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1章 あらたなる挑戦

第2話 入社式の朝

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 一夜が経ち、紗奈さなは入社式の日を迎える。前日に飲んでいたとは言え量はセーブしたし、目覚めはすっきり、二日酔いの気配もまるで無し。

 紗奈が家族で住まう家は、あびこ駅近くの分譲マンションである。4LDKでベーシックな動線なので暮らしやすい。紗奈はひとり部屋を与えられていて、不自由無く過ごせている。

 パジャマのまま洗面所で顔を洗って歯を磨き、ぎりぎり肩に掛かる黒いレイヤードヘアはぼさぼさなので丁寧にブラシを通す。

 鏡を見ると、幸いにもにきびや吹き出物にあまり悩まされることの無かった肌はつるりとしていて、とりあえずチャームポイントとしているくりっとした大きな目。多分こういう顔を10人並みと言うのだろう。だからこそ紗奈は自分の造りに大きな不満は無かった。

 簡単な身支度を終えてダイニングに行くと、ふわりと良い匂いが鼻をくすぐった。

「お父さんお母さんお姉ちゃん、おはよう」

 テーブルで朝ごはんを摂っている父の隆史たかしと母の万里子まりこ、姉の清花さやかに挨拶をすると、それぞれから「おはよう」と返って来る。

 紗奈はまずキッチンに向かい、食器棚からグラスを出すとミネラルウォーターをがぶ飲みする。なにせ朝は水分不足におちいっている。しっかりとうるおしてあげなければ。グラス2杯ほどを飲み干すと、紗奈は「はぁ」と心地良い息を吐いた。

 紗奈はグラスを手にダイニングテーブルに向かうと定位置に座り、「いただきます」と手を合わせ、すでに用意されている朝ごはんのトーストにかぶり付いた。持って行ったグラスには万里子がミルクを入れてくれる。

 4枚切りの食パンを使ったトーストにはすでにバターが塗られていた。少し冷めてしまっているが、溶けたバターが食パンに染み込んで、さくさくとしっとりの食感が嬉しい。

 スクランブルエッグはほんの少しの塩味。それが卵の風味を引き上げている。ソテーされたあらびきウインナは、噛むとぱりっという音とともに肉汁がじゅわりと溢れた。

 今朝の野菜はブロッコリだった。万里子は栄養素を逃さない様にと、レンジで加熱しているらしい。紗奈はそれに、いくつか出されているドレッシングの中から、フレンチドレッシングを選んで掛けた。

 万里子はブロッコリが柔らかめになる様に加熱する。その方がブロッコリの甘みをふんだんに引き出せるとテレビで聞いたからだそうだ。実際万里子が出してくれるブロッコリは、確かに歯ごたえは頼りないが、甘い。青臭さがほとんど無く、これが本来の旨味なのだなと思わせる。フレンチドレッシングのほのかな酸味がブロッコリの味わいを引き立てていた。

 万里子が作る朝ごはんは、野菜以外は毎朝同じものだ。だが不満を感じたことは無い。紗奈は料理がほとんどできない。だから基本は万里子が与えてくれるものを素直に受け取るのだ。隆史も清花も文句ひとつ言わずに食べているので、なんら問題は無いと思っている。

 黙々と食べ進めていると、先に食べ終えた隆史が「ごちそうさん」と席を立つ。隆史はすでにスーツに着替えていて、黒い髪も整髪料を使ってぴっちりと撫で付けられている。ほんの少し吊り上がった目はノンフレームの眼鏡に覆われていた。ビジネスバッグも足元に置いており、そのまま仕事に出られる装いだ。

「ほな、行って来る」

「はーい」

 続けて万里子も腰を上げる。隆史を玄関まで見送るためだ。万里子はキッチンとダイニングを繋ぐカウンタに置いてあるお弁当の中から、濃紺のランチバッグに包まれたものを取り上げ「はい」と隆史に渡す。隆史はそれをビジネスバッグを入れると玄関に向かい、万里子が追い掛けた。

 専業主婦の万里子は、かいがいしく隆史のお世話をする。そのためか隆史は家では何もしない夫、父親だった。お茶が飲みたくなれば万里子に入れてもらうし、特にお礼も言わない。紗奈や清花が幼いころには遊んでくれたが、「子育て」の部分は万里子に投げっぱなしだった。

