ですね、お嬢様は。予想通り眠りの力を使ってくれました。私を慮ってくれたのはありがたいですけど、この状況じゃ悪手でしたねぇ」
「なんで……? 明かりの力しか使えなかったはずじゃ……」
「あなたもカテリーナ様に黙っていたのならわかるでしょう。切り札というものは、最後まで取っておくものですよ」
淡々と言い聞かされ、内心ほぞを噛む。自分も同じことをしていたのに、どうして思いつかなかったのか。
「ベアトリーチェ嬢……」
苦しげなエンリコの声が耳に届く。耐性のない人間が眠りの力をもろに浴びたのだ。その瞼は今にも閉じそうに細められている。
「さあさ、そのまま眠りに落ちてくださいな。あなたたちを殺すつもりはありません。私の目的はあくまでもお嬢様。目が覚めた時、全ては終わっているでしょう」
歌うようなニーナの言葉に、エンリコたちの首が大きく傾いだ。しかし次の瞬間、剣を手にしたエンリコが己の左腕を強く叩き、ゆっくりと立ち上がった。
その目には激しい怒りが渦巻いている。金色の髪を揺らし、エンリコは吠えるように叫んだ。
「ベアトリーチェ嬢を離せ!」
それに続いて、ニケも落ちていた短剣で己の太ももを突き刺すと、ふらつきながら立ち上がり、燃えるような目でニーナを睨んだ。
「……ニーナさん、お嬢様から離れてください。今ならまだやり直せる。これ以上、お嬢様を悲しませないでください!」
「あらあら、まあ。勇ましいことで。二人の男性から求められるなんて、女冥利に尽きますね、お嬢様」
獣みたいな殺気を漂わせる男二人を前にしても、ニーナは冷静な様子を崩さなかった。それどころか、この状況を楽しんでいるようにも見える。
——なに? なんなの? こんなニーナ知らない。誰か嘘だと言ってよ!
この後に及んでも、目の前の光景が信じられない。今、こうしてベアトリーチェを拘束しているのは、本当に子供の頃からそばにいた侍女なのだろうか。
「どうして? どうしてよ、ニーナ。なんで……」
言葉の途中で嗚咽が漏れる。止めようと思ってもこらえ切れなかった。しゃくり上げながらぽろぽろと涙をこぼすと、ニーナは息を飲んでベアトリーチェから目を逸らした。
「……私だって、最初からこんなことをするつもりではありませんでしたよ」
一瞬、声が震えたように感じたのは気のせいなのだろうか。ニーナはナイフをベアトリーチェの喉元に食い込ませると、ニケとエンリコを警戒しつつ、ゆっくりと後ずさった。
「ほら、二人とも。武器を捨てて、その場から動かないでくださいな。そんな物騒なもの、女に向けるものじゃありませんよ」
従わなければ、ニーナはベアトリーチェを刺すだろう。ニケとエンリコは大人しく剣を地面に投げ捨てると、揃ってニーナを睨みつけた。
今にも歯軋りが聞こえてきそうなほど険しい顔だ。少しでも隙を見せれば飛び掛かるつもりなのは明白だった。しきりに機会を伺う二人に、ニーナが「お嬢様ったら、本当に人たらしなんだから」と小さくぼやく。
「井戸に毒を入れたのはあなたなのか」
「そうですよ、麗しい使者様。ネレウスとドリスの毒については、私も書庫の本を読んで知っていましたからね。猫たちは可哀想でしたが、ああするのが一番疑われなくて済むと思いました。最初に飲むのはお嬢様だとわかっていましたし……」
「どうして、私が飲むって……」
鼻を啜りながら呆然と目を向けると、ニーナはクスッと微笑んだ。
「料理の味、いつもより濃かったと思いませんか? お嬢様がこってりしたものを食べたがってると料理長に言っておいたんですよ。あの日はよく晴れて暑かったですし、とても喉が渇いたでしょう」
「まさか……」
「ニケの忠告を大人しく聞いていればよかったのに。まあ、それもお嬢様らしいと言えばらしいですけどね……。すでに察しているでしょうが、ネレウスとドリスは掃除の直前に入れました。私が小庭をうろうろしていても、誰も怪しみませんしね」
きっと、ベアトリーチェ以外の人間が飲まないように見張っていたのだろう。小庭は勝手口の裏手にある。様子を見るのは容易だったはずだ。
水を飲みたいと言った時、ニーナはベアトリーチェを井戸から遠ざけた。それは底に沈んでいるネレウスとドリスに気づかせないためだったのだ。
「襲撃の夜、俺たちの目を眩ませたのもあなたなんだな。密偵じゃないと言うのなら、何故ユスフの刺客たちを逃がす真似をした?」
いくら知識があったとはいえ、実際にドリスが咲いているのを見たのはあの場にいたものたちだけだ。
それに、ベアトリーチェが目を覚ますまで、ニーナはずっと部屋の外にいた。エルラドやロレンツォから話を聞いて、後から摘みに行ったとは考えにくい。
