遠い海に消える。

中原涼

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「電車は無理だし、タクシー捕まえるか」
 そう提案されて、頷く。落ち着けば、タクシー位は乗れる気がしてきた。薬を飲んだ安心感と、誰かがいると言う事に、心の底から安堵して、俺は隣に座る征人に寄りかかる。
「ちょっと休んでから動こう。薬もすぐに効くわけじゃないからさ」
 そう提案されて頷くと、机の上に置いてあったスマホがブーっと音を立てて体を震わせた。二人でびくりとしてその方向へ目を向けると、征人が手を伸ばして、取ってくれる。
 征人の表情が画面を見て、複雑そうに歪んだ。俺は渡されたその液晶画面を見て、ああ、と言葉に詰まった。
 兄からだった。
 俺は少し迷ってから、通話ボタンを押して、ゆっくりとそれを耳に当てた。
「もしもし、光? 授業まだか? なら少し話しをしたいんだけど」
 落ち着いた兄の声音に、自然と胸の奥が温かくなった。声を聴いただけなのに、自分が今何を求めているのかが、痛い程分かる。
「ん、なに。大丈夫だよ」
 俺は大きく息を吸ってから、できる限り落ち着いた声音を絞り出した。
「……お前何があった?」
 俺は言葉に詰まってしまう。
 まさかこんな一言で見破られてしまうなんて、予想外だった。俺は、なんのこと? と空とぼけてみたが、
「誤魔化すな、どうした」
 兄の勘というものだろうか。いくら誤魔化そうとしても、話を戻されてしまう。
「いい加減吐け。お前具合悪いだろ、少し息が上がってるぞ」
 なんでわかるんだ、そんなこと。
 はっきりと言い当てられると、もう隠すのにも限界を感じて、征人に視線を流した。彼は先を促すように、俺の背中を強く撫でてくれる。俺は迷ってから、今の状態を伝えた。
「……どこの駅。友達から薬貰ったんだな? ホントお前、どうしてそういうとこ抜けてんだよ」
「うるさいな、俺だって好きで」
「駅名早く言え」
 急かされると、俺は躊躇ってから大学二つ前の駅名を言った。兄は短く「二十分で行く」と言って、通話を切った。
「お兄さん、なんて?」
「怒って、俺の事抜けてるって」
「まあ、そう言うよね」
「迎えに来るって」
 来ないで欲しいのに。
 俺はスマホをテーブルに戻した。征人は何も言わずに俺の背中を撫でてくれる。
 その優しさが、背中を押してくれた気がした。俺は喉元で堰き止めていた言葉が、今にも出ていきたいと叫んでいるのを感じた。抗いがたいその衝動に、唇が震える。
 俺は祈るように手を握った。震えるほどに。
「俺、この前兄さんと寝たんだ」
 何の切っ掛けもなく、堰き止めていた思いが口から零れた。吐露した事実に、下腹に溜まっていた黒い塊が、すっと姿を消したような気がして、俺は深呼吸をした。肺に空気が満たされると、こんなに俺の中に奥行きがあったのかと思う程、呼吸の通りが良くなる。
 征人の背中を摩る手が、一瞬戸惑う様にぴたりと動きを止めたが、
「そうなんだ」
 と言う声と一緒に、再び背中や肩を撫でてくれた。俺はその優しさに甘える様に、喉元で我慢していた言葉を、迷い、選びながら声にした。最初のきっかけも、それ以来兄を意識してしまって、何度忘れようとして失敗した事も。自分が浮かれていた事も。
 本当は誰かに言いたくて、聞いて欲しかったものが、ぽろぽろと零れていく。
「なんで一緒に暮らしちゃったんだろう。こうなるって、何処かで分かってたはずなのに」
 別の道だってあったはずなのに。
 俺は涙の代わりに自嘲とため息を零した。
「仕方ないんじゃない。二人とも、我慢できなかったんだよ、本当は」
 優しく背中を叩かれて顔を上げると、征人が笑っていた。
「本能は剥き出しの心だと思うよ。そこで一緒に居たいって二人で思ってたんだから、仕方ないじゃん」
 性に翻弄されるだけならば良かった。対処法はいくらでもあるから。
 けれど、心に効く薬はないのだ。
 兄が良いと思った気持ちを誰かにすり替える事なんて絶対にできない。
 ――そうか、俺はきっと、真夏のあの日から運命の中に放り込まれていたのだ。
 俺は幾分落ち着いた呼吸で、征人を見た。
「運命って残酷だな」
「でも、幸せだよ」
「……うん、知ってる」
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