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3章 力を尽くして
第4話 矢田さんの沙汰は
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約束の時間は11時、場所はなかもず駅から数分のいつものカフェである。
紗奈と畑中さんは15分前、10時45分ごろに着く様に事務所を出た。お陰でいちばん乗りできた様だ。矢田さんをお待たせするのはもちろん、競合相手より遅くなることも避けたかった。こんなことで主導権が握れるとは思っていないが、少しでもこちらの不利になる様なことは除いておきたかったのだ。
紗奈と畑中さんは下座に並んで腰掛けていた。テーブルにはカンプを挟んだクリアファイルと数本のペン、名刺入れを出している。
紗奈は俯いて、「ふぅー……」と細い息を吐き出した。
「天野さん、緊張してる?」
「はい……、コンペのお話を聞いてから心が休まらなくて」
どうにかこうにか心に喝を入れながら他の仕事にも取り掛かって来たが、いつでもコンペのことが頭の片隅に居座っていた。
選んでもらえなかったらどうしよう、競合相手のデザインが紗奈のものと比べ物にならないほどに素晴らしく、そちらが採用されてしまったらどうしよう、そんなことばかりが頭を巡るのだ。
本当に、社会人になってからすっかりと弱気になってしまったなと参ってしまう。学生のころは能天気でいられた。授業や課題で巧く行かないこともあったし、就職活動をしている時にはなかなか決まらず焦ったが、それでもこんなに思い悩む様なことは無かった。
これが責任を負うということなのだろうか。幸い胃薬などのお世話になる様なことは無かったが、それでもふとあれば憂鬱な気分に襲われていた。
「天野さんは、責任感が強いんかも知れんね」
「そう、なんでしょうか」
「多分な。でなかったら、出来レースや言うコンペにそんな気を揉まんやろ」
そうだったら良いなと思う。それはきっと紗奈の成長なのだと思うから。
手前に座っていた紗奈に影が射したのはその時だった。見上げると、淡いベージュのスーツをまとった痩身の男性が紗奈と畑中さんを見下ろしていた。
相手は立っていたのでそれは物理的な話だったが、その鋭利な目を見て、紗奈は(見下されとる……?)と感じ取った。しかしすぐさま、男性は顔に笑みを貼り付けた。
「宇垣デザイン事務所の方でしょうか」
物腰はあくまでも慇懃だった。だが紗奈はさっき見た男性の冷たい視線が忘れられなかった。
「はい、そうです」
畑中さんが応えて立ち上がる。紗奈も続いた。
「カギタニクリエイティブの鍵谷と申します。この度は胸をお借りします」
鍵谷と名乗った男性はあくまでも低姿勢だ。だが威圧感の様なものが滲み出ている感じがする。名刺を差し出して来たので、畑中さん、紗奈の順に交換した。
「畑中と申します。この度はよろしくお願いいたします」
「天野と申します。よろしくお願いいたします」
挨拶も終え、もう3人ですることは無くなった。だが鍵谷さんは席に着こうとはしなかった。
「お気になさらずご着席ください。私はこのまま矢田さまをお待ちしますので」
鍵谷さんはそう言って薄い笑みを浮かべた。紗奈と牧田さんは顔を合わせ、どちらとも無く腰を戻した。
鍵谷さんにとってはそうすることが矢田さんへの礼儀なのだろう。だがこうした場所でそうして待つことはお店にも迷惑が掛かるし、何よりあの矢田さんが望んでいるとは思えない。そう長い関わりでは無いが、矢田さんは恐縮してしまうと思うのだ。
その数分後、矢田さんが「お待たせしました」と現れた。紗奈と畑中さんは立ち上がり、頭を下げる。
「こんにちは。お世話になります」
「こんにちは」
「こんにちは。まぁまぁ、座ってください」
もう数回目になるので、矢田さんはすっかりと砕けたものだ。こちら側も少しばかり和やかな対応になっている。
鍵谷さんが矢田さんを上座の奥に促したので、矢田さんは「ありがとうございます」と言いながら奥に掛ける。その横に「失礼します」と鍵谷さんが腰を降ろした。
店員さんを呼んで、それぞれドリンクを注文する。紗奈はアイスティ、畑中さんはホットティ、矢田さんと鍵谷さんはホットコーヒーを頼んだ。
「ほな、さっそく見せてもらいましょか。まずは鍵谷さんから」
「はい」
鍵谷さんは傍らのビジネスバッグから茶封筒を取り出し、中から紙片を出した。それを両手で「どうぞ」と矢田さんに差し出した。
仕上がりははがきなので小さいのだが、鍵谷さんが出したものはふた回りほど大きな白いケント紙だった。ケント紙にプリントしたのか、それともプリントアウトを貼り付けているのか、紗奈の位置からは見えなかった。
「はい。拝見します」
そうしてカンプを見る矢田さんを見つめる鍵谷さんの顔には、自信がみなぎっていた。自分が作るものが絶対だと言う様な。紗奈もこれぐらいで無ければいけないのだろうか。
