滝川家の人びと

卯花月影

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1 織田家仕官

1-2 桑名

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 ――あの時、滝川家に起こったことを、忘れたことはない。

 あれは、まだ若かった日のこと。いまも、胸の奥にくすぶる炎のように。
 かつて、家の跡目は長兄が継ぐものと、誰もが疑わなかった。才もあり、器量もあり、何より家臣からの信望も厚かった。だがその兄が、病に倒れて帰らぬ人となったとき、家中に重く沈黙が流れた。
 遺されたのは、その忘れ形見――まだ十五にも満たぬ義太夫だけ。
 幼すぎる、と家中の声が上がる中、一益の父・一勝が、いったん家の指揮を執ることとなった。
 だが一勝もまた、翌年、流行病に倒れた。
 ――誰が家を継ぐのか。

 城内は再び混乱に包まれた。母・滝御前は、正統な血筋である義太夫に家督を継がせようと動いたが、そのとき、思いもよらぬ声が上がった。
「それがしよりも、久助様がよろしゅうございます」
 発したのは、幼い義太夫その人だった。
 誰もが目を見張り、母すらも言葉を失い、家臣たちも顔を見合わせた。
 だが義太夫は背筋を正し、武家の子らしく堂々と声を上げた。
「久助様は、それがしにとって父上のようなお方。いつも背を押し、叱り、導いてくださった。家を背負うなら、そのようなお方でなくてはなりませぬ」
 その言葉には、子どもとは思えぬ重みがあった。
 幼くして、誰よりも家のことを考え、己の立場を捨ててまで叔父を立てようとした――それが義太夫だった。
 その後も、義太夫はふざけてばかりに見える振る舞いをしていたが、実際は常に一益を気遣い、陰から支え続けた。

 ――ある年、重臣の子が不祥事を起こし、城から追放される話が出た。
 その子は、義太夫と年が近く、共に領内で育った仲だった。
 誰もが冷たく突き放す中、義太夫だけはそっとその子に米を持たせ、こう言ったという。
「わしが元服したら、また呼び戻す。だから、しっかり生きて戻ってこい」
 その話は、やがて風のように広がり、義太夫の優しさを称える声もあったが、多くはその甘さを指摘した。
(故に、将に五危あり)
 孫子は言う。将たる者には五つの危うさがあると――
 「必死」…考えが浅く、命知らずで突撃すれば自滅する。
 「必生」…命惜しさに戦えぬ者は、敵に捕らわれる。
 「怨速」…短気は挑発に乗り、策を見失う。
 「廉潔」…名誉にこだわる者は、裏をかかれる。
 そして、五つ目――
(愛民…)
 兵や民を愛しすぎる者は、情に引きずられ、判断を誤る。
 その優しさゆえに――大局を見失い、過ちを正すこともできず、結局は一族郎党を死地に追いやることとなる。
 一益は、その話を耳にしたとき、思わず目を伏せ、胸の奥にこみあげるものを覚えた。
 ――自分には持ち得ぬ、人を包む力。
 義太夫は、ひょうひょうとして、冗談を飛ばし、ふらふらしているようでいて、実のところ誰よりも人の心の機微に通じた男だった。
 だが、この戦乱の世においては、そうした優しさが、刃より鋭く人を傷つけることがある。
(あやつは、それを分かっておった……それ故に、わしに家督を譲った)
 あのときは気づかなかった。だが、今になればわかる。

 義太夫は、自らの甘さを悟っていたのだ。
 だからこそ、正統な跡継ぎでありながら、己を退き、叔父である一益を家の柱として立てた――ただ一言、
『久助様がよろしゅうございます』と。
「されど、義太夫……」
 一益は、思わずその名を口にしていた。
 口にした瞬間、風の中に懐かしい温もりがよみがえる。胸の奥が、ほのかに温かくなるのを感じた。
「おぬしが、わしを当主として選んでくれたあの時の目……忘れておらぬ」
 甥にして、かつての正統なる跡継ぎ。
 その者が、わしを信じて選んでくれた――ならば、その信に、必ずや応えねばならぬ。
 若葉が風にそよぎ、木洩れ日が一益の肩に降り注ぐ。
 その柔らかな光の中で、ふと義太夫の声がよみがえった。

