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煉獄篇
第4話「あの子の瞳は澱んだ血の色をしていた」
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私がブタじゃなくなって、五日が経った。
私はエリザちゃんと相変わらず、休み時間は二人ですごしていた。
あれから砂村さんたちに直接いじめられることはなかった。ただ物を壊されたり、隠されたりする、陰湿なイジメが起きた。それが砂村さんがしたことなのかはわからないけれど。
加藤さんはブタのままだった。どんなことをされているか、私は見ないように気づかないように避けていた。それでもほかの子の会話から、断片的に知ることになった。
手足を縛られ、目隠しや口枷をされて、ロッカーの中に閉じ込められたり。トイレで裸にされて、ホースから水を肛門に入れられたり。背中に砂村さんを乗せて、首にロープをかけられて、歩かされているのは私も見た。
だから物を壊されたり、隠されるのは、ブタよりも全然マシだったけれど、私はとても悩んだ。
私の家には、なくなった物を何度も買うお金の余裕がなかった。貯金から文房具はなんとかしたけれど、教科書はどうしたらいいのだろう。
こんなことお母さんに相談できない。お姉ちゃんにも。
私がいじめられていることを知ったら、二人はきっと悲しむ。
放課後、隠された教科書を学校中探し回った。
エリザちゃんも手伝ってくれた。申し訳なくて、最初は断ったけれど。
「だってハナちゃんは、私の大切な人だから。一緒に探すのは当然だよ」
その優しさや言葉は嬉しいけれど、いつかエリザちゃんが私の存在をわずらわしく感じて、私から離れていってしまうことが怖い。ただ今はエリザちゃんの優しさに甘えていたかった。
もしも私は一人だったら、ブタの時もだけれど、心細くて、耐えられなかっただろう。そんな私に寄り添ってくれるエリザちゃんは、暗闇の中、私を照らしてくれる灯火のようだった。
「もしも隠すならね、目線よりも高いところだと思う。人ってね、自分の目線よりも上のものに気づかないんだよ」
そう言うエリザちゃんは名探偵のようだった。推理の通り、掃除用具入れのロッカーの上に私の教科書があった。
「エリザちゃんすごい! ありがとう」
「どういたしまして」
エリザちゃんは優しくて、賢くて、頼もしい。私はエリザちゃんが大好きだった。
* * *
放課後、私たちは手をつないで帰る。
「昨日食べたハナちゃんのお母さんのオムライス、美味しかったな」
昨日はお母さんがお休みだったので夕飯をつくってくれた。オムライスの、ふわふわでとろとろの玉子焼きはお母さんにしかつくれない。
「エリザちゃんも卵割るの、頑張ってたよね」
「まだ片手で割れないけど……」
実際は片手で割るどころか、卵のカラが入って、それを取り出すのが大変だった。
ハンバーグを一緒につくった日から、エリザちゃんは何度もうちに来た。
「今日もうちに来る? 夕飯も、一緒に」
「いいの?」
「うん。お姉ちゃんも、喜んでたから」
「嬉しい。私、ハナちゃんのお母さんとお姉さん、大好き」
一人分の食費が増えることが心配だったけれど、エリザちゃんは食費を出してくれた。
「これ、私の分です」
一万円だった。
「こんなの受け取れないよ」
お母さんは最初断ったけれど。
「もともとママに食費でもらったものなんで。足りないのならもっと払います」
お母さんはエリザちゃんが一人で食事をしていることが気になったらしい。
「それなら食材分だけもらって、お釣りは返すね。このお金は受け取るけど、その代わり、いつでもうちに食べに来てね」
「はい、ありがとうございます」
それからエリザちゃんも食卓に加わるようになった。
「私もハナちゃんの家の子供になりたいなぁ」
そこまで言ってくれて、私も嬉しかった。
私もエリザちゃんが、同い年だけれど、とても頼りになるので、彼女がもう一人のお姉ちゃんだったらいいな、とそんなことを思った。
* * *
エリザちゃんに救われてから一週間が経った。
言葉にしたわけではないけれど、私はエリザちゃんのことを大切な友達だと思っている。
エリザちゃんから直接聞いたことはないけれど、彼女も私のことを友達だと思っていてくれたら嬉しい。
昼休みになると私はエリザちゃんに連れられて、校舎の裏や、あまり人が来ない場所で二人きりですごす。
校舎の裏には、草と土の匂いが立ち込めていた。
フェンスと、等間隔に植えられた背の高い木に、学校の敷地は囲われていた。確か桜の木だったと思う。入学式のころにはまだ咲いていた。今は緑の葉をつけて、きらきらと影を落としていた
その木の下には雑草が茂っていて、もっと足元にはクローバーの三つ葉が生えていた。
ずっと子供の頃に、近所の公園で、お姉ちゃんと四つ葉のクローバーを探したことを思い出した。それは本当は別の草で、見つけることはできなかったのだけれど。
クローバーの緑の葉の表面には、うっすらと白い弧状の模様がある。もしかしたら今度こそ四つ葉を見つけられるかもしれない。それを押し花のしおりにして、エリザちゃんにプレゼントしようか。
ただ肝心の彼女の誕生日がいつか、聞き忘れていることに気づいた。
不意に、エリザちゃんに後ろから抱きしめられた。彼女はいつも突然そんなことをする。
「エリザちゃん?」
彼女の鼻先が、唇が、私の首筋に触れた。
「ハナちゃんの匂い、好き」
「やだ……エリザちゃん、やめて……」
いったい私はどんな臭いがするのか。恥ずかしくなった。
いつものことだけれど、まだ私は彼女の距離感に慣れなかった。
ただ今日はいつもと何か雰囲気が違った。
私の首に顔を埋め、私を抱きしめたまま、しばらく無言だった。息が、彼女の温度がくすぐったかった。
おもむろにエリザちゃんが言う。
「ねぇ。ハナちゃんは、キスしたことある?」
「え、ないよ……」