だが尊大さが見え隠れする様で、どうにも良い印象を受けない。競合相手だからそう思ってしまうのだろうか。どちらにしても良い感情では無い。紗奈は人に悪感情を持ってしまう自分自身に嫌気が差してしまった。
その途中で店員さんがドリンクを運んで来る。鍵谷さんだけがホットコーヒーに口を付けた。
ややあって、「はい」と矢田さんがカンプをテーブルに置いた。その表情はにこやかで、お気に召したのだろうかと紗奈は不安になる。ちらりと見ると、鍵谷さんのカンプはケント紙に直接プリントをしたものの様だった。
「じゃあ次、天野さんお願いします」
「は、はい!」
応える紗奈の声は上擦っていた。緊張が表に出てしまっている。いけない。正面で鍵谷さんがいやらしく苦笑するのが目に入る。紗奈は落ち着け、と小さく深呼吸をした。
手元のクリアファイルからカンプを取り出す。プリントアウトしたものを裁ち切り線で切り落として完成品に近い形にし、黒いボードの中心に置き、上から透明のシートを被せて固定したものだ。
クライアントに仕上がりをイメージしてもらいやすい様に、初校はこうして見せている。特に今回はコンペなので、そうした手法が必要だった。
「よろしくお願いします……!」
頭を下げながらカンプボードを差し出すと、矢田さんは「はい」と受け取った。おずおずと顔を上げた紗奈はカンプを見る矢田さんを見つめる。
その時ふと横に座る鍵谷さんを見ると、蛇の様な目付きで紗奈を薄っすらと睨んでいた。紗奈はびくりと肩を震わす。まるで睨まれた蛙になったかの様な。
……いや、違う。自分はマングースだ。蛇と互角に戦うのだ。紗奈は心を持ち直す。だが睨み返したりはしない。そのまま視線を矢田さんに戻した。
矢田さんは穏やかな顔で紗奈のカンプを見ている。小さく頷き、次にテーブルに置いた鍵谷さんのカンプに目をやった。そして2枚のカンプをテーブルの上に並べる。
「天野さん」
「は、はい」
また声が跳ね上がってしまう。緊張はなかなか解けてくれなかった。紗奈は固くなったまま矢田さんの沙汰を待つ。
「このDMはもちろん、これからも天野さんと畑中さん、宇垣デザイン事務所さんにお願いしようと思います」
矢田さんがゆったりと言うと、張り詰めていた紗奈の身体から力が抜けた。心底安堵すると目を見開き、口がぽかんと開いてしまう。
「ほ、本当ですか?」
どうにか絞り出した声が震えている。思わず横の畑中さんを見ると、満足げな表情で小さく頷いてくれた。
紗奈と畑中さんは15分前、10時45分ごろに着く様に事務所を出た。お陰でいちばん乗りできた様だ。矢田さんをお待たせするのはもちろん、競合相手より遅くなることも避けたかった。こんなことで主導権が握れるとは思っていないが、少しでもこちらの不利になる様なことは除いておきたかったのだ。
紗奈と畑中さんは下座に並んで腰掛けていた。テーブルにはカンプを挟んだクリアファイルと数本のペン、名刺入れを出している。
紗奈は俯いて、「ふぅー……」と細い息を吐き出した。
「天野さん、緊張してる?」
「はい……、コンペのお話を聞いてから心が休まらなくて」
どうにかこうにか心に喝を入れながら他の仕事にも取り掛かって来たが、いつでもコンペのことが頭の片隅に居座っていた。
選んでもらえなかったらどうしよう、競合相手のデザインが紗奈のものと比べ物にならないほどに素晴らしく、そちらが採用されてしまったらどうしよう、そんなことばかりが頭を巡るのだ。
本当に、社会人になってからすっかりと弱気になってしまったなと参ってしまう。学生のころは能天気でいられた。授業や課題で巧く行かないこともあったし、就職活動をしている時にはなかなか決まらず焦ったが、それでもこんなに思い悩む様なことは無かった。
これが責任を負うということなのだろうか。幸い胃薬などのお世話になる様なことは無かったが、それでもふとあれば憂鬱な気分に襲われていた。
「天野さんは、責任感が強いんかも知れんね」
「そう、なんでしょうか」
「多分な。でなかったら、出来レースや言うコンペにそんな気を揉まんやろ」
そうだったら良いなと思う。それはきっと紗奈の成長なのだと思うから。
手前に座っていた紗奈に影が射したのはその時だった。見上げると、淡いベージュのスーツをまとった痩身の男性が紗奈と畑中さんを見下ろしていた。
相手は立っていたのでそれは物理的な話だったが、その鋭利な目を見て、紗奈は(見下されとる……?)と感じ取った。しかしすぐさま、男性は顔に笑みを貼り付けた。
「宇垣デザイン事務所の方でしょうか」
物腰はあくまでも慇懃だった。だが紗奈はさっき見た男性の冷たい視線が忘れられなかった。
「はい、そうです」
畑中さんが応えて立ち上がる。紗奈も続いた。
「カギタニクリエイティブの鍵谷と申します。この度は胸をお借りします」
