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1章 あらたなる挑戦

第7話 初めてのこと

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 翌日、出社した紗奈さなに与えられたデザイン仕事は、名刺やはがきなどの「小さな」ものだった。基本的なビジネスマナー研修は昨日一日で終え、今日から実際の仕事に取り掛かるのである。

 この「小さな」と言うのは、単にサイズだけの話では無い。デザイン事務所の大半は、クライアントからの依頼があって初めて仕事が発生する。そのクライアントのくせも様々で、おおまかに楽クライアントと難クライアントとに分かれる。

 楽クラとは、基本こちらの提案やデザインを異論無く受け入れてくれる率が高いクライアントである。もちろん相手の意向に沿って作成するのだが、それを元にスムーズに制作が進む、こちら視点で言えば仕事のしやすいクライアントだ。
 難クラはその逆で、良く言えばこだわりが強いクライアントである。大なり小なりのリテイクが何度も生じ、仕上がりまで作業時間も掛かってしまうのだ。

 今回紗奈に振られたお仕事は、どれも楽クラのものである。クライアントからヒアリングしたのは所長さんや先輩方。その場でタブレットで描かれたラフのデータをいただき、クライアントの要望を伝えてもらい、紗奈は(よし、やるか)と気合いを入れ、アプリを立ち上げた。

 まずは名刺から取り掛かる。写真も使うので、イラストレーターとともにフォトショップも立ち上げる。

 名刺やはがき、AB規格でサイズが固定されているものは、テンプレートが用意されている。トリムマークや裁ち切りガイドなどがすでに入れられているものだ。紗奈は共有サーバのフォルダから、名刺テンプレートを自分のiMacのデスクトップに複製する。

 この名刺はラフの段階でレイアウトがほぼできあがっていた。ヒアリングをしてラフを描いたのは畑中はたなかさんである。潔癖けっぺき気味とご自分で言っていたが、几帳面きちょうめんなところもあるのか、ラフも分かりやすいもので、紗奈の仕事はそのレイアウトを整えて、印刷に適したデータを作成すれば良いと思わせるものだった。

 とは言え、細かなバランスやフォントひとつで仕上がりは変わる。配置はコンマ単位で調整するし、フォントも有料のものから商業利用可能なフリーフォントまで膨大だ。明朝体ひとつ取っても新聞や小説本などに使われる様な整ったものから、少し柔らかく崩した様なものまで様々ある。それらの中からクライアントの意に沿ったものを探し出す。それもまた骨の折れる作業だ。

 だが作り手のこだわりがにじみ出るフォントを見るのもまた楽しい。紗奈はマウスをりながら、前のめりでフォント一覧を凝視した。



天野あまのさん、きりが良かったら昼の準備しよか」

 岡薗おかぞのさんから声を掛けられ、仕事に没頭していた紗奈ははっと意識を戻す。

「あれ、もう11時ですか?」

「そうやで。集中しとったら時間過ぎるん早いもんな。行けるか?」

「あ、はい。大丈夫です」

「まずは米仕掛けなな。給湯室行くで」

 紗奈は作成途中のファイルを保存して閉じ、iMacをシステム終了する。名刺の作成は終わり、今ははがきに取り掛かっていた。名刺は少し時間を置いてから推敲すいこうするつもりだ。きちんとクライアントのお好みに沿う様に仕上げられたら良いのだが。ほんの少しの不安がもたげる。だが今はまずお昼ごはんだ。

 今日のお料理部、さっそく紗奈が当番になった。だが奥薗さんに教えてもらうので、実質当番はふたりである。

 紗奈と岡薗さんは給湯室に入る。紗奈の家など、一般家庭ほどでは無いが、立派なキッチンがしつらえられていた。シンクも広めだし、小振りな水切りかごが置かれていても作業できるスペースがある。コンロも2口あって、料理初心者である紗奈の目から見ても充分に見えた。冷蔵庫も大きなものが置かれている。

「米は野菜室に入れてんねん。重いから、少なくなったら俺が5キロの袋買うて来てな」

 岡薗さんは紗奈の家のものよりも小振りの炊飯器を開けて内釜を出し、そこからお米専用の計量カップを出した。

「今日から3人やから、2合で行けるかな。いつもは牧田さんとふたりで1合半やねんけど。天野さん、米、どれくらい食う?」

「いつもお茶碗1杯ぐらいです」

「ほな2合でええな」

 岡薗さんは野菜室に入れたままのプラスチック製の米びつに軽量カップを突っ込み、2合を計り内釜に入れる。

「これ無洗米やから、洗わんでええねん」

「あ、聞いたことあります。研がんでええんですよね」

「そうそう。今は無洗米で無くてもな、そんなしっかり研がんでもぬかが取れるんやけど、無洗米の方が楽やからな」

 岡薗さんは内釜の2の数字のところまで水を入れ、炊飯器にセットして炊飯ボタンを押した。

「これで、おかずができるころに炊き上がるわ。じゃあ買い物行こうか」

「はい」

 紗奈は食材の買い物にも慣れていないので、岡薗さんが付き添ってくれることになっていた。紗奈は生成きなりのサコッシュに財布とエコバッグ、スマートフォンを入れてたすき掛けにした。

「所長、行って来ます」

「行って来ます」

 声を掛けて、紗奈と岡薗さんは事務所を出た。エレベータで下に降り、並んであべのハルカスに向かう。

「天野さん、ハルカスの地下行ったことある?」

「お菓子とかの売り場はちょくちょく行くんですけど、お野菜とかはほとんど見たこと無くて」

「そうか。ハルカスっちゅうか近鉄きんてつやな。あそこの八百一やおいちはなかなかやで。安いしな。買い物も楽しゅうなるわ。ほな地下2階はあんまり行ったこと無いか」

「はい」

「ウイング館で惣菜とか見てると、ほんまにええ匂いやし美味そうやしで、口がだらだらになるで」

 岡薗さんはご機嫌でネイビーのエコバッグを振り回す。こだわって毎日スーツで出勤している人なので、落ち着いた人なのかと思っていたら、どうやら子どもっぽい一面もある様だ。

 岡薗さんの年齢を聞いてはいないが、多分今年新卒の紗奈とそう変わらないのでは無いかと思っている。言葉使いから畑中さんはさらに上で、いちばん年上が牧田まきたさん。所長さんですら丁寧語で話しをするのである。とは言えそうかしこまった風では無いのだが。

「今日は何を作ろうか。天野さん何か食べたいのとかある?」

「いつもどうやって決めてはるんですか?」

「んー、基本作る人間の食べたいもんやな。でも買い物に行って肉とか見て、特価品が使える様にしたりな。まぁやりくりやわな」

 そういうものなのかと紗奈は感心する。毎日買い物に行っている万里子まりこもそうなのだろうか。子どもがふたりいて、ふたりとも大学まで出せて、万里子が専業主婦でいられるほど稼いで来る隆史たかしだが、そのお給料だって上限がある。

 普段スーパーなどに行くことの無い紗奈は、きゃべつひと玉の値段もろくに知らない。

 昔、中学生のころだっただろうか、家庭科で食材の買い出しから作って食べるところまでする授業があって、学校近くのスーパーに班で行った。その時にいろいろな野菜などの値段を見たはずだが、さすがに記憶に無く、覚えていてもあれから数年が経っている。物価も変わっているだろうし、参考にはならないだろう。

「じゃあいつもの様に決めたいです。私、どうしたらええんか良う分からへんので」

「そうやな、初めてやもんな。買い物しながら決めようか」

 そんな話をしながら、紗奈と岡薗さんはあべのハルカスに到着した。
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