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しおりを挟む——それ以降、俺のオナニーネタは、あの兄との過ちになった。
中学から高校に上がり、色々と性についても調べたし、恋愛が全くなかったわけでもない。それなりに男女、アルファ、ベータとも過ごしてきた。けれど、あの夏の日に勝る情熱や劣情は訪れなかった。相手を愛おしいと感じる想いはあるし、心地良さや安堵もある。それなのに、あの身体の芯から発火するような情欲と、兄の腕に抱かれた時の、安堵感は何処にもなかった。
俺はティッシュに吐き出した無駄な欲を眺めてため息を吐くと、それを丸めてゴミ箱に投げ捨て、ベッドに身体を沈めた。
有無を言わせず、俺をベッドに沈めた力強い大きな手。まだ自分ですら触れた事のなかった乳首を、摘まんだり弾いたり、それでいて羽を触るかのように微かに触れて、俺を翻弄する指先。躊躇いなく何処にでも押し当ててくる形の良い唇。躊躇いながらも、それでも真っ直ぐに俺を見つめてくれる眼差しが、今も心臓の奥底に焼き付いて離れない。
俺は寝返りを打ってスマホを起動させると、インターネットで「北村聖」と検索した。トップに出て来たのは、株式会社リールエッジという会社の公式ホームページと、その下には数枚の雑誌記事の写真が並んでだ。
アルファの兄は、周りの期待を決して裏切る事のない出世街道を邁進して、大学生で起業。今もアパレル会社の運営で、その才能を開花させている。実店舗数件のみの通販に特化した会社だ。俺の大学の友人も、数名利用者がいるから聞いてみたら、決して小さな会社ではないらしいし、評判も良い。
非の付け所がない、自慢の兄だ。
――そんな兄と、一度過ちを犯した。
小さな画面の中で、上等そうなスーツを着て、対談に挑んでいる精悍な顔を、そっと指先で撫でる。俺はこの誠実そうな表情の裏に隠れた、獰猛な雄を見たのだ。
そう思うと、胸の奥が疼いて、腰を掴んだ兄の手の強さを思い出す。
罪悪感を覆い隠すほどの何かが、胸の中を甘く締め上げ、俺の呼吸を詰まらせた。
けれど、そんな熱を上げても、あの過ちは二度と訪れはしない。
その後、当たり前ではあるが、俺と兄はぎくしゃくした関係になってしまったのだ。
血の繋がった兄弟同士、いくらアルファとオメガで性欲を抑えきれなかったとしても、血縁関係を、冷静になった頭で無視する事はできない。単なる事故だと処理をするには、余りにも事実が深過ぎた。
そして何より、母に対して申し訳が立たない。両親が離婚して以来、オメガの母は俺と兄を懸命に育ててくれた。それなのに、母が仕事をしている最中に、とんでもない過ちを犯してしまったのだ。
それまでは、それなりに仲の良い兄弟であったと思う。
俺は兄を尊敬していたし、兄も俺を可愛がってくれていた。だから兄にとっても、俺は申し分ない弟で居たと思う。
なのに。
あの時、薬さえちゃんと服用していれば、俺達は真っ当な兄弟でいられた。母に対してこんな罪悪感を抱かずに済んだ。
今もなお、胸を甘く締め付けられ、焦がれる事もなかった。
胸に去来する後悔を消すようにスマホを投げて、俺は寝返りを打つと枕に顔を押し付けた。
今の兄はどんなふうに、俺を呼ぶだろう。そんな事を想像してうっとりしていると、部屋のドアがノックされ、俺は飛び起きると緩んだデニムの前を整えてベッドから降りた。
オナニー覚えたての中学生でもないが、さすがに余韻がまだ残っている分気まずい。
「なに?」
俺は自らドアを開けて、部屋を出た。
今はちょっと誰も居れたくない。
俺が少し慌てていたのが気になったのだろう、閉まりかけのドアの中を覗く仕草をしてから、目の前に居た母は、
「なあに、隠し事?」
なんて揶揄ってくる。
「そんなんじゃないよ。今勉強してて机の上とかすげえ汚いの」
適当な言い訳をこじつけて、それよりなに? と話が逸れる様に促すと、
「ちょっと話があるの、いい?」
と、すぐに俺の部屋に興味をなくしたように、母は少しだけ真面目な顔をした。
家族の中では一番明るく笑顔の多い母にしては、神妙な顔つきだと違和感を感じながら、俺は促されるままにリビングへと向かった。
複雑な思いで淡いグリーンのソファに腰を下ろすと、改めて「なに?」と慎重に顔を覗き込んだ。