エリザちゃんの指が私の唇をなでた。
思わず彼女の手を振り解こうとしたけれど、強く抱きすくめられて、逃れることができなかった。
「気にならない?」
「え?」
「どんな感じなのか」
耳元でエリザちゃんが囁く。
私は今まで誰かとキスをすることや、キスをしたいとか考えたこともなかった。
「ねぇ、ハナちゃん。キスしてもいい?」
「え、でもそれって……」
「ダメ?」
「キスって、好きな人同士でするんでしょ?」
「そうだよ」
エリザちゃんが私を離す。私の手を引いて、振り返らせた。
エリザちゃんの琥珀色の瞳が、熱っぽい眼差しで、じっと私を見つめていた。
「私はハナちゃんのこと、好きだよ。ハナちゃんは私のこと、好きじゃないの?」
「え、私は……」
エリザちゃんの手が、私の頬をなで、髪をかきあげ、耳に触れる。
彼女の息が顔にかかる距離にあった。
私はエリザちゃんのことは、友達として好きだけれど、その好きと、キスをする好きは違う気がした。
「ねぇ、ハナちゃん。私の恋人になってくれる?」
「え? どういうこと?」
「私の恋人になってほしいの」
私は生まれて初めて告白をされた。そんなに誰かに想われていたことが嬉しかった。けれど私は、自分自身が誰かと付き合うことや、誰かを好きになることを今まで想像したこともなかった。
どう答えたらいいかわからない。
私はエリザちゃんから目を逸らした。
「エリザちゃん。私たち、女同士だよ?」
「うん、そうだね。ダメ?」
私はエリザちゃんのことが大好きだけれど、恋愛の相手として考えたことはない。
それにもしかしたらエリザちゃんは冗談で言っているのかもしれない。これも友達同士なら普通の会話の可能性がある。
とにかく私はエリザちゃんを傷つけないように断る。
「その、女の子同士だと、お母さんが、悲しむから……」
「そっか」
エリザちゃんは傷ついた様子もなく、いつものように微笑んでいた。相変わらず私の手を握って、肩を寄せてくる。ただの冗談だったのだろう。
私は心臓が痛かった。
もしもエリザちゃんに嫌われたら。
冗談でも、いいよ、と答えればよかったのだろうか。
* * *
今日は朝から土砂降りの雨だった。梅雨にはまだ早いのに。
朝が灰色のせいか、雨音のせいか、私は不安で気が重い、嫌な気分だった。
いつもの時間になってもエリザちゃんは来ない。
ずっと待っていたけれど、彼女が迎えに来る様子がなかった。
「雨だからじゃないの?」
お姉ちゃんはそう言ったけれど、昨日のことがあったから私は不安だった。もしかしたら私はエリザちゃんに嫌われたのではないだろうか。
私はエリザちゃんのことを嫌いではない。好きだと思う。ただその感情は、彼女と付き合いたい、キスしたいというものではない。友達として好き。けれどエリザちゃんの好きは違ったのかもしれない。
エリザちゃんの好きは、私と恋人になりたい、そういう好きなのだろうか。私なんかに、そんなふうに思っているとは信じられないけれど。
どうして私なんかのことを──もしも本当に私のことを好きなら、私はエリザちゃんの気持ちにどう応えたらいいのだろうか。
嘘の恋人になればいいのだろうか。でもそれは間違っている気がした。私にとってエリザちゃんは大切な友達だ。私に初めてできた友達だから、嘘をつきたくなかった。
エリザちゃんのいない通学路。雨風に、傘が裏返りそうだった。彼女が隣にいないと、怖くて不安だった。それがどうしてなのか、私はよくわかっている。
一組の教室の前を通ったとき、エリザちゃんの姿を探してみたけれど、彼女の姿を見つけることはできなかった。ちょうど教室のドアの窓から死角になっているのかもしれない。立ち止まって探すわけにも行かないので通り過ぎる。
そして私の教室を前にして、足がすくみそうになった。
エリザちゃんがもう私のことをどうでもいいと思っていたら、砂村さんは再び私をブタに選ぶだろうか。
深呼吸してから教室に入る。そこでは相変わらず加藤さんがブタだった。砂村さんは私に見向きもしない。私は加藤さんがブタであることに安心した。
もしかしたらエリザちゃんは風邪を引いて、今日は休んでいるのかもしれない。こんなときに連絡手段があればいいのに。今まではそんなにうらやましいとも思わなかったスマートフォンがほしくなった。
* * *
休み時間になってもエリザちゃんは来なかった。
私はエリザちゃんを探しに一組の教室の前に行った。しかし彼女の姿は見えなかった。
誰かに、エリザちゃんのことを聞けたらいいのだけれど、私は声をかけることができなかった。知らない人と話すのは怖くて無理だった。
どうすることもできず、私は一人で、いつもエリザちゃんといた場所に隠れていた。もしかしたらエリザちゃんが来てくれるかもしれない。そう思ったけれど、彼女が来ることはなかった。
昼休みには、雨はまだ降っていたけれど、校舎の裏に行ってみた。やはり彼女はいなかった。
私は生きた心地がしなかった。エリザちゃんがいないこと、見放されたかもしれないことを、砂村さんに知られるのが怖かった。
結局、放課後になっても彼女は見つからなかった。やはり今日は風邪か何かでお休みなのかもしれない。
ホームルームがおわり、放課後になると、私は帰ろうと後ろのドアに向かった。そのとき、私は誰かに、強引に腕をつかまれる。突然のことに、私は心臓が止まるかと思った。驚いて振り返ると加藤さんだった。
「あ、加藤さん……な、なに……?」
「咲良さん、話があるんだけど」
加藤さんは大きく目を見開いて、私を睨んでいた。二週間前には一緒の図書委員で、友達のいない私を気にかけて、優しく接してくれた。私がブタになった時は、生き物係として鬼のようにいじめてきた。そのどのときとも違う、暗い目にやつれた顔で、別人のように思えた。
私はとっさに砂村さんを探した。こんなところを見られたら、私も目をつけられるのではないかと不安になった。
