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1章 新世界でお店を開くために
第3話 お酒が苦手な理由
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由祐は荷物なども全て持ってきていたので、門脇さんとは「用事があるので」と通天閣のふもとで別れ、すぐにさっきの店舗にとって返した。気持ちがはやってしまって、つい早歩きをしてしまう。今日は平日だが観光客などの人通りも多く、走れば迷惑を掛けかねない。
店舗からはそう離れていなかったので、すぐに到着する。鍵はさっき出るときに門脇さんがしっかりと掛けていたので、中には入れない。なので戻ってきたことを知らせるために、開き戸をノックした。
するとがちゃりがちゃりと、2ヶ所の鍵が開く音がした。これは入れということなのだろうか。あの大きなあやかしとたったひとりで対峙しなければならないのか。由祐はごくりと喉を鳴らす。
いや、さっきもひとりといえばひとりだった。門脇さんはあやかしが見えていなかったのだから。だが一緒にいてくれるだけで、心強さがかなり違う。不思議なものだ。
だが、今は正真正銘ひとりだ。何かされたりしないだろうか。分からない。これまで見てきたあやかしは、由祐にはもちろん他の人間に対しても無関心だった。だから本当に見えるだけで関わったことが無いのだ。話し掛けられるなんて初めてのことだった。
ここまで急いで戻ってきたは良いが、いざとなったら由祐は尻込みしてしまっていた。大丈夫なのだろうか、無事に家に帰ることができるのだろうか。
すると。
「早よ入ってこんかい」
中から低音が届いた。由祐は深く深呼吸をして覚悟を決める。この新世界本通にももちろん人通りはあって、そんな人たちから今の由祐はどう映っているのか。しかし気にしている余裕は無い。由祐は緊張しつつも勇気を出して、恐る恐る開き戸を開いた。
当たり前だが、やはりさっきのあやかしは、さっきと同じ場所に座っていた。動いていないのだろうか。そうしたら鍵はどうやって開けたのか。そんな疑問が浮かぶが、聞く気概も無ければ雰囲気でも無い。
こちらを見ているあやかしの端正な顔が、まるでさっきの怒りが続いている様に小さく歪んでいた。キーワードはお酒だったと思う。このあやかしは、由祐がお酒を出さないお店をするのが許せない、そういうことなのだろうか。
しかし、実際にここを借りてお店をするのは由祐である。自分の好きにできる権利があるのでは無いか。しかしそんな理屈があやかしに通じるのかどうか。
とはいえ、さっきの門脇さんとの話では無いが、お酒を出さないで新世界で商売がつとまるのか、不安があるのは確かなのだ。
「女、お前、なんで酒が好きや無いんや」
あやかしの声は落ち着いていた。なので由祐の心も少しだけ凪ぐ。きちんと話ができそうだと思ったのだ。
「……わたし、母子家庭やったんですけど」
これは由祐の家族に関わる話である。だが聞かれて特に困る様な話でも無い。深雪ちゃんだって知ってることだ。深雪ちゃんは幼なじみなのだ。
「母は生活のために、夜のお仕事をしてたんです。なんばのラウンジ。母の話では、大学におるときにバイトから始めて、あ、成人してからですけど、それが向いとったみたいで、大学卒業したら本格的に働き始めて」
日曜日のラウンジがお休みの日以外は、毎晩お客さまの相手をして、お酒を飲んで。閉店は朝の5時で、自転車で当時ひとり暮らしをしていた大国町に帰る。
大国町駅はなんばから1駅で、物価などがお手頃で住みやすい街だ。そうした事情からか、若手お笑い芸人さんが多く暮らしていると聞く。十日えびすで賑わう今宮戎神社があるのもこの大国町である。
