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しおりを挟む正直な話をすれば、兄と同居はしたくない。
したい、したくない以前にすべきではないと思う。けれど、未だ学生であり、誰かに援助されて生きている身として、頑なに歯向かう権利など、ないに等しいのも分かっていた。ならば一人で生きていけという話になってしまうからだ。
しかし、現実的な話、大学を中退して社会に出て高卒認定のみの資格で就職するという話こそ、俺の中では非現実的であった。
オメガは何だかんだと、社会的立場が未だに弱い。世の中では口々に「平等社会」を歌う世間様ではあるが、その世論を細かく分解した一つ一つの声は案外真逆だったりする。オメガにのみ付与される有給休暇や医療費手当などからくる、遠回しな差別やパワハラは、未だ随所に根強く染み付いているのが、この社会の現実だ。
つまり、世界や社会、団体や企業が掲げる「平等社会」というのは建前で、綺麗事に過ぎない。少数派でも、熱心にそう思ってくれる人は皆無だとは言わないけれど、少なくとも、就職した先輩の話を聞く限り、それなりのパワハラは不回避なのだろうな、と予測できた。
ならば、できる限りこの大学生の期間でやりたい事を決めて、資格等を取得していくのが生き方としては正しい事だろうというのが、オメガとして、生きる基本の道筋なのだ。
だから、大学は絶対に辞められない。
となると、誰かに生活を支えてもらわなければならない。
つまり結論付けると、俺は兄との同居を快諾して宜しくお願いしますと、頭を下げるのが、最も正しい選択なのだ。
俺は週末、問答無用で呼び出された赤坂のホテルのラウンジで、慣れない柔らか過ぎるソファに腰を沈めながら、久しぶりに会う兄、
「久しぶりだね、大きくなった」
――の高校時代からの友人で、同社の副社長をしているという、若林未來さんを前に、言葉を失いつつも、何とか笑顔を浮かべて頭を下げた。
しかし、久しぶりと言われても彼の事など記憶にない。同じ高校の同級生というから、もしかしたら兄の部屋に遊びに来て、その時に俺を見かけたのかもしれない。しかし、覚えていないが、兄に会うよりはまだ話し易い気がする。
吹き抜けのホテルのラウンジは、大きな窓ガラス越しに見える日本庭園の外、中央には大きな生け花がひっそりと息を潜め、深い真紅の絨毯は疲れた足を優しく包み込んでくれる。居心地は良いが、今の俺には場違いだ。
「今、兄さんの方取材が入っててね、家に連れて行くように頼まれているんだ。もう部屋の準備も整ってるみたいで、不備があれば何でも買いそろえてくれて構わないって話なんだ。一度見に行ってくれるかな?」
彫りの深い男らしい顔立ちに、くっきりとした二重の眼差し。そして笑うとできるえくぼは、俺から簡単に「嫌です」という言葉を剥奪してしまう威力があった。
「もう大学二年生だっけ?」
「はい、やっと先月成人しました」
そう言うと、彼は「おめでとう」と目を輝かせ、早いなあと感慨深そうに呟くと、真っ白なコーヒーカップを持ち上げ一口すすった。俺も習って同じように、ブラックのまま一口頂く。たぶん、俺が毎日のようにコンビニで頂く百円の珈琲よりは美味しいのだろうと思う。ゆったりと燻る湯気の中に香る、豆の香りを吸い込んで俺は、百円の珈琲が恋しくなった。
「緊張してるよね」
不意に聞かれて、一瞬空いてしまった間に、否定する機会を失うと、俺は苦笑いを浮かべて、少しだけ、と呟いた。
「そうだよね、何年ぶりになるのかな。お兄さんと話すの」
「えっと、まともに話すのは……五、六年ぶりですかね」
そんなに? と少し大げさに反応されるが、改めて考えてみれば、血の繋がった兄弟が五、六年音信不通というのも普通とは言えないだろう。
「それじゃあ、まあ……気まずさもあるし、緊張もあるよなあ」
「兄は、高校と大学ではどんな人でした?」
何となく気になって口にすると、若林さんは、そうだなあと逡巡してから、吹き抜けの天井を見上げた。天井からきらきらと零れてくるシャンデリアの光が、まる冬晴れの窓辺に差す陽光のように温かい色を纏っている。
「あんまり人に興味抱かず、って感じで、もの凄い勉強家だったな。大学で弾けるかと思ったらそそくさと起業するし。何事も全部早い上に用意周到な男だよ。今も昔も」
褒められているのだろうか、と思っていると、顔に出ていたのだろう。
「俺なりの賛辞です」
にっと笑われた。人懐っこい笑顔に少しほっとして、
「ありがとうございます」
と、俺は頭を下げると、若林さんは快活に笑った。
疎遠とは言え、兄を慕う気持ちは変わらない。相変わらず、気まずさを覗けば、尊敬もしているし、好きなのだ。だから、兄のそばにいる人が褒めてくれるとなれば、身内としては嬉しい限りだ。
俺達は早めに頼んだ珈琲を飲み干すと、彼の所有する車に乗り込み、ホテルを後にした。何処に向かうのかと聞いてみると、気軽に友人に教えたくない住所が返ってきた。
どんな金持ちアルファ捕まえたんだと、根ほり葉ほり聞かれてしまうような高級住宅街と名高い場所だったからだ。
「あいつ、光君と暮らすってなったら、治安が良い場所に引っ越した方が良いとか言って、三日で新居決めたんだよ」