エンリコの追及に、ニーナは眉を寄せて唇を尖らせた。
「結果的にそうなっただけです。お嬢様が倒れたのを見て、黒ずくめの一人が駆け寄ろうとしたから……」
「……あれは俺です。咄嗟に体が動いたんだ」
「道理で……。あなたもお嬢様に甘いわね。まあ、それは私もだけど」
同情するようにニケを見つめ、ニーナがため息をつく。
「この状況では信じてもらえないでしょうけどね。あの時は、ただお嬢様を助けたい一心で力を使ったんですよ。眠りの力は大人数には効きにくい。他に私が使えるのは明かりの力だけですから、ああするしかありませんでした。ドリスを摘んだのだって、お嬢様の心を少しでも慰めようと思ったからですよ。でも……」
そこで言い淀み、ニーナはベアトリーチェを見下ろした。はら、と乱れた髪が額をくすぐる。その榛色の瞳には、やるせない悲しみと言葉にならない怒りが込められていた。
「あの日の翌朝、あなたは言いましたね。当主になることを望んだわけではないと」
確かにそう言った。ニーナの顔が一瞬曇ったのも覚えている。しかし、ベアトリーチェが後を継ぐのを嫌がるのは今に始まったことではない。それがどうして引き金を引くことになるのか、皆目見当もつかなかった。
ニーナはそんなベアトリーチェを静かに見つめ、ふ、と自分を嘲笑うように口角を上げた。
「……私は、当主になりたかった」
ぽつりと紡がれた言葉は消え入りそうに小さかったが、ベアトリーチェの耳にはしっかりと届いた。
ニーナは長女でありながら、精霊の力が弱くて当主にはなれなかった。泣く泣く実家を去り、ベスタ家に使用人として雇われた後、妹が当主を継いだという。
それは、たとえ眠りの力を明かしていたとしても同じだっただろう。眠りの力は珍しいものではあるが、攻撃力はないに等しいからだ。
「周りからはずっと言われてきました。長女なのに、どうして力が弱いんだ。長女なのに、どうして妹に負けるんだ、って……。それでも、必死で努力すれば認めてもらえると思ってたんです。勉強は好きでしたし、よくできましたから」
お嬢様とは正反対ですね、とニーナが微かに口元を緩める。
「遊びも恋も捨てて、青春の全てを捧げましたよ。同年代の子達が楽しそうにしているのを横目で眺めながらね。なのに……」
そこで言葉を止め、ニーナは唇を噛み締めた。当時の屈辱を思い出したのだろう。ナイフを握る手が震えている。その切先が喉をくすぐり、つ、と微かに血が流れたが、痛みは全く感じなかった。
「ひどいと思いませんか? トドメを刺すならもっと早く刺してくれればいいのに、成人するまで希望を与えて飼い殺しにするんですもの。その挙句に、妹の邪魔になるから家を出ていけなんて……」
おそらく、成人後に爆発的に力が強くなるかどうか様子を見ていたのだろうが、そうされた本人にとってはたまったものではない。ニーナの両親がやったことは、ニーナが必死に積み重ねてきた努力を容赦無く突き崩したのと同義だった。
「私ね、妹に食ってかかったんです。どうしてあなたが継ぐのよ、って。みっともないとわかっていましたけど、悔しくて仕方なかった。あの子ったら勉強嫌いで、当主になる気持ちなんて一欠片もなかったのに、力が強いだけで周りから認められるんですもの」
「……あなたの気の毒な事情はわかったが、ベアトリーチェ嬢を殺そうとするのは違うだろう! ただの逆恨みじゃないのか!」
エンリコの怒声に、ニーナは眦を吊り上げて声を張り上げた。
「わかってます。わかってますよ! でもね、あの子言ったんです。『仕方ないでしょ? 私が望んだわけじゃないもの』って! 心底嫌そうに!」
世界中から音が消えたような気がした。
まるで殴られたみたいに目眩がする。ニーナが目尻に涙を浮かべ、ニケとエンリコが戸惑ったような表情を浮かべる中で、ベアトリーチェはただ一人震えていた。
人間の記憶はひょんなことから蘇る。
あの日、あんな迂闊なことを言わなければ、ニーナは今も優しい侍女のままでいられただろう。メリッサが言っていた影とはニーナのことだった。ずっと胸に押し込めていた嫉妬と憎しみを、ベアトリーチェが呼び覚ましてしまったのだ。
「両親も妹も、とうにこの世を去りました。今さら自分の影に気づいたって、もう手遅れなのよ! この気持ちを一体どうすればいいの!」
「ニーナ……ニーナ、私……」
声が震える。ニーナは目尻に浮いた涙を払うように目を瞬かせ、静かに言葉を続けた。
