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1章 あらたなる挑戦
第12話 少しずつ、ゆっくりと
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「よっしゃ、運ぶで。味噌汁とご飯頼むな」
「は、はい」
岡薗さんが給湯室のドアを開けると、煮物を載せたトレイを手に素早く出て行く。紗奈ももうひとつのトレイを持って、お味噌汁をこぼさない様に慎重に運んだ。
「牧田さん、お待たせしました~」
紗奈が給湯室を出ると、岡薗さんは応接セットのテーブルに煮物を置いているところだった。紗奈も焦るが、万が一つまずきでもしてお料理が台無しになったら大変だ。
ペースを崩さない様に運び、トレイをテーブルの空いたところに下ろすと、岡薗さんと牧田さんが配膳を手伝ってくれた。所長さんも愛妻弁当を食べずに待っててくれていた。
「ありがとうございます。遅うなってしもてすいませんっ! 私が慣れへんでとろとろしてしもたから」
時計を見ると、12時を10分ほど過ぎてしまっていた。紗奈が慌てて謝ると、牧田さんは「大丈夫やよ~」とのんびり言う。
「料理は慣れやからね。そのうち早よできる様になるから。そしたら手際も良うなって行くからね。そしたらひとりででもできる様になるやろうし」
「私、ひとりでお料理できる様になるんでしょうか」
紗奈が自信無さげに言うと、岡薗さんも牧田さんも「大丈夫大丈夫」とおおらかに笑う。
「俺かて、料理し始めた時は、そんなうまくできひんかったで。まぁ俺は必要に駆られて始めたんやけど、やってみたら慣れへんながらも楽しゅうてな。そのまま今や」
「私も、し始めん時は巧くできひんかったんよ~。でも結婚するてなったら一応主婦になるんやから、せえへんわけにもいかへんでねぇ。ほら、今みたいに旦那と家事分担って時代や無かったから」
岡薗さんの事情は分からないし、牧田さんの詳しい年齢も知らないが、おふたりとも紗奈を励まそうとしてくれているのは判る。紗奈はありがたくて「ありがとうございます!」と頭を下げた。
「まま、冷めんうちにいただきましょう。今日は何やろか」
「旨煮ですよ。豚の切り落としが特売やったんです」
そうか。これは旨煮と言うのか。家でも出ていると思うが、万里子はいちいちお料理の説明をしないので、普通の煮物だと思っていた。と言うものの煮物と旨煮の違いなど判らないのだが。
「それは美味しそうやねぇ」
牧田さんの表情がふわりとほころぶ。いそいそと「いただきます」と手を合わせた。岡薗さんも手を合わせ、紗奈も後に続いた。
「いただきます」
味付けは岡薗さんがしてくれたから、何の不安も無い。紗奈はまずお茶碗を持ち上げた。白いお米をお箸ですくって口に入れる。しっかりと噛みしめると、お米の柔らかな甘さが口に広がる。
白いご飯を美味しいと思える様になったのは最近だ。それまではあまり味を感じないと言うか、その旨味を感じ取ることができなかったのだ。なので海苔やふりかけなど、ご飯のお供があれば嬉しかった。
だが高校を卒業するころには、白米の美味しさが分かって来た。成長して味覚が変わったのだろう。大人になったと言うことなら嬉しい。
そしてお茶碗を受け皿がわりにし、旨煮を口に運ぶ。豚肉としろ菜がまとうほのかな甘辛さがじんわりと舌に乗る。ふわりとお出汁の効いた優しい味付けだった。なので豚肉の甘みとしろ菜の爽やかな味わいが良く分かる。
続けて椎茸とお揚げも口に含む。するとしっとりと煮汁を含んでおり、たっぷりと旨味を運んで来た。じゅわあっと口いっぱいに溢れる。
万里子が作るもの以外の手料理をあまり食べたことは無いが、これは万里子のものより穏やかな味わいだった。だが水っぽいとかそういうことは一切無い。お出汁の風味が生きている。
万里子の味付けはもう少し濃かった。良し悪しや美味しい不味いでは無く、多分家庭や個人の好みなのだ。万里子は若い紗奈や清花が好む様な、少し濃いめの味付けをしてくれているのだと思う。隆史の嗜好もあるのだろう。
岡薗さんの味付けも万里子の味付けも、紗奈は好きだし美味しいと思う。優劣なんて付けられるはずは無い。ただそれらのお料理に込められた暖かさは、じんわりと心と身体に染み入るのだ。
「おいしい……」
紗奈はほうっとなり、目を細めてしまう。