鍵谷と名乗った男性はあくまでも低姿勢だ。だが威圧感の様なものが滲み出ている感じがする。名刺を差し出して来たので、畑中さん、紗奈の順に交換した。
「畑中と申します。この度はよろしくお願いいたします」
「天野と申します。よろしくお願いいたします」
挨拶も終え、もう3人ですることは無くなった。だが鍵谷さんは席に着こうとはしなかった。
「お気になさらずご着席ください。私はこのまま矢田さまをお待ちしますので」
鍵谷さんはそう言って薄い笑みを浮かべた。紗奈と牧田さんは顔を合わせ、どちらとも無く腰を戻した。
鍵谷さんにとってはそうすることが矢田さんへの礼儀なのだろう。だがこうした場所でそうして待つことはお店にも迷惑が掛かるし、何よりあの矢田さんが望んでいるとは思えない。そう長い関わりでは無いが、矢田さんは恐縮してしまうと思うのだ。
その数分後、矢田さんが「お待たせしました」と現れた。紗奈と畑中さんは立ち上がり、頭を下げる。
「こんにちは。お世話になります」
「こんにちは」
「こんにちは。まぁまぁ、座ってください」
もう数回目になるので、矢田さんはすっかりと砕けたものだ。こちら側も少しばかり和やかな対応になっている。
鍵谷さんが矢田さんを上座の奥に促したので、矢田さんは「ありがとうございます」と言いながら奥に掛ける。その横に「失礼します」と鍵谷さんが腰を降ろした。
店員さんを呼んで、それぞれドリンクを注文する。紗奈はアイスティ、畑中さんはホットティ、矢田さんと鍵谷さんはホットコーヒーを頼んだ。
「ほな、さっそく見せてもらいましょか。まずは鍵谷さんから」
「はい」
鍵谷さんは傍らのビジネスバッグから茶封筒を取り出し、中から紙片を出した。それを両手で「どうぞ」と矢田さんに差し出した。
仕上がりははがきなので小さいのだが、鍵谷さんが出したものはふた回りほど大きな白いケント紙だった。ケント紙にプリントしたのか、それともプリントアウトを貼り付けているのか、紗奈の位置からは見えなかった。
「はい。拝見します」
そうしてカンプを見る矢田さんを見つめる鍵谷さんの顔には、自信がみなぎっていた。自分が作るものが絶対だと言う様な。紗奈もこれぐらいで無ければいけないのだろうか。
だが尊大さが見え隠れする様で、どうにも良い印象を受けない。競合相手だからそう思ってしまうのだろうか。どちらにしても良い感情では無い。紗奈は人に悪感情を持ってしまう自分自身に嫌気が差してしまった。
その途中で店員さんがドリンクを運んで来る。鍵谷さんだけがホットコーヒーに口を付けた。
ややあって、「はい」と矢田さんがカンプをテーブルに置いた。その表情はにこやかで、お気に召したのだろうかと紗奈は不安になる。ちらりと見ると、鍵谷さんのカンプはケント紙に直接プリントをしたものの様だった。
「じゃあ次、天野さんお願いします」
「は、はい!」
応える紗奈の声は上擦っていた。緊張が表に出てしまっている。いけない。正面で鍵谷さんがいやらしく苦笑するのが目に入る。紗奈は落ち着け、と小さく深呼吸をした。
手元のクリアファイルからカンプを取り出す。プリントアウトしたものを裁ち切り線で切り落として完成品に近い形にし、黒いボードの中心に置き、上から透明のシートを被せて固定したものだ。
クライアントに仕上がりをイメージしてもらいやすい様に、初校はこうして見せている。特に今回はコンペなので、そうした手法が必要だった。
「よろしくお願いします……!」
頭を下げながらカンプボードを差し出すと、矢田さんは「はい」と受け取った。おずおずと顔を上げた紗奈はカンプを見る矢田さんを見つめる。
その時ふと横に座る鍵谷さんを見ると、蛇の様な目付きで紗奈を薄っすらと睨んでいた。紗奈はびくりと肩を震わす。まるで睨まれた蛙になったかの様な。
……いや、違う。自分はマングースだ。蛇と互角に戦うのだ。紗奈は心を持ち直す。だが睨み返したりはしない。そのまま視線を矢田さんに戻した。
矢田さんは穏やかな顔で紗奈のカンプを見ている。小さく頷き、次にテーブルに置いた鍵谷さんのカンプに目をやった。そして2枚のカンプをテーブルの上に並べる。
「天野さん」
「は、はい」
また声が跳ね上がってしまう。緊張はなかなか解けてくれなかった。紗奈は固くなったまま矢田さんの沙汰を待つ。
「このDMはもちろん、これからも天野さんと畑中さん、宇垣デザイン事務所さんにお願いしようと思います」
矢田さんがゆったりと言うと、張り詰めていた紗奈の身体から力が抜けた。心底安堵すると目を見開き、口がぽかんと開いてしまう。
「ほ、本当ですか?」
どうにか絞り出した声が震えている。思わず横の畑中さんを見ると、満足げな表情で小さく頷いてくれた。
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