「強い力を持っているのに、躊躇なく捨てようとするあなたが許せなかった。それで思ったんです。今なら全てニケのせいにできるんじゃないかって」
「ニーナさん……」
ニケが喘ぐような声を漏らした。
「ニケが小庭でお嬢様と話していたこと、私も聞いていたんですよ。だって、お嬢様が心配だったんですもの。いくら使用人が相手でも、誰も目が届かないところで男性と二人っきりでお話しするのは良くありませんからね」
だから木々の隙間を突っ切ってきたのか。まさか聞かれていたとは思わなかった。言葉もないニケとベアトリーチェに、ニーナが疲れたように息をつく。
「あの夜もそうでした。どうして、外に出てしまったのかしら……。その上、鍵をかけ忘れるなんて使用人失格だわ」
襲撃にあった夜、ベアトリーチェが眠れなかったようにニーナも眠れなかった。水でも飲もうと食堂を目指していた時、いつもと様子の違うニケが勝手口から出ていくところを見て、つい後を追ってしまったのだという。
ただでさえユスフ領の出身者だと知った後だ。不審な行動に出る人間を放ってはおけなかった。
実際にニケは怪しかった。夜に紛れるように真っ黒の服を着て、音も立てずに歩いていく。挙句に見ず知らずの人間を大勢敷地内に引き入れ、小声で何か指示を出し始めた。
「すぐ誰かに知らせなきゃと思ったんです。でも、黒ずくめたちの動きが予想以上に素早くて……。下手に動くとすぐに見つかってしまいそうでした。だから仕方なく小庭の茂みの中に身を隠したんです」
「……その後で俺とベアトリーチェ嬢が現れたわけか」
「本当に怖かった。よくないことが起きるのは明白でしたから。実際にあなた達が襲われても、臆病な私は声一つ出せなかった。でも、お嬢様はあの絶望的な状況にも関わらずに、黒ずくめたちに立ち向かって……」
最後の方は聞こえなかった。顔を逸らしているので表情がよく見えない。伺うように名前を呼びかけると、グス、と鼻を啜る音がした。
「眠りの力だって、実家にいた頃は使わなかったんですよ。ずっと明かりの力しか持ってないと思っていましたしね。でも、お嬢様が悪夢を見るのが怖いってあまりにも泣くから、可哀想になって……」
まだぬいぐるみを抱いて寝ていた頃、怖い夢を見てニーナに慰めてもらった夜のことを思い出す。
あの時、ニーナは困った表情を浮かべながらも優しく頭を撫でてくれた。
その後すぐに、朝まですやすや眠れたことを覚えている。ニーナ自身も、それで初めて自分に眠りの力があることに気づいたのだという。
——襲撃の翌朝も、ニーナに撫でてもらったらすぐに眠れたわ。あれも眠りの力だったってこと?
胸に鈍い痛みが走る。ずっと、そばにいると安心できるからだと思っていた。それがただの独りよがりだったなんて、とても受け入れたくない。
「そんな……。そんなことって……」
「私の可愛い可愛いお嬢様。もうわかっているんでしょう? 眠りの力に気付かないままでいられたら、私はこんな馬鹿げたことをしなかった。あなたは私に武器を与えてしまったんですよ」
その言葉は二人の絆を断ち切る最後通牒に等しかった。喉からカエルが潰れたような音がこぼれ、止まっていたはずの涙がとめどなくあふれて頬を濡らしていく。
どれだけ黒ずくめの仲間を炙り出そうとしても無駄なはずだ。最初からもう一人の密偵などいなかった。もっと早くニーナの苦しみに気づけていたら、こうはならなかったのだろうか。
「ご、ごめんなさ……ひっ……ニーナ、ごめんなさい……」
もっと言いたいことがあるのに言葉にならない。子供みたいに泣くベアトリーチェの頭に頬を寄せ、ニーナが寂しげに笑う。
「どうして、こうなってしまったんでしょうね……。私にも、もう止められないんです。あの日から、まるで体が憎しみの塊になってしまったみたいで……」
ふらり、とよろけるように後ずさり、ニーナが右手のナイフを大きく振りかぶった。
「ごめんなさい、お嬢様……。あなたのことは愛しているけど……。でも、もう、楽になりたいんです!」
「ベアトリーチェ嬢!」
「やめてくれ、ニーナさん!」
ニケとエンリコがこちらに駆けてくる足音がする。まるでスローモーションのように、ナイフの切先が向かってくるのが見えた。
——だめ、逃げられない。
死を覚悟した刹那、空気を切り裂くような音がして地面に何かが突き刺さり、ニーナがハッと顔色を変えた。
矢だ。襲撃を受けた時と同じ矢が、ベアトリーチェたちを狙っている。
「ベアトリーチェ嬢! 崖上の刺客は何人だった⁉︎」
「メリッサを入れて五人よ! まさか、他にもいたの?」
「まだ三人残ってる!」
——なんてしぶといのよ!
