滝川家の人びと

卯花月影

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1 織田家仕官

1-7 尾張統一

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 信長とともに桑名へ向かったあの夜のことを、一益は幾度となく思い返していた。尾張はまだ割れている。だが、割れ目はすでに一筋の線となり、やがて一刀で断たれる。
 己の力を試してみたい——そう願ったあの晩。信長の「桑名を取れ」という一言は、やがて一益の生き方そのものを変えていった。
 そして、年が明けた。
 冷えきった空に月が満ち、やがて、咲菜が女子を産んだ。だがその子は、この世の空気を吸うことなく、冷たく沈黙したまま生まれてきた。
 屋敷には、物言わぬ静寂がしんしんと降り積もっていた。火鉢の炭がパチ、と小さく音を立てた。
「気を落とすな、咲菜」
 そう言ったあと、沈黙が痛いほど続いた。
 義太夫はたまらず、
「のう、桑名では猿まで踊るそうじゃ」
 と言ってみたが、返ってきたのは炭のはぜる音だけだった。
 咲菜は顔を伏せ、何も答えなかった。産後の肥立ちが悪いのか、布団に臥せったまま、日毎にその表情は遠く、冷たくなっていく。
「もう……お役目を果たす自信が、のうなりました」
 その一言に、義太夫は言葉を失った。
 若い義太夫には、咲菜の胸の内を、深く察することはできなかった。子を産めなかった、ただそれだけではない。命を産み、そしてすぐに見送るという苦しみが、咲菜の奥深くに重く沈んでいたのだ。

 そんなある日だった。
 一益の従兄、池田勝三郎が屋敷を訪ねてきた。
「左近殿、急ぎの話にて参った。上総介様の御嫡男、奇妙丸様の乳母が、重い病で倒れられたそうじゃ」
「それは……」
「急ぎ、身元確かで信頼の置ける代わりの乳母を探しておる。できれば、武家の縁者が好ましいとな」
 一益はしばし黙し、そしてひとつ息を吐いた。
「ちょうどよい女子がいる。先日、甲賀より参った我が妹じゃ」
 勝三郎は驚いたが、その話を信長に取り次ぐと、話は思いのほかすぐにまとまった。
「好機到来じゃ、義太夫。これで我が家はますます安泰となろう」
「されど…妹とは? あの…」
 義太夫は戸惑いながらも、察していた。あの女——咲菜のことだろう。
「支度をさせて、奇妙丸様の元へ送り届けよ。月に一度は必ず戻って来させればよい」
「……は、はぁ」
 少々、いや、かなり乱暴な話だと思った。
 だが義太夫は、咲菜に丁寧にその話を伝えた。咲菜は最初、目を見開いたものの、不思議と静かに頷いた。
 やがて咲菜は一益の『妹』として、奇妙丸のもとで乳母として仕えることとなった。
 咲菜はしっかりとした所作で信長の妻・濃姫に挨拶し、乳母としての務めを忠実に果たしていた。そして言われた通り、月に一度、滝川の屋敷に帰ってくる。
 ただ、帰ってきても、笑顔はない。
 春が近づいても、咲菜の瞳には、まだ冬の気配が宿っていた。
(咲菜……)
 義太夫は、咲菜が座敷で奇妙丸の着物を繕っている姿を廊下からそっと見つめていた。
 月の満ち欠けとともに、時は静かに流れていた。
 そしてそのころ、桑名の地では——

 一益が、信長の命を受けて城攻めの準備に入っていた。
 とはいえ、その姿が桑名にあったのは一時。
 実際には、清州の自邸に戻り、城の間取りや兵の配置、補給の流れに至るまでを仔細に調べ上げ、攻略の策をひたすら練っていた。
「風のように現れ、嵐のように奪い去れ」
 ——信長のその一言は、ただの命令ではなく、滝川一益という男に課された試練であった。
 見せかけの沈黙の裏で、一益は動いていた。動かずして動く。風の気配を悟らせず、城を落とす一手を今まさに打とうとしていた。

