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3章 意図せぬ負の遺産
第14話 その先にあるもの
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「……お父さん」
守梨の口が自然にそう形作る。息が漏れただけで、声にはならなかった。
だがそれはほんの数秒。お父さんの後ろ姿は、すぐにどこかにワープしたかの様にかき消えた。
「おやっさん、まさか」
祐ちゃんが呆然と呟く。守梨が祐ちゃんの腕を掻き分けて前に出ると、やはりもうお父さんは影も形も無くなっていた。その代わり、梨本が床に尻餅を付いて呻いていた。
「っ、榊原さん!」
いち早く我に返った祐ちゃんが、守梨を後ろ手に庇いながら叫ぶ。その声に反応したのは榊原さん……では無く、杏沙子さんだった。梨本に跨がり、腕を掴んだかと思うと身体をひっくり返してうつ伏せにし、両腕をまとめて上にねじり上げた。
「痛ぇ!」
「暴行未遂の現行犯で逮捕! つか、一体何があったんや!」
お父さんが、助けてくれた。
それが守梨の認識だった。お父さんが実体化して、飛びかかって来る梨本を弾き飛ばしてくれた。
だが榊原さんと杏沙子さんからは、何もされていない梨本が突然吹っ飛んだ様に見えただろう。だから驚いて反応が遅れたのだ。
「克人くん、警察に電話!」
「あ、ああ」
杏沙子さんに言われ、榊原さんは慌ててスマートフォンを取り出した。克人は榊原さんの下の名前である。確かもらった名刺にもそう印刷されていた。
「もしもし、榊原です」
榊原さんが電話をする声に混じって、祐ちゃんの呟きが守梨の耳に届いた。
「おやっさん、無茶して……」
苦しげな声に聞こえた。それは明らかな独り言だったので、守梨は気になりながらも追求するのは止めておいた。嫌な予感がしたからだ。それを聞きたく無かったからだ。こういうものは、不安が大きければ大きいほど、当たってしまうものなのである。
数10分後、サイレンを鳴らしながらパトカーが「テリア」の前に到着する。来てくれたのは、ガラスの件の時の警察官ふたりだった。
「ほら! さっさと歩く!」
「うるせぇな! 何やねん、放せや!」
杏沙子さんに腕を押さえ付けられたまま、梨本は足掻く。だが杏沙子さんはどこからそんな力が出ているのか、解ける気配もしなかった。
「あとはよろしくお願いします」
杏沙子さんが警察官に梨本を引き渡すと、梨本はその手に手錠を掛けられ、覆面パトカーの後部座席に押し込められた。そしてパトカーは去って行った。
「杏沙子さんは、元々僕の同僚やったんです。僕と結婚して、僕とのすれ違いを避けるために、事務方に移ってくれて。せやからあの腕っ節なんです」
「そうなんですか。道理で」
榊原さんのせりふに、守梨は納得する。見事な身のこなしだった。現場に現役で出ている榊原さんより俊敏だった。きっと当時はとても腕の立つ警察官だったのだろう。
「お嬢さん、原口くん、おふたりは当事者になりますから、警察の事情聴取を受けてもらわなあきません。面倒やと思いますけど、明日の朝にでも住吉警察署に出向いてもらえませんか。僕も出勤してますんで」
「分かりました。祐ちゃん午前休とか取れる?」
「大丈夫やと思う。事情が事情やし」
祐ちゃんが頷いた時、杏沙子さんが「あー、動いたらお腹空いた!」と明るい声を上げた。するとその場に満ちていた緊張感がぱぁっと晴れた。
「ごはんの続き、食べよ! ほらほら!」
杏沙子さんに追い立てられる様に「テリア」に入り、冷蔵庫に入れてあった残りを堪能し、後片付けまでしてくれて、榊原さんご夫妻は爽やかに帰って行った。
杏沙子さんは空気を読まない様で、実はその場を慮ってくれていた。だからこそ明るさを取り戻せたのだ。
もう大丈夫。梨本という脅威は去った。もう何も心配しなくて良いのだ。守梨は心から安堵して、食事の続きを楽しんだのだった。
「テリア」の掃除を済ませ、守梨は両親の気配を感じるフロアで声を上げた。
「お父さん、助けてくれて、ほんまにありがとう」
あの時、お父さんが梨本を跳ね返してくれなければ、守梨はともかく祐ちゃんはどうなっていたか。考えただけでぞっとする。
「おやっさん、ありがとう。けど」
祐ちゃんも続くが、言い淀む様に口を閉ざす。辛そうな表情で目を伏せた。その意味を守梨は知りたく無いと思った。
「無茶して」
先ほどの祐ちゃんのせりふと繋がるのだろうから。
守梨は知りたくないと思いつつ、何となく想像ができてしまって、きゅっと閉じた眸がじわりと潤んだ。
上に上がった守梨と祐ちゃんは、コーヒーを煎れてリビングのソファに並んで座る。
祐ちゃんと話したいことは山ほどあった。だがまずは、これだけは。
「祐ちゃん、あの時、梨本さんに襲われそうになった時、お父さんの姿が見えた」
「ああ」
「何で? お父さん、人に姿見せることができたん?」
「普通はできひん。ほんまは、……やらん方がええんや。けどおやっさんは守梨を守りたくて、必死にならはったんやろう」
「無茶した、ってことやねんな」
「そうや」
「そっか」
その「無茶」が何をもたらすのか。守梨には分からない。想像ぐらいしかできない。だが知りたく無かった。今は、まだ。
だから守梨は何も気付いていない振りをして、明るく振る舞う。
「お父さんが助けてくれて嬉しかった! 今日は祐ちゃんのお料理も褒めてもろて、梨本も連れてかれて、ええ日やね」