「久助様、家を継いでくださったら、それがしは、遠くからでもずっと応援いたしますゆえ」
 それは冗談まじりの口調だった。
 だが、その言葉の奥にあった真心を、一益は忘れたことがなかった。
 ――家は、血で継ぐものではない。
 信で、継がれるものだ。
 一益は、唇を結び、そっと火縄銃に手を置いた。
 義太夫が背を押してくれたこの道を、決して見失うことはあるまい――と。
 吹き抜ける風が、一益の頬をかすめた。
 
――あの言葉を胸に刻んでから、幾年が過ぎただろう。
 風は変わり、季節は巡り、いま一益は義太夫とともに、伊勢の地を踏んでいた。
 伊勢の商業都市・桑名――。
 濃尾平野の北端、揖斐川・長良川・木曽川の三川が海に注ぎ込むこの地は、地理的な優位性から、室町の頃には日本有数の港湾都市として栄え、商人、旅人、馬借、廻船問屋らが絶えず行き交い、賑わいを見せていた。雨季には水害に悩まされることもあったが、そのぶん肥沃で温暖な土地柄でもあり、人が集まり、物が動き、金が巡る。
 この桑名からは、尾張の蟹江・津島・熱田へと向かう船も絶え間なく出ている。
 滝川一益と義太夫がこの地にたどり着いたのは、甲賀を飛び出してから三日目のことだった。
 流れ者、浪人――。
 名もない小舟のような身となってなお、一益にとっては、ここ桑名の景色は新鮮だった。
 町筋には香の煙が漂い、船宿の軒先には干した網と、威勢よい掛け声が交差している。旅籠の女将が桶を抱えて湯屋へ急ぎ、魚売りの少年が声を張り上げる。
 甲賀しか知らぬ一益にとって、この賑わいと熱気は、さながら別世界であった。
「……よいな」
 ぽつりと呟いた声は、どこか少年のようでもあった。
「左近様?」
 義太夫が振り向くと、一益は陽の下で目を細めながら町の通りを見つめていた。人々の暮らしの音に耳を澄まし、衣擦れの風に鼻をくすぐられ、何かを取り戻すように、ゆっくりと息を吐いている。
「わしはこの土地が気に入った」
 唐突に、そう言った。
 義太夫は思わず目を見開いた。
 ――変わった。
 甲賀にいたころの一益とは、明らかに違う。
 心を苛む者もなく、薄暗い石壁の陰で誰かに怯えることもなく、いま、一益の眼は水を得た魚のごとく輝いていた。
「いつかこの地を手に入れようぞ」
 一益はいつになく笑いながらそう言った。目の奥には、冗談ともつかぬ強い光が宿っていた。
「は、はっ」
 思わず義太夫は返事をしたものの――
 桑名を手中に収めるなど、今の一益では到底かなわぬ夢。国を捨てた身であり、兵も領地もない浪人である。
 だが、その言葉の奥には、不可能をも押し破らんとする、烈々たる意志が宿っていた。
 甲賀を呪い、裏切られ、血に塗れてなお、この男は立ち上がる。
 そして今、新たな風を胸に受けて、かつて見たことのない空を仰いでいる。

 朝の陽が水面を白く照らし、桑名の川港には荷を担ぐ人夫たちの声が響いていた。市中へ向かって意気揚々と歩いていた一益の前に、ふいに一人の侍が立ちはだかった。
「おぬし…滝川左近ではないか?」
 見知らぬ地で、名を呼ばれるとは思わなかった。一益はぎょっとして声の主へ目を向けた。
 だがその顔を見るなり、ふっと緊張がほどける。
「……おお、左京……」
 思わず懐かしげな声が漏れた。
 小太りで紅顔の男。愛嬌のある笑みを浮かべるその姿に、義太夫の眼が鋭く光った。
 服部左京進友貞――
 今やこの伊勢から尾張にかけて密貿易と私設水軍を牛耳る、いわば海賊大名のような存在である。願証寺の支援を受けて勢力を伸ばし、尾張の鯛之浦を本拠として砦を築き、堂々たる暮らしをしているという。
 左京は少年時代、甲賀に人質として預けられていた時期があり、一益とは竹馬の友であった。
「やはり、叔父御を斬って甲賀を飛び出したというは真であったか」
 左京が口元を歪めて笑う。
「…そんな噂が、もうここまで届いておるのか」
「おう。おぬしならやりかねぬと、皆そう申しておったわ」
 左京は愉快そうにカラカラと笑った。
 一益は少し口を開きかけたが、言葉に詰まる。――自分は左京を頼ってこの地に来たのではない。ただ、行き着いた先が、たまたまこの地だっただけだ。
「左京、わしは……」
 何かを言おうとしたその言葉を、左京が手を振って制した。
「よいよい。気にするでない。わしも、いずれはおぬしが現れると思うて待っておったわ」
 その言葉に、一益の眉がかすかに動いた。
「今はいらぬことを考えるな。まずは身体を休めい。……よいな?」
 その声には、かつてと変わらぬ親しみと、どこか老獪な思惑が混じっている。
 一益は黙って頷いた。
 そしてそのまま、左京の案内で、鯛之浦の砦へと向かった。

