滝川家の人びと

卯花月影

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19 決別のとき

19-4 藻塩たれつつ

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 兵をあげた一益は亀山城、関城を落とした後、峯城の岡本良勝を追い出して入城した。
「殿。そろそろ城を奪われたことが日野へ知れ渡り、騒いでおるころでは?」
 義太夫が日野の様子を伺ったときには未だ、戦さ支度は整えられておらず、関盛信が城を奪われるなど、想像もしていないようだった。
「大軍を集めるには時がかかる。今のうちに兵糧、弾薬を運び入れ、迎え撃つ支度を整えよ」
「ハハッ」
 ここまでは手筈通り。近江からの進軍に備え、八風、千草、鈴鹿などの大きな峠はすべて抑えている。かといって油断はできない。北伊勢の主だった国人を味方に引き入れているとはいっても、秀吉の元には忠三郎や関盛信など、土地に精通したものが多いのもまた事実。挙兵が知れた以上、こちらの手の内を読んで攻め入ってくるだろう。
「おお、すっかり忘れておりました。殿、日野で鶴に会うたときに、これを預かっておりまする」
 義太夫が懐から忠三郎から預かった共筒を渡した。
「茶杓か」
 手に取ってみると、共筒には
『もしほたれつつ』
 の銘がある。
「もし、ほたれ?とは?」
 義太夫が首を傾げる。
「藻塩であろう」
 そういえば、と義太夫はあの日見た掛物を思い起こす。
 塩を取るために海藻に海水をかけて焼き、灰を水に溶かした上澄みを窯で煮詰める。この海藻に海水をかけ、ぽたぽたと水滴が落ちる様子を、和歌では潮垂れるにかけ、泣く意味で使われる。
 藻塩たれつつ、とはつまり、泣きながら。
「掛け軸にあった歌とは?」
 一益に真顔で尋ねられ、義太夫はウッと詰まりながらも必死で思い出す。
「在中納言行平が須磨で歌うたとか」
「行平、古今か」
 
 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に
             藻塩たれつつ侘ぶと答へよ
 
「そうそう。確か、その歌でござります」
 万葉、古今には泣くことに想いを馳せた歌が多い。流す涙の種類は数多にあれども、人は泣くものであり、いにしえの歌人たちはよく泣いていた。しかし、この戦国の世においては日常的に泣く人の姿を見ることは皆無だ。千年の時を経て、人は涙の代わりに、理や沈黙で己を飾るようになった。
 共筒に泣きながらなどと書き留める者も珍しいが、こうでもしなければ忠三郎には己の感情を表出する場がない。飄々とした態度の裏側にあるやり場のない悲しみや怒りをもてあました結果が、和歌であり、香道、茶の湯といった遊芸なのだろう。
「不憫なことをした」
「は?」
 出会った最初から分かっていた。元来、線の細い忠三郎には戦国乱世の荒くれ武者と肩を並べて生き抜くことは無理を強いることだと。それでも武人として、君主としての生き方を教えてきたのは、忠三郎自身がそれを望んだからに他ならない。
 その結果が酒と女に逃げる荒れた生活であり、戦場での無謀な突撃だ。南蛮兜、南蛮鎧で銃弾を防いでいなければ、とうに命を落としている。ましてや共筒にこんな泣き言を書くようでは、戦国武将が務まるとは思えない。
 忠三郎が、そして周りが望んだ結果とはいえ、生来のおおらかで優しい彼の性質とはおおよそ異なる生き方を強いたと言える。
「これも弓矢取る身の習いにて。あやつも同心した叔父の城を容易く奪われ、ここは引けぬところでは?」
 そうだろう。このままでは笑い者になると、顔色変えて攻め入る姿は容易に想像がつく。それを分かっていながら、風は止まることはない。
「峯城はこの戦さの要所となる。心して参れ」
「ハハッ!お任せあれ!いかなる大軍をもってしても、持ちこたえて見せまする」
 義太夫が頼もしく胸を叩く。この辺り一帯の城の中でも要となる峯城を任され、いつにもまして力が入っている。
「これよりわしは桑名に引き上げる」
 峯城を義太夫の他、忠三郎の従弟である青地兄弟たちと多くの将兵に託し、一益は桑名へと引き上げていった。
 