「そうやな」
祐ちゃんはほっとした様に、表情を綻ばせた。
守梨の口が自然にそう形作る。息が漏れただけで、声にはならなかった。
だがそれはほんの数秒。お父さんの後ろ姿は、すぐにどこかにワープしたかの様にかき消えた。
「おやっさん、まさか」
祐ちゃんが呆然と呟く。守梨が祐ちゃんの腕を掻き分けて前に出ると、やはりもうお父さんは影も形も無くなっていた。その代わり、梨本が床に尻餅を付いて呻いていた。
「っ、榊原さん!」
いち早く我に返った祐ちゃんが、守梨を後ろ手に庇いながら叫ぶ。その声に反応したのは榊原さん……では無く、杏沙子さんだった。梨本に跨がり、腕を掴んだかと思うと身体をひっくり返してうつ伏せにし、両腕をまとめて上にねじり上げた。
「痛ぇ!」
「暴行未遂の現行犯で逮捕! つか、一体何があったんや!」
お父さんが、助けてくれた。
それが守梨の認識だった。お父さんが実体化して、飛びかかって来る梨本を弾き飛ばしてくれた。
だが榊原さんと杏沙子さんからは、何もされていない梨本が突然吹っ飛んだ様に見えただろう。だから驚いて反応が遅れたのだ。
「克人くん、警察に電話!」
「あ、ああ」
杏沙子さんに言われ、榊原さんは慌ててスマートフォンを取り出した。克人は榊原さんの下の名前である。確かもらった名刺にもそう印刷されていた。
「もしもし、榊原です」
榊原さんが電話をする声に混じって、祐ちゃんの呟きが守梨の耳に届いた。
「おやっさん、無茶して……」
苦しげな声に聞こえた。それは明らかな独り言だったので、守梨は気になりながらも追求するのは止めておいた。嫌な予感がしたからだ。それを聞きたく無かったからだ。こういうものは、不安が大きければ大きいほど、当たってしまうものなのである。
数10分後、サイレンを鳴らしながらパトカーが「テリア」の前に到着する。来てくれたのは、ガラスの件の時の警察官ふたりだった。
「ほら! さっさと歩く!」
「うるせぇな! 何やねん、放せや!」
杏沙子さんに腕を押さえ付けられたまま、梨本は足掻く。だが杏沙子さんはどこからそんな力が出ているのか、解ける気配もしなかった。
「あとはよろしくお願いします」
杏沙子さんが警察官に梨本を引き渡すと、梨本はその手に手錠を掛けられ、覆面パトカーの後部座席に押し込められた。そしてパトカーは去って行った。
「杏沙子さんは、元々僕の同僚やったんです。僕と結婚して、僕とのすれ違いを避けるために、事務方に移ってくれて。せやからあの腕っ節なんです」
「そうなんですか。道理で」
榊原さんのせりふに、守梨は納得する。見事な身のこなしだった。現場に現役で出ている榊原さんより俊敏だった。きっと当時はとても腕の立つ警察官だったのだろう。
「お嬢さん、原口くん、おふたりは当事者になりますから、警察の事情聴取を受けてもらわなあきません。面倒やと思いますけど、明日の朝にでも住吉警察署に出向いてもらえませんか。僕も出勤してますんで」
「分かりました。祐ちゃん午前休とか取れる?」
「大丈夫やと思う。事情が事情やし」
祐ちゃんが頷いた時、杏沙子さんが「あー、動いたらお腹空いた!」と明るい声を上げた。するとその場に満ちていた緊張感がぱぁっと晴れた。
「ごはんの続き、食べよ! ほらほら!」
杏沙子さんに追い立てられる様に「テリア」に入り、冷蔵庫に入れてあった残りを堪能し、後片付けまでしてくれて、榊原さんご夫妻は爽やかに帰って行った。
杏沙子さんは空気を読まない様で、実はその場を慮ってくれていた。だからこそ明るさを取り戻せたのだ。
もう大丈夫。梨本という脅威は去った。もう何も心配しなくて良いのだ。守梨は心から安堵して、食事の続きを楽しんだのだった。
「テリア」の掃除を済ませ、守梨は両親の気配を感じるフロアで声を上げた。
「お父さん、助けてくれて、ほんまにありがとう」
あの時、お父さんが梨本を跳ね返してくれなければ、守梨はともかく祐ちゃんはどうなっていたか。考えただけでぞっとする。
「おやっさん、ありがとう。けど」
祐ちゃんも続くが、言い淀む様に口を閉ざす。辛そうな表情で目を伏せた。その意味を守梨は知りたく無いと思った。
「無茶して」
先ほどの祐ちゃんのせりふと繋がるのだろうから。
守梨は知りたくないと思いつつ、何となく想像ができてしまって、きゅっと閉じた眸がじわりと潤んだ。
上に上がった守梨と祐ちゃんは、コーヒーを煎れてリビングのソファに並んで座る。
祐ちゃんと話したいことは山ほどあった。だがまずは、これだけは。
「祐ちゃん、あの時、梨本さんに襲われそうになった時、お父さんの姿が見えた」
「ああ」
「何で? お父さん、人に姿見せることができたん?」
「普通はできひん。ほんまは、……やらん方がええんや。けどおやっさんは守梨を守りたくて、必死にならはったんやろう」
「無茶した、ってことやねんな」
「そうや」
「そっか」
その「無茶」が何をもたらすのか。守梨には分からない。想像ぐらいしかできない。だが知りたく無かった。今は、まだ。
だから守梨は何も気付いていない振りをして、明るく振る舞う。
「お父さんが助けてくれて嬉しかった! 今日は祐ちゃんのお料理も褒めてもろて、梨本も連れてかれて、ええ日やね」
「そうやな」
祐ちゃんはほっとした様に、表情を綻ばせた。
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