山猫みたいな唸り声が漏れる。憤るベアトリーチェを抱えるニーナは困惑顔だ。元々荒事には向いていない。さっきまでは必死に虚勢を張っていたのだろう。ナイフを持つ手はひどく震えていた。
「ニケ! ベアトリーチェ嬢を頼んだ!」
「エンリコ様、待って! 行っちゃ駄目!」
地面から剣を拾い上げたエンリコが茂みの中に走り去っていく。一気に間合いを詰めて叩くつもりなのだろう。しかし、あまりにも無謀が過ぎる。またリカルドに殴られるつもりなのか。
「ニーナさん! 早く窪みの中へ! ユスフの矢には毒が塗られている。掠っただけで致命傷になります!」
引きずるようにニーナとベアトリーチェを窪みの中に入れ、ニケが二人に覆い被さった。そのすぐそばを矢が掠めていく。
ベアトリーチェの力を警戒しているのだろう。向こうは姿を現さないつもりだ。襲撃の夜と同じ状況に内心歯軋りをする。
風を切り裂くような音の合間に、男の断末魔の声が響いた。エンリコが一人仕留めたのだろう。しかし、射手はお互い距離をとっているはずだ。三人とも仕留め終える頃にはニケがハリネズミになってしまう。
「ニーナ! 早くこの縄を切って! 力で防ぐわ!」
ニケの下でベアトリーチェを抱き抱えていたニーナが、指示に従ってナイフを縄に当てる。しかし、手が震えているせいでうまく切ることができない。
それを見たニケがニーナからナイフを受け取り、体を起こしてベアトリーチェの縄を掴んだ。その時、なかなか当たらないことに剛を煮やしたらしい射手の一人が茂みから身を乗り出し、ニーナに照準を定めたのが見えた。
「ダメ!」
考えるより早く、咄嗟に体が動いた。ニケの手を振り払い、肩でニーナを押し除け、二人の前に躍り出る。ベアトリーチェに毒は効かない。崖上には治療の力を使える精霊の力持ちもいる。急所を貫かれなければ命は助かるはずだ。
「お嬢様! やめろ!」
ニケの叫び声を背に、ぎゅっと目を閉じる。
——ごめんね、ニケ。やっぱり私、ちっとも人の言うことを聞けないみたい。
「お嬢様!」
何度も呼びかけられる声に、遠ざかりそうな意識を引き戻される。ごほ、とむせながら目を開くと、血相を変えたニケとエンリコに左右から抱えられているところだった。
目の前には妖しく笑うニーナがいる。いつの間に取り戻したのか、右手には先ほどベアトリーチェを突き刺したナイフが握られていた。
「しっかりしろ! 意識はあるか? 俺の目を見るんだ!」
「エンリコ……様……」
呻きながら身じろぎすると、大きく切り裂かれた胸元から短剣が滑り落ちた。
ニケから預かっていたものだ。これが刃を防いでくれたらしい。それを見たニーナが、さらに目を細めておかしそうに笑う。
「あら、運のいい子。道理で血が出ないわけですよ。でも、仕方ありませんね。人を刺すのは初めてですもの」
「ニーナさん、どうして! あんたが密偵だったのか⁉︎」
ベアトリーチェを庇うように立ち塞がったニケが、青ざめた顔で叫ぶ。
さっきニケも肯定したように、ニーナはベアトリーチェの祖母の代からベスタ家に仕えている古株だ。たとえ太陽が西から昇っても、ベスタ家を裏切るとは思わなかった。だからこそカテリーナも屋敷の守りとしてニーナを残したのだ。
ニーナはニケの言葉に不愉快そうに眉を顰めると、まるで犬を追い払うような仕草で左手を払った。
「失礼ね。あなたと一緒にしないでくださいな。私は正真正銘ベスタ家の使用人ですよ。密偵なんかじゃありません」
「だったらなんで……。なんでお嬢様を殺そうとするんだ!」
「聞いてどうするんですか? 今さら何も変えられないのに」
そう言ってニーナは左の手のひらをこちらに向けた。
精霊の力を使う時の仕草だ。明かりの力しか使えなくとも、ここで目を眩まされては命に関わる。ニケは丸腰で、エンリコの左腕は折れている。ここで戦えるのはベアトリーチェただ一人だ。