 そんなある日——
 義太夫は、生駒屋敷にいる咲菜からの使いを受け、少々不審に思いながらも足を運んだ。
 門前に、見慣れぬ馬が繋がれていた。立派な鞍と、精緻な飾り紐。
 ただ者ではない。そう直感した瞬間、義太夫の背筋が伸びた。
(まさか……)
 案の定、館の奥の広間には信長がいた。
「おお、義太夫か。よう参ったな」
 信長は上機嫌だった。
 義太夫はすぐに気づいた。咲菜からの呼び出しではない、自分をここへ呼んだのは——この人だったのだ。
 信長は、奇妙丸をあやす咲菜をちらりと見やり、そして言った。
「咲菜を、わしの側室とする。その旨、左近に伝えよ」
「は、ははっ」
 義太夫は突然の宣告に驚き、無意識に咲菜を見た。
 咲菜は微笑んでいた。儚くも、確かな喜びをその瞳に湛えていた。
(……上総介様のお手つきだったとは……)
 馬を走らせながら義太夫はうわずった声でつぶやいた。
「お手つき、て……わし、殿にどう伝えたらええんじゃ。『おめでとうございます』か?いや、ちがうな……」
 ふいに馬がヒヒンと鳴く。
「おぬし、笑うな! お手つきって言葉、どこから説明すりゃええんじゃ!」
 と、馬に説教している自分に気づいて、余計に腹が立った。