 鯛之浦の砦は桑名から向かって願証寺の本拠地長島の向こうにある。尾張との境――織田信長の影がすぐそこに感じられる場所だった。
 川と海が交わる入り江に面した砦は、規模こそ小さいが、守りは堅く、兵や水夫の動きも整っていた。願証寺の加護もあると見え、服部党の旗が潮風にはためいている。

 滝川一益と義太夫にあてがわれたのは、砦の中でも客将に用意される上等な一室だった。
 床は磨かれ、障子には破れ一つなく、窓を開ければ、遠く尾張の平野が霞んで見える。甲賀の山里とはまるで違う風景。
 一益は障子を少し開け、外をちらと眺めて、大きなあくびをした。
「退屈じゃのう」
 呟く声に、義太夫は何も返さず、ただ湯を煮立てる音だけが部屋に響いていた。

 服部左京に連れられて砦へ来た最初の一、二日は、それこそ極楽のようだった。
 ――叔父を斬り、夜半に滝城を抜け、すみれを失い、甲賀に火を放って――
 そのまま土山を越え、鈴鹿峠をひた走って伊勢路へ。関、亀山、四日市と、関所を破りながら辿り着いた桑名。
 あの道程はまさしく地獄だった。飢えと疲労、そして血の匂い。すべてが一益の心と体を削っていた。
 だからこそ、この平穏は夢のように思えた。
 熱い湯があり、冷えた酒があり、安心して眠ることもできる――
 夜盗に襲われる心配もなければ、叔父の嘲りも、甲賀の重苦しい空気もない。
 けれども。
 四日、五日と経つうちに、その平穏が逆に一益の胸を締めつけ始めた。
 身体が癒えると同時に、心は焦りを取り戻す。
(このままでよいのか……)
 くすぶるような苛立ちが、一益の内側で燻っていた。
「義太夫、わしは――」
 そう言いかけたが、その言葉は口の端で溶けた。
 言葉にしてしまえば、今この胸を掴む焦りや空虚が、どうしようもなく現実のものになってしまう気がした。
 一益は代わりに膝の上で拳を握り、もう一度、大きくあくびをした。
 その時、ガタガタと障子が開き、膳を持った小者が滑るように入ってきた。無言で膳を置くと、一枚の紙を差し出す。
 ~本日不漁似~
 筆の癖からして、書き慣れていない者の手によるものだが、意味はよく伝わる。魚が手に入らなかったということだろう。
 その無口な小者の振る舞いには、どこか異様な落ち着きがあった。
 所作が静かで淀みがなく、膳を運ぶ手つきにも、ふとした武の香りがあった。
 歩むたび、足音がほとんど立たない――空気ごと消えてゆくような静けさ。
 いや、それ以上に――どこか、殺気を閉じ込めているような、そんな気配さえある。