「ニーナ! やめて!」
咄嗟にその場に跳ね起き、眠りの力を向ける。たとえ殺されかけたとはいえ、事情もわからずにニーナを攻撃したくなかった。
ベアトリーチェの力なら難なく眠らせることができるはずだ。しかし、もう少しで届くというところで力と力がぶつかり合う感覚がして、周囲に激しい閃光と音が炸裂した。
「何、これっ……!」
眩しすぎて目を開けていられない。今まで何度も力を使ってきたが、こんな現象が起きたのは初めてだ。ニーナの明かりの力なのだろうか。いや、それにしては強すぎる。
ひどい耳鳴りの合間に、ニケとエンリコの呻き声が聞こえた。同時に体をぐいっと引き寄せられる感覚がして、両手首に鈍い痛みが走る。
ようやく視界が元に戻った時、ベアトリーチェはニーナの腕の中にいた。しかし、優しく抱き止められているのはない。後ろ手を縄で縛られ、首にはニーナの細腕が巻き付いていた。
力を使おうとしても途端にかき消されてしまう。メリッサを拘束した時のように、縄には女王陛下の髪が織り込まれているのだろう。さすがのベアトリーチェも、ケルティーナを統べる女王の力には敵わない。
「動かないでくださいね、お嬢様。その可愛いお目目に刺さっちゃいますよ」
宥めるように囁き、ニーナはベアトリーチェの眼前にナイフを突きつけた。銀色に光る刃には赤い血が付着している。ハッと窪みの中に視線を走らせると、足から血を流したニケとエンリコが折り重なるように倒れていた。
「ニケ! エンリコ様!」
どれだけ叫んでも、二人は呻き声を上げるばかりだった。傷はそれほど深くなさそうなのに、身動き一つできないとは普通ではない。薬? 毒? わからないが、傷以外の要因があるのだ。
「ニーナ! 二人に何をしたのっ!」
「眠りの力ですよ。同じ力をぶつけ合うと、激しい拒絶反応が起こるんです。その隙に二人にもかけました。勉強嫌いのあなたは知らなかったでしょう?」
予想もしなかった言葉に愕然とする。ベアトリーチェと同じ力を、ニーナも持っていたというのか。
「本当にいい子ですね、お嬢様は。予想通り眠りの力を使ってくれました。私を慮ってくれたのはありがたいですけど、この状況じゃ悪手でしたねぇ」
「なんで……? 明かりの力しか使えなかったはずじゃ……」
「あなたもカテリーナ様に黙っていたのならわかるでしょう。切り札というものは、最後まで取っておくものですよ」
淡々と言い聞かされ、内心ほぞを噛む。自分も同じことをしていたのに、どうして思いつかなかったのか。
「ベアトリーチェ嬢……」
苦しげなエンリコの声が耳に届く。耐性のない人間が眠りの力をもろに浴びたのだ。その瞼は今にも閉じそうに細められている。
「さあさ、そのまま眠りに落ちてくださいな。あなたたちを殺すつもりはありません。私の目的はあくまでもお嬢様。目が覚めた時、全ては終わっているでしょう」
歌うようなニーナの言葉に、エンリコたちの首が大きく傾いだ。しかし次の瞬間、剣を手にしたエンリコが己の左腕を強く叩き、ゆっくりと立ち上がった。
その目には激しい怒りが渦巻いている。金色の髪を揺らし、エンリコは吠えるように叫んだ。
「ベアトリーチェ嬢を離せ!」
それに続いて、ニケも落ちていた短剣で己の太ももを突き刺すと、ふらつきながら立ち上がり、燃えるような目でニーナを睨んだ。
「……ニーナさん、お嬢様から離れてください。今ならまだやり直せる。これ以上、お嬢様を悲しませないでください!」
「あらあら、まあ。勇ましいことで。二人の男性から求められるなんて、女冥利に尽きますね、お嬢様」
獣みたいな殺気を漂わせる男二人を前にしても、ニーナは冷静な様子を崩さなかった。それどころか、この状況を楽しんでいるようにも見える。
——なに? なんなの? こんなニーナ知らない。誰か嘘だと言ってよ!