 その頃忠三郎は、伊勢に戻る早々城を奪われ、行く宛がなくなった叔父、関盛信を日野に迎え入れ、家臣たちを集めて連日、軍議を開いている。
「やっと戻れたと思った矢先に、また城から追われるとはなんとも口惜しき限り……」
 盛信ががっくりと肩を落とす。
 かつて信長の命で、能興行と銘打って関盛信、神戸友盛の二人を呼び出し、この日野の城下に長く幽閉していた。父賢秀の骨折りで、その幽閉がようやく解けたのは昨年四月。城に戻って一年もたたないうちに城を追われた叔父の落胆ぶりは見ていて気の毒なほどだ。
「叔父上、口惜しき思いはそれがしも同じ。必ずや城を奪い返してみせましょう」
 すでに秀吉の元には知らせを送っている。秀吉はこの機に、一益を完全に叩くつもりで全土に召集をかけ、大軍を持って伊勢に攻め入る支度を整えている。
(近江から伊勢に攻め入る…峠を越えることは義兄上もお分かりのはず)
 では当然、峠は危険ではないだろうか。一益がすんなりと伊勢に大軍を入れるとも思えない。何かしら罠が仕掛けられているかもしれない。
「裏をかき、常とは異なる峠を越えるべきかもしれぬな」
 章姫の寝顔を見ながら、何気なくそうつぶやいた。閏一月を迎え、章姫は産後の三十日の物忌が終わって、ようやく元の生活に戻った。すると待ちかねたように忠三郎が部屋に出入りするようになった。忠三郎は夜が更けて皆が寝静まった後も、毎晩のように盃を片手に図面を睨んでいるし、ようやく寝てくれたかと思えば、夜中に起きだして図面を見たり、悪夢にうなされて起きるので、隣で寝ている章姫は安眠を妨げられている。
「峠?とは?」
 忠三郎の声に気づいた章姫が身体を起こす。
「起きておったか。いや……」
「もしや、峠を越え、伊勢に攻め入るおつもりか?」
 章姫が悲しそうに涙を零した。忠三郎は胸が痛くなり、
「すまぬ……章、許せ」
 腕を伸ばして抱き寄せようとするが、章姫はその手を振り払う。両手で顔を覆い、しばらくの間泣き伏していたが、やがて顔をあげると、
「冬の鈴鹿、千草は危のうござりまする。せめて雪解けを待たれては如何なものか」
 何を思ったか、心配そうにそう言うと、袂で涙をぬぐった。
「もしや、わしのことを案じてくれているのか」
「それは無論のこと。忠三郎殿は鶴千代の父。忠三郎殿にもしものことあらば、生まれたばかりの鶴千代が憐れとは思われませぬか」
 章姫の瞳に涙はあった。
 だが、頬は少しも濡れてはいなかった。
 本心とも思えなかったが、もしや鶴千代が生まれたことで母となった章姫の気持ちも少し落ち着き、ここでの暮らしを前向きに考えだしてくれたのかもしれない。そうそう人の気持ちは変えられるものではないが、例えそれが嘘であったとしても――いや、嘘であってくれたほうがよかった。
「案ずるな。相手は滝川左近。大きな街道が危ういことくらいは心得ておる。千草の先には我が叔父、千種三郎左衛門が待ち受けており、鈴鹿の先の亀山も滝川勢に抑えられていると聞く。近江から伊勢に至る峠は十あるが、越えるのであれば、安楽越辺りであろう」
 ここにきて母方の叔父、千種三郎左衛門忠基を始め、北勢四十八家は関盛信を残して皆、滝川方に寝返った。今や北勢は敵ばかりで容易に近づくのは危険だ。
 話しながら、余計なことを口走っていることに気付いた。吹雪の前では決して話さないようなことまで、章姫といると何故か口に出してしまう。そんな心やすい何かが、章姫にはあった。
(先日の刺客…)
 分かりきっているのであえて詮索はしていない。あの時は刀掛から太刀がなくなっていたと思い起こし、刀掛に目をやるが、今度は太刀が備えられたままだ。
(さすがにもう、太刀を隠すような真似はしておらぬか)
 何度も同じことを繰り返すほど、愚かな姫でもないだろう。そう思い、ふと気づいて太刀に手を伸ばした。案の定、抜こうとするが抜けない。よくよく見ると鯉口に細工がしてある。
(どこでかような細工を学んだのやら)
 だんだんやることに手が込んできたなと、忠三郎は笑う。
「章殿。三九郎宛の密書を抑えた。もう十分であろう。そろそろやめねば余計な風聞が立つ。その前にやめておけ」
 もちろん嘘だ。鎌をかけて言ってみると、いとも簡単に口を割った。
「気づいておられたのか」
 章姫は驚いた顔をして忠三郎を見る。気づいているとは思っていなかったようだ。忠三郎は笑って
「気づかぬ筈もない」
――その笑みに、章姫は己が見透かされたことよりも、軽くあしらわれたことに腹が立った。だがその目の奥に、なぜか哀しみが見えた気がした。あの夜、涙の底に浮かんだのは、忠三郎ではなく三九郎の顔であった。
 章姫は息を呑み、わずかに目を逸らした。
「落ち着け。口煩い者に見咎められるとそなたが……」
「非道うござります!」
 十分に気遣ったつもりだったが、思いがけず、章姫が急に怒り出して刀掛を投げつけて来た。忠三郎は危うくそれを避け、
「非道いのは姫ではないか」
 苦笑する忠三郎に、章姫は怒り心頭だ。
「どれほど人を愚弄すれば気が済むというのか!」
「…姫、かような大声を出しては家人共の耳に届いてしまう。そうお怒りになるな」
 襖に穴を開け、音を立てて落ちた刀掛を拾いながら落ち着かせようとするが、章姫の怒りは収まらない。
「もう出て行ってくだされ!忠三郎殿がおると落ち着いて眠れぬ!」
 章姫が力を込めて襖を開けると、何があったかと心配した侍女たちが集まり、並んでいた。
「姫様、何をお怒りに…」
 侍女たちが声をかける中、章姫は忠三郎の背中を押して部屋から閉め出すと、また勢いよく襖を閉めた。
「みな、案ずるな。もう休むがよい。わしも姫に追い出されたゆえ、寝所に戻る」
 十分に気遣った筈が、何故、章姫があそこまで声を荒立てたのか、とんと分からず、忠三郎はとぼとぼと寝所に向かった。
 
