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しおりを挟む「柿園さん、なんか可愛いのいる。ほら、映画にもなってたやつ」
そう言いながら手招きされて、小さな水槽を身を屈めて覗き込むと、白と橙の鮮やかな縞模様を身体に施したカクレクマノミが、小さな尾びれをしならせて、イソギンチャクと岩の間に身を潜ませていた。
水族館は潮の微かな香りと、水草の香りが絡み合いながら、足元に沈んでいる。海に感じる力強さはないけれど、その分穏やかで洞窟の中のような澄んだ自然の香りがする。海水、真水、水草、土、魚、蓮、土。ウッディ、カルダモン、アロマティック。
原生林の生い茂る深緑の奥底。小さな谷から滴り落ちる湧き水の一滴。生き物の香りは、調香では表せない生命が宿っている。
「今、香りの事考えてる?」
安達君が穏やかな顔で、僕を見つめていた。
「まだちょっと分からないけど……、なんか良い香りが浮かびそう」
「じゃあ、できたら一番に知りたい」
「勿論」
僕等はそれから東京湾に住む魚のコーナーを抜けて、水槽のトンネルに入る。悠然とトラフザメが、頭上を泳いでいく姿が見えた。しかし、鮫という言葉とは裏腹に、泳ぐ姿は優し気で柔らかい。僕は気の向くままに泳ぐトラフザメの腹を見上げ、その周りを泳ぐ熱帯魚が、留まる花を探す蝶のように見えた。
「柿園さん、今日何で水族館だったの?」
「テレビで青い海を見て、それで」
余りにも直感的な理由に、僕は自分でも子供みたいだと呆れてしまいそうになる。けれど、安達君はその理由で十分だという風に頷いてくれた。
「じゃあ次は海行きましょ、少し遠出してもいいし近場でも良いし」
次の約束に頷いて、横にいる彼の横顔を視線だけで見上げた。仄青く染まる彼の白い肌に、サンゴ礁の群青色の影が下りている。瞬きするたびに空気に起こるささやかな漣。それは僕が見る中で、一番美しい瞬きだった。
僕はその眼差しに、海の色を見つける。
そこには幼い頃の僕と、父と母が見えていた。どこの海なんてものは、忘れてしまった。ただ果てない地平線が、視界に収まらない位の広大さで、僕の目の前に広がっていた。
幸せだった記憶が、僕を傷つける。
右手に父、左手に母の温度。
「安達君……?」
「今は誰もいないから……」
前触れもなく僕の右手を握る彼は、だめ? と僕に視線で問いかける。
僕はゆっくりと胸の奥深くにある、僕も知らないような、けれど自分の中で一番大事な部分を、紐で締め上げられるような息苦しさを感じた。掌に滲むようにして溶け込んでくる彼の少し高い体温が、掌からゆっくりと全身に緩い波を立たせて広がって行く。
僕は不意に、理由もなく泣きたくなった。
何をしてでも、この幸せを離したくないと、心から感じて、それを伝えたくなる。
彼の顔に魚の影がゆらりと漂い、消えていく。視線が合うと、いや? と、何も言わない僕に彼は首を傾げた。
僕は彼と同じ力で、その手を握り返した。
「いやじゃない」
僕はしっかりと首を横に振った。喉が痛くて裂けてしまいそうだった。
彼に寄り添い、白いTシャツから伸びる腕に肌を寄せれば、彼の香りが少し冷え過ぎた館内の中で、温かく漂う。
恋だと思った瞬間に、焼けるような痛みが胸の奥に走るのを、はっきりと感じた。
人とすれ違う時そっと手を離し、二人きりだと分かればすぐに手を繋ぎ、僕等は薄暗い静かな深海のような館内をゆっくりと巡り歩いた。屋外に出れば、ペンギンが丁度巨大な水槽の中へ飛び込む寸前だった。彼等の生態を丁寧に話す飼育員の男性の声が響く。その隣ではアシカが日光浴をするように、岩場にその身を無防備に晒していた。
都内の水族館という事もあり、透明な水槽の向こう側は青い東京のビルが建ち並び、まるでペンギンが上空を滑空するように見えた。
「空飛ぶペンギンだ」
そう言いながら彼はスマホで写真を撮った。
「確かに」
僕も彼に習ってスマホを取り出し、写真を撮る。僕の写真の腕なんてお構いなしに、自動補正でそれなりに見せてくれる一枚の写真が、画面に映し出された。
「柿園さん、一緒に撮ろう」
そう言いながら僕の背に合わせて屈んだ彼が、顔を寄せてくる。カメラで自分を撮るのも、誰かに身を寄せるのも慣れなくて、笑ってという彼の要望に応えようと思いつつも、変な顔をしてしまった気がする。彼は映し出された一枚を満足そうに眺めてから、
「かわいい」
そう言って画面を向けてきた。
そこには自然な笑顔を浮かべる安達君に比べて、ぎこちなくはにかんでいる自分がいた。
恥ずかしくて僕は消して、と頼んだけれど、彼は絶対嫌と、譲ってはくれなかった。
消して。嫌です。お願い。聞けない頼みっすね~。意地悪いよ。無理っすね~。
そんな言葉を繰り返している内に、いつの間にか真剣な顔も抜けて、二人で笑っていた。
「好きな子には意地悪したいタイプなんで」
そう言うと、彼はポケットにスマホを隠した。僕はいつか消してやろうと、今は諦めると、彼の隣に並んで、ペンギンを見上げる。
なめらかに水中を泳ぐペンギンの群れが、頭上を激しく往来していた。水中から見上げるペンギンと青い空は、まるで夏のように輝いていた。
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