 義太夫は城下の滝川屋敷へと戻った。
 報告を受けた一益は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を発せなかった。
「な、何…上総介様のお手つき……?」
 目を伏せたまま、何度も己の掌を握っては開いた。
「いつからじゃ……」
「おそらくは……一月か二月ほど前かと……なにか、不都合が……?」
「……あの女子は、身ごもっておる」
「えっ、それは……あの……誰の……?」
 義太夫が真っ青になって問うと、一益は眉をひそめて首をかしげた。
「さて…そもそも、上総介様がお手をつけたなどという話、わしは一度も聞いておらなんだ」
 その言葉に義太夫は顔色を変え、転がるように厩へ走った。馬に飛び乗ると、そのまま咲菜のいる生駒屋敷へ急いだ。幸いにも、信長はすでに帰った後だった。
「咲菜! そなた、なにゆえ上総介様のお手がついたと、殿に言わなんだ?」
 息を荒げて問いただす義太夫に、咲菜は涼しい顔で答えた。
「お訊ねになられませんでしたゆえ」
 あまりにあっけらかんとした口ぶりに、義太夫は目を丸くした。
「そ、それにしても…、殿に何か不満があるのか?」
 すると咲菜は、淡々とした口調のまま、信じがたい言葉を口にした。
「左近様は、咲菜とは一言も口をきいてくださいませんでした」
「そ、そのような戯けたことが…!」
 否定しようとする義太夫にかぶせるように、咲菜は淡々と続ける。
「初めてお目通りしてから今日まで、咲菜の顔を一度たりとも、見てくださったことなどありませぬ」
 声が震えたかと思うと、次の瞬間、咲菜はわっと声をあげて泣き出した。あまりの突然のことに、義太夫はただ呆然と立ち尽くした。
(……そうだったのか)
 咲菜が長く沈んだ顔をしていたのは、死産のせいだけではなかった。いや、それ以上に、誰にも見られることのない「存在」として扱われていた、その重みに耐えていたのだ。
「それは……そなたの気のせいじゃ。殿は、そなたを憎からず思うておるはず……ただ不器用で、どうにも口下手でな……」
 なんとか慰めようと、言葉を選んで繕おうとしたが、咲菜は首を振り、涙で濡れた目を義太夫に向けて言った。
「左近様にとって、咲菜はただの子を産むための道具にすぎませぬ。初めから人として見てはくださらぬ。左近様はそのような冷たいお方」
 その言葉に、義太夫は返す言葉がなかった。咲菜はただの「女子」ではなかった。すべてを知り、すべてを受け止めたうえで、それでも自らの選んだ道を歩んでいたのだ。
「咲菜は、どんなに無慈悲な扱いを受けても、ただ、義太夫様のお言いつけ通りに生きてきたまでのこと……」
 そう語る咲菜の声は、涙混じりでありながらも、不思議なほどにはっきりとしていた。
「して……それでも上総介様の子を?」
「上総介様は、左近様とは違います。咲菜を一人の人として見てくださいました。菓子や小袖を贈ってくださり、咲菜の目を見て言葉をかけてくださいました。咲菜は、あの方のお心に触れて、ようやく『人』に戻れたのです」
 義太夫は思わずうなずいた。ところどころ疑問が残るとはいえ、咲菜の言葉には、どこか嘘のつけぬ響きがある。
「……そ、それは……すまなんだ。そなたが、そこまで思い詰めておったとは……。で、その、腹の子の父は……誰なのじゃ?」
 義太夫が恐る恐る訊くと、咲菜は一瞬、まっすぐに義太夫を見つめたのち、ふいと目を伏せ、そっと言った。
「それは……言えませぬ」
 その答えに、地面が崩れたかのような衝撃を受け、茫然としたまま、再び馬に乗って滝川屋敷へ戻っていった。
 咲菜の言葉が、波のように耳の奥で何度もこだました。
 ——咲菜は、ようやく人に戻れたのです。
(では、それまで……咲菜は……人ですらなかったのか)
 義太夫は、何か大きな歯車が静かに狂い始めているような、そんな不気味な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「如何であった、義太夫」
 屋敷に戻ると、一益が静かに問いかけた。義太夫は息を整えながらも、口ごもることなく、咲菜が語ったことをすべて伝えた。咲菜が一益のことを恨んでいること、信長に救いを見出していること、そして……父の名を明かそうとしないこと。
 一益は黙って耳を傾けていた。怒りも、困惑も見せなかった。ただ、無表情のまま、淡々と話を聞き終えると、ぽつりと口を開いた。
「あの女子は上総介様に惚れておるのじゃな」
「おそらくは…」
「義太夫がそう見て取るなら間違いはあるまい。腹の子は上総介様の子じゃと言い張るじゃろう」
「は…。それは無論、そうでなければ困ります」
 義太夫は思わず言いながら、自分でもその言葉の重みと曖昧さに不安を覚えた。だが一益はその様子にも気づかぬふうで、なおも平然と言い放った。
「案ずるな。上総介様にはすでに三人の男子がおる。たとえあの女子が男を生んでも、織田家の家督には何の差しさわりもない」
 あまりにも冷静なその言葉に、義太夫は思わずまじまじと一益の横顔を見つめた。
(このお方は……まことに咲菜を、女としてではなく、ただの器としか見ていなかったのか)
 そこに怒りはなかった。ただ、底知れぬ空しさのようなものが胸の内にじわりと広がっていく。咲菜が、あれほど沈んでいたのも、無理はない。義太夫は深く納得し、重いため息をついた。
 そのとき、一益がふと、皮肉な笑みを浮かべて口を開いた。
「上総介様は、情が深いお優しいお方か」
 それは、咲菜が涙ながらに語った言葉だった。
 義太夫が眉をひそめると、一益はふふっと鼻で笑い、声を立てて笑い出した。その笑いにはどこか冷たい嘲りが混じっていた。
「それは……あのような女子が申すことゆえ」
「よい。義太夫、このことは他言無用。大儀であった」
 それだけ言うと、一益は何事もなかったかのように書状に目を落とした。咲菜のことなど、もう頭の中から消えたかのように。
(困ったお方じゃ……)
 義太夫は胸の奥に、どうしようもない苛立ちと、哀れみに似たものを抱えながら、静かにその場を辞した。
 咲菜は、捨てられたのではない。最初から、拾われていなかった。だとすれば、彼女が信長にすがったのもまた、当然の帰結なのかもしれない。
 だが、何かが始まっている——義太夫は、胸の奥にわだかまる不安の正体を言葉にできぬまま、静かに時の流れに身を任せていた。

 年が明けて、弘治三年七月下旬。
 蝉の声が急に弱まりはじめ、風の香りに夏の終わりの気配が漂い始めたころ、
咲菜が女子を産んだ。
 その子は「章姫」と名付けられた。
 産声は夜明けの帳を裂くように高く、鋭く、この世に存在を刻みつけた。
 章姫は、母である咲菜の実家――すなわち滝川家の保護のもと、清州の屋敷で養育されることとなった。
 それは、武家の慣習であり、表向きは「滝川左近の姪」として扱われながらも、信長の娘として厚く守られる措置でもあった。