 峯城を義太夫に任せた一益は、兵を率いて桑名城に入城した。
「殿!ようおいでくだされた」
 袖を括り、裾を括って薙刀を持った玉姫が城門に現れ、片膝ついて迎え入れてくれた。
「大儀である。されど、そなたを危ない目に合わせては亡き宗右衛門に合わせる顔がない」
「そう仰せられますな。兄は殿を誰よりも信奉しておりました。我らが殿のお役にたったと知れば、兄も喜びましょう」
 玉姫はそう言って本丸を案内してくれた。さほど大きくもない桑名城は義太夫を城代とするまでは戦乱で荒れ果てていた。かろうじて雨露がしのげる程度であったが、義太夫が城に入り、少しずつ、体を成しつつある。
 本丸には簡素な書院造の館が建てられている。土壁は大風でひび割れ崩れたまま、修繕途中で放置されたと思しき痕跡があり、雨どいも途中までしか取り付けられていない。
 一益がそれらひとつひとつに目を留めて歩いていると、玉姫が気づいて笑う。
「お恥ずかしき限り。義太夫殿が全部わしがやると仰せになって、あれもこれも手をつけては、放置されるゆえ…」
 遠征続きで館の修繕もままならなかったのだろう。ようやく関東から戻ったときには指を三本も失っていた。あの手で雨どいを取り付けるのは難儀していた筈だ。それでも必死で城の修繕に四苦八苦し、挙句は中途半端で終わったところはいかにも義太夫らしい。
 畳も違い棚もない館には大きな中庭があり、庭全体に目を見張るような梧桐《あおぎり》が植えられている。梧桐は葉も実も薬になる。その上、火に強い。万一、城に火がかけられたときを想定して植えたのかもしれないが、それにしても度を越した量だ。
「梧桐以外は植えておらぬのか」
 松一本ない。所狭しと植えられた梧桐の木は、夏になれば大きな葉を広げる。今は冬なので落葉しているが、初夏には庭全体が森のようになるのではないか。
「なにやらようわかりませぬが、わらわも奇妙に思うて尋ねたるところ、蒲生殿のためとか」
「鶴のため?」
「鳳凰は梧桐にしか住まぬと」
 その伝説は耳にしたことがある。梧桐はいにしえの昔、唐土からもたらされた。このため、唐の国には広く分布しており、杜甫、白楽天など多くの詩人によって歌に詠まれた。最古の詩と伝わる詩経にも『鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず』とあるように、霊長、鳳凰は梧桐の木だけに棲むと言われている。年月を経て、威風堂々とした大樹となった姿はまさに、鳳凰が棲むにふさわしい。
 