隣に座った母は、少し言葉を淀み、何かを選んでいるように視線を泳がせてから、俺を真っ直ぐと見詰めて来る。何か覚悟を決めているような眼差しに、一瞬たじろぐと、
「再婚しようと思うの」
そう一息に母が言い切った。
「さいこん?」
予想外の言葉に、思わず鸚鵡返しをすると、母は深く頷き、俺とよく似ていると言われる、丸い瞳を少しだけ細めた。
「運命の相手なんて、信じちゃいなかったんだけど……見つけたの。お兄ちゃんも立派に育ったし、光もこの前二十歳の誕生日を迎えたでしょう? それで相手の人と相談して、そろそろ良いんじゃないかって」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ。いつからその話出てたの?」
寝耳に水という言葉はまさにこういう事なのだろう。そんな浮いた話、一度も聞いた事なかったし、母の素振りからもそんな事は一切読み取れなかった。
「貴方が高校生くらいの時かな。勤め先の上司の方でね。貴方も多感だろうからって、二十歳までは言うのは止めようって決めてたの」
母は優しく諭すような口調で、それでいて許しを請うような声音で言った。
「知らなかった」
驚きが隠せないまま呟くと、まるで悪い事をしてしまった子供のような母の丸くなった肩に、俺は慌てて頭を振った。
「全然分からなかったよ。おめでとう」
俺は素直にそう告げた。
驚きはしたが、ずっと一人で頑張って育ててくれた母には、幸せになってもらいたいのは本心だし、そんな相手が母にも現れた事が嬉しかった。いつも幸せそうに、仕事が忙しくても笑顔を向けていてくれたのだから、これからは人の二倍も三倍も幸せにゆっくり過ごしてほしい。
母は緊張したように張っていた肩を下ろして、小さく息を吐いた。
「それでね、お兄ちゃんが貴方に話したいことがあるって言うんだけど、一度連絡取ってあげて欲しいの」
兄が?
その一言にどきりとする。何故、という単語が頭の中を飛び交うと、母はそれを見抜いたように、
「一緒に暮らさないかって言ってたわよ」
とさらりと告げて来た。
「は? 俺と兄さんが?」
余りにも無縁な組み合わせで、思わず問い返すと、母は「貴方たち仲悪い訳じゃないでしょう?」と、前置きをして。
「いつからか話さなくなったけど、小さい頃は仲良かったじゃない」
そう言われると、言い返す言葉が見つからない。確かに幼い頃は仲が良い兄弟だった。俺は兄に懐いていたし、彼もまたそんな俺を邪険にする事はなかった。何があっても「仕方ない」という魔法の言葉で許してくれていた。
もう魔法は使えないけれど。
母はソファから立ち上がると、キッチンで紅茶を入れてきてくれた。湯気の立つマグカップを受け取り、息を吹きかけると白いそれが揺らいで滑らかな曲線を描く。
「お兄ちゃんと何かあったの?」
「なにも。ただ思春期で話せなくなったっていうか……」
もごもごしながらも、それらしい言い訳が出て来た事に安堵して、俺は飴色のそれを口に含んだ。母好みの、蜂蜜をたっぷり入れた甘い紅茶だ。
「じゃあこれを機会に歩み寄ってみたらどう?」
――まずい展開だぞ。
俺は反論の余地をじりじりと削られていく感覚に、ただ苦笑いを浮かべた。指先でカップの縁をなぞりながら、ああだこうだと考える。
「とりあえずお兄ちゃんには貴方の連絡先聞かれたから教えたけど……貴方達、連絡先位交換しなさいよ」
そう言えば新しくスマホを変えたと同時に、携帯会社も変えてしまい、番号が新しくなったのだった。しかもそれは大学一年生の春の話だから、もうかれこれまともに一年以上は連絡を取ってないらしい。改めて疎遠なのだと実感して、なんとなく「ごめん」と謝ると、母は紅茶を啜った。
「お兄ちゃんに貴方から連絡するなら、教えるわよ?」
そう言われて断ると、俺はマグカップを手に立ち上がり自室へと戻った。
いつか分からないけれど、兄から連絡が来る。そう思うと、胸の奥から歯痒い想いが湧き上がってきて、妙に落ち着かない心地になってくる。そんな訳ないと思いながらも、浮足立っている自分がいるのを否定できなかった。
けれど否定しなくてはいけない。
そう自覚して喜びが溢れると同時に、どろりとした罪悪感が湧き上がり、幸福の輝かしい光を汚した。
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