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1章 碧、前職で奮闘する
第6話 残念で、でもおめでたくて
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「とくら食堂」で朝ごはんを食べ終え、碧は大阪メトロ御堂筋線に乗って、勤め先の「さつき亭」淀屋橋店に到着する。
厨房で働く碧は、ロッカールームで白いコックコートに着替え、開店準備のためにさらにダークグリーンの胸当てエプロンを着ける。このエプロンはフロアスタッフが着けているものと同じだ。
フロアスタッフの制服は、男女ともに白とダークグリーンが基調になっている。白いシャツとダークグリーンのボトムとエプロンである。デザイン性が高いとは言えないが、主役はお料理なのだし、邪魔にならず動きやすいデザイン性が重要なのだと思う。
フロアに出ると、すでに制服に着替えた琴平店長がレジを開けていた。
「琴平店長、おはようございます」
「おはよう、都倉さん」
碧はフロアをきょろきょろと見渡す。いつも張り切って、碧より先にきている山原さんの姿が無い。昨日の今日で来づらいのだろうか。そう思ったのだが。
「都倉さん、みんなには朝礼のときに言うけど、山原くん、退職したから」
「……そうですか」
いちばん最悪な結末である。そこまで思い詰めてしまったのかと思うと、もっと他にやり方があったのでは、と感じてしまう。
ただ、発端となったのは、やはり山原さんの性格なのである。琴平店長は配慮していた。それが届かなかったのだ。だがそれを致し方ないとしてしまうのは、店長としてはきっと駄目なのだ。
どうするのがスタッフのためになるのか、この店舗のためになるのか、常に心に置いておかねばならない。来年2月からは碧がそれを担うのだ。肝に銘じなければ。
「来年までには他店から社員にきてもらえる様に、本部に申請してるから。それと、都倉さんは社員やから伝えとくね。山原くんね、退職代行使って退職届出してきたんよ」
「……なるほどです。それほど気まずかったんでしょうねぇ」
「まぁ、昨日のあれはさすがにねぇ。しゃあないわな」
琴平店長は小さくため息を吐いた。
アルバイトさんやパートさんならともかく、社員であるなら退職の意を伝えるのは、最低でも1ヶ月前である。社員は換えの効かない役割のことも多く、場合によっては他店舗からの補充なども必要になってくる。
そんな常識をすっ飛ばしてしまうほど、山原さんはショックを受けたということだ。愛着のある店舗から一転、見たくも無い場所へと変貌してしまった。
その心情を思うと気の毒だとも思うのだが、碧にはどうしようも無いことだった。一生懸命やっていたお仕事を腰掛けと、踏み台と罵られ、無視され、取りつく島も無かったのだから。
こういうときの切り替えも大事だと、碧は気合を入れる。テーブルの上に逆さまにして上げられている椅子を持ち上げ、ひとつひとつ、丁寧かつ素早く、下に降ろしていった。
そして朝礼で、山原さんの退職がスタッフに告げられた。
その場はざわつく。朝のシフトのアルバイトさんやパートさんは、昨日の終業時にはいない人ばかりだったので、昨日のできごとは知らない。だから琴平店長も「一身上の都合で」にとどめる。
山原さんが店長になりたがっていたのはみんなが知っていたので、スタッフたちは揃って怪訝な表情で首を傾げていた。その中にはベテランパートの秋田さんも含まれている。「あらまぁ」なんて言いながら目を丸くしていた。
それでも開店時間の11時になるので、スタッフはそれぞれ持ち場に向かった。碧も厨房に入る。
しかしいきなり揚げ場の山原さんが辞めたということは、その穴を埋めるのはオールラウンダーでもある琴平店長になる。アイドルタイムになれば碧が兼任できるが、ピークタイムは琴平店長と秋田さんの3人で回すことになる。
揚げ場の社員が移動してくるまで、琴平店長は激務になるだろう。碧もできる限りフォローをしなくては。そう思って、また気合を入れた。