今でこそ酒気帯びでの自転車運転は罰金や懲役ものだが、当時は問題無かったのだ。由祐が30歳だから、それ以上も前のことだ。思えば良く事故などに遭わなかったものだ。
なので、由祐が学校に行くために目覚まし時計で起きたときには、お母さんは隣でぐっすりと眠っていた。お母さんはアラームぐらいでは起きなかった。
かすかに口を開いて眠るお母さんから吐き出されるのは、お酒くさい息。それは子どもには辛くて、由祐はつい顔をしかめてしまっていた。それが、由祐がお酒が苦手になった一因だった。
お母さんは決して遊んでいたわけでは無い。相手をするお客さまにだっていろいろな人がいて、嫌な目に遭わされたことだってきっとあるだろう。それでもお母さんは生活のために、由祐のために働いてくれていた。本当に感謝している。
それが分かっていても、やはりお酒の匂いは苦手だった。
だから由祐は大人になった今でもお酒は飲まないし、できるなら自分が経営するお店でお酒は扱いたく無いのだ。
それなら、それこそ「喫茶ドレミ」の様に純喫茶にすれば良いのだと思う。だが節約も兼ねて自炊をしているなかで、由祐が自分で納得できる味に作れ、そして作るのが楽しかったのが和食を始めとしたお惣菜だったのだ。
純喫茶で出す様なナポリタンやピラフなどだって作ることはできる。だがピラフはともかくパスタは作り置きが難しい。食材の下ごしらえは前もってできるし、パスタは早茹でタイプや水漬けパスタにすれば茹で時間は短くて済むが、やはり手間が掛かってしまうし、ひとりで切り盛りするのは困難だと思えた。
ちなみに水漬けパスタとは、乾麺状態のパスタを水に1時間から2時間漬けたもののことである。そうしておくとパスタが水分を吸い、茹でる時間が1分から2分に短縮されるのだ。
なので由祐は、作り置きができるどて焼きとお惣菜を用いて、定食屋をしようと思ったのだ。串かつやお酒を出さない飲食店が新世界で受け入れられるかどうかは、正直未知数である。それでも挑戦してみたい、そう強く思ったのだ。
「……そうか」
あやかしは静かに話を聞いてくれた。そして。
「食わず嫌いちゅうか、飲まず嫌いなわけや」
そう淡々と言う。その通りなので、劣勢を感じた由祐は下を向くしか無かった。
店舗からはそう離れていなかったので、すぐに到着する。鍵はさっき出るときに門脇さんがしっかりと掛けていたので、中には入れない。なので戻ってきたことを知らせるために、開き戸をノックした。
するとがちゃりがちゃりと、2ヶ所の鍵が開く音がした。これは入れということなのだろうか。あの大きなあやかしとたったひとりで対峙しなければならないのか。由祐はごくりと喉を鳴らす。
いや、さっきもひとりといえばひとりだった。門脇さんはあやかしが見えていなかったのだから。だが一緒にいてくれるだけで、心強さがかなり違う。不思議なものだ。
だが、今は正真正銘ひとりだ。何かされたりしないだろうか。分からない。これまで見てきたあやかしは、由祐にはもちろん他の人間に対しても無関心だった。だから本当に見えるだけで関わったことが無いのだ。話し掛けられるなんて初めてのことだった。
ここまで急いで戻ってきたは良いが、いざとなったら由祐は尻込みしてしまっていた。大丈夫なのだろうか、無事に家に帰ることができるのだろうか。
すると。
「早よ入ってこんかい」
中から低音が届いた。由祐は深く深呼吸をして覚悟を決める。この新世界本通にももちろん人通りはあって、そんな人たちから今の由祐はどう映っているのか。しかし気にしている余裕は無い。由祐は緊張しつつも勇気を出して、恐る恐る開き戸を開いた。
当たり前だが、やはりさっきのあやかしは、さっきと同じ場所に座っていた。動いていないのだろうか。そうしたら鍵はどうやって開けたのか。そんな疑問が浮かぶが、聞く気概も無ければ雰囲気でも無い。