ただ砂村さんたちは、加藤さんにも興味がないようで、取り巻きと一緒にすでに帰ったようだった。
「咲良さん、私のこと助けてよ。こんなことになったの、咲良さんのせいなんだよ」
私は彼女の手を振り解こうとしたけれど、加藤さんは私の腕を離してくれない。彼女の指が痛いぐらいに私の腕に食い込んだ。
「え……わ、わたし……ど、どうすれば……」
「咲良さんがブタになってよ。砂村さんが、咲良さんがいいなら代わってもいいって。私とブタを。だから、私の代わりにブタになって」
私はその言葉に身がすくみそうになった。私はエリザちゃんに守られていたはず。それなのに砂村さんが加藤さんにそう言ったということは、私はエリザちゃんに見捨てられた。
「や、やだ……」
「はぁ? あんたのせいなんだよ? 私がこんな目に遭ってるの。あんたがあのとき、逃げたから!」
「でも……私……」
「友達のいないあんたに優しくしてあげたのに、恩を仇で返して。この恩知らずの陰キャ女!」
突然ぶつけられた加藤さんの怒声に、私は身を縮こまらせた。
加藤さんは急に顔を崩して、泣きそうな顔になる。声もうわずっていた。
「ねぇ、お願いだから助けてよ……」
そこで加藤さんは私の腕を離し、その場に土下座した。
「お願いします! お願いします!」
私はこんなところ、ほかの人に見られたくないと思った。ただクラスの人たちは、私や加藤さんに関わりたくないからか、誰も教室に残っていなかった。
私はどうしたらいいかわからず、土下座する加藤さんを見ていることしかできなかった。
しばらく無言でいると、加藤さんが体を起こす。
「もういい……砂村さんには、咲良さんが代わるって言った、って伝えるから……」
「え?」
加藤さんが駆け足気味に教室を出て行く。
「待って、加藤さん!」
私は加藤さんを止めようとして、腕をつかんだけれど、簡単に振り払われた。
私はブタを代わるなんて言っていない。それでも砂村さんは気にしないのではないだろうか。私がエリザちゃんに見放されたことを知って、加藤さんにブタの交代を持ちかけたのかもしれない。
嫌だ、ブタになりたくない──
加藤さんはほとんど駆け足だった。砂村さんのもとに向かっているのか、ただ帰ろうとしているだけなのかわからない。とにかく私は加藤さんを必死に追いかけた。
階段に差しかかった。加藤さんはもう踊り場に降りていた。このままでは追いつけない。
私は階段の昇り降りが苦手だった。一階分を昇りおわる前に息が切れる。降りるのも遅い。それでも急がなければならない。段差に踏み出したとき、私の足は空を駆けた。体が浮いたような感じがした。そして目の前に階段の面が迫ってきた。私は段差を踏み外し、転げ落ちようとしていた。
悲鳴をあげた気がする。どこか遠くに鳥の長い鳴き声を聞いた気がした。それは私の悲鳴だったのかもしれない。
私は手を突き出す間もなく、胸やお腹をぶつけた。
「ぐぅっ」
そのまま何度も体を打ちつける。転げ落ちるというよりも、滑り落ちるような感じだった。
それから階段の踊り場の床面に腕を強くぶつけて、斜面に逆さに這うような姿勢で私の体は止まった。
「あ、あ……」
痛すぎて、どこが痛いのかもよくわからなかった。床に手をついて体を起こそうとしたけれど、体が斜めになっていて、うまく起き上がることができない。
その私を加藤さんは見ていたようだ。彼女のふるえた声が聞こえた。
「違う……私、頼まれただけで……」
「い、痛い……助けて……」
加藤さんが私のことを助けてくれるとは思っていなかったけれど、彼女に助けを求めた。
「ひっ……ごめんなさいごめんなさい!」
階段を駆け降りていく加藤さんの足音が聞こえた。
私は一人残されて、苦しくて、痛くて、さびしくて、怖かった。涙が込み上げてきた。
誰か、助けて──そう祈ったとき、声がした。
「ハナちゃん?」
「……エリザちゃん?」
エリザちゃんだった。私は一気に緊張がゆるむのがわかった。
「どうしたの? 平気?」
エリザちゃんは私の体を支えて、私は彼女にすがりつくようにして、階段の段差に腰かけた。
「頭ぶつけてない? 怪我はない?」
頭はぶつけていない。どこか骨が折れている感じもしなかった。ただ腕やぶつけた胸やお腹が痛い。ただ痛みよりも、制服のボタンがとれて、ブレザーが傷んでしまったことが嫌だった。
「もう安心して。私がいるから」
「うん……」
私はその言葉に、エリザちゃんに抱き支えられて、安心して涙が出てきた。
エリザちゃんは、いつもと同じで優しくて、私に寄り添ってくれる。
だから聞くことができなかった。どうして今日は会いに来てくれなかったのか。どこにいたのか。私を階段から突き落としたのは誰なのか。
* * *
保健室には誰もいなかった。
私はエリザちゃんに支えられながら、ベッドの上に腰かける。
こんなことが前にもあったのを思い出した。私が加藤さんに追いかけられて転んだとき、エリザちゃんが助けてくれた。
エリザちゃんはいつも私のことを助けてくれる。
「どこか痛いところない?」
「腕と、胸とお腹が……」
「見てみようか。上、脱がすね」
私はエリザちゃんにブレザーを脱がされる。リボンタイに手をかけられたとき、思わず身構えてしまった。エリザちゃんは気にした素振りもなく、私のタイを解き、ブラウスのボタンに指をかける。私はエリザちゃんに下着姿を見られるのが、なんだか不安で恥ずかしかった。姫山さんに脱がされたときに、エリザちゃんに裸を見られたけれど、とにかく怖かったのと、助けられたことに安心して、恥ずかしいとか考えている暇もなかった。それなのに今、彼女に見られることが不安で仕方なかった。
だからといって拒むこともできず、露わになった私の両腕の外側には、内出血の跡が赤くシミのように広がっていた。
「骨は折れてないみたいだね。手や指にしびれるような感じはしない?」
「うん、平気……」
じんじんと痛むけれど、エリザちゃんが心配するような症状はなかった。
「お腹は?」
