不思議の街のヴァルダさん

伊集院アケミ

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第2話「オーナーシグネチャ(持ち主署名)」

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「こんなに降ると、伝承者お客様もお見えにならないわね。いつ来てもお客様の立っている古本屋なら、経営も成り立って行くものなのだけれど……」

 ヴァルダさんは、そう独りごちた。

「もしかして僕、少しはヴァルダさんの役に立ってます?」
「貴方は売るばっかりじゃない。売り手は業者みたいなもので、お客じゃないわ。たまには何か買っていきなさいよ」
「仕入れあっての商売ですよ。この店にマンガがあれば、僕だってもっとお金を落とせるのになあ……」
「若いうちに活字を読まないと、どんどんバカになるわよ」

 そういってヴァルダさんは、脚立を登って再び棚の掃除を始めた。多分、自分でサクラになっているつもりなのだろう。甲斐甲斐しく働く彼女の姿を見るのは、それはそれで心地よかった。

 ヴァルダさんは基本、僕には塩対応である。だが時々、「ついでだから」とかいって、お茶を淹れてくれたりもする。僕のような者でも、いないよりはマシだと思っているのだろう。彼女はああ見えて、なかなかツンデレな女性なのだ。

「何かまた、面白い話を聞かせてくださいよ。そしたら僕が、この千五百円で何か買います。不良在庫でも何でも」
「なによそれ。映画代より安いじゃない」

 ヴァルダさんは不満げにそう答えると、脚立から降り、レジ前の定位置に再び戻ってきた。

「売上ゼロよりいいじゃないですか。面白ければ、『晩年』が実質無料で手に入る上に、不良在庫が一冊掃ける。いい事づくめだ」
「もう千五百円出してくれるなら、考えてもいいわ。私、働いてるのに現金が増えていかないのは、虚しくて嫌なの。もし出してくれたら、お茶菓子くらいは奮発して差し上げるわ」
「いいでしょう。どのみち雨も、しばらく止みそうもないですしね」

 僕のその言葉を聞くと、ヴァルダさんは静かにお茶を淹れ始めた。そして僕に椅子を勧める。商談成立だ。彼女は僕に入れたばかりの湯飲みを差し出すと、物静かに語りだした。

「ついこの前、この近くの高等学校の学生さんが、古いゲーテの詩集を売りに来てね」
「はい」
「まとまったお金が欲しそうだったから、他の参考書なんかと一緒に二万円で引き取ったのだけど、その詩集が、私の想像以上に凄まじいシロモノだったのです」
「凄まじいと言うと?」
「その詩集は、千七百八十年にドイツで出版されたものの初版でね。それだけでも数万円の価値はあるんだけど、見返しの処に書いてある持主署名オーナシグネチャを見ると、どうしてもシルレルとしか読めないのよ」
「シルレル?」
「詩聖と呼ばれたドイツの有名な詩人よ。ゲーテに勝るとも劣らぬ才能を持った男で、二人の友情は終生変わることがなかった。今でも二人は、ワイマールの地で仲良く並んで眠っているわ」
「はあ……」

 同じジャンルで競っている者同士が、墓を隣り合わせにするほど仲がいいとは、珍しい話もあるものだと僕は思った。

「二人の間には、とても有名なエピソードがあってね」
「どんなですか?」
「シルレルがまだ若かりし頃にこの詩集を買って、あまりのつまらなさに、『こんな下らない本なんか、もう読んでやるもんか!』って言って、地べたに叩きつけたらしいの」
「なんですそれ? そんなエピソードじゃ、付加価値も何もないじゃないですか」
「まあ、最後まで聞きなさいな。彼はその後思い直して、その本を拾いあげた。やっぱり、最後まで読もうと思ったのね」
「元を取ろうとした訳ですね」
「かも知れないわね。そしたら、その先の詩に何やら琴線に触れるものがあったらしくてね……」

 ヴァルダさんが言うには、詩集を拾い上げたシルレルは、今度は三拝九拝して涙を流しながら、『ゲーテ様、あなたは詩の神様です。私は貴方のおみ足の泥を嘗めるにも足りない、哀れな者です』とか何とか云って、額の上に詩集を押付けたそうである。僕には全く分からない世界だ。

「それって、ただのメンヘラじゃないですか」
「詩人なんて、大抵がメンヘラでしょ? シルレルは直ちに手紙を出して、『貴方の本領は、詩の世界にこそある』と断言したそうよ。ゲーテはその手紙がよっぽど嬉しかったのね。彼はシルレルの才能を直ぐに認めて、そこから二人の交流が始まったの」
「その手紙のきっかけとなった詩集が、その本だと?」
「その通り。その後、彼らは共同で作品を発表したり、互いに競い合ったりしながら、ドイツ古典主義と呼ばれる文学様式を確立したの。先にシルレルが亡くなったんだけど、その時ゲーテは『我が半身を失った』とまで言って嘆いたそうよ。どう? 相当な価値が付きそうな話でしょ?」
「まあ、そうですね」