 他のご家庭の様子などは知らないが、父親とはそんなものだろうと思っている。だが昨今は夫婦共働き、家事子育ては分担の家も多いと聞いて、それぞれなのだなぁと感じている。

 万里子の「なんでもやってあげる精神」は、子どもである紗奈と清花にも波及していて、ふたりともお手伝いなどろくにしない。万里子も姉妹にうたことは無い。さすがに自分で飲むお茶ぐらいは自分で用意するが。

 そんな生活に紗奈は何の疑問も抱いていない。それが紗奈の当たり前だからだ。多分清花にとってもそうだと思う。

「こちそうさま。私も行くわ」

 清花も食べ終えて立ち上がる。背中まで伸びているウェーブが掛かった栗色の髪がふわりと揺れた。自分のお弁当を取り上げて、着替えを含めた用意のために自室へ一旦引き上げる。紗奈も壁に取り付けてある時計で時間を見ながら食事を進めた。

「紗奈ちゃん時間は大丈夫なん?」

「うん。でも食べ終わったらすぐに準備する」

 今はまだ7時半。始業は9時だからまだ余裕がある。紗奈はゆっくりと朝ごはんをいただく。そして綺麗に平らげると「ごちそうさま」と手を合わせ、着替えるために部屋へと戻った。

 入社式の今日はスーツを着て行かなくては。紗奈はクローゼットから、就職活動の時にも着ていたネイビーのスーツを出す。今日のために白いシャツとともにクリーニングをお願いしていた。春休み中だったということもあって、自分で出して受け取りもした。大学があれば万里子にお願いしていただろう。

 ぱりっとアイロンの掛かったシャツを着込み、しわひとつ無いスーツをまとう。下はミディ丈のタイトスカートだ。お化粧も軽く施す。

 これもまた就職活動の時に使っていた黒のトートバッグ。必要なもののほとんどは昨日の夜に用意していた。忘れ物が無いか念のためチェックし、ジッパーを閉めた。

 紗奈はダイニングに戻り、また椅子に掛けてスマートフォンを出す。まだ時間に余裕があるのだった。就職先までは30分もあれば着いてしまう。電車の時間も下調べ済みだ。

 万里子はキッチンで洗い物をしている様で、水流音が聞こえて来る。それも少しすると止んで、ダイニングに戻って来た。ゆっくりしている紗奈を見て大きな目をさらに丸くする。紗奈と清花の容姿は母親似だった。

「紗奈ちゃん、そんなゆっくりしてて大丈夫なん? 初日から遅刻なんてあかんよ」

「うん。8時半に家を出れば間に合うんよ」

「ああ、それもそうか。近いもんね。お茶飲む?」

「うん」

 万里子が湯呑みに煎茶を入れてくれて、それを飲みながら紗奈はスマートフォンを見る。最近お気に入りのアイドルの動画チャンネルだ。一昔前は写真ですら極端に露出が少なかった某事務所所属のアイドルグループが、今ではこうして公式の動画チャンネルを開設しているのだから、時代の移り変わりというものなのだろう。

 もちろん時間を見るのも忘れていない。そうして8時半が訪れる。動画は途中だがまた電車の中ででも見れば良い。無線イヤホンもバッグに入れている。紗奈は立ち上がった。

「ほな私も行って来るわ。あれ、そう言えばお姉ちゃんは?」

「あんたが部屋で支度してる間に行ったわ」

「そっか。お姉ちゃんの職場、梅田やもんな」

 あびこから梅田だと、御堂筋みどうすじ線で25分。清花の始業も紗奈と同じ9時なので、歩く時間も含めると紗奈より早く家を出なければ間に合わないのだ。ちなみに清花よりも早く家を出た隆史の始業は8時45分である。

「行って来まーす」

「はい、行ってらっしゃい」

 万里子に見送られ、紗奈は元気に家を出た。

 マンションのエントランスを出ると、春の陽気が気持ち良い。ここからは桜なんて洒落しゃれたものは見えないが、どこからかふわりと香りがただよってくる気がする。

 今日から新しい環境に身を置くのだ。少し浮かれているのかも知れない。そんな心がありもしない桜を引き寄せるのだろうか。紗奈は大きく深呼吸をした。
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