25時をこえても、君といたい。

中野森

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25時をこえても、君といたい。

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 最初は、白昼夢でも見ているのかと思った。

 目の前の景色がふっと暗転し、気づけば世界には自分ひとりだけが取り残されていた。 
 どこまで歩いても、肌理の細かい、冷たい闇が続く。 
 けれど、不思議と怖くはなかった。むしろ穏やかで、静かな安らぎすらあった。

 しばらくすると、まるで深い眠りから覚めるように現実へと戻る。 
 そして気づいた――この現象は、いつも24時ちょうどに起こるということに。

 腕時計を着けて確かめると、暗闇にいるのはぴったり1時間。 時計の針が1時を指すと、世界は何事もなかったかのように0時から動き出す。
 つまり、僕だけ“25時”を過ごしているということだ。

 ただし、その“25時”は気まぐれにしか訪れない。 前回起きたのは、たしか数か月前。
 今日もまた、静かにひとりでその1時間を過ごすはずだった。この、誰にも侵されない僕だけの時間を――

 ――声が聞こえた。

 女の人の声だ。 濃い闇の中、かすかに旋律が揺れている。
 どこか懐かしいような、寂しいような歌。

 僕は思わず息をのんだ。 この空間で“自分以外の音”を聞いたのは、初めてだった。

「……誰か、いるんですか?」

 歌がぴたりと止まる。

「僕の声、聞こえてますか?」

 少しの沈黙のあと――

「……聞こえてます。あなたの声」

 はっきりとした返答に、心臓が跳ねた。会話が、できている。

「そっちに行ってもいいですか?」

「……少しだけなら」

 その声には、かすかな警戒と、同じくらいの興味と期待が混ざっていた。
 僕は声のした方へと歩く。 足音だけが闇に吸い込まれていく。
 まるで、この闇が僕らの存在を試しているように。

「この辺り、ですか?」

「……はい。ここにいます」

 だが、どれだけ目を凝らしても、誰の姿も見えない。

「……どうやら、姿は見えないみたいですね」

「私からも、あなたは見えません。不思議……本当に、いるんですね」

 声だけが、確かにそこにある。
 まるで魂だけが世界に残されたような感覚だった。

「ここで誰かと出会うのは初めてです。よければ、このまま話しても?」

「うん……私も初めてです。いいですよ」

「じゃあ、ここに座りますね」

 言ってから、ゆっくりと腰を下ろした。 
 闇の向こうで、彼女が小さく頷いた気がした。――見えないけれど、確かに、そこにいる。

「僕は――佑也。高校三年生で、東京に――」

「あれ……? いま、何かノイズが……」

「え?」

「途中から、よく聞こえませんでした。高校三年生の後」

「もしかして、住んでる場所が聞こえない? 東京に住んでるって言おうとしたんだけど……」

「私も言ってみるね。私は――明日香。同じく高校三年生で、――」

「うわっ……急に変な音がした」

 互いに笑ってしまう。 どうやらこの空間では、個人を特定できるような“現実の鍵”となる情報は、あまり伝えられないらしい。

「……不思議な場所ですね」

「あの、同級生だしタメ口にしない?」

 彼女が少しだけ笑ったような気がした。
 闇の中で見えないはずなのに、その無垢な笑顔が確かに浮かんだ気がした。

 それから、僕と彼女は、この不思議な空間での秘密の交流を何度も重ねるようになった。
 会えるのは三回に一度くらい。 会えない夜は、ただ闇の中で彼女の声を思い出して過ごした。

 受験の愚痴、将来の夢、好きな映画。
 他愛もない話を沢山した。

 季節がいくつも巡るうちに、僕たちの話題は少しずつ変わっていく。
 大学、就職、仕事の疲れ、日常の小さな悩み―― いつのまにか、彼女と過ごす“25時”までのたった一時間が、僕の中でいちばん静かで、あたたかな時間になっていた。

 顔も知らないのに、声を聞くだけで心が落ち着く。
 彼女が笑うと、自分まで笑ってしまう。
 いつからか、もう恋をしている、そんな自分に気づいていた。

 時計の針が一時を指すと、世界はふっと現実へと戻る。そのたびに胸の奥が少し痛んだ。
 どうか、あともう少しだけ――そう願っても、時間は容赦なく僕らを切り離す。

 彼女と出会ってから、もう五年以上が経っていた。
 最近は、あの場所に行ける日が減ってきた気がする。
 最後に彼女の声を聞いてから、もう三か月が過ぎていた。

 どれだけ現実での時間が進んでも、僕の中ではあの一時間より輝くことはない。
 彼女に会いたい。次に会えるのはいつだろう。もう会えなかったら?
 無情にも時ばかり過ぎていき、不安は募る一方だ。
 自分ではどうすることもできない状況に、ただ胸を締め付ける痛みを感じるしかなかった。