不意にエリザちゃんが私のキャミソールをまくった。
「え……」
「もってて」
私はエリザちゃんに裾を渡されて、自分で持った。まるで私からエリザちゃんに裸を見せるようなかたちになった。
エリザちゃんは私の体に顔を近づける。彼女の息が肌に触れた気がして、体がビクッとした。おもむろに彼女はその冷たい指で私の胸をなぞる。
「ん……」
変な声が漏れそうになって、私は必死に堪えた。
「内出血しているけど、腕ほどじゃないね。少し触るよ」
エリザちゃんは手のひらを私の胸に重ねる。
いやらしい手つきではないけれど、私の体が警戒して強張るのが分かった。
私はお母さんやお姉ちゃんほど胸がない。そもそも膨らみもほとんどない。そんなものを触っても何も楽しくないだろう。
仮にエリザちゃんが私のことを好きだったとしても、かえって幻滅するのではないだろうか。
そうわかっているのに、なんだか緊張して、じんわりと汗がにじんでくる気がした。呼吸も早くなっていく。そのことを知られるのが恥ずかしくて、私は息をするのを我慢した。
「骨は問題なさそうだね」
エリザちゃんが手を離す。
「ほかに痛いところはない?」
「右の足首が……」
「見せて」
エリザちゃんが私の前に屈み、右足を持ち上げて、上履きと靴下を脱がした。素足にエリザちゃんの顔が近づく。彼女の頭が私の腰の高さにあって、変な気分になった。とっさにスカートを手で押さえる。
「安心して、軽い捻挫みたい」
エリザちゃんが顔をあげて微笑む。
「足首に湿布を貼るね。腕の打ち身は冷やすといいよ。用意するから待っててね」
「ありがとう……」
私はそんなエリザちゃんに、単純なことに、彼女の気持ちに応えたいと思ってしまった。
ただ私はまだ彼女のことをよく知らない。それが私を不安にさせた。
エリザちゃんは今日一日、何もなかったように、いつもどおりの彼女だった。私に優しく微笑んでくれる。
エリザちゃんが何を考えているのか、どうして私のことを好きなのか、私には彼女がわからない。
私はエリザちゃんの用意した氷枕を両腕に当てられ、ベッドに寝かされた。足首には湿布。貼られるときに、エリザちゃんの指より冷たくて少し驚いた。
「しばらくそのまま冷やしててね。冷たくなってきたら少し離して、また冷やすんだよ」
「うん……」
「私、お姉さんに連絡しておくね。迎えに来てもらう?」
「ううん、平気……」
「そう。それじゃハナちゃんの荷物は私がもっていくから、一緒に帰ろう」
重い教科書は教室に置いていってもいい気がしたけれど、また隠されたりしたら怖いので、エリザちゃんの言葉に甘えることにした。
「うん、ありがとう……」
「どういたしまして」
エリザちゃんがにっこりと笑う。
* * *
私はベッドでしばらく横になっていた。
ただ先生の許可をもらわず勝手に使っているので、私は落ち着かなかった。
私はエリザちゃんに言われた通り、腕が冷えすぎて痛くなってきたら離して、少ししてからまた氷枕にのせた。
エリザちゃんが教室に私の荷物をとりに行って、もう三十分は経っただろうか。
いつまで経ってもエリザちゃんは戻ってこない。保健室から教室まで、普通に歩いても二、三分ぐらいで着くと思う。私の遅い足でも五分はかからない。
エリザちゃんは私の席を知っているから、荷物をとって戻ってくるのに、十分もかからないのではないだろうか。
私の中に、さっきとは別の不安が生まれた。
加藤さんは砂村さんに私のことを伝えに行ったようだった。もしかしたら砂村さんはまだ学校に残っているのかもしれない。
エリザちゃんは三組の教室に行った。そこで砂村さんに会って、彼女の身に何かあったのではないだろうか。
砂村さんはエリザちゃんに借りがあって、それで私へのいじめはなくなったけれど。あの砂村さんが、どんな理由があるにせよ、誰かの言うことを聞くとは思えなかった。もしかしたら邪魔をしたエリザちゃんのことを恨んでいるかもしれない。
加藤さんが砂村さんに私をブタに戻すように言って、そのことで二人がもめて、エリザちゃんが砂村さんに傷つけられるかもしれない。
考えれば考えるほど、不安な気持ちが大きくなった。
私のせいで、もしも彼女がひどい目に遭ったら。そんなことがあってはならない。
私は体中が痛いけれど、心の底から怖いけれど、教室まで彼女を探しに行くことにした。
保健室は校舎の一階にあって、私たちの教室は二階にある。服がこすれたり、一歩ごとに痛みが響く。それでも私は教室に向かった。
二階に昇ったとき、いつの間にか雨がやんでいることに気づいた。
廊下の窓からは、ちぎれた雲と晴れた空が広がっていた。西に傾いた日差しは黄色みを帯びて、影は青かった。
廊下には誰もいない。校舎にも人の気配はなかった。一年生は十七時には完全下校で、部活動の部屋は地下や別棟の校舎にあったと思う。外の、ぬかるんだグラウンドに誰もいなかった。今日の雨で運動部は休みか、体育館にいるのかもしれない。
妙な静けさが、私の不安を加速させた。
ようやく私のクラス、三組の教室の前に差しかかった時、前側のドアが開いていることに気づいた。話し声が聞こえてくる。
私はその声がエリザちゃんと、砂村さんだとわかった。私はとっさに息をひそめて、壁際に隠れる。
「私、もう嫌よ……こんなことするの……」
「もう少しだけ、お願い」
「だって……それなら、私でいいじゃない……?」
「ダリアちゃんはダメだよ」
「どうして……?」
「だってダリアちゃんは、私の親友だから」
二人が何の会話をしているのかわからない。ただ険悪な雰囲気はなかった。それよりもエリザちゃんが砂村さんのことを親友と言ったのが気になった。二人の間に何かあるのはわかっていたけれど、そんな親密なことは知らなかった。
「どうして、あの子なの……?」
「ときめいちゃったから」
「確かに、エリザの好きそうなタイプではあるけれど……」
エリザちゃんはいつもと変わらないか、それ以上になめらかにしゃべっていた。対して砂村さんの声はどこか弱気に聞こえた。