 一益はじっとその小者の背を見送った。襖が閉まるその一瞬まで、目を離さなかった。
(あの男……何かを感じる)
 口がきけぬということは、余計な噂も立たぬということだ。ああいう者がひとり、傍にいれば……。
 再び障子が開き、義太夫が入ってきた。
「左近様。服部殿がお見えでござります」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、服部左京がふらりと現れ、畳にどっかと腰を下ろした。
「左近、どうじゃ。ここの暮らしは」
「これといって不足はないが…」
 左京は満足そうに笑った。
「そろそろ戦にでぬか。敵は、尾張の若造、織田信長じゃ」
 一益は少しだけ眉を動かした。
「わしに願証寺の家来になれと申すか?」
「嫌か?」
 左京は笑ってはいるが、目の奥が鋭く光っている。
 一益はしばらく黙った。――そう来ることは、最初から予想していた。願証寺は、この伊勢の地を根から支える本願寺系の強大な勢力である。
 服部党も、彼らと手を組むことで栄えてきた。その一翼に加わるというのは、決して悪い話ではない。むしろ、このままここに腰を据えて生きれば、一生安泰かもしれない。
 けれど、何か心にかかる。
 それは、甲賀の地に残してきたすみれの面影か。あるいは、堀を泳いで出たあの夜の怒りか。
 それとも、父・一勝に抱かれながら眠った、幼き日の夢か――
「……少し考えさせてくれ」
 そう告げる一益の声音には、どこか冷ややかな色が混じっていた。
 服部左京はふふ、と喉で笑った。
「よいよい、世は流れゆくものじゃ。おぬしも潮のように流れを読めばよい」
 それだけ言い残すと、左京は襖の向こうへと消えていった。
 再び静寂が戻る。
 障子の向こうでは、風がわずかに庭の木の葉を鳴らしている。夜はすでに更け、砦のあちこちから虫の声が微かに響くのみ。
 一益は、膳の前でじっと座ったまま、冷えかけた肴に箸をつけるでもなく見つめていた。
(ここに身を置く――それでよいのか)
 口にこそ出さぬが、その胸の内では絶え間ない葛藤が渦を巻いている。
 ふと、一益は視線を横に向けた。そこには、先ほどから控えていた義太夫が、背筋を伸ばして静かに座っている。
「義太夫。そちはどう思う?」
 一益の問いに、義太夫は少し顔を上げて応じた。
「されば……それがしは、反対でござります」
「なにゆえに?」
「願証寺の家人となれば、どう働いても侍大将がよいところ。恐れながら左近様は、一国を治める器にござります。それゆえ――」
「それゆえ、願証寺ではなく、何者に仕えよと言うのじゃ?」
 声は淡々としていたが、その奥には微かな苛立ちが垣間見える。義太夫は黙して思案する。
(侍大将がせいぜいか……)
 このまま鯛之浦に腰を据え、穏やかな余生を送るのも一つの道。しかし、それでよいのか――。野望も誇りも投げ捨て、甲賀を捨てた意味すら薄れてしまうのではないか。
 そんな思いが、一益の脳裏を去来する。
(……尾張の信長)
 美濃のマムシと恐れられた斎藤道三が、「ただ者ではない」と称した若き大うつけ。尾張一国をほぼ手中に収め、今や美濃にその刃を向けんとしているという。
 その名を思い浮かべたとき、不思議と胸が騒いだ。
 一益がふと義太夫を見やると、義太夫もまた、まっすぐにこちらを見ていた。
「尾張に、参りましょう」
 一益は目を見開いた。
「何……尾張、とな?」
「尾張の織田信長は、本家の清州城を乗っ取り、今や尾張の主にござります。この信長に仕えれば、あるいは、我らが目指すべき地が見えてくるやもしれませぬ」
 一益はしばしの沈黙ののち、声を低くして言った。
「義太夫。……実は、わしも同じことを考えていたのじゃ」
「では、決まりましたな」
「うむ。今夜中に、ここを抜け出そう」
 部屋の空気が変わった。張り詰めた沈黙が、目には見えぬ活気へと転じる。
 だが、事は容易ではない。
 この鯛之浦の砦は、服部左京が丹念に築いた拠点であり、尾張との国境に近いだけあって警備は厳重を極めている。
 このまま「信長に仕えたい」と告げて出られるような場所ではない。ましてや、一益は砦の構造や見取り図を見すぎてしまった――左京が快く逃がしてくれるはずもない。
「となれば……やはり、船しかあるまい。津島辺りまで流れを頼って、尾張の地に入る」
「されど我ら、山の者にて、船は……」
 義太夫が言いかけたそのとき――襖の向こうで、小さな音がした。すぐに先ほどの小者が、膳を下げに現れた。
 無言で膳を持ち上げるその仕草。その身のこなしの、どこか只者ならぬ気配。
 一益の目が、鋭く光った。
(……使えるかもしれぬ)
 そう思ったときには、もう手が動いていた。
「待て」
 一益は静かに声をかけ、小者の袖をつかんだ。
 小者は驚いたように振り返ったが、やはり何も言わず、ただじっと一益の顔を見返してくる。
「義太夫、紙と筆を」
 義太夫も察して、すぐに懐から筆と紙を差し出す。一益はそれを受け取ると、迷いのない手つきで素早く書きつけた。
 ――〈尾張へ案内せよ〉――
 その一行を、小者の前に差し出す。小者はそれを見るなり、わずかに目を見張ってから、一益の顔を見た。
 もしこの小者が服部左京に密告すれば、それで万事は終わる。あるいは、またひと暴れしてこの砦を力ずくで脱出するしかない。
 いっときの沈黙。
 小者はゆっくりと紙から視線を上げ、無言のまま大きく頷いた。そして、窓際に歩み寄ると、ふと振り返り――軽く手招きをしたかと思うと、そのままヒラリと窓の外へ跳んだ。
「あっ……!」
 一益と義太夫は思わず息を呑んだ。ここは砦の三階。常人ならば怪我は免れぬ高さである。
 慌てて駆け寄り、下を覗くと、月影の下、小者は猫のように軽やかに着地し、物陰から手招きしている。
「お、驚きましたな。あの者、やはり素破……でござりましょうか?」
「…のようじゃの。しかも手招きしておるということは――」
「我らの素性を、存じておる…ということでござりまするな」
「兎も角、急ごうぞ」
 二人は急ぎ身支度を整え、持てるだけの荷を抱えて窓から飛び降りた。暗がりの中、小者は疾風のように走り出した。石に足を取られることもなく、ぬかるみにも滑らず、音もなく道を駆ける。
(こやつ……何者であろうか)
 小者は不気味なほど静かに、尾張への脱出路を導いていた。