そして訪れた、翌年1月末日。この日を境に琴平店長は産休と育休に入る。ふんわりとしたエプロンのおかげもあるのか、お腹はあまり目立っていない。今は確か、妊娠5ヶ月ぐらいのはずだ。
この「さつき亭」は女性スタッフも多いことがあって、女性の事情に手厚い。なので産休育休も任意の期間、取得することができる。琴平店長はあまりお腹が目立ってしまうと動きづらくなるからと、このタイミングでの産休なのだ。
「琴平店長も赤ちゃんも、ぜひお元気でおってくださいね」
業務が終わり、スタッフみんなが集まった場で碧が言うと、琴平店長は「ありがとう」と晴れやかな笑顔を浮かべた。
「わたし、絶対に戻ってくるから。子どものこともあるから、パートになる可能性もあるけど、ここが好きやし、仕事も好きなんよ」
「もちろんお待ちしてます。またお会いできるのを楽しみにしてます」
そう言ったのは、1月早々に他店から移動してきた社員の田所さん。12月の1ヶ月足らずは琴平店長と碧の社員ふたり体制で乗り越え、やっと田所さんを迎え、今は揚げ場に入ってもらっている。
田所さんは綺麗な黒のロングヘアで、お仕事中は襟足でひとつに結っている。背が高いのだが丸みを帯びた童顔である。可愛らしい印象の女性だ。
「琴平店長、お祝いなんですけど、お身体があれなんで、お家にお送りさせてもらいますね。洋菓子を予定してます」
妊婦さんに重たいものやかさばるものを持たすわけにはいかない。
「あら、ありがとう!」
住所は、本社に事情を話して、碧だけにという条件で教えてもらっていた。退職などの理由がおめでたいことの場合、有志でお金を集めてプレゼントをしているのだ。
以前、碧が入社する前などは、お花が恒例だったと秋田さんに聞いた。だがお花は好みが分かれるし、香りが苦手な人もいる。なのでここ数年、その人の好きなものを予算内でプレゼントする様になったそうだ。
琴平店長は洋菓子好きの甘党なので、洋菓子の詰め合わせに決めた。通販で、あまり大阪では手に入らないものをセレクトできたらと思っている。
「みんな、ほんまにありがとう。絶対元気な子が生まれる気しかせんわ」
琴平店長はそう言って、幸せそうな柔らかな笑みを浮かべたのだった。
厨房で働く碧は、ロッカールームで白いコックコートに着替え、開店準備のためにさらにダークグリーンの胸当てエプロンを着ける。このエプロンはフロアスタッフが着けているものと同じだ。
フロアスタッフの制服は、男女ともに白とダークグリーンが基調になっている。白いシャツとダークグリーンのボトムとエプロンである。デザイン性が高いとは言えないが、主役はお料理なのだし、邪魔にならず動きやすいデザイン性が重要なのだと思う。
フロアに出ると、すでに制服に着替えた琴平店長がレジを開けていた。
「琴平店長、おはようございます」
「おはよう、都倉さん」
碧はフロアをきょろきょろと見渡す。いつも張り切って、碧より先にきている山原さんの姿が無い。昨日の今日で来づらいのだろうか。そう思ったのだが。
「都倉さん、みんなには朝礼のときに言うけど、山原くん、退職したから」
「……そうですか」
いちばん最悪な結末である。そこまで思い詰めてしまったのかと思うと、もっと他にやり方があったのでは、と感じてしまう。
ただ、発端となったのは、やはり山原さんの性格なのである。琴平店長は配慮していた。それが届かなかったのだ。だがそれを致し方ないとしてしまうのは、店長としてはきっと駄目なのだ。
どうするのがスタッフのためになるのか、この店舗のためになるのか、常に心に置いておかねばならない。来年2月からは碧がそれを担うのだ。肝に銘じなければ。
「来年までには他店から社員にきてもらえる様に、本部に申請してるから。それと、都倉さんは社員やから伝えとくね。山原くんね、退職代行使って退職届出してきたんよ」
「……なるほどです。それほど気まずかったんでしょうねぇ」
「まぁ、昨日のあれはさすがにねぇ。しゃあないわな」
