薬指に蜜の香りを

中原涼

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 歩くと二十分かかる道のりも、車なら十分と掛からないから不思議だ。僕はいつもよりも早く流れて行く景色を見つめながら、彼の車の中の匂いに神経を尖らせる。
 女性用の香水、珈琲の香り。
「ハンバーガー食べた?」
「相変わらずすげえな、昼に時間がなくてな」
 結崎は笑った。僕は「いいな」と呟き、記憶の隅にこびり付いている限りの、ハンバーガーの香りと味を思い出す。自分の家と商店街以上の世界をあまり知らない僕にとって、ハンバーガーは異国の食べ物に近い。幼い頃は両親から、身体に悪いと食べさせてもらえなかったので、高校に上がってから結崎に誘われて一度だけ食べて、それきりだ。
 悪い事をしているような、香りよりもインパクトのある味が面白かった記憶がある。
「次来る時は買ってくるな。三段重ねのでかいやつ」
「楽しみにしてる」
 そんな下らない話をしている内に山を一瞬で下ると、僕はいつもの商店街前に降り立つ。彼の乗る白い車体を手振って見送り、夕方少し前の商店街の入り口を見上げ、そう言えばお米が少し足りない気がすると思い浮かぶ。
 まるで取ってつけた様な理由を片手に握り締め、僕は商店街の通りに足を踏み入れた。
 商店街に入ると、肉屋からはコロッケや焼き鳥の香りが。八百屋からは青い葉の香りが。そして総菜屋からは個別には何をと言い難い程の色々なものが混ざり合った香りが漂い、目まぐるしい渦に嗅覚が飲まれていく。目は嘘を吐かないと言うが、香りも嘘を吐かない。
 いつも通りの通りを歩きながら、肉屋の前を通り過ぎて、八百屋の前で歩調を緩めて通り過ぎる。女将が近所の知り合いだろう女性と談笑しながら、大根をビニールに入れているのを横目で眺めて、あの香を探す。
 しかし、彼の姿もあの香りも、今日はどこにも感じられない。休みだろうか。大学生だと言っていたし、バイトばかりしていられないのかもしれない。
 そんな事を考えながら、少し落胆して通り過ぎ、いつもの米屋でいつもの銘柄を貰う。五キロ購入を決めて、いざ腕に抱えてみると、意外と重量があり驚くと同時に、自分のひ弱さに情けなさが込み上げてくる。そんな僕を見て、僕よりも倍以上年上の亭主に大丈夫? と声を掛けられてしまった。
 いや。持てない訳ではない。ただ、ちょっと米を抱えて、緩やかと言えど、坂道を二十分歩くのが億劫なだけだ。
「大丈夫です、ありがとうございます」
 引き戸を閉めて店を出ると、渡された紙袋を見下ろし息を吐く。よし、と気合を入れ直して持ち手を握り直すと、僕は長い山道に覚悟を決めた。
「柿園さん」
 背後から声が聞こえて振り返ると、
「お買い物ですか?」
 さっと通り抜けるような柔らかな風と共に、横に並んだ夏の香りに、心臓が跳ね上がる。今まで無視できた夏の温度が、今更じわりと肌から汗を吹き出させるように。
「安達君」
 自転車から降りて僕の隣に並んだ彼を見上げる。いつもの笑い方で、今日も変わる事ない夏の青い香りを彼は振り撒く。
「それ、良かったらかごに入れてくださいよ」
 そう言いながら彼は自転車の前かごから自身のリュックを取り出し背負うと、空になったそこを軽く叩いた。
「いや、申し訳ないよ」
「それ、米ですよね。良いから良いから」
 彼はそう言うと、僕の手から紙袋を軽々と持ち上げてすっぽりとそこに収めてしまった。
「柿園さんの家、あそこの天辺ですよね?」
 そう言いながら指さされたのは、見慣れた小高い山の頂上で。これは頷いて良いものかと迷っていると、