 僕はそのシルレルとか言う詩人を知らないし、詩についても良く分からないが、その一連のエピソードが本当なら、この本の値段は、少なくとも一桁は上がるのだろうと思った。

「本物だとは思ったのだけれど、私は洋書が専門じゃないから万一の事があってはいけないと思って、東北大学の文学部で、ドイツ文学の権威でいらっしゃる中村先生に鑑定を願おうと、その本をお持ちしたの」
「鑑定はどうだったんですか?」
「先生自身が、『ぜひ譲って欲しい』とおっしゃって、その場で七十万円でお買い上げになったわ」
「それは凄い。わらしべ長者みたいだ」
「いえいえ。先生も中々、お人が悪いのよ」
「どういうことですか?」
「よくよく話を聞いてみると、もしこの詩集をドイツに持っていったら、『十万ユーロでもいいから譲ってくれ』と言う人間が幾らでもいるらしいの。まあ私も、これがもし本物なら、百万、二百万じゃ効かないと思ってはいたんだけどね」

 今、一ユーロは百二十五円くらいだから、十万ユーロは千二百五十万円の計算になる。もし自分の売り渡した本がそんな希少本だったら、流石の僕でも気が狂ってしまうだろう。爺ちゃんの蔵には洋書も沢山ある。署名欄だけはちゃんと確認してから持ってこようと、僕は心に決めた。

「まあ、最初の買い取りが二万円ですからね。欲をかいたって仕方ないです。投資が三十五倍になったと思って諦めましょう」
「そうよね。もしあの高校生がまた店に来ることがあれば、お茶菓子くらいは出してあげようと思うわ」
「いいですね。ところで、何か後日談はないんですか? 例えば、その本はやっぱり偽物だったとか……」
「特にないわね。というか、中村先生は、よくこの店にもお見えになる常連なのよ。古い本をお探しになるのが、何よりの楽しみのようね」
「ホント、いい道楽ですよね」

 あまりにもメシマズな話なので、僕はそう吐き捨てた。ヴァルダさんが大儲けしたなら我慢も出来るが、これじゃ、金を払ってまで、話を聞いてる甲斐がない。

「お爺様の蔵書を小分けにして売りに来る貴方も、なかなかのものじゃないかしら?」
「いやあ……」
「別に褒めてないわ。最近の学生さんは、何を考えてるやら良く分からないわね」

 ヴァルダさんはそういうと、不意に思い出したように、こう続けた。

「胸がすく……と言うところまでは行かないでしょうけど、先生絡みでもうひとつ面白い話があったわ」
「どんな話ですか?」
「この店のお客さんは、学生さんが主体でしょ? あまり高価な本は置けないし、洋書は欲しがる人があまりいないから、洋書は大抵、『原書』と書いた貼札をして同じ棚に並べてあるの」
「そうですね。結構値付けも、いいかげんな感じです」
「まあ、そういう訳でもないんだけど、私は仕入れをするときに『トータルで、利益が出ればよい』という考え方なの。だから別に、洋書で儲けようとは思ってないのよ。色々調べるのも手間ですしね」
「なるほど」
「で、この間、大学を卒業される学生さんの蔵書を大量に買い取りした時に、

 GEORGE KAWANO'S “MACBETH”(Prototype)

 という、タイトルの本があったのね。私、シェークスピア絡みの評論か何かだと思って、いつも通りに『原書』と張り札をして、三千円の値札を付けておいたの。そしたら先生が、その本を棚の中から引っぱりだして、私の鼻の先に突付けて、私をお叱りになったわ」
「一体、どういうことですか?」
「その本は、河乃かわの譲治の企画書の英訳だったのよ。私はよく知らないのだけど、マクベスって、なんだか有名なTVアニメらしいわね」
「ああ、なるほど。『超時空戦機マクベス』ですか。僕も子供の頃よく見ました」

 実際に僕が見たのは再放送だけど、当時は相当人気のある作品であったらしい。マクベスは、アニメマニアなら、必ず押さえておかなければならない作品の一つではある。

「先生はお怒りになりながらも、『これは、マクベスの外国人向け同人誌の中でも、最も古いものだから』とおっしゃって、三万円でその本を買ってゆきました。まあ、ゲーテの詩集の埋合わせを、少しばかりして頂いたようなものね」
「なるほど。どっちが原書なんだか、訳がわかりませんね」
 
 僕がそう言って笑った時、一人の中年の男が、傘を畳みながら店の中に入ってきた。今まで一度も会ったことのない男だ。

(続く)
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