 信長は月に一、二度、ふらりと滝川屋敷を訪れ、章姫を抱き、咲菜に一言二言、声をかけて帰っていく。
 ときに小袖を持参し、ときに季節の果物や菓子を添えて。
 咲菜にとってその束の間の時間は、魂が人に戻るような安らぎの刻だった。
「左近、咲菜はそちの妹にしては器量がよいな」
 ある日、章姫を抱いた信長が、わずかに笑ってそう言った。
「これは……恐れ入ってござりまする」
 一益は曖昧な笑みを浮かべ、言葉を濁すしかなかった。
 信長の言葉にどこまでの真意が込められているのか、それはいつも測りかねる。
 ふと、信長は章姫の寝顔を見下ろしながら、低く言った。
「まもなく戦になる」
 尾張の統一は、未だ成っていない。
 清州城の信長に対し、弟・織田信勝は末森城にて兵を集めつつあり、林通具らの家臣たちの中にも、いまだに信勝側につく者が多い。
 信長と信勝――兄弟の命をかけた家中の対立は、終わりを迎えることなく続いている。
「家中に争いがあれば、尾張は割れ、隣国に付け入る隙を与えましょう」
 滝川一益は静かにそう口にした。まるで、事前に定められた棋譜をなぞるかのように。
 信長は、章姫の頬にそっと指を添えたまま、目を伏せていた。
「だからこそ、終わらせねばならぬのだ」
 信勝が和議を反故にしたのは、これで三度目である。
 赦しの機会は幾度も与えた。にもかかわらず、信勝は兄を裏切り、尾張の国を再び乱す気でいる。
 兄弟であることは、もはや理由にもならなかった。
「さすれば……恐れながら、武蔵守様は上総介様の実の御弟にて……」
 一益がそう言いかけた瞬間、信長の表情が険しくなった。
 次の瞬間、憤然として右手を振る。
「黙れ、左近!そのような説教は聞きとうない」
 怒気をはらんだ声が屋敷の空気を揺らす。
 だが、一益は少しも動じなかった。淡々と続ける。
「ではありませぬ。武蔵守様は、上総介様の弟君。もし、上総介様が重い病に臥し、お命も危ういとなれば、御心も、否応なく揺れることかと」
 信長は眉をひそめ、鋭い視線で一益を睨んだ。
 だが、それ以上言葉を返すことはなかった。
「近臣の者たちに、上総介様の見舞いに行くよう、密かに進言させては如何なものかと。もし武蔵守様に二心あれば――必ず、食いついてまいりましょう」
 わずかな沈黙ののち、信長は鼻を鳴らした。
「そちは弟を、策をもって欺き、謀殺せよと申すか」
「はい。織田家のため、尾張のため。…何よりも、天下万民のために」
 信長は返事をしなかった。
 章姫に一度だけ目を落とし、ふいに立ち上がると、無言のまま滝川屋敷をあとにした。
 足音が遠ざかるたびに、屋敷の空気がひどく重たくなっていくように、義太夫には感じられた。
 そして一益もまた、しばし遠くを見つめていた。
 かすかな風が、庭の芙蓉を揺らしている。
 その白い花びらが、ゆっくりと一片、地に落ちた。
(とはいうものの……)
 信勝を策にかけ、だまし討ちにせよと進言はした。だが、その言葉を口にしたときから、胸の奥底に苦いものが残っていた。
 信勝は、れっきとした織田家の主筋――その血を引く、正しき家中の柱である。
 それを小者一人を手討ちにするかのごとく、問答無用に排除する。果たして、それは本当に正しいのか。
 もしそれが実行されたとき、家臣たちはどう感じるだろうか。誰が、心の底から納得できるだろう。
(義太夫は……素直に従わなんだな)
 その時は、幼稚な理想主義かとも思った。だが今となっては、あの反応の中に、抗えぬ人の情というものが確かにあった。
 唐の太宗――兄を討って皇帝となった男。そうした例は、歴史を繙けば枚挙に暇がない。
 だが、それが「歴史にある」というだけで、現実が軽くなるわけではない。
 血で血を洗う骨肉の争いは、いかに勝とうとも家中に傷を残す。
 そしてその傷は、時に家を蝕み、信を裂き、人の心を暗く染めていく。
(織田家の歴史に、間違いなくこの出来事は刻まれる……)
 主筋に弓引くということ。
 それは命をかける覚悟の上に、なおも、背負わねばならぬ重みだった。

