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2章 勿忘草を咲かせるために
第6話 春きゃべつの驚き
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今日のお惣菜は何にしようか。春もたけなわ、山菜なども出回っている。筍はこの前使ったことだし。ああ、でも生で買える間に何度でも使いたい。若竹煮以外のお料理だって美味しい。わさび醤油で食べても美味しいのが生の筍の特典なのだ。
今日は相川さんが、数年ぶりにお母さまに会うはずである。つい世都までどきどきと緊張してしまう。どうか相川さんにとって、良い再会であります様にと、心の底から願った。
世都は驚いた。紅潮した顔の相川さんが来店したからだ。口開けのお客さまだった高階さんもびっくりした様で、目を丸くしている。
相川さんは昨日も来てくれたし、まさか今日もとは思いもよらず。
「いらっしゃいませ」
相川さんは普段から節約していて、外食と言えば恋人とのデートと2週間に1度の「はなやぎ」だ。それ以外はよほど疲れていない限り、自炊をしているはずである。だからまさか、の思いが大きく、世都は取り繕うことができなかった。
「こんばんは。連日ですいません」
「とんでもありません。どうぞお掛けくださいね。変な顔してしもて申し訳無いです」
「いえ、こちらこそ驚かせてしもてすいません。女将さんに絶対に聞いて欲しくて」
そう言う相川さんは、少なからず興奮している様に見えた。もしかしたらお母さまと何かあったのだろうか。
相川さんがカウンタ席に掛けたので、世都は温かいおしぼりを渡す。「ありがとうございます」と受け取って手を拭いた相川さんは、続けておしながきを手にする。そして、悩み始めた。これも珍しいことだ。肴のお惣菜はともかく、お酒に関してはいつも千利休即決だったからだ。
相川さんのつぶやきが世都の耳にかすかに入ってくる。
「どうしよ……今日は贅沢しても……でも……ううんやっぱり……」
そんなことをぶつぶつと言いながら、真剣な表情でおしながきを睨んでいる。そして。
「やっぱり千利休ください。それと春きゃべつのコールスローを」
「はい。お待ちくださいね」
春にだけ出回る春きゃべつはふわふわで柔らかく、甘みも強くて瑞々しい。それを太めの千切りにし、短冊切りにしたハムと合わせた。
調味料はマヨネーズをメインに、シンプルにお酢と白こしょう。あっさりと食べられる様にしてある。春きゃべつがまろやかな酸味をまとって、持つ旨味を引き上げるのだ。
世都はコールスローを小鉢に盛り付け、濃紺の切子ロックグラスに千利休を注いだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
相川さんはちびりとグラスを傾け、ほぅ、と心地よさげな息を吐いた。
「あの、実は、奨学金、全額返済できそうなんです」
「え?」
世都は目を見開く。本当に宝くじに当たったのだろうか。
「今日母と久々に会うたんですけど、同席しはった人がいまして」
待ち合わせをした大阪梅田のカフェでお母さまの隣にいたのは、チャコールグレイのスーツで、身なりの良い壮年の男性。お母さまの結婚相手だったそうだ。
「あら、まぁ」
「ばれてもたそうです。母、結婚してから毎年人間ドッグを受けとって、そん中には婦人科検診もあるんですけど、それで経産婦かもって疑惑が出て。担当のお医者さんはお相手に言うかどうか数年も悩みはったみたいなんですけど、さすがにもう黙ってられへん言うて」
お相手の知るところになったのだそうだ。お相手はお母さまに問いただす前に、興信所に依頼して真実を突き止め、相川さんを捜索した。
相川さんは今でこそワンルームマンションでひとり暮らしなのだが、お母さまが出て行くまではご祖父母と一緒に暮らしていた一戸建て、お母さまにとっての実家にいた。
お母さま出奔のタイミングで一戸建てを処分し、アパートに移り住んだのだ。もう帰っては来ないだろうと思ったから。中学生ひとりだと一戸建ては持て余してしまう。
興信所職員はその痕跡を辿り、相川さんにたどり着いた。そこで初めてお母さまに問うたそうだ。
「お相手は母に怒ったりはせんかったそうです。ただ母と結婚したことで、私に苦労さしたんが申し訳無いって。母がお相手を騙したことになんのに、お相手はただただ私に悪いて思ってるみたいで」
婚姻歴は無かったものの、子どもがいることを隠し、その子を捨てる様な形で自分と結婚した相手なら、離婚などを選んでもおかしくは無い。だがそのお相手はそうしないと言ったそうだ。
「正直、少しは腹立たしさもあります。ですがこんなことをする様な人を解放してしまうと、あなたにさらに迷惑を掛ける可能性がある。そして僕の様な人がまた出る可能性がある。それはあかんでしょう」
そのお相手の穏やかなせりふを、お母さまは横でバツの悪そうな顔で聞いていたそうだ。お母さまはお相手からの信用を失ったかも知れないが、ひとまず生活の心配はしなくて良いのだから、御の字だろう。
お相手は相川さんや他の人の迷惑にならない様に、結婚を継続してくれると言うのだ。それは相川さんにとってもありがたいことなのだろう。
今でこそ奨学金の返済でいっぱいいっぱいなのだ。そこにお母さまに寄り掛かられたりしてしまえば、まともな生活すら送れなくなってしまうかも知れない。
「お相手に、まぁ母にもなんですけど、今の私の状況を話しました。奨学金を返してること、結婚を考えてること、でも奨学金のことで親御さんに反対されてること。そしたらお相手さん、奨学金全額負担してくれるて言わはったんですよ。他の援助もしてくれるって」
「凄いですね……!」