この後に及んでも、目の前の光景が信じられない。今、こうしてベアトリーチェを拘束しているのは、本当に子供の頃からそばにいた侍女なのだろうか。
「どうして? どうしてよ、ニーナ。なんで……」
言葉の途中で嗚咽が漏れる。止めようと思ってもこらえ切れなかった。しゃくり上げながらぽろぽろと涙をこぼすと、ニーナは息を飲んでベアトリーチェから目を逸らした。
「……私だって、最初からこんなことをするつもりではありませんでしたよ」
一瞬、声が震えたように感じたのは気のせいなのだろうか。ニーナはナイフをベアトリーチェの喉元に食い込ませると、ニケとエンリコを警戒しつつ、ゆっくりと後ずさった。
「ほら、二人とも。武器を捨てて、その場から動かないでくださいな。そんな物騒なもの、女に向けるものじゃありませんよ」
従わなければ、ニーナはベアトリーチェを刺すだろう。ニケとエンリコは大人しく剣を地面に投げ捨てると、揃ってニーナを睨みつけた。
今にも歯軋りが聞こえてきそうなほど険しい顔だ。少しでも隙を見せれば飛び掛かるつもりなのは明白だった。しきりに機会を伺う二人に、ニーナが「お嬢様ったら、本当に人たらしなんだから」と小さくぼやく。
「井戸に毒を入れたのはあなたなのか」
「そうですよ、麗しい使者様。ネレウスとドリスの毒については、私も書庫の本を読んで知っていましたからね。猫たちは可哀想でしたが、ああするのが一番疑われなくて済むと思いました。最初に飲むのはお嬢様だとわかっていましたし……」
「どうして、私が飲むって……」
鼻を啜りながら呆然と目を向けると、ニーナはクスッと微笑んだ。
「料理の味、いつもより濃かったと思いませんか? お嬢様がこってりしたものを食べたがってると料理長に言っておいたんですよ。あの日はよく晴れて暑かったですし、とても喉が渇いたでしょう」
「まさか……」
「ニケの忠告を大人しく聞いていればよかったのに。まあ、それもお嬢様らしいと言えばらしいですけどね……。すでに察しているでしょうが、ネレウスとドリスは掃除の直前に入れました。私が小庭をうろうろしていても、誰も怪しみませんしね」
きっと、ベアトリーチェ以外の人間が飲まないように見張っていたのだろう。小庭は勝手口の裏手にある。様子を見るのは容易だったはずだ。
水を飲みたいと言った時、ニーナはベアトリーチェを井戸から遠ざけた。それは底に沈んでいるネレウスとドリスに気づかせないためだったのだ。
「襲撃の夜、俺たちの目を眩ませたのもあなたなんだな。密偵じゃないと言うのなら、何故ユスフの刺客たちを逃がす真似をした?」
いくら知識があったとはいえ、実際にドリスが咲いているのを見たのはあの場にいたものたちだけだ。
それに、ベアトリーチェが目を覚ますまで、ニーナはずっと部屋の外にいた。エルラドやロレンツォから話を聞いて、後から摘みに行ったとは考えにくい。
エンリコの追及に、ニーナは眉を寄せて唇を尖らせた。
「結果的にそうなっただけです。お嬢様が倒れたのを見て、黒ずくめの一人が駆け寄ろうとしたから……」
「……あれは俺です。咄嗟に体が動いたんだ」
「道理で……。あなたもお嬢様に甘いわね。まあ、それは私もだけど」
同情するようにニケを見つめ、ニーナがため息をつく。
「この状況では信じてもらえないでしょうけどね。あの時は、ただお嬢様を助けたい一心で力を使ったんですよ。眠りの力は大人数には効きにくい。他に私が使えるのは明かりの力だけですから、ああするしかありませんでした。ドリスを摘んだのだって、お嬢様の心を少しでも慰めようと思ったからですよ。でも……」
そこで言い淀み、ニーナはベアトリーチェを見下ろした。はら、と乱れた髪が額をくすぐる。その榛色の瞳には、やるせない悲しみと言葉にならない怒りが込められていた。
「あの日の翌朝、あなたは言いましたね。当主になることを望んだわけではないと」
確かにそう言った。ニーナの顔が一瞬曇ったのも覚えている。しかし、ベアトリーチェが後を継ぐのを嫌がるのは今に始まったことではない。それがどうして引き金を引くことになるのか、皆目見当もつかなかった。
ニーナはそんなベアトリーチェを静かに見つめ、ふ、と自分を嘲笑うように口角を上げた。
「……私は、当主になりたかった」
ぽつりと紡がれた言葉は消え入りそうに小さかったが、ベアトリーチェの耳にはしっかりと届いた。
ニーナは長女でありながら、精霊の力が弱くて当主にはなれなかった。泣く泣く実家を去り、ベスタ家に使用人として雇われた後、妹が当主を継いだという。
それは、たとえ眠りの力を明かしていたとしても同じだっただろう。眠りの力は珍しいものではあるが、攻撃力はないに等しいからだ。
「周りからはずっと言われてきました。長女なのに、どうして力が弱いんだ。長女なのに、どうして妹に負けるんだ、って……。それでも、必死で努力すれば認めてもらえると思ってたんです。勉強は好きでしたし、よくできましたから」