 25時の世界は気まぐれで、呼ばれるときもあれば、まったく訪れない夜もある。
 それでも、24時を迎えるたびに胸がざわついた。
 今日こそは行けるだろうか――そんな期待を、もう数え切れないほど繰り返してきた。

 そんな夜、会社の飲み会があった。
 二次会まで付き合わされ、解散したのは23時半。アルコールのせいで頭が少しふらつく。
 駅へ向かう夜道、冷たい風が頬を刺した。

 前から女の子二人組が歩いてくる。 そのうちの一人と、何気なく目が合った。
 その瞬間、呼吸が止まった。
 ――わかった。 見たことがないはずなのに、声も姿も知らないはずなのに、 なぜか、それが彼女だと確信した。

 世界が、音もなく闇に呑まれる。 時計の針が、ちょうど0時を刺していた。
 静寂に包まれた闇の中で、先ほど目が合った彼女が立っていた。

「……明日香、だよね?」

「うん。佑也……まさか、本当に……」

 ずっと姿の見えなかった彼女が、いま、目の前に。

「会いたかった」

「私も……。これ、夢じゃないよね?」

「たぶん、そう信じたい」

「姿が見えるの、変な感じだね……」

 彼女の一言で、僕は顔を覆った。

「えっ、なに?」

「最悪だ……酔っ払いのくたびれた状態で会うとか……」

「ふふふ。スーツ男子って良いと思うけど?」

「そ、そうか」

 たまたま客との打ち合わせがあり、スーツを着ていた自分を褒めたかった。

「ねぇ、私はどう?イメージと違った?」

「想像通り、いや、想像以上に……かわいいかも」

「ちょっと、からかわないでよ!」

 誓って本心なのだが、照れた彼女はさらにかわいかった。

「見えるってことは触れられるのかな?試してみても良い?」

「……いいよ」

 そっと手を伸ばした。指先が触れた瞬間、確かなぬくもりが走る。

「……ほんとに、実在するんだ」

「うん、いるね」

 いつの間にか、自然に笑っていた。
 あの見えなかった空間の中で、何度も想像していた笑顔が、いま僕の目の前にあった。

「伝えたいことがあるんだ」

 彼女は黙ってうなずく。その瞳の奥に、同じ光を見た。

「好きです。ずっと前から、ずっとあなたが好きでした」

「……私も。同じ気持ち。ずっと、言えなかったけど」

 世界が静まり返る。時計を見ると、0時55分を指していた。

「そろそろ時間だね」

「やばい、緊張する。どうしよう、全然違う世界に飛ばされたら」

「縁起でもないこと言わないで!」

 彼女は祈るように両手を組んだ。 俺も真似をし、両手を組む。

 いつもはあっという間にすぎる時間が、やけに長く感じる。

「ねぇ、手繋がない……?」

 僕の提案に彼女は頷き、そっと手を出してくれた。
 その手に自分の手を重ね、ぎゅっと握る。

 そして――

 暗闇が溶け、現実の街の灯りがにじんだ。

 次の瞬間、僕は地面の上に立っていた。 数メートル先に、彼女がいる。

 たまらず駆け出し、強く抱きしめた。

「えっ……!?なに!?」

 彼女の隣にいた女性が、声をあげた。

 僕と彼女は顔を見合わせ、歓喜に満ちた笑顔を交わしあった。

「……夢じゃなかった」

「うん。現実だよ」

 僕らはスマホを取り出し、連絡先を交換した。
 その光景があまりに現実的で、なんだか笑えてきた。

「ちょっと、二人の世界に入らないで!説明して!」

「えーっと彼氏の佑也、だよね?」

「佑也です。よろしくお願いします」

「……え、いつの間に彼氏できたの?」

「ついさっき!」

「いや、ほんと意味わかんない!」

 こうして、僕と明日香は恋人になった。
 それ以来、僕たちはあの不思議な空間にいけていない。
 ――あの25時は、僕らのための、特別な時間だったんだ。

 ***

「ねぇ、なに考えてるの?」

「かわいい妻と出会えた、あの不思議な時間のことをね」

「ふふ。あれがなかったら、私たちは出会えなかったもんね」

「そうだな。でももう24時を待たなくても、会える」

「25時をこえてもね」

 僕らは笑い合った。
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