琴平店長は小さくため息を吐いた。
アルバイトさんやパートさんならともかく、社員であるなら退職の意を伝えるのは、最低でも1ヶ月前である。社員は換えの効かない役割のことも多く、場合によっては他店舗からの補充なども必要になってくる。
そんな常識をすっ飛ばしてしまうほど、山原さんはショックを受けたということだ。愛着のある店舗から一転、見たくも無い場所へと変貌してしまった。
その心情を思うと気の毒だとも思うのだが、碧にはどうしようも無いことだった。一生懸命やっていたお仕事を腰掛けと、踏み台と罵られ、無視され、取りつく島も無かったのだから。
こういうときの切り替えも大事だと、碧は気合を入れる。テーブルの上に逆さまにして上げられている椅子を持ち上げ、ひとつひとつ、丁寧かつ素早く、下に降ろしていった。
そして朝礼で、山原さんの退職がスタッフに告げられた。
その場はざわつく。朝のシフトのアルバイトさんやパートさんは、昨日の終業時にはいない人ばかりだったので、昨日のできごとは知らない。だから琴平店長も「一身上の都合で」にとどめる。
山原さんが店長になりたがっていたのはみんなが知っていたので、スタッフたちは揃って怪訝な表情で首を傾げていた。その中にはベテランパートの秋田さんも含まれている。「あらまぁ」なんて言いながら目を丸くしていた。
それでも開店時間の11時になるので、スタッフはそれぞれ持ち場に向かった。碧も厨房に入る。
しかしいきなり揚げ場の山原さんが辞めたということは、その穴を埋めるのはオールラウンダーでもある琴平店長になる。アイドルタイムになれば碧が兼任できるが、ピークタイムは琴平店長と秋田さんの3人で回すことになる。
揚げ場の社員が移動してくるまで、琴平店長は激務になるだろう。碧もできる限りフォローをしなくては。そう思って、また気合を入れた。
そして訪れた、翌年1月末日。この日を境に琴平店長は産休と育休に入る。ふんわりとしたエプロンのおかげもあるのか、お腹はあまり目立っていない。今は確か、妊娠5ヶ月ぐらいのはずだ。
この「さつき亭」は女性スタッフも多いことがあって、女性の事情に手厚い。なので産休育休も任意の期間、取得することができる。琴平店長はあまりお腹が目立ってしまうと動きづらくなるからと、このタイミングでの産休なのだ。
「琴平店長も赤ちゃんも、ぜひお元気でおってくださいね」
業務が終わり、スタッフみんなが集まった場で碧が言うと、琴平店長は「ありがとう」と晴れやかな笑顔を浮かべた。
「わたし、絶対に戻ってくるから。子どものこともあるから、パートになる可能性もあるけど、ここが好きやし、仕事も好きなんよ」
「もちろんお待ちしてます。またお会いできるのを楽しみにしてます」
そう言ったのは、1月早々に他店から移動してきた社員の田所さん。12月の1ヶ月足らずは琴平店長と碧の社員ふたり体制で乗り越え、やっと田所さんを迎え、今は揚げ場に入ってもらっている。
田所さんは綺麗な黒のロングヘアで、お仕事中は襟足でひとつに結っている。背が高いのだが丸みを帯びた童顔である。可愛らしい印象の女性だ。
「琴平店長、お祝いなんですけど、お身体があれなんで、お家にお送りさせてもらいますね。洋菓子を予定してます」
妊婦さんに重たいものやかさばるものを持たすわけにはいかない。
「あら、ありがとう!」
住所は、本社に事情を話して、碧だけにという条件で教えてもらっていた。退職などの理由がおめでたいことの場合、有志でお金を集めてプレゼントをしているのだ。
以前、碧が入社する前などは、お花が恒例だったと秋田さんに聞いた。だがお花は好みが分かれるし、香りが苦手な人もいる。なのでここ数年、その人の好きなものを予算内でプレゼントする様になったそうだ。
琴平店長は洋菓子好きの甘党なので、洋菓子の詰め合わせに決めた。通販で、あまり大阪では手に入らないものをセレクトできたらと思っている。
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