遠い海に消える。

中原涼

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 目が覚めると、窓の外はすっかりと夜の袖の内側にいた。俺はゆっくりとベッドから起き上がると、足音を忍ばせながら、部屋の扉を開く。
 明らかに寝すぎた気がする。
 部屋の扉を開くと、短い廊下の明かりがついていて、その人工的な光に目を細めた。部屋を出て耳を欹てると、リビングの方から、水音が聞こえて来た。
 兄が帰ってる。
 俺は慌てて短い廊下を進んで、リビングの扉を開いた。
「よく眠れたか?」
 声を掛けられて肩を揺らすと、キッチンのカウンター越しから兄の顔が覗いた。
「ごめんなさい、部屋」
「いいよ、それより薬は?」
「まだ効いてると思う」
 そう言うと兄はキッチンからの俺のそばに寄ってくると、身を屈めて鼻先を近づけて来た。
「まあちょい危険って感じだな。俺ちょっと今日はホテル泊るから」
 俺にははっきりと嗅ぎ取れない何かを読み取って、兄は少しだけ苦笑いを浮かべた。それからカウンターに置いてある車のキーを掴んでしまうので、
「もう行くの?」
 思った以上に心許ない声で、縋ってしまった。
「分かってくれ」
 その一言に俺は言葉を取り上げられたように、何もかも見失いそうになる。
「レトルトだけど、粥そこにあるから食えよ。そんで薬な」
 きっちりと一線を置こうとしてくれている兄の好意に、心が傷つけられたような、身勝手な痛みを感じた。
 俺は視線を流して、キッチンのシンクの上で、湯気を上げているおかゆを見つける。料理をしない兄が、俺の為にと作ったそれが、眩しくて、嬉しくて、切なかった。
 俺は兄の服の裾を掴んだ。
「……大丈夫、もし不安ならあのオメガの子呼べ。俺は当分帰らないし、でもお前の生活の保障はきちんとする」
 そうじゃない、そう言いたいのに、唇が動かなかった。その間にも、兄は勝手な事をべらべらとまくし立てて来た。
 もう二度と会いませんと言う、契約書を読みたてる様に、正確で分かりやすく、じわじわと真綿で俺を締め上げてくる。
「兄としてやれる事は全部したいから、させて欲しい。この家はお前が卒業までは好きにしていい」
 違う、そうじゃないんだ。
 俺は首を横に振る代わりに、兄の服の裾を強く握り締めた。
「光、離しな」
 家族と言う形を守りたいと願った俺を、兄は兄弟という枠からはみ出さないと、誓ってくれた。俺が全て望むように、俺が生きやすいように。
 それなのに、今兄がこの場所から居なくなる事が耐えられない。俺を思ってくれているのに、聞き分けのない子供のように、胸の内が騒いでる。彼を離したくないと、叫んでのたうち回っている。
 どうしてこんな事になっているのだろう。
 どうして兄弟なんかに生まれたのだろう。
 何度となく運命を憎んだ。そして、今も憎み続けながら、それでも彼を、愛してる。
「光、もう行くから、これ以上一緒にいるのは」
 俺の手に兄の手が掛かる。真夏の手が、触れる。熱くて、ずっと求めていた。
 俺は堪え切れずに背伸びをして、兄の唇に唇を重ねた。一瞬だけ触れたそれに、兄の眼差しが固まり、信じられないものを見るかのような目で、俺を見つめていた。
 どうして、何故、そんな疑問が溢れる眼差しに、
「ごめんなさい」
 と俺は呟いた。それ以外の言葉が選べなかった。兄に対して、周りにし対して、母に対して。もう謝罪の言葉以外が浮かばない。
「今もどうしたら良いのか分からないけど」
 答えも光りもないのは分かっている。それでも何かしら答えを見つけて区切りを見つけて、さよならと手を振るのが正しいのは分かっているけれど、そんな事は、初めて身体を重ねたあの日から痛い程に分かっていた事だったけれど。
「でも兄さん以外に、運命なんてない」
 身体も心も、こんなに誰かを求めた事はない。きっとこれからも、こんな思いはしない。何の根拠もないけれど、確信を持って言える気がした。
 ――彼が、運命の人だ。
「ごめんなさい、……好き、好きなんだ」
 そう呟くと、突然強く抱きしめられた。はっと目を開くと、そこは既に兄の腕の中で、俺が見上げると、兄は泣き出すのを堪えてる子供みたいな顔で俺を見下ろしていた。目じりに微かに滲んでいる透明な雫を見ると、心が締め付けられて、息が喉の奥で止まる。
 ひたすらに謝りたく、それでいて許してもほしかった。
「兄さん」
「ごめん、好きだ」
 兄の言葉に心の一番奥にある何かが喜びに震える。
「うん、俺も好きだよ」
 俺達はどちらからともなく、ずっと昔からしてきたことのように、ゆっくりと唇を重ねた。その瞬間、身体が燃え上がったように体温を上昇させるのを感じた。熱い。心臓も肌も、触れた場所から細胞が焦げて行く。
 何もかも燃え尽きた後、きっと残るのは兄への好きだと思うこの気持ちだけだ。
 俺達はもつれる足で兄の部屋に戻ると、お互いの服を荒い手つきで脱がせ合った。今まで抱き合っていても我慢していた言葉が、自然と解放され、心も体も隠す場所がどこもなくなるほど、俺は何の弊害もなく、
「大好き」
 と、兄の背中を抱き締めていた。
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