「ハナちゃんね、とっても可愛いの。小さくて弱々しくて、怯えながら、健気に生きている姿が愛しくて。こんな気持ちになったの初めて」
「だからって、こんなやり方しなくても……咲良さんや加藤さんをブタにする必要があったの……?」
「傷ついて、誰も信じられなくなって、ひとりぼっちになったハナちゃん。その彼女を私が支えて、守ってあげるの。この世界で私たち二人きりになれば、きっと彼女も私のことを好きになってくれるはず。そのためには、加藤さんが邪魔だった。だから二人が憎み合うように、ハナちゃんが加藤さんを怖がるように仕向ける必要があった」
私は全身から血の気が引いていくのを感じた。砂村さんが私をいじめていたのは、エリザちゃんが指示していたことなのか。加藤さんを生き物係にして、私たちが憎しみ合うよう仕向けたのも。
こんな話を聞いても、私が思ったことは、エリザちゃんに捨てられるのではないかということだった。
聞かなかったことにすれば、私たちの関係は変わらないはず。このまま保健室に戻って、何もなかったようにふるまえばいい。
エリザちゃんのことが怖い。あの砂村さんさえも従えて、あそこまでのことをさせた。同じ人間だとは思えなかった。
それでも、そのことを知らないふりをしていれば、きっとエリザちゃんは私にとって優しい友達のままのはず──
不意に誰かに手首をつかまれた。
「ひっ──」
突然のことに心臓が跳ね上がり、私は声が漏れてしまった。私の手首をつかんだのは姫山さんだった。いつの間にか彼女が私の後ろにいた。手が濡れていたから、トイレに行っていたのかもしれない。彼女は無表情で、じっと私を見ていた。
姫山さんは私の腕を引っ張り、教室に向かう。私は抵抗する間もなく、教室の中に連れ込まれた。
さっき私が漏らした声に気づいてか、すでにエリザちゃんと砂村さんが私たちの方を見ていた。
「不注意。聞かれてた」
姫山さんは二人にそう告げると、私の手首を離し、逃げ場を塞ぐように、背後に立った気配がした。
エリザちゃんはいつものように微笑んでいた。
砂村さんは今まで見たこともない顔をしていた。眉を寄せて、困ったような、怯えたような、私のことを憐れむような目で見ていた。
私はその二人を見て、生きた心地がしなかった。
「エリザちゃん……」
「あーあ、聞かれちゃった」
エリザちゃんの表情はいつもと変わらない。
何も聞いていない、そう言ったら、なかったことにできるのではないだろうか。そんなふうに思えた。
「ハナちゃん、私のこと嫌いになった?」
「え?」
「ダリアちゃんに、ハナちゃんをブタにするようにお願いしたのはね、私なの。孤立したハナちゃんを私が助けることで、ハナちゃんが私のことを好きになってくれると思ったんだ」
それにどう返したらいいかわからなかった。
「ハナちゃん、私のこと好き?」
「うん……」
「今でも?」
「うん……」
「私、ハナちゃんにひどいことしたんだよ。ブタにされて辛くなかった? なるべくハナちゃんが怪我する前に、私がとめる予定だったんだけどね。それまで苦しくて辛くなかった?」
ブタになった一週間は地獄のようだった。
「そんなことした私のこと、まだ好きでいてくれるの?」
「うん……」
それ以外にどう答えたらいいのだろう。もし私が嫌いだ、好きではないと言ったら、彼女は私のことをどうするだろうか。
エリザちゃんは晴れやかに笑う。
「わぁ、嬉しい。私もね、ハナちゃんのこと、大好きだよ。だからね、こんなことしたんだ」
私を孤立させて、エリザちゃん自身にすがらせる、それが彼女の望み。それが叶ったのだから、もうこれ以上、何も起こらないはず──
「それじゃ、ハナちゃん、私の恋人になってくれるよね?」
「え?」
かすかにエリザちゃんの表情が曇った。
「私のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ……」
「私のこと好きなんでしょ?」
「うん……」
「それなら、問題ないよね。私の恋人になって」
どう答えたらいいのかわからなかった。どうして恋人にならなければいけないのかも。この話を聞く前の私は、彼女を受け入れることもどこか考えていた。しかしこの話を聞いたあとで、すぐに受け入れる気にはなれなかった。
エリザちゃんが私の手をとる。その冷たい感触に、私は思わず手をふりほどいてしまった。
エリザちゃんの顔から表情が消える。
「ハナちゃん、選んで。私の恋人になるか、ダリアちゃんのブタになるか」
「え?」
「だってそうでしょ。ハナちゃんはダリアちゃんのブタがいいから、私の恋人になってくれないんだよね」
「ちがう……」
「じゃあ、私の恋人になってよ」
私は勘違いしていたことに気づいた。私には選択肢なんてなかった。
エリザちゃんの恋人になることがどういうことかはわからない。けれど砂村さんのブタになることの意味はよくわかっている。
「はい……」
「私の恋人になってくれるの?」
私はうなずいた。
それにエリザちゃんは晴れやかに顔を綻ばせた。
「やったー、嬉しい! ねぇ、ダリアちゃん、聞いた? ハナちゃん、私の恋人になってくれるって」
「よかったわね……」
「マリーちゃんも」
「おめでとう」
「本当に嬉しい」
エリザちゃんが私を抱きしめる。彼女の髪が頬に触れる。そのむず痒さよりも、階段から落ちた時の打ち身が、ずきりと痛んだ。
エリザちゃんが私の頬に両手を添える。
「これでハナちゃんは私の恋人」
彼女の顔が近づく。私は顔を逸らすことができなかった。怖くて目をつぶった。
「大好きだよ、ハナちゃん」
唇が重ねられた。弾力のある何かゴムのようなものを押しつけられたような感触だった。私にとって初めてのキスだった。
なぜか涙がこぼれた。頬を伝う感触でわかった。どうして涙がこぼれたのかわからない。
唇が離れる。私は目を開けると、エリザちゃんの琥珀色の瞳に映る、私と目が合った。