 家臣という立場であっても、否、家臣であるからこそ、その咎は重い。
 ただ忠義を尽くせばよい、というわけではない。
 その忠義の先にあるものが、正しき道であるかどうか――その答えを問われるのだ。
 一つの家を一つに戻すたび、血の年輪が増える――それが尾張の系譜。
 芙蓉の花がもう一つ、風に吹かれて散った。
 一益は、音もなくそれを見つめていた。
(心穏やかには……いられぬな)
 小さくつぶやくと、一益は立ち上がり、庭に目をやった。
 戦は始まる。だがその戦の本当の敵は、何なのだろうか。

 その夜、長屋に戻った一益は義太夫を呼び寄せた。
 城で耳にした信勝の動き、そして胸中にひそかに募る不信――それらを、言葉少なに語ったのち、ふと問いかけた。
「義太夫。その方は何ゆえにわしの命に逆らって菊之助を助けた?」
 あのとき、義太夫は『殿のため』と言った。だが、あれはあくまでその場しのぎの言葉ではなかったか。今改めて問い直したいと思った。

 義太夫はしばし沈黙した。困惑の色がその顔に滲んだが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「織田家を見ての通り、かようなことは古今東西、どこででも聞く話で」
「かようなこと、とは?」
 一益が問い返すと、義太夫は静かに語りはじめた。
「それがしは諸国を回り、多くの人を見て参りました。それゆえ、母を同じくする兄弟のあいだで、片方のみが偏愛されるという話は、幾度も耳にしておりまする」
 一益は黙って耳を傾けた。
「そして……不思議なことにございますが、そうした兄弟間の憎しみは、たとえ一方が他方を討ったところで、決して消えるものではござりませぬ。呪いのように残り、その矛先は新たな相手へと向けられ、果てることがないのです」
 義太夫の声には、どこか諦念のようなものがあった。
「殿は、母君のなさりようを恨み、その影に囚われておいでです。『素破は私怨で動くな』『憎しみで刃を抜くな』と、昔、殿自らが我らに仰せになったそのお言葉を、お忘れかのように……」
 その言葉に、一益のまなざしがわずかに揺れた。
「されど、殿は聡明なお方にございます。いずれその呪縛に気づかれ、もしや、菊之助様を討たれたことを、深く悔やまれるやもしれぬ――それがしは、そう思うたゆえに、止めさせていただいた次第にございます」
 静寂が降りた。
 虫の音が障子越しに微かに響くなかで、一益は長く黙していた。
(……されど)
 心の内に、一つの思いが浮かぶ。義太夫の言うことは、一理ある。いや、理にかなっている。
 だが、それでも――今回ばかりは、ただの「私怨」とは違うのだ。
 信勝は、もはや一介の弟ではない。家中の不満分子を糾合し、三度にわたって和議を反故にし、織田家を二つに裂こうとしている。
 これは、もはや兄弟の情などでは裁けぬ、家そのものの命運をかけた戦いである。
(このまま兄弟の争いを続けていれば、隣国の餌食となる)
 義太夫の言葉を否定することも、肯定することもせず、ただ静かに目を伏せた。
 そして再び、胸の奥に問いかける。
 果たして、本当の敵とは誰なのか。
 兄か。家臣か。それとも——この胸にひそむ、恐れと野心の影か。
 いや、あるいは、自らが信じ選び取ったこの道そのものかもしれない。
 外では風が吹き、庭の芙蓉が一つ、音もなく散った。白き花片は風に舞う――いつの日か、風が花の名を告げるとも知らず。
 ——そして、時は容赦なく進んだ。

 その日、義太夫はただ黙って見ていた。芝居の幕が上がるように、出来すぎた静けさの中で。
 末森城より、織田信勝がやってきた。兄・信長の病を聞き、見舞いに訪れたのだと。
 だが、その「病」など、初めから存在しなかった。
 それは、策だった。
 その策を考え、信長に進言したのが、他でもない、一益だ。