「岡薗さん、旨煮めっちゃ美味しいです」
「ありがとうな。でも天野さんも一緒に作ったんやで」
「とんでも無いです。私は足を引っ張ってしもうただけで」
紗奈が恐縮して身を縮こませると、岡薗さんはあっけらかんと「いやいや」と言う。
「始めたばっかりやねんから、そう自分を卑下するもんや無いで。もっと気楽に考えたらええねん。3日に一度の料理教室やと思ったらええんとちゃう? 俺もそんなええ先生や無いけど、知ってることはどんどん教えるし」
「そうよぅ。お料理だけや無く、どんなことでも最初は巧くできひんもんでしょ? せやから大丈夫よ」
牧田さんも慰める様にそんなことを言ってくれる。すると愛妻弁当をもりもりと食べていた所長さんも「そうやなぁ」とのんびり入って来る。
「料理に限らずやな。仕事も一緒や。今はまだ仕事し始めやから、ややこし無い細々したもんを任せとるやろ。そうやって力を付けて行くねん。でも、新しいことを始めるのってわくわくせぇへん? 不安なこともあるかも知れへんけど、できる様になって行ったら嬉しいやろ。焦らんとちょっとずつできる様になって行ったらええねん」
デザインの仕事は学校の課題とは違い、様々なクライアントを相手にする。
今もらえている仕事は自分でヒアリングしたものでは無いので、課題の延長線上にいる意識が完全に拭えないのは否定できない。だがそれは間違い無く事務所に利益を生み出すもので、責任を伴うものだ。それを思うと身のひとつも引き締まる。
それは確実に紗奈の「新しいこと」で、確かにこれからどんなお仕事を任せてもらえるのか、自分が培って来たものがどれだけ通用するのか楽しみでもある。
だがそれは、スキルがあるから思えることでもある。
お料理は紗奈にとって未知の領域だ。授業で携わったことがあるとは言え、買い物ひとつろくにしたことが無く、包丁だって上手に使えない。みじん切りとか高度なことがこれからできる様になるのだろうかと、不安にだってなるものだ。
自分はこんなにも後ろ向きな性格だっただろうかと、紗奈は自分自身で驚いてしまう。多分岡薗さんに迷惑を掛けてしまったこと、時間内に完成できなくて牧田さんを、所長さんを待たせてしまったことが尾を引いているのだと思う。
「なぁ、天野さん、もしかして俺とか牧田さんに悪いことしたとか思ってへんか?」
岡薗さんに図星を突かれ、紗奈は弾かれた様に顔を上げた。
「やとしたら、それはほんまに気にせんで欲しいわ。正直言うてな、俺も牧田さんも作りたての昼めし嬉しいし、料理も好きな方やと思うけど、できたら頻度減らせたらええなぁぐらいは思うねん。せやから天野さんが料理部に入ってくれて助かるんや」
「そうそう。私も家庭があって、家に帰ったら毎日晩ごはん作らなあかんから、本音を言うと作る回数減るん嬉しいんよ。実はねぇ、このお料理部があるから、夫と子どものお弁当作るんが免除になってるところがあんの。せやから毎日せんでええの助かってるんよ。で、天野さんが入ってくれてさらに減るから、ええんよねぇ」
岡薗さんに続き、牧田さんからまで暖かい言葉をもらって、紗奈は救われる思いである。だが。
「でも、岡薗さんのお手間を増やしてしもうて」
「そんなん、天野さんがひとりで作れる様になるまでの短期間やろ。料理って向き不向きもあるやろうけど、それこそ最初からレシピ見ながら料理する猛者かておるんやし。そんな難しいもんや無いで。全国の「シュフ」が男女関わらずやっとるもんやねんから。同じ人間なんやし」
また大きなくくりが出て来たものだ。だが牧田さんも岡薗さんも、そして万里子も最初は初心者だったはずだ。それを何度も繰り返し経験して上手にできる様になったのだ。ならきっと紗奈にもできるはずだ。
美味しいものが作れる様になるかはともかく、やっていれば包丁だってもっとちゃんと扱える様になるだろうし、きっと細い千切りだってできる様になると思う。
くよくよしている場合では無い。少しでも岡薗さんにご迷惑を掛けない様にしなくては。少しでもお役に立たなくては。
「あの、私自分でも勉強とかしたりして、少しでも早よひとりでできる様になりたいんで、どうぞよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくな」
「よろしくねぇ」
