遠い海に消える。

中原涼

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 家に帰り着くとすぐに、自分の抑制剤を摂取した。兄は俺が薬を飲むのを確認すると、仕事があると、そのまま踵を返して家を出て行こうとした。
 全ての手際の良さから、本当に忙しい合間を縫って来てくれたのは分かるすぐに背を向けた兄を、これ以上我儘を言って引き止める事もできず、申し訳なさに俯いていると、兄は出て行く際、俺の頭を一度だけ撫でて、
「仕事終わったら、帰るから」
 と約束をくれると、久し振りにその顔に笑顔を見せてくれる。
 わざわざ言わせるなんて、そんなに情けない顔でもしていたのだろうか。俺は一度だけ頷いて、去って行く兄に手を振った。
 がらんとした一人きりの部屋。
 薬が効いているとは言え、気怠く火照る身体の不調は変わらない。俺は重い身体を引きずって部屋に戻ると、ふとある事に気付いて足を止めた。俺の向かいになる兄の部屋。
 俺は少し考えを巡らせてから、そっと彼の部屋のドアノブを握った。
 帰ってくる前に少しだけ、この部屋に居れば、落ち着く気がする。俺は罪悪感を抱えながらも、誘惑に負けて部屋の中へと忍び込んだ。
 白い壁にフローリング、灰色のラグマットに何度か夜を一緒にしたベッド。
 心臓が脈拍を上げる。
 俺は兄のクローゼットから、少ない衣服を何着から拝借して、抱き締めると、その香りを胸一杯に吸い込んだ。兄の香りで肺が満たされると、今までに感じた事のない恍惚感が体中を支配する。ベッドサイドに見つけた兄の香水を持ち上げると、己の首筋に一吹きした。朝に嗅ぐ、兄の香りが触れる空気全てに溶け込んでいく。
 俺は兄のベッドの中に深く潜り込むと、彼のシャツを抱き締めながら、冬眠をしている動物のように背中を丸めて目を閉じた。
 幸せだ。兄に抱き締められているみたいだ。
 蕩けてしまうような幸福感に、身体を抱きとめてくれるベッドの柔らかさが心地良い。
 俺はうとうとと微睡ながら、戻らないとと何度も自身に言い聞かせる。けれど、そんなのは言葉だけで、俺はいつの間にかするりと夢の縁から真っ逆さまに落ちていた。
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