お嬢様とは正反対ですね、とニーナが微かに口元を緩める。
「遊びも恋も捨てて、青春の全てを捧げましたよ。同年代の子達が楽しそうにしているのを横目で眺めながらね。なのに……」
そこで言葉を止め、ニーナは唇を噛み締めた。当時の屈辱を思い出したのだろう。ナイフを握る手が震えている。その切先が喉をくすぐり、つ、と微かに血が流れたが、痛みは全く感じなかった。
「ひどいと思いませんか? トドメを刺すならもっと早く刺してくれればいいのに、成人するまで希望を与えて飼い殺しにするんですもの。その挙句に、妹の邪魔になるから家を出ていけなんて……」
おそらく、成人後に爆発的に力が強くなるかどうか様子を見ていたのだろうが、そうされた本人にとってはたまったものではない。ニーナの両親がやったことは、ニーナが必死に積み重ねてきた努力を容赦無く突き崩したのと同義だった。
「私ね、妹に食ってかかったんです。どうしてあなたが継ぐのよ、って。みっともないとわかっていましたけど、悔しくて仕方なかった。あの子ったら勉強嫌いで、当主になる気持ちなんて一欠片もなかったのに、力が強いだけで周りから認められるんですもの」
「……あなたの気の毒な事情はわかったが、ベアトリーチェ嬢を殺そうとするのは違うだろう! ただの逆恨みじゃないのか!」
エンリコの怒声に、ニーナは眦を吊り上げて声を張り上げた。
「わかってます。わかってますよ! でもね、あの子言ったんです。『仕方ないでしょ? 私が望んだわけじゃないもの』って! 心底嫌そうに!」
世界中から音が消えたような気がした。
まるで殴られたみたいに目眩がする。ニーナが目尻に涙を浮かべ、ニケとエンリコが戸惑ったような表情を浮かべる中で、ベアトリーチェはただ一人震えていた。
人間の記憶はひょんなことから蘇る。
あの日、あんな迂闊なことを言わなければ、ニーナは今も優しい侍女のままでいられただろう。メリッサが言っていた影とはニーナのことだった。ずっと胸に押し込めていた嫉妬と憎しみを、ベアトリーチェが呼び覚ましてしまったのだ。
「両親も妹も、とうにこの世を去りました。今さら自分の影に気づいたって、もう手遅れなのよ! この気持ちを一体どうすればいいの!」
「ニーナ……ニーナ、私……」
声が震える。ニーナは目尻に浮いた涙を払うように目を瞬かせ、静かに言葉を続けた。
「強い力を持っているのに、躊躇なく捨てようとするあなたが許せなかった。それで思ったんです。今なら全てニケのせいにできるんじゃないかって」
「ニーナさん……」
ニケが喘ぐような声を漏らした。
「ニケが小庭でお嬢様と話していたこと、私も聞いていたんですよ。だって、お嬢様が心配だったんですもの。いくら使用人が相手でも、誰も目が届かないところで男性と二人っきりでお話しするのは良くありませんからね」
だから木々の隙間を突っ切ってきたのか。まさか聞かれていたとは思わなかった。言葉もないニケとベアトリーチェに、ニーナが疲れたように息をつく。
「あの夜もそうでした。どうして、外に出てしまったのかしら……。その上、鍵をかけ忘れるなんて使用人失格だわ」
襲撃にあった夜、ベアトリーチェが眠れなかったようにニーナも眠れなかった。水でも飲もうと食堂を目指していた時、いつもと様子の違うニケが勝手口から出ていくところを見て、つい後を追ってしまったのだという。
ただでさえユスフ領の出身者だと知った後だ。不審な行動に出る人間を放ってはおけなかった。
実際にニケは怪しかった。夜に紛れるように真っ黒の服を着て、音も立てずに歩いていく。挙句に見ず知らずの人間を大勢敷地内に引き入れ、小声で何か指示を出し始めた。
「すぐ誰かに知らせなきゃと思ったんです。でも、黒ずくめたちの動きが予想以上に素早くて……。下手に動くとすぐに見つかってしまいそうでした。だから仕方なく小庭の茂みの中に身を隠したんです」
「……その後で俺とベアトリーチェ嬢が現れたわけか」
「本当に怖かった。よくないことが起きるのは明白でしたから。実際にあなた達が襲われても、臆病な私は声一つ出せなかった。でも、お嬢様はあの絶望的な状況にも関わらずに、黒ずくめたちに立ち向かって……」
最後の方は聞こえなかった。顔を逸らしているので表情がよく見えない。伺うように名前を呼びかけると、グス、と鼻を啜る音がした。
「眠りの力だって、実家にいた頃は使わなかったんですよ。ずっと明かりの力しか持ってないと思っていましたしね。でも、お嬢様が悪夢を見るのが怖いってあまりにも泣くから、可哀想になって……」
まだぬいぐるみを抱いて寝ていた頃、怖い夢を見てニーナに慰めてもらった夜のことを思い出す。
あの時、ニーナは困った表情を浮かべながらも優しく頭を撫でてくれた。
その後すぐに、朝まですやすや眠れたことを覚えている。ニーナ自身も、それで初めて自分に眠りの力があることに気づいたのだという。
——襲撃の翌朝も、ニーナに撫でてもらったらすぐに眠れたわ。あれも眠りの力だったってこと?