岡薗さんと牧田さんが快く迎えてくれ、紗奈はほっと胸を撫で下ろす。所長さんはそんな紗奈たちのやりとりを、心配する風でも無くにこにこと見守っていた。
「は、はい」
岡薗さんが給湯室のドアを開けると、煮物を載せたトレイを手に素早く出て行く。紗奈ももうひとつのトレイを持って、お味噌汁をこぼさない様に慎重に運んだ。
「牧田さん、お待たせしました~」
紗奈が給湯室を出ると、岡薗さんは応接セットのテーブルに煮物を置いているところだった。紗奈も焦るが、万が一つまずきでもしてお料理が台無しになったら大変だ。
ペースを崩さない様に運び、トレイをテーブルの空いたところに下ろすと、岡薗さんと牧田さんが配膳を手伝ってくれた。所長さんも愛妻弁当を食べずに待っててくれていた。
「ありがとうございます。遅うなってしもてすいませんっ! 私が慣れへんでとろとろしてしもたから」
時計を見ると、12時を10分ほど過ぎてしまっていた。紗奈が慌てて謝ると、牧田さんは「大丈夫やよ~」とのんびり言う。
「料理は慣れやからね。そのうち早よできる様になるから。そしたら手際も良うなって行くからね。そしたらひとりででもできる様になるやろうし」
「私、ひとりでお料理できる様になるんでしょうか」
紗奈が自信無さげに言うと、岡薗さんも牧田さんも「大丈夫大丈夫」とおおらかに笑う。
「俺かて、料理し始めた時は、そんなうまくできひんかったで。まぁ俺は必要に駆られて始めたんやけど、やってみたら慣れへんながらも楽しゅうてな。そのまま今や」
「私も、し始めん時は巧くできひんかったんよ~。でも結婚するてなったら一応主婦になるんやから、せえへんわけにもいかへんでねぇ。ほら、今みたいに旦那と家事分担って時代や無かったから」
岡薗さんの事情は分からないし、牧田さんの詳しい年齢も知らないが、おふたりとも紗奈を励まそうとしてくれているのは判る。紗奈はありがたくて「ありがとうございます!」と頭を下げた。
「まま、冷めんうちにいただきましょう。今日は何やろか」
「旨煮ですよ。豚の切り落としが特売やったんです」
そうか。これは旨煮と言うのか。家でも出ていると思うが、万里子はいちいちお料理の説明をしないので、普通の煮物だと思っていた。と言うものの煮物と旨煮の違いなど判らないのだが。
「それは美味しそうやねぇ」
牧田さんの表情がふわりとほころぶ。いそいそと「いただきます」と手を合わせた。岡薗さんも手を合わせ、紗奈も後に続いた。
「いただきます」
味付けは岡薗さんがしてくれたから、何の不安も無い。紗奈はまずお茶碗を持ち上げた。白いお米をお箸ですくって口に入れる。しっかりと噛みしめると、お米の柔らかな甘さが口に広がる。
白いご飯を美味しいと思える様になったのは最近だ。それまではあまり味を感じないと言うか、その旨味を感じ取ることができなかったのだ。なので海苔やふりかけなど、ご飯のお供があれば嬉しかった。
だが高校を卒業するころには、白米の美味しさが分かって来た。成長して味覚が変わったのだろう。大人になったと言うことなら嬉しい。
そしてお茶碗を受け皿がわりにし、旨煮を口に運ぶ。豚肉としろ菜がまとうほのかな甘辛さがじんわりと舌に乗る。ふわりとお出汁の効いた優しい味付けだった。なので豚肉の甘みとしろ菜の爽やかな味わいが良く分かる。
続けて椎茸とお揚げも口に含む。するとしっとりと煮汁を含んでおり、たっぷりと旨味を運んで来た。じゅわあっと口いっぱいに溢れる。
万里子が作るもの以外の手料理をあまり食べたことは無いが、これは万里子のものより穏やかな味わいだった。だが水っぽいとかそういうことは一切無い。お出汁の風味が生きている。
万里子の味付けはもう少し濃かった。良し悪しや美味しい不味いでは無く、多分家庭や個人の好みなのだ。万里子は若い紗奈や清花が好む様な、少し濃いめの味付けをしてくれているのだと思う。隆史の嗜好もあるのだろう。
岡薗さんの味付けも万里子の味付けも、紗奈は好きだし美味しいと思う。優劣なんて付けられるはずは無い。ただそれらのお料理に込められた暖かさは、じんわりと心と身体に染み入るのだ。
「おいしい……」
紗奈はほうっとなり、目を細めてしまう。
「岡薗さん、旨煮めっちゃ美味しいです」
「ありがとうな。でも天野さんも一緒に作ったんやで」
「とんでも無いです。私は足を引っ張ってしもうただけで」
紗奈が恐縮して身を縮こませると、岡薗さんはあっけらかんと「いやいや」と言う。