「ハナちゃん、私に証をちょうだい。恋人同士になった証を」
「やだ……怖い、やだ……」
彼女の瞳に映る、琥珀に閉じ込められた私は、怯えたような目で私を見ていた。
* * *
私はエリザちゃんのキスを拒むことができなかった。
彼女の柔らかい唇、生温い吐息。いつまでも彼女は唇を離さない。しっかりと頭を押さえられて、私は顔を背けることもできなかった。
「んっ……ん……」
彼女の鼻から甘い音が漏れ聞こえた。
私はキスがどんな感じか、考えたこともなかった。誰かとすることさえ想像したこともなかった。
それでも誰かとキスをすることが、こんなにも空っぽで、何も感じないとは思わなかった。
心のどこかで初めてのキスは特別なものと思っていたのかもしれない。私の中には、お母さんにねだって買ってもらったお菓子についていたシールが、好きだったキャラクターのものではなかったときのような失望感があった。
エリザちゃんにとっては特別な行為でも、私にとっては何の意味も価値もない空っぽな行為だった。これで彼女が満足するのなら、私は我慢できると思った。
不意に、私の唇を割って、何か弾力のあるものが差し入れられてきた。それが彼女の舌だと気づいて、私は彼女の体を押しのけようとした。
「んんんっ……!」
必死に私は彼女から逃れようとした。それでも強引に舌をねじ込まれていく。私の歯を、歯茎を、彼女の舌先がなぞる感触がした。
気持ち悪い、嫌だ──
私は歯を食いしばって耐える。
どうしてこんなことをするのかわからなかった。この行為が何なのかも。彼女の舌先が私の歯を割って、その奥へ入ろうとしている。彼女の舌先を感じるたび、寒気のようなものが背中や腕に、ぞわぞわと這い上がってきた。
エリザちゃんの手首を掴んで、力一杯押し開く。わずかに私の頭を押さえていた力がゆるんで、なんとか抜け出すことができた。そのまま腕を押しやり、体一つ分離れる。まだエリザちゃんの腕には力がこもっていて、私は怖くて手を話すことができなかった。
「ハナちゃん、初めてのキスだったんだよね。どうだった?」
エリザちゃんの唇や口元は、私の唾液か彼女のものによって、濡れて光っていた。
「もうやめて……」
「ハナちゃんとのキス、すごく気持ちよかった。もっとしたいな」
儚げで、血の流れていない人形のようなエリザちゃんの顔は、いつもより熱っぽかった。彼女は腕を広げると、押していた私の力は横に流れて、私たちの間にあった突っ張りがなくなってしまった。彼女は一歩踏み出して私の目の前に立つと、再び彼女の顔が間近に迫った。
鼻先が触れ合いそうになる。息が荒い。私の呼吸も早くなる。痛いほどに心臓が脈打つ。私たちの間にできた暗い影に覆われた彼女の顔の中で、その色素の薄い瞳が、濁った血の色のように見えた。
「やだ……もうやだ……」
「ダリアちゃん、ハナちゃんを押さえてて。マリーちゃん、誰か来ないか廊下を見張って」
砂村さんは無言で、後ろから私の両脇の下から腕を通して、持ち上げるように私を拘束する。私の肩は固められて、腕は左右に広がった。それによって私は砂村さんを振り解くことも、エリザちゃんを拒むこともできなくなった。
姫山さんが教室を出て、ドアを閉める音がした。
エリザちゃんはかすかに熱を帯びた微笑みを浮かべて、私を見ていた。
あと何回かキスをすれば彼女は満足してくれるのだろうか。あとどれだけの時間キスをすれば。
エリザちゃんがおもむろに私に向けて手を伸ばしてくる。またキスを──キスならまだいい、キスだけでなく舌を入れられるかも、そう思うと怖くて、私は目をつぶった。
頬に触れた感触に、私は唇を固く結ぶ。しかしその手が、私の首へ、肩へ、胸をなぞって、腰に当てられた。そのたびに私は身震いした。
「怖がらないで。安心して。あなたが私のものであること、私の恋人であることを、あなたの体に、心に、記憶に刻むの。これはとても素敵なことなんだよ」
私の腰に回された彼女の手は、スカートの上から太ももの側面を撫で、裾をまくりあげて、中に入ってくる。
何か違う。またあれをされると思っていたのに、エリザちゃんは別のことをしようとしている。
私は目を開けた。エリザちゃんの顔が再び目の前にあった。生温かい息が顔にかかる。かすかに目が潤んでいた。それは透明な膜に覆われた爬虫類の目のようだった。そこには肉食の獣が獲物をなぶるような、絶対的に強い生き物が弱いものにするような、喜びの色があるように感じられた。
「やだ、やだ……怖い……」
変な感覚がした。痺れるような、むずがゆいような。全身に寒気が這い上がってくる。心臓が痛い。指先が緊張に引きつる。足場のない、崖の縁に立たされているような気がして、足がすくんだ。
彼女の指がショーツのゴムにかけられた。
「なんで? どうして?」
私の問いかけにエリザちゃんは一つも答えてくれない。
彼女の指が、私のショーツの中に入ってきた。
「ねぇ、ハナちゃん。恋人同士ですることに、何があるか知っている?」
「キス……?」
「キスのあとは何をするの?」
「え? 一緒に、寝る?」
「そうだね」
エリザちゃんがおかしそうに笑った。
「キスをして、一緒に寝て、何をするのかな?」
それ以外にどんなことをするのだろう。
「わかんない……」
「ここを触るんだよ」
エリザちゃんの指がショーツの中に滑り込んで、私の股の間にある、しこりのような、豆粒ほどの大きさの突起に触れた。
「ひゃっ……⁉︎」
静電気が走ったときのような刺激、その何倍も強い痛みが私を打った。膝から力が抜けて倒れそうになったけれど、砂村さんがそれを許してくれなかった。
「もしかしてこれも初めて?」
「お姉ちゃんが、そこは触っちゃダメって……」
「嬉しい。ハナちゃんのたくさんの初めて、全部私がもらうね」
エリザちゃんはうっとりと笑った。
またエリザちゃんの指が、私のそこに触れてくる。
「痛い、やめて……痛いよぉ……」
