薬指に蜜の香りを

中原涼

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 香料の図鑑が並んでいた。
 背表紙は不規則にでこぼこのまま並び、小学生に上がったばかりの僕は、それに規則性を探そうと躍起になっていた。僕は香りを作り出す父の背中を眺めながら、その手の本を手に取っては、読めない漢字を飛ばして、父のように読むふりをした。たまに振り返る父は、そんな僕を仕方がないな、というふうに笑っては、病弱な細い指先を、僕の髪に埋めて撫でてくれた。
 薬品棚には、触ってはいけないよ。
 父はそう言って本棚の上にある硝子戸を指差し、僕はそれに何度も頷いた。
 そして、父を失った今、その薬品棚は僕の薬品棚になり、本棚は背表紙の高さ順に揃えて僕の本棚となった。
「なあ由縁、お茶」
 僕の仕事部屋の前にある細い廊下の板張りに寝ころんでいた結崎が、スマホ片手に呟く。
「自分で勝手に取って来て」
 夏になると板張りのひんやりとした日陰の冷たさが丁度良いと、結崎は仕事の合間を縫って、僕の家の廊下を求めて転がりに来る。
 彼とは高校時代からの付き合いになるが、出会った十七の頃から三十の今まで、彼は律儀に毎年必ず廊下に横たわりに来る。無論、それだけではなく、何かと用事をくっつけてくるのは毎度の事で。
「予約やっぱダメか? 会社の奴、どうしてもお前の香水欲しいって」
 廊下からようやく起き上がった結崎が、一時間前と同じ質問をしてくる。
「結崎の分をキャンセルして良いなら受ける」
「残念だが、断っとくよ」
 そう言いながら立ち上がると、結崎はぺたぺたと脱ぎ散らかした靴下を隅に蹴り飛ばし、キッチンへと向かった。僕は先週常連から受けた追加の香水のレシピを再検討している。時期的に皆、汗をかいたり、日に当たる時間が長くなる。そうなると、同じ香水でも季節によって若干香り方が異なってくるものだ。指の間に挟んだムエットを香りながら、香料の調整と、新しい香料の足し引きをして、肌に乗せた時の香りを作って行く。
「なんか冷蔵庫充実してるな」
 不意に声を掛けられて振り返ると、二つグラスに麦茶を入れた結崎が戻ってくる。
僕はその言葉に何と答えるべきか、空気を濁しながら「まあ」と頷いた。差し出された麦茶を礼を言いながら両手で受け取り、本格的に始まった夏を歓迎するように、庭で求愛する蝉の声に耳を傾ける。庭に青く生い茂り始めたレモングラスの微かな香りが、冷たく湿った廊下に漂っている気がした。
「あとで作り置きしようかなって思って」
 そう取り繕うと、結崎は興味薄そうに「なるほど」と呟きながらスマホに視線を落とす。
「あ、そろそろ行かなきゃな」
 ついできたばかりの麦茶を一気に飲み干すと、結崎は靴下を履き直し、緩めたネクタイを締め直した。
「お前はどうする? 下まで行くなら乗って行くか?」
 唇を麦茶で濡らし、仕事部屋の机の前にある擦り硝子越しの庭を見つめる。モザイクの掛かった緑色が微かに揺れて、温かな陽の光がゆらゆらと木々の隙間を縫って降り注いでいる。まるで、海の中から見上げた太陽のようで、僕は目を細めてから、
「行こうかな」
 と、何の目的もなく呟いた。
「じゃあ出るぞ」
 いつの間にかだらしない結崎を脱ぎ捨てて、大人になった彼は、颯爽と踵を返し、背筋を伸ばし歩いて行ってしまう。
 僕は慌てて机の上の物を片付けると、結崎の後を追いかけた。

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