こちらを見ているあやかしの端正な顔が、まるでさっきの怒りが続いている様に小さく歪んでいた。キーワードはお酒だったと思う。このあやかしは、由祐がお酒を出さないお店をするのが許せない、そういうことなのだろうか。
しかし、実際にここを借りてお店をするのは由祐である。自分の好きにできる権利があるのでは無いか。しかしそんな理屈があやかしに通じるのかどうか。
とはいえ、さっきの門脇さんとの話では無いが、お酒を出さないで新世界で商売がつとまるのか、不安があるのは確かなのだ。
「女、お前、なんで酒が好きや無いんや」
あやかしの声は落ち着いていた。なので由祐の心も少しだけ凪ぐ。きちんと話ができそうだと思ったのだ。
「……わたし、母子家庭やったんですけど」
これは由祐の家族に関わる話である。だが聞かれて特に困る様な話でも無い。深雪ちゃんだって知ってることだ。深雪ちゃんは幼なじみなのだ。
「母は生活のために、夜のお仕事をしてたんです。なんばのラウンジ。母の話では、大学におるときにバイトから始めて、あ、成人してからですけど、それが向いとったみたいで、大学卒業したら本格的に働き始めて」
日曜日のラウンジがお休みの日以外は、毎晩お客さまの相手をして、お酒を飲んで。閉店は朝の5時で、自転車で当時ひとり暮らしをしていた大国町に帰る。
大国町駅はなんばから1駅で、物価などがお手頃で住みやすい街だ。そうした事情からか、若手お笑い芸人さんが多く暮らしていると聞く。十日えびすで賑わう今宮戎神社があるのもこの大国町である。
今でこそ酒気帯びでの自転車運転は罰金や懲役ものだが、当時は問題無かったのだ。由祐が30歳だから、それ以上も前のことだ。思えば良く事故などに遭わなかったものだ。
なので、由祐が学校に行くために目覚まし時計で起きたときには、お母さんは隣でぐっすりと眠っていた。お母さんはアラームぐらいでは起きなかった。
かすかに口を開いて眠るお母さんから吐き出されるのは、お酒くさい息。それは子どもには辛くて、由祐はつい顔をしかめてしまっていた。それが、由祐がお酒が苦手になった一因だった。
お母さんは決して遊んでいたわけでは無い。相手をするお客さまにだっていろいろな人がいて、嫌な目に遭わされたことだってきっとあるだろう。それでもお母さんは生活のために、由祐のために働いてくれていた。本当に感謝している。
それが分かっていても、やはりお酒の匂いは苦手だった。
だから由祐は大人になった今でもお酒は飲まないし、できるなら自分が経営するお店でお酒は扱いたく無いのだ。
それなら、それこそ「喫茶ドレミ」の様に純喫茶にすれば良いのだと思う。だが節約も兼ねて自炊をしているなかで、由祐が自分で納得できる味に作れ、そして作るのが楽しかったのが和食を始めとしたお惣菜だったのだ。
純喫茶で出す様なナポリタンやピラフなどだって作ることはできる。だがピラフはともかくパスタは作り置きが難しい。食材の下ごしらえは前もってできるし、パスタは早茹でタイプや水漬けパスタにすれば茹で時間は短くて済むが、やはり手間が掛かってしまうし、ひとりで切り盛りするのは困難だと思えた。
ちなみに水漬けパスタとは、乾麺状態のパスタを水に1時間から2時間漬けたもののことである。そうしておくとパスタが水分を吸い、茹でる時間が1分から2分に短縮されるのだ。
なので由祐は、作り置きができるどて焼きとお惣菜を用いて、定食屋をしようと思ったのだ。串かつやお酒を出さない飲食店が新世界で受け入れられるかどうかは、正直未知数である。それでも挑戦してみたい、そう強く思ったのだ。
「……そうか」
あやかしは静かに話を聞いてくれた。そして。
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