 やがて一行は川辺にたどり着いた。月明かりに照らされ、数隻の小舟が浮かんでいる。その周囲には、やはり見張りの兵たちの姿。
「義太夫……」
 一益が目で合図すると、義太夫も小さく頷いた。刀に手をかけたそのとき、小者が一人で兵たちの方へ駆けていった。
(何を…!?)
 一益が声を上げる間もない。
 ――刃の音すら立たぬ一閃。
 流れるような一太刀で一人目を斬り伏せ、返す刃で二人目を沈める。三人目が声を上げかけた瞬間には、すでにその喉元を鋼が走り抜けていた。
 兵たちは風に払われた草のように、静かに崩れ落ちた。
「……甲賀流」
 一益の胸に戦慄が走った。その技は見覚えがある。甲賀の中でも、ごく一部にしか伝わらぬ凄絶な斬撃。まさしくそれだった。
(あやつ……甲賀者か)
 小者は顔色一つ変えず、こちらに手招きする。
「左近様、参りましょう」
 と、義太夫が促す。
「よし」
 一益は気を取り直して舟に乗り込んだ。小者も黙って櫂を握る。舟はゆっくりと流れに乗り、やがて音もなく闇に溶けていく。
「こやつ、何者でござりましょう…」
「…わからぬ。だが、助かった」
 一益は深く息を吐き、振り返った。遠ざかる砦が月の光にかすんで見える。服部左京は今頃、寝所を叩き起こされて怒声を上げているかもしれない。その姿を想像して、一益は思わず微笑んだ。
「左近様?」
「いや……尾張は、近いのう」
 その声に、義太夫も頷く。
 舟は静かに進んでいた。波音も風音も、この三人の逃避行を祝福するかのように静かだった。
 上空では雲間から月が顔を出し、三人の影を水面に落としてゆく。
 その影はゆらゆらと揺れながら、まっすぐに尾張の方角へ向かっていた。

 義太夫はふと、舟の舳先に立つ一益の横顔を見た。
 その目は前を、闇の向こうのまだ見ぬ地を、確かに見据えていた。
「左近様――これより、尾張へ…」
 一益は答えなかった。しばらくの沈黙ののち、低く、しかし力強く言った。
「織田上総介に会いに行く」
 一益の短い返事が、夜気を切って舟の上を渡った。
 義太夫は頷いた。舟の櫂を握る素破の小者も、わずかに頷いたように見えた。

 滝川一益、義太夫、そして名もなき甲賀の影――
 三つの影が、闇を裂いて西へと進む。
 かつての故郷に背を向けて、血に濡れた過去を携えて。
 そして、己の望む未来を、この手に掴むために――
 舟は、やがて夜霧の中に沈んでいった。
 その先に、尾張がある。信長がいる。そして、運命が待っている。
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