胸に鈍い痛みが走る。ずっと、そばにいると安心できるからだと思っていた。それがただの独りよがりだったなんて、とても受け入れたくない。
「そんな……。そんなことって……」
「私の可愛い可愛いお嬢様。もうわかっているんでしょう? 眠りの力に気付かないままでいられたら、私はこんな馬鹿げたことをしなかった。あなたは私に武器を与えてしまったんですよ」
その言葉は二人の絆を断ち切る最後通牒に等しかった。喉からカエルが潰れたような音がこぼれ、止まっていたはずの涙がとめどなくあふれて頬を濡らしていく。
どれだけ黒ずくめの仲間を炙り出そうとしても無駄なはずだ。最初からもう一人の密偵などいなかった。もっと早くニーナの苦しみに気づけていたら、こうはならなかったのだろうか。
「ご、ごめんなさ……ひっ……ニーナ、ごめんなさい……」
もっと言いたいことがあるのに言葉にならない。子供みたいに泣くベアトリーチェの頭に頬を寄せ、ニーナが寂しげに笑う。
「どうして、こうなってしまったんでしょうね……。私にも、もう止められないんです。あの日から、まるで体が憎しみの塊になってしまったみたいで……」
ふらり、とよろけるように後ずさり、ニーナが右手のナイフを大きく振りかぶった。
「ごめんなさい、お嬢様……。あなたのことは愛しているけど……。でも、もう、楽になりたいんです!」
「ベアトリーチェ嬢!」
「やめてくれ、ニーナさん!」
ニケとエンリコがこちらに駆けてくる足音がする。まるでスローモーションのように、ナイフの切先が向かってくるのが見えた。
——だめ、逃げられない。
死を覚悟した刹那、空気を切り裂くような音がして地面に何かが突き刺さり、ニーナがハッと顔色を変えた。
矢だ。襲撃を受けた時と同じ矢が、ベアトリーチェたちを狙っている。
「ベアトリーチェ嬢! 崖上の刺客は何人だった⁉︎」
「メリッサを入れて五人よ! まさか、他にもいたの?」
「まだ三人残ってる!」
——なんてしぶといのよ!
山猫みたいな唸り声が漏れる。憤るベアトリーチェを抱えるニーナは困惑顔だ。元々荒事には向いていない。さっきまでは必死に虚勢を張っていたのだろう。ナイフを持つ手はひどく震えていた。
「ニケ! ベアトリーチェ嬢を頼んだ!」
「エンリコ様、待って! 行っちゃ駄目!」
地面から剣を拾い上げたエンリコが茂みの中に走り去っていく。一気に間合いを詰めて叩くつもりなのだろう。しかし、あまりにも無謀が過ぎる。またリカルドに殴られるつもりなのか。
「ニーナさん! 早く窪みの中へ! ユスフの矢には毒が塗られている。掠っただけで致命傷になります!」
引きずるようにニーナとベアトリーチェを窪みの中に入れ、ニケが二人に覆い被さった。そのすぐそばを矢が掠めていく。
ベアトリーチェの力を警戒しているのだろう。向こうは姿を現さないつもりだ。襲撃の夜と同じ状況に内心歯軋りをする。
風を切り裂くような音の合間に、男の断末魔の声が響いた。エンリコが一人仕留めたのだろう。しかし、射手はお互い距離をとっているはずだ。三人とも仕留め終える頃にはニケがハリネズミになってしまう。
「ニーナ! 早くこの縄を切って! 力で防ぐわ!」
ニケの下でベアトリーチェを抱き抱えていたニーナが、指示に従ってナイフを縄に当てる。しかし、手が震えているせいでうまく切ることができない。
それを見たニケがニーナからナイフを受け取り、体を起こしてベアトリーチェの縄を掴んだ。その時、なかなか当たらないことに剛を煮やしたらしい射手の一人が茂みから身を乗り出し、ニーナに照準を定めたのが見えた。
「ダメ!」
考えるより早く、咄嗟に体が動いた。ニケの手を振り払い、肩でニーナを押し除け、二人の前に躍り出る。ベアトリーチェに毒は効かない。崖上には治療の力を使える精霊の力持ちもいる。急所を貫かれなければ命は助かるはずだ。
「お嬢様! やめろ!」
ニケの叫び声を背に、ぎゅっと目を閉じる。
——ごめんね、ニケ。やっぱり私、ちっとも人の言うことを聞けないみたい。
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