何度も何度も擦られて、ひりつくような、焼けつくような痛みが走った。
私がこんなに痛くて苦しんでいるのに。エリザちゃんはどうしてこんなひどいことができるのだろう。本当は私のことが嫌いでこんなことをするのかもしれない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「ごめんなさい……許してください……」
「何も怒ってないよ。ハナちゃんのことが大好きなだけ。これは恋人同士だけがする特別なことなんだよ」
エリザちゃんが私の頬を舐める。気持ち悪い、そう思った。
「怖いよね。不安だよね。だけど安心して。私のことを信じて任せて」
「痛い痛い痛い……」
私がどれだけ泣いても、痛がっても、エリザちゃんはやめてくれなかった。
ずっと終わることなくこの痛みが続くと思っていた。不意にエリザちゃんは指を止めて、私のショーツから指を引き抜く。その指を私に見せて、うっとりと微笑んで舐めた。
「濡れてきたね」
夕日で黄金色に染まる教室の中で、彼女の指がてらてらと、妖しく光って見えた。
「ダリアちゃん、もういいよ」
私はようやく砂村さんから解放されたけれど、立っていることができず、その場にへたり込んだ。ようやくおわった。
エリザちゃんにいじられたところも痛いけれど、階段から落ちて打ちつけた腕や体、捻った右の足首もいたかった。けれどこれでようやくおわったのだ。そう思った。私はそう願った。
しかし私はエリザちゃんに押し倒された。黒い影となって、彼女が私に覆い被さる。おわらない悪夢の一場面のように、情景は続いていった。彼女の黒髪が私を隠すように被さってくる。
それに私は、彼女の柔らかく波打つ長い黒髪が、何か得体の知れない、深海に引きずり込む怪物のように思えた。エリザちゃんの色素の薄い瞳が、沈んだ血の色のように見えた。
私は彼女に押し倒されて、床にぶつけた背中が、その衝撃が怪我にも響いて、痛くて怖くてたまらなかった。
「これで私たち、本当の恋人同士だね」
影の中でエリザちゃんが微笑む。
両肩を押さえつけられて、私の両足は彼女の体に割られて大きく開かされる。押し込められるように体が曲がって、息が苦しかった。
そして私のスカートの中へ、彼女の右手が再び入ってくる。
「やだ、やだ……」
何が起きているのかわからない。これから何が起こるのかもわからない。ただ何かよくないことが起こる、起きている。それだけはわかった。
「あなたのことは気の毒に思うわ」
砂村さんの声だった。彼女は私たちから離れて、教室のドアの前にいた。彼女は哀れむように、呆れたように、私たちのことを見ていた。
「お願い、助けて……」
私はあの砂村さんにさえ、助けを求め、すがった。それは当然のことだけれど、彼女はそんな私から目を背けた。
「ハナちゃんの初めて、もらうね」
どういうことなの──そう聞く間もなく、エリザちゃんの指が、私のショーツの股の部分をずらして、割れ目に触れたのがわかった。
私はエリザちゃんの肩を掴んだ。
「こわい、こわいよ、エリザちゃん……」
彼女が何をしようとしているのか、どうしてそんなことをするのかわからない。お姉ちゃんは、そこは大事な場所だから、あまり自分でも触ったり、ましてやほかの人に触らせては駄目だと言っていた。それなのにどうしてエリザちゃんはこんなことをするのか。
エリザちゃんの指が、私の割れ目をなぞって、何かを探しているようだった。そのたびに痛みが走り、芋虫が股の間を這って、何か入り口を探しているような恐ろしい不快感が込み上げてきた。
「ここかな」
「うっ──」
彼女の指が止まる。何かを探り当てたようだった。それに異質な感じがした。私の中に何かが、彼女の指が、割って入ってくるような。
「入れるよ」
「えっ──」
彼女の指が、ぐっと押し込まれるのがわかった。何が起きているのか理解する間もなく、焼けるような鋭い痛みが、私を刺し貫いた。
どうして、なんで、私の中に彼女が入ってくるの──
「ああっ──」
あまりの痛みに息ができなかった。指なんかではなくて、ナイフか何かで私は刺されたのではないだろうか。そしてそのナイフは爪のような形をしていて、私の中をえぐり、内臓を掻き出すように思えた。
私はエリザちゃんの肩を、自分の指が痛いほどつかんだ。もうやめてほしい、抗議の気持ちもあったけれど、ただとにかく何かをつかんでいないと、この痛みに耐えられそうになかった。
ただエリザちゃんは私の痛みにも、自分の痛みにも、少しも気にかけている様子はなかった。
「いたい、いたいっ、いたい……」
「ハナちゃんの中、温かくて、ヌルヌルしてる」
エリザちゃんは痛みに苦しみ悶える私の様子を楽しんでいるようにさえ思えた。かすかに彼女の息が荒くなっているのが聞こえてきた。
さらに反応を楽しむように、私を刺したナイフは、さらに奥へと突き入れられる。
「あぐっ、うぅ……」
吐き気がした。息もうまくできない。このまま死ぬんじゃないか、そんな不安と恐怖が込み上げてきた。
どうして私なの。どうして私が選ばれたの──私はもう、痛みと涙で、エリザちゃんの顔が見えなかった。
「ああ、これで私たち、恋人だね。こんなこと、恋人同士じゃないと、しちゃいけないんだよ。ハナちゃん、愛しているよ」
唇に柔らかい感触がした。エリザちゃんの唇だった。
どのぐらいそうしていたのか、一秒か一時間か、不意にエリザちゃんの体が離れる。それと同時に私の中からナイフが引き抜かれた。
私は解放されたけれど、そのことに安心したからか、叫び疲れたからか、指先一つ動かすことができなかった。まるで私の体じゃないような感覚がした。
起き上がる気力も、逃げる気も起こらない。ただただ全身が痛い。彼女に押さえつけられた肩が、彼女に曲げられたお腹が、彼女に割られた股の関節が痛い。階段から落ちた怪我が痛い。何よりも、股の間がじんじんと痛む。熱のこもった火種のような痛みが、私のそこに留まっていた。