 百敷や桐のこずえにすむ鳥の 千とせは竹の色もかはらじ
 
 平安の歌人、寂蓮法師により梧桐と鳳凰にまつわる歌が伝わる。義太夫は忠三郎が若年のころ、鳳の雛と呼ばれていたことを覚えていて、梧桐ばかりを植えたのだろう。
 これは何も義太夫に限ったことではない。唐の国では鳳凰を迎えるために宮殿や民家で梧桐を植えるという。
「こうして梧桐を植えておけば、忠三郎殿は都で放蕩三昧の日々を過ごさず、大人しゅうこの木に留まっておるじゃろうと」
 なんとも人を食った話だ。そんな馬鹿なことがあるはずもないが、わざわざ梧桐を植えさせて、どこまで本気なのだろうか。
「うつけにつける薬はないとは言うものの、どうも義太夫殿は大まじめで、この梧桐を大切に育てておりました」
 一益は苦笑して梧桐を見上げる。忠三郎がこの木に留まることはないだろうが義太夫は義太夫なりに、忠三郎の成長を見守ってきている。天下に名をはせる武将になってもらいたいと願い、梧桐を植えたのだろうか。
「羽柴勢は大軍。部隊を分け、峠越えする一隊とは別に、長島にも攻め入ろう。さればわしはこの桑名を拠点に奇襲を仕掛け、敵を攪乱する。まもなく九鬼海賊どもも到達しよう。しかるに、戦さが長引き、いよいよというときは長島へ引き上げる。その折はそなたも供に長島に参れ」
「ハハッ。わらわも鉄砲の手ほどきを受けておりまする。殿が城を留守にする際は、わらわがこの城を守りまする」
 兄の宗右衛門を彷彿とさせるような、頼もしい玉姫の言葉に、一益は笑って
「唐の国の言い伝えによれば、梧桐の枝は例年であれば十二枚の葉を、されど閏月のある年は十三枚の葉をつけるという。今年はちょうど閏月のある年。この梧桐が十三枚の葉をつけ、その葉が落ちるころには戦さの決着もついておろう」
 梧桐の大きな葉が山吹色に染まり、落葉するのは秋。その頃にはこの戦いに決着がつき、すべてが終わっている筈だ。
 