「ちょっと八百屋寄ってい良いですか? 送りますから」
 と、申し出られてしまった。
 流石にそこまでされるのは申し訳ない。いくら自転車とは言え、押して登るのは一苦労なはずだ。慌ててそれを断ると、彼は「ご贔屓にされてるんで!」と、邪気なく僕の申し出を撥ね退けてしまう。
 もっと強く断らなければ。そう思うのに、彼の人の好い笑顔に、出かけた言葉も声に乗せる前に、ぱらぱらと舌から零れて、地面に落ちてしまう。彼を前にすると、自分の意思というものがきちんと存在しているのか、不安になってくる。
 彼の香りや笑顔に気を取られ、ぼんやりしている間に、彼の優しさに流されてしまう。
 負担のなくなった両手を見下ろしていると、いつの間にか八百屋前に着き、ちょっと待っててくださいね、と安達君は早々に店の奥へと引っ込んだ。頷く事すら曖昧に、手持無沙汰に野菜を眺めていると、彼はすぐに黄色いファイルを手に戻ってきた。顔見知りだろうお客さんと軽い挨拶を交わし、女将さんに「また明後日」と手を振る。
「すんません。これ、明日の授業でどうしても必要で」
 そう言いながら彼の目的である黄色いファイルを振る。彼はリュックにそれを仕舞うと、
「さ、行きますか」
 と自転車を押し始めた。
「本当にいいの? 大丈夫だよ?」
 意を決して、もう一度そう声を掛けてみるが、僕より高い位置にある横顔は、案の定「平気平気」と向日葵のように笑う。僕はこれ以上言っても感じが悪いかもしれないと諦めて、結崎と車で降りて来た道を歩き、辿る。
 急な坂道ではないけれど、延々に続くのではないだろうかと思わせる、緩やかな坂道の重力はゆっくりと体力を消耗させる。――はずなのに、彼は息一つ乱さずに、大学の事や商店街の話をしてくれる。学校ではどんな友人に囲まれているか、商店街で起きたちょっとした事件、この時期のおすすめ野菜と肉屋の水曜だけ出るメンチカツ。彼の中には無数に話題の引き出しがあり、一つ一つ開けて出しても、尽きる事を知らないようだ。僕には到底できない。僕の持っている引き出しなんて、薬品棚にある引き出し以下だ。
「結構長い坂道ですね」
 ふと、坂道を半分程登ったところで、彼が呟いた。夏風がふわりと、彼の猫っ毛を柔らかく乱し、彼の視線を眼下の街並みへと誘う。安達君は「あそこが商店街ですね」と、ジオラマのような街を指先で辿った。
「いい景色っすね」
「うん、この道を散歩しながら買い物に行くのが、気分転換なんだ」
「へえ、分かります。遠くまで見渡せる」
 そう言いながら、遠くを見据える真っ直ぐな眼差しに、僕は下唇を軽く噛んだ。夏の光が彼の瞳に混じり込み、海の地平線を滑る光のような、神秘的な輝きを宿していた。
 すると、不意にその横顔に香りが立ち、僕の鼻孔を刺激した。
夏の香りにシトラスやムスク、イタリアの地中海対岸にあるチュニジアの太陽と真っ青な空が育む、爽やかなビターオレンジの花から抽出されるネロリ。それらを重ね合わせて、夏の海の地平線を踊る光をイメージする。僕は幼い頃見た、夏の海の朝焼けを思い出す。
 地名などは忘れてしまったけれど、家族旅行で訪れた、海の見えるホテルのベランダ。
遠くで瞼を押し上げるように登ってきた太陽が、橙や鴇色の光で海面を染めていく。海は一面生命の色で満ちていた。
「柿園さん?」
 名前を呼ばれてはっとすると、僕は頭を振った。お父さん、お母さん、と振り返る幼い僕が、心の水底に沈んでいく。
「ぼーっとしてた、ごめんね。行こう」
 小さく頭を下げて、僕はまた歩き出した。
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