 義太夫は、それを知っている。しかし、止めもしなかった。
 信勝が現れ、城の中に入っていくのを、ただ、見ていた。
(あの方が……あの策を……)
 一益は、その場にいなかった。
 常であれば側にいるのに、その日だけは姿を見せなかった。
 無言の了承だった。
(殿……)
 義太夫の胸に、何かがのたうつようにうずいた。
 この場で流された血は、信勝のもの。
 だが、そこに至る道を敷いたのは、自分の主君なのだ。
 一益は聡明な人だ。
 冷静で、理を見据え、情に流されぬ人だった。だからこそ、この策を考えたのだろう。
 ——兄弟の骨肉の争いが、尾張を滅ぼす前に。
 いかに戦国乱世といえど、それはあまりに冷たく感じられた。
 いや、冷たいというよりも……
 寂しかった。
 いつから、あの方は人を駒として見ねばならぬ時が続いているのだろうか。 あの咲菜を切り捨てた時と、どこか似ている。風は来て、嵐は奪う。けれど、風はいつか、花を連れて来る。
 戦国とは、こういうものだ。
 生き残るためには、理も情も捨てねばならぬ。忠義とは、主の命に従うことである。
 ——わかっている。
 それでもなお、義太夫の胸は締めつけられる。
 その後、城中では「尾張統一成る」と喝采が上がった。
「……統一、ねぇ。腹の中までは、どうにも統べられんもんじゃ」
 誰も信勝の名を出さない。
 信長の父・信秀の夢が叶ったと、そう言って家臣たちは笑っていた。
 その陰で、義太夫は一人、静かに空を見上げていた。
 その空に、かの信勝の姿があるはずもなく、ただ風だけが吹き抜けていった。

 開けて永禄三年五月。
 伊勢・桑名には、各地から様々な人間が集まりつつあった。
 流民、野武士、商人、浪人、間者、巫女……。
 城下には得体の知れぬ屋敷が幾つもあり、領主ですらその全貌を把握できぬ有様だった。
 その日の黄昏時、年のころ十五、六の少年が用心深く周囲を伺いながら、その屋敷の一つへと身を滑らせた。一間きりの粗末な屋敷の中では、二十歳前後の若者が黙々と草鞋を編んでいる。
 編み込む指先は無駄がなく、鍛えられた武士の手つきだった。
「兄者、尾張が騒がしい。駿河の今川治部大輔が動いたと」
 少年がそう言うと、兄らしき人物は草鞋を編んでいた手を止めた。
「……何、それはまことか」
「噂じゃ。大高から兵が動いたとも。これでは左近様もただでは済まぬぞ」
 声に焦りをにじませながらも、少年は背筋を伸ばす。
 だが兄は、軽く笑った。
「臆したか、助九郎」
「い、いや、その…。ただ、尾張が燃えるとなれば、殿のお力にならねばと…」
 口を噤んだ弟に、兄は無言のまま立ち上がる。

 若者の名は、滝川助太郎。
 弟は、滝川助九郎。
 かつて一益に仕えていた一族の分流であり、桑名まで来て、陰ながら滝川家の動向を探っていた。
「左近様が危ういならば、黙って見ているわけにはいかぬ。時機が来たな」
 助太郎はそう言うと、畳を剥ぎ、床板をバリリと外す。
 現れたのは、漆黒に輝く種子島銃——二十挺。
 手入れは行き届き、銃身は鈍く光を返した。
「これを手土産に、尾張へ参ろう」
「よし!鯛之浦より船に乗れば、早ければ明日にも清州へ着ける!」
 助九郎の顔が輝く。
 武士の名乗りなど、まだ早い。
 だが、二人の胸の内に燃えていたのは、滝川家への忠義と、「武士」としての誇りだった。
 桑名の町の片隅で、再び風が吹く。
 冷たい風の底で、まだ名も知らぬ小さな花が、静かに芽吹いていた。
 その風は、どこかでため息をついた義太夫の胸に通じているかのようだった。 尾張がひとつに静まるとき、伊勢の地は、音もなく裂けはじめていた。
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