 一益が広間に入ると、すぐに三九郎が長島から到着した。三九郎は来るなり絵図を広げ、
「父上、羽柴勢は安楽越をくると思われまする」
 安楽峠は甲賀土山から伊勢亀山に抜ける鈴鹿峠の間道で、奇襲に向くが物資輸送は難い。
「では……進軍には時がかかる。物見の報せによれば、北近江からの軍勢は五僧越から伊勢街道を来て長島に至る。それとこの彦根、多賀を通って北勢の上にでる鞍掛越」
「どちらも長島目指してくると?それでは義太夫、新介、彦次郎が守る城が攻められたとしても、こちらからの後詰は難しいのでは?」
 秀吉の狙いはそこだろう。大軍を有する秀吉は、一益を長島・桑名に封じ込め、その間に奪われた各城を落としていく戦略にでたようだ。
「故に、皆には無理をせず、頃合いを見て長島に引き上げるようにと伝えた」
「大軍に阻まれ、容易に戻ってこられるとも思えませぬが…」
「北勢は我が領国。地の利は皆も十分に把握している。これしきの軍勢に手をこまねいているようではこの大戦さに勝つことはできぬ。いよいよとなればわしが皆の元へ向かう。その折は、三九郎。そなたが長島を守れ。よいな」
「は……されど……」
 三九郎にはまだ大軍を相手にする実感が湧いていない。掌の内に汗がにじみ、筆を持つ指がかすかに震えていた。
 果たして自分が一益の代わりとなって家臣たちを鼓舞し、兵をまとめて長島を守ることができるのか、自信もない。三九郎がそんな不安を抱えていることを察した一益は、
「案ずるな。道家彦八郎、谷崎忠右衛門らを長島に置いていく。それゆえ、長島だけは死守せねばならん。長島を奪われては、皆が戻る先がのうなる」
「はい。そのことはよく……」
「ではよいな。皆を死なせるな。長島には十分な兵糧がある。皆が戻っても夏までは持ちこたえることができる。兵糧が尽きる夏まで戦い抜け」
「ハハッ。心得ましてござりまする」
 秀吉が兵を揃えるにはおよそ一月――その間に、何を成し、何を失うのか。
 
