薬指に蜜の香りを

中原涼

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 久し振りに、夢の中に母が出て来た気がする。けれど、その表情は翳り、はっきりとした形は分からなかった。
ただ、母が最期に放っていた、造花のような甘苦い香りと、先の尖ったかなぎり声だけは、胸の真ん中に鮮明に残っている。
 僕はベッドから降りると、一階の台所へと向かった。冷蔵庫を開けば、昨日の夜作った油揚げと青菜のお浸しと、セロリときゅうりの浅漬けが残っていた。僕は浅漬けを手に、箸を持って、庭のある縁側に向かう。
 今日も暑い。
 じりじりと影を焼く太陽は、頭の真上まで辿り着くと、その強さを三層割り増しにして生命の追い立てる。
 硝子戸を開けば、微かなレモングラスの香りが、温められた空気の中に漂っていた。そろそろ摘み取ってあげないと。僕はそんな事を考えながら、茶色の箸できゅうりを摘まんだ。かりぽりと、子気味の良い音が微かな塩気の香りと一緒に、静かな庭に響く。
「柿園さん!」
 ふと呼ばれて顔を上げると、
「え、あ! ……安達君、おはよう」
 玄関の方から中庭へと歩いてくる安達君がいた。無条件に心臓が一度だけ小さく飛び跳ねて、僕は慌てて手櫛で髪を梳いた。
「あはは、寝起きっすか?」
「あ、ああ……うん、あんま見ないで」
 近寄ってきた安達君は、僕の寝癖に指先を絡ませて優しく微笑んだ。
「あ、食べる?」
 僕はタッパーに入っているセロリの浅漬けを持ち上げて彼に向けた。安達君はいただいます、と素直にそれを食べると、口の中でかりぽりと、僕と同じ音を鳴らす。
「うまい。これしその葉とか入れたらもっとうまいかも。あとで持ってきますね」
 安達君は長野から大学の為に上京し、一人暮らしをしているので、料理が上手く、時折こうして助言をくれる。
「いいの?」
「はい、俺にも少し食べさせてくれるなら」
 そうさらりと言ってのけると、硝子戸を少し開いて、彼は僕の隣に並んで座った。ここまで来る間、坂道で上がった心拍数が、彼の香りを強めている。僕の心臓が、その香りを目敏く見つけて、勝手に一人で先走る。
「柿園さんって、肌つるっとしてるね」
「え、そうかな?」
 僕は顎のやTシャツから伸びる腕を撫でて、手触りを確認する。けれど、いつも触れているせいか、特に違和感を感じる事はない。
 強い日差しに焼かれる腕が、じりじりと焦げ付く感覚がする。僕は眩しさに視線を落とした。
 不意に何処からともなく蝉が鳴き出し、先日掛けた風鈴が音を立てた。
「あ、いいですね。風鈴」
「なんとなく、夏になると付けたくなるんだ」
 そう言いながら二人で軒下にぶら下がる、水色の風鈴を見上げる。栞のように垂れ下がっている短冊が、緩く風に靡かれていた。子供の頃、夏祭りで父に買って貰ったという事以外は思い出せない。
「ねえ、柿園さん」
 呼ばれて顔を向けると、そばにあった体温が更に熱を増して、寄り添ってくる。
「あだちく」
 ――ん。
 名前を呼び終わる直前に、声が消える。蝉の求愛する声にかき消されるように。
 触れ合うだけの一瞬の口づけは、ほんの少しだけ冷たくて心地良い。微かに離れて、影の差すお互いの顔を見つめ合う。言葉は遠く、僕と安達君の間に、レモングラスと青い草と乾いた土の香りが漂っている。それから、唇や口腔内に残る、セロリの浅漬けの香りも。
「どんな香りがしてる?」
 安達君の掌が、僕の頬を包むように撫でる。
「レモングラスと、土と草の香り、それから漬物の香り」
 素直に告げると、安達君はもう一度優しく微笑み、唇を重ねてくれる。押し当てるだけの、子供が大人の真似事をするような仕草で。
 僕は手に持ったままの箸を指先で弄ぶ。それを止めるように、安達君の指先が僕の指に絡みつく。箸が膝に落ちて、転がって、縁側に落ちる気配がした。
 夏は猛りを増していくばかりなのに、どうしてこんなにもここは穏やかなんだろう。初めに大きくなった心音も、今はゆっくりと鼓動を刻み、幾度も交わす浅い口づけには心地良さしか感じない。
「安達君って、モテそう」
「モテませんよ」
 気の利いた会話じゃないのは分かっていたけれど、そんな話がしてみたくなった。安達君は小さく笑って、モテても意味ないと、小さな声で呟いた。
 ――僕等の間に、まだ「好き」と言う言葉は落ちてない。
 口にする機会は、初めて唇を重ねた時から、幾度かはあったけれど、何となく言えないまま、ただ会うたびに口づけを重ねていた。それが不純と言うなら否定はしないけれど、何となく通じているものが、僕と安達君の間にある気がした。
 けれど、それと同じくらい、何か僕達の間をはっきりと結ぶ言葉を零したら、今の関係が壊れてしまうな気もしていた。
 僕等は手の指を絡めながら、寄り添う。けれど、それに言葉はない。
 この関係はなんて名前なのだろう。
 この想いは?
 安達君は、男の人が好きのだろうか。
 そんな疑問が舌の上を滑って、喉の奥へと落ちて行く。
 僕は大きく育ったレモングラスの細長い葉に目を向ける。伸びた葉の密集した隙間に、赤ワインのような小さな花が見えた。
「安達君のそばって、好きだな」
 弱虫みたいに零すと、
「俺も、柿園さんのそばが好きです」
 と、肩に寄りかかった僕の頭に、こつりと彼のこめかみが当たる。その何気ない仕草が、胸い響き、そこから体温が上がっていく。
 空は高く青く、太陽を見れば眩しくて一瞬で残像が瞼の裏にはりついた。眩暈がする。ずっとこの場に漂っていたい。
 僕は彼の手を握った。安達君は同じ強さで握り返してくれた。
 これを、恋と呼ぶべきだろうかと、僕は自分一人では答えを出せないのを知りながら、眩しいと呟き目を閉じた。
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