世都は驚くと同時に、まるで自分のことの様に嬉しくなってしまう。報われた、そう思った。相川さんは日々を真摯に送り、吉事を信じ、この局面をたぐり寄せたのだ。
そして、このチャンスを掴み取ったのだ。本当に何ということだ。世都は緩む頬を止められなかった。
今日は相川さんが、数年ぶりにお母さまに会うはずである。つい世都までどきどきと緊張してしまう。どうか相川さんにとって、良い再会であります様にと、心の底から願った。
世都は驚いた。紅潮した顔の相川さんが来店したからだ。口開けのお客さまだった高階さんもびっくりした様で、目を丸くしている。
相川さんは昨日も来てくれたし、まさか今日もとは思いもよらず。
「いらっしゃいませ」
相川さんは普段から節約していて、外食と言えば恋人とのデートと2週間に1度の「はなやぎ」だ。それ以外はよほど疲れていない限り、自炊をしているはずである。だからまさか、の思いが大きく、世都は取り繕うことができなかった。
「こんばんは。連日ですいません」
「とんでもありません。どうぞお掛けくださいね。変な顔してしもて申し訳無いです」
「いえ、こちらこそ驚かせてしもてすいません。女将さんに絶対に聞いて欲しくて」
そう言う相川さんは、少なからず興奮している様に見えた。もしかしたらお母さまと何かあったのだろうか。
相川さんがカウンタ席に掛けたので、世都は温かいおしぼりを渡す。「ありがとうございます」と受け取って手を拭いた相川さんは、続けておしながきを手にする。そして、悩み始めた。これも珍しいことだ。肴のお惣菜はともかく、お酒に関してはいつも千利休即決だったからだ。
相川さんのつぶやきが世都の耳にかすかに入ってくる。
「どうしよ……今日は贅沢しても……でも……ううんやっぱり……」
そんなことをぶつぶつと言いながら、真剣な表情でおしながきを睨んでいる。そして。
「やっぱり千利休ください。それと春きゃべつのコールスローを」
「はい。お待ちくださいね」
春にだけ出回る春きゃべつはふわふわで柔らかく、甘みも強くて瑞々しい。それを太めの千切りにし、短冊切りにしたハムと合わせた。
調味料はマヨネーズをメインに、シンプルにお酢と白こしょう。あっさりと食べられる様にしてある。春きゃべつがまろやかな酸味をまとって、持つ旨味を引き上げるのだ。
世都はコールスローを小鉢に盛り付け、濃紺の切子ロックグラスに千利休を注いだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
相川さんはちびりとグラスを傾け、ほぅ、と心地よさげな息を吐いた。
「あの、実は、奨学金、全額返済できそうなんです」
「え?」
世都は目を見開く。本当に宝くじに当たったのだろうか。
「今日母と久々に会うたんですけど、同席しはった人がいまして」
待ち合わせをした大阪梅田のカフェでお母さまの隣にいたのは、チャコールグレイのスーツで、身なりの良い壮年の男性。お母さまの結婚相手だったそうだ。
「あら、まぁ」
「ばれてもたそうです。母、結婚してから毎年人間ドッグを受けとって、そん中には婦人科検診もあるんですけど、それで経産婦かもって疑惑が出て。担当のお医者さんはお相手に言うかどうか数年も悩みはったみたいなんですけど、さすがにもう黙ってられへん言うて」
お相手の知るところになったのだそうだ。お相手はお母さまに問いただす前に、興信所に依頼して真実を突き止め、相川さんを捜索した。
相川さんは今でこそワンルームマンションでひとり暮らしなのだが、お母さまが出て行くまではご祖父母と一緒に暮らしていた一戸建て、お母さまにとっての実家にいた。
お母さま出奔のタイミングで一戸建てを処分し、アパートに移り住んだのだ。もう帰っては来ないだろうと思ったから。中学生ひとりだと一戸建ては持て余してしまう。
興信所職員はその痕跡を辿り、相川さんにたどり着いた。そこで初めてお母さまに問うたそうだ。
「お相手は母に怒ったりはせんかったそうです。ただ母と結婚したことで、私に苦労さしたんが申し訳無いって。母がお相手を騙したことになんのに、お相手はただただ私に悪いて思ってるみたいで」
婚姻歴は無かったものの、子どもがいることを隠し、その子を捨てる様な形で自分と結婚した相手なら、離婚などを選んでもおかしくは無い。だがそのお相手はそうしないと言ったそうだ。
「正直、少しは腹立たしさもあります。ですがこんなことをする様な人を解放してしまうと、あなたにさらに迷惑を掛ける可能性がある。そして僕の様な人がまた出る可能性がある。それはあかんでしょう」
そのお相手の穏やかなせりふを、お母さまは横でバツの悪そうな顔で聞いていたそうだ。お母さまはお相手からの信用を失ったかも知れないが、ひとまず生活の心配はしなくて良いのだから、御の字だろう。
お相手は相川さんや他の人の迷惑にならない様に、結婚を継続してくれると言うのだ。それは相川さんにとってもありがたいことなのだろう。
今でこそ奨学金の返済でいっぱいいっぱいなのだ。そこにお母さまに寄り掛かられたりしてしまえば、まともな生活すら送れなくなってしまうかも知れない。
「お相手に、まぁ母にもなんですけど、今の私の状況を話しました。奨学金を返してること、結婚を考えてること、でも奨学金のことで親御さんに反対されてること。そしたらお相手さん、奨学金全額負担してくれるて言わはったんですよ。他の援助もしてくれるって」
「凄いですね……!」
世都は驚くと同時に、まるで自分のことの様に嬉しくなってしまう。報われた、そう思った。相川さんは日々を真摯に送り、吉事を信じ、この局面をたぐり寄せたのだ。
そして、このチャンスを掴み取ったのだ。本当に何ということだ。世都は緩む頬を止められなかった。
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