「え、そうなんですか?」
驚いて言葉を失っていると、若林さんは得意気に口元に笑みを灯し、視線は真っ直ぐと前を見据えたまま、
「楽しみにしていたんだよ。相変わらず、表情の変化は乏しいけど、ありありと分かったさ」
そう何処か嬉しそうに呟いた。その笑顔は嬉しそうなのに、何処か安堵にも似た寂しさが見え隠れしていた。きっと表情の変化が乏しいという事に関して、若林さんは何かしら兄に対して思うところがあったのかもしれない。
俺は助手席に深く腰を沈めて姿勢を正しながら、若林さんと同じように前を見据えた。大きな四車線の脇に並ぶプラタナスの木々が、青々と生い茂り、陽の光を散らしている。人通りの多い都内一等地。ブランドショップが立ち並び、男性よりも女性が目立つ通りを真っ直ぐ進むと、不意に細い通りを左折した。暫く進むとカフェや雑貨店を通り過ぎ、住宅街へと入って行く。
「光君の大学から電車で三十分ないはずだよ。駅からも五分圏内だし、結構立地は良いと思う」
いや、それを抜きにしても立地は良すぎると思う。
冷静に胸の中で突っ込みを入れていると、大きなマンションの駐車場へと、車は静かに入って行った。灰色の無機質な箱のようなマンションは、洗練しつくされ、一切の無駄を省いたような外観だった。俺は先に玄関前で下ろされると、エントランス前で若林さんを待った。
数分すると、お待たせ、と現れた彼に案内されて、エントランスを入る。
俺は「ここはホテルか?」と首を傾げた。
エントランス中央に生けられた、大きな季節の和花が中国風の壺に活けられ鎮座し、外観の割に暖かな内部は、壁は白で統一され、随所の角や小さな椅子や机は優しい檜色の木目で統一されていた。
「ここの五階だよ。それ程階数はないんだ」
そう言いながら呆気に取られている俺を置いて、若林さんはずんずんと奥へと進んでいく。慌てて付いて行き、一緒にエレベーターで上がると、深い灰色の絨毯が敷き詰められた廊下が目の前に現れた。
「この階の一番奥」
大きな歩幅の彼を追いかける様について行くと、一番奥の部屋にカードキーを翳す。ロックが解除される音が聞こえた。
「はい、これは光君の鍵」
そう言われて向けられたカードキーを、思わず受け取ると、彼は何の躊躇いなく部屋に入って行く。人を感知して作動したライトがぱっと温かみのある照明で、白い大理石の玄関を灯した。俺は靴を揃えて中に入ると、若林さんの向かった部屋へ足を向けた。つるつると滑るような廊下を抜けると、開けた先は明るいリビングルームだった。
どう考えてもファミリータイプにしか見えない、広々とした部屋には大きなL字型の灰色のソファに、ガラスのローテーブル。広く敷かれた絨毯はぬくもりのあるクリームホワイトだが、壁は現代アートらしい良く分からないブルーのマーブリングされた絵が飾られている他、色というものがない。唯一の娯楽はテレビくらいだろうか。
「あいつにしたら物は増えたと思うんだけど、どうかな」
「これ以下ってあるんですか?」
「あいつ、テレビもソファもない机一つで生活してたよ?」
けろりと言われて、思わず「はい?」と聞き返すと、
「物に対して執着が全くないから、寝る布団以外は必要を感じないらしいよ」
若林さんは理解できないが、決してそれを否定する気はないようで、まあそれもあいつだからね、と朗らかに笑うだけで、さして問題でもないだろうと言った風だった。良い友人なのか、この人も少し変わっているのか、或いはその両方か。
この分だと料理も絶対にしてないな。俺はそう確信しながら、尋ねてみると、
「料理は、うまい料理を作れる奴が作るべきで、それが食材にとっても幸せだと思うんだ」
と、それはまるで誰もが認める正論のように、若林さんは胸を張った。
どうやら、似た者同士の仲のようだ。
その言い分も分からなくもないが、俺は同じように笑顔で賛同する事はできず、キッチンに向かった。大きなシステムキッチンには四つ口コンロが備わり、オーブンも食器洗い機も付いている。母さんが見たら大喜びだろう。
手元を明るく照らしてくれる照明を確認し、広々と取られた作業台に、その隣にある大きな冷蔵庫を覗くと、それが形ばかりのものだというのが分かった。水と酒しか入ってない。
俺はうんざりしながら扉を閉めて、食事は俺が作ろうと心に決めた。
ただで住む分恩返しは必須だ。この人間的生活の欠落がある分、補う事ができるというのは、ある意味好都合かもしれない。何かすべきことがあれば、俺も何もせず養われて暮らすより、幾分気楽だ。
「光君、部屋見てくれる?」
振り返ると既に若林さんは別の部屋にいるようで、慌ててリビングを出ると、一つ手前の部屋に入った。十畳ほどの真四角の部屋には、既にベッドと勉強机が備え置かれ、深い緑色のラグと、ベランダに通じる窓辺には観葉植物が備え置かれていた。頑張って人間味を出した兄の努力の結果のようで、その緑の青々とした葉が微笑ましい。
「何か必要な物、他にあるかな?」
俺は部屋に入ると、辺りを一通り確認するように視線を巡らせてから、
「ありますね。付き合ってくれますか?」
と、若林さんに振り返った。
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