 閏一月二〇日、とうとう秀吉が三万の軍勢を引き連れて日野谷近くまでやってきた。
「こちらは本隊でござりまする。このほかに筑前殿の弟御が佐和山経由で二万の軍勢が伊勢街道を使って長島へ向かい、筑前殿の甥を大将とした二万五千は鞍掛峠を越え、長島に向かう手筈となっておりまする」
 秀吉の本隊から使者がきてそう告げた。忠三郎は秀吉本隊に随行し、土山から安楽峠を越えて亀山へ出る。
 常のごとく、焦ることもなく支度を整え、兵を率いて秀吉の本隊を追いかけると、土山でようやく最後尾に追いついた。
「忠三郎殿、我らが先陣ではありませなんだか」
 関盛信は一番後ろを付いて行っていいのか、と言いたげだ。
「叔父上。そう慌てずとも。城攻めの際は我らが先陣を務めようではありませぬか」
 焦る叔父を尻目に、忠三郎は相変わらずゆったりと構えている。町野長門守はその二人の会話をさりげなく聞いていたが、関盛信が離れていくと忠三郎に馬を寄せ、
「常の殿であれば、我先にと飛び出されておるころでは?」
「峠を越えるのは難儀じゃ。そう急くこともなかろう」
 どうも様子がおかしい。忠三郎は何食わぬ顔をしつつ、わざとゆっくりと進んでいるようにすら見えた。
 あたかも、すべてを知りながら責める気もない――そんな静けさがあった。
 長門には、その沈黙の理由までは分からなかった。
「長門…何か気になるか?」
「それは無論。殿がいつになく…」
「そうではない。少し止まって耳を澄ませ」
「は…」
 辺りを見渡すと周り中が雑木に覆われている。それらが不自然な程に静まり返っていた。
(何かとは…)
 寒々とした景色は見慣れた冬の鈴鹿の光景だ。何があるのかと、少し馬を進ませ、木々の向こう側まで目を凝らしてみていると、何かが聞こえた。
「あれは…」
 爆音に聞こえる。この先で何かが爆発しているようだ。
「長門!とまれ!」
 忠三郎の声が響き、長門守が咄嗟に馬の首を返すのと、先を行く人馬が爆音とともに吹き飛ぶのが同時だった。音に怯えた馬が暴れ、忠三郎が振り落とされた。咄嗟に身の危険を感じて傍の草むらに身を隠すと、銃声が鳴り響いた。
「あれなる草むらに敵がおる!追え!」
 足軽が数名、押っ取り刀で後を追うが、あの分では返り討ちにあいかねない。
(甲賀衆も敵か)
 これまで中立を保っていた甲賀衆が滝川方についたことがはっきりわかった。
「この分では先に行った筑前の軍勢は相当な被害であろう」
 まるで他人事のように笑ってそう言ったので、町野長門守はいやいや、と首を振り、
「殿、お味方に損害が出ているのに、そのように落ち着き払われては…」
 苦言を呈すると
「筑前は滝川左近一人を相手に七万も連れてきておる。大事ない。そうそう急ぐ戦でもない」
「は、されど雪解けには越前の柴田殿が挙兵されましょう。その前に伊勢を落とさねば今度は我らが危ういことに…」
「甲賀衆を相手に峠を越えるのじゃ。致し方あるまい」
 なんとも悠長な言いようで、慣れている筈の町野長門守でも返事に窮する。
「我らが先に進んでいたら…殿の首は胴から離れていたやもしれませぬぞ」
「さよう…それゆえ…」
 わざと出陣を遅らせ、秀吉の軍勢を先に行かせたのだ。
「若殿は呆れたお人じゃな」
「なんじゃ、長門。だし抜けに何を申すか」
「章姫様が伊勢に通じておることはとっくにお気づきのはず。甲賀衆を手引きしたのも章姫様じゃ。殿は何度もお命を狙われ、それでも章姫様の言いなりになっておる」
 長門守が怒ったようにそう言う。忠三郎は意に介せず、笑って聞いている。
「織田家の姫であれば、御台様がおられるというに、ご正室の御台様をないがしろにし、妹の章姫様にばかりご寵愛を注がれる。これでは姫様方があまりにお気の毒というものではありませぬか」
「長門。そう申すな。何を怒っておるのじゃ」
「城では殿が章姫様の色香に惑わされておると、皆、笑うておりまする」
 乳人子の長門守は忠三郎が笑いものにされていることが耐えられないと、そう言っているようだ。
「皆が…わかった、もうよい」
 なんとも都合の悪い話で、早く切り上げて行こうとすると、収まりがつかない長門守が話を続ける。
「殿は何故、そこまで章姫様に執着なさるか、己が分かっておられぬ」
「己が分かっておらぬとは?そのほうには何が分かっていると申す?」
 忠三郎には長門守が言わんとしていることが全くわからない。
 長門守は言ってよいものかと逡巡し、唇を結んだまましばらく黙っていた。
 やがて、思い切ったように顔を上げた。
「あの姫は…章姫様は、将監様によう似ておいででござりまする」
 忠三郎はハッとして息を飲んだ。
「あの目は将監様に瓜二つ。恐れながら右府様とは似ても似つかぬお顔立ち。殿はそれゆえに章姫様に…」
 思いもかけないことを言われ、忠三郎は怒ることもできなくなり、唖然として長門守を見た。
 言われるまで気づかなかった。
 長門守の言う通り、章姫は一益によく似ている。章姫を見ていると妙に懐かしくなるのも、そのためだ。懐かしさの裏に、いつも疼く痛みがある。章姫を喜ばせたくなるのも、章姫に去ってほしくないのも、一益に対する罪悪感や執着心なのか。岐阜の一益の屋敷に出入りしていたあの頃に戻りたいと、心のどこかでそう願っているのだろう。
「…だから、わしは、章殿が何をしても腹を立てぬと、そう申すか」
 胸の奥で、ひとつの音が静かに崩れた。
 長門守の目が、そうだと言っている。その分かりやすい態度に、忠三郎は苦笑して足元に視線を落とす。
「早う返すべきだったかもしれぬな、伊勢に」
「は…やっとお気づきで」
「されど、もう手放すことはできぬ」
「殿。それではあまりに姫様がお気の毒では」
 北勢と手切れになった今、ますます章姫に固執しているのは自分でもわかっている。
「章は章で、必死で戦っておるのであろうな。なんともいじらしいではないか」
 忠三郎が笑うと、長門守は呆れ顔になった。
「何度もお命を脅かされて、それでも章姫様のことを」
「言うな、長門。我が軍勢は無傷で峠を越えられる。何も案ずることはない」
 山間に爆音が響き渡る。峠を越えるには何日もかかりそうだ。
「峠の向こうから、誰かが笑っておるようじゃのう」
 忠三郎は誰にともなく、そう言った。
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――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

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