「始めたばっかりやねんから、そう自分を卑下するもんや無いで。もっと気楽に考えたらええねん。3日に一度の料理教室やと思ったらええんとちゃう? 俺もそんなええ先生や無いけど、知ってることはどんどん教えるし」
「そうよぅ。お料理だけや無く、どんなことでも最初は巧くできひんもんでしょ? せやから大丈夫よ」
牧田さんも慰める様にそんなことを言ってくれる。すると愛妻弁当をもりもりと食べていた所長さんも「そうやなぁ」とのんびり入って来る。
「料理に限らずやな。仕事も一緒や。今はまだ仕事し始めやから、ややこし無い細々したもんを任せとるやろ。そうやって力を付けて行くねん。でも、新しいことを始めるのってわくわくせぇへん? 不安なこともあるかも知れへんけど、できる様になって行ったら嬉しいやろ。焦らんとちょっとずつできる様になって行ったらええねん」
デザインの仕事は学校の課題とは違い、様々なクライアントを相手にする。
今もらえている仕事は自分でヒアリングしたものでは無いので、課題の延長線上にいる意識が完全に拭えないのは否定できない。だがそれは間違い無く事務所に利益を生み出すもので、責任を伴うものだ。それを思うと身のひとつも引き締まる。
それは確実に紗奈の「新しいこと」で、確かにこれからどんなお仕事を任せてもらえるのか、自分が培って来たものがどれだけ通用するのか楽しみでもある。
だがそれは、スキルがあるから思えることでもある。
お料理は紗奈にとって未知の領域だ。授業で携わったことがあるとは言え、買い物ひとつろくにしたことが無く、包丁だって上手に使えない。みじん切りとか高度なことがこれからできる様になるのだろうかと、不安にだってなるものだ。
自分はこんなにも後ろ向きな性格だっただろうかと、紗奈は自分自身で驚いてしまう。多分岡薗さんに迷惑を掛けてしまったこと、時間内に完成できなくて牧田さんを、所長さんを待たせてしまったことが尾を引いているのだと思う。
「なぁ、天野さん、もしかして俺とか牧田さんに悪いことしたとか思ってへんか?」
岡薗さんに図星を突かれ、紗奈は弾かれた様に顔を上げた。
「やとしたら、それはほんまに気にせんで欲しいわ。正直言うてな、俺も牧田さんも作りたての昼めし嬉しいし、料理も好きな方やと思うけど、できたら頻度減らせたらええなぁぐらいは思うねん。せやから天野さんが料理部に入ってくれて助かるんや」
「そうそう。私も家庭があって、家に帰ったら毎日晩ごはん作らなあかんから、本音を言うと作る回数減るん嬉しいんよ。実はねぇ、このお料理部があるから、夫と子どものお弁当作るんが免除になってるところがあんの。せやから毎日せんでええの助かってるんよ。で、天野さんが入ってくれてさらに減るから、ええんよねぇ」
岡薗さんに続き、牧田さんからまで暖かい言葉をもらって、紗奈は救われる思いである。だが。
「でも、岡薗さんのお手間を増やしてしもうて」
「そんなん、天野さんがひとりで作れる様になるまでの短期間やろ。料理って向き不向きもあるやろうけど、それこそ最初からレシピ見ながら料理する猛者かておるんやし。そんな難しいもんや無いで。全国の「シュフ」が男女関わらずやっとるもんやねんから。同じ人間なんやし」
また大きなくくりが出て来たものだ。だが牧田さんも岡薗さんも、そして万里子も最初は初心者だったはずだ。それを何度も繰り返し経験して上手にできる様になったのだ。ならきっと紗奈にもできるはずだ。
美味しいものが作れる様になるかはともかく、やっていれば包丁だってもっとちゃんと扱える様になるだろうし、きっと細い千切りだってできる様になると思う。
くよくよしている場合では無い。少しでも岡薗さんにご迷惑を掛けない様にしなくては。少しでもお役に立たなくては。
「あの、私自分でも勉強とかしたりして、少しでも早よひとりでできる様になりたいんで、どうぞよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくな」
「よろしくねぇ」
岡薗さんと牧田さんが快く迎えてくれ、紗奈はほっと胸を撫で下ろす。所長さんはそんな紗奈たちのやりとりを、心配する風でも無くにこにこと見守っていた。
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