痛みのせいか、私は頭の芯が麻痺しているようで、もう何も考えられない、何も考えたくなかった。もし誰かが今私を殺そうとしても、私は悲鳴一つあげないだろう。
「ハナちゃん見て」
エリザちゃんが私に、血塗れの指を見せる。それに私は気が遠くなりそうだった。どうして彼女の指は赤く濡れているのだろう。やはり私は彼女に刃物で刺されたのだろうか。ただその手に凶器の姿は見えない。その指で、私の体を刺し貫いたのだろうか。私はこのまま傷口から血を流して死んでしまうのだろうか。だってこんなにも痛いのだから。
「これでハナちゃんは私のもの」
楽しげに、嬉しそうにエリザちゃんは再び指を舐めて、嬉しそうに笑った。
それがどういうことなのかわからないけれど、私はもう昨日までの私ではなくて、何か大切なものを失ったような気がした。
私はエリザちゃんと相変わらず、休み時間は二人ですごしていた。
あれから砂村さんたちに直接いじめられることはなかった。ただ物を壊されたり、隠されたりする、陰湿なイジメが起きた。それが砂村さんがしたことなのかはわからないけれど。
加藤さんはブタのままだった。どんなことをされているか、私は見ないように気づかないように避けていた。それでもほかの子の会話から、断片的に知ることになった。
手足を縛られ、目隠しや口枷をされて、ロッカーの中に閉じ込められたり。トイレで裸にされて、ホースから水を肛門に入れられたり。背中に砂村さんを乗せて、首にロープをかけられて、歩かされているのは私も見た。
だから物を壊されたり、隠されるのは、ブタよりも全然マシだったけれど、私はとても悩んだ。
私の家には、なくなった物を何度も買うお金の余裕がなかった。貯金から文房具はなんとかしたけれど、教科書はどうしたらいいのだろう。
こんなことお母さんに相談できない。お姉ちゃんにも。
私がいじめられていることを知ったら、二人はきっと悲しむ。
放課後、隠された教科書を学校中探し回った。
エリザちゃんも手伝ってくれた。申し訳なくて、最初は断ったけれど。
「だってハナちゃんは、私の大切な人だから。一緒に探すのは当然だよ」
その優しさや言葉は嬉しいけれど、いつかエリザちゃんが私の存在をわずらわしく感じて、私から離れていってしまうことが怖い。ただ今はエリザちゃんの優しさに甘えていたかった。
もしも私は一人だったら、ブタの時もだけれど、心細くて、耐えられなかっただろう。そんな私に寄り添ってくれるエリザちゃんは、暗闇の中、私を照らしてくれる灯火のようだった。
「もしも隠すならね、目線よりも高いところだと思う。人ってね、自分の目線よりも上のものに気づかないんだよ」
そう言うエリザちゃんは名探偵のようだった。推理の通り、掃除用具入れのロッカーの上に私の教科書があった。
「エリザちゃんすごい! ありがとう」
「どういたしまして」
エリザちゃんは優しくて、賢くて、頼もしい。私はエリザちゃんが大好きだった。
* * *
放課後、私たちは手をつないで帰る。
「昨日食べたハナちゃんのお母さんのオムライス、美味しかったな」
昨日はお母さんがお休みだったので夕飯をつくってくれた。オムライスの、ふわふわでとろとろの玉子焼きはお母さんにしかつくれない。
「エリザちゃんも卵割るの、頑張ってたよね」
「まだ片手で割れないけど……」
実際は片手で割るどころか、卵のカラが入って、それを取り出すのが大変だった。
ハンバーグを一緒につくった日から、エリザちゃんは何度もうちに来た。
「今日もうちに来る? 夕飯も、一緒に」
「いいの?」
「うん。お姉ちゃんも、喜んでたから」
「嬉しい。私、ハナちゃんのお母さんとお姉さん、大好き」
一人分の食費が増えることが心配だったけれど、エリザちゃんは食費を出してくれた。
「これ、私の分です」
一万円だった。
「こんなの受け取れないよ」
お母さんは最初断ったけれど。
「もともとママに食費でもらったものなんで。足りないのならもっと払います」
お母さんはエリザちゃんが一人で食事をしていることが気になったらしい。
「それなら食材分だけもらって、お釣りは返すね。このお金は受け取るけど、その代わり、いつでもうちに食べに来てね」
「はい、ありがとうございます」
それからエリザちゃんも食卓に加わるようになった。
「私もハナちゃんの家の子供になりたいなぁ」
そこまで言ってくれて、私も嬉しかった。
私もエリザちゃんが、同い年だけれど、とても頼りになるので、彼女がもう一人のお姉ちゃんだったらいいな、とそんなことを思った。
* * *
エリザちゃんに救われてから一週間が経った。
言葉にしたわけではないけれど、私はエリザちゃんのことを大切な友達だと思っている。
エリザちゃんから直接聞いたことはないけれど、彼女も私のことを友達だと思っていてくれたら嬉しい。
昼休みになると私はエリザちゃんに連れられて、校舎の裏や、あまり人が来ない場所で二人きりですごす。
校舎の裏には、草と土の匂いが立ち込めていた。
フェンスと、等間隔に植えられた背の高い木に、学校の敷地は囲われていた。確か桜の木だったと思う。入学式のころにはまだ咲いていた。今は緑の葉をつけて、きらきらと影を落としていた
その木の下には雑草が茂っていて、もっと足元にはクローバーの三つ葉が生えていた。
ずっと子供の頃に、近所の公園で、お姉ちゃんと四つ葉のクローバーを探したことを思い出した。それは本当は別の草で、見つけることはできなかったのだけれど。
クローバーの緑の葉の表面には、うっすらと白い弧状の模様がある。もしかしたら今度こそ四つ葉を見つけられるかもしれない。それを押し花のしおりにして、エリザちゃんにプレゼントしようか。
ただ肝心の彼女の誕生日がいつか、聞き忘れていることに気づいた。
不意に、エリザちゃんに後ろから抱きしめられた。彼女はいつも突然そんなことをする。
「エリザちゃん?」
彼女の鼻先が、唇が、私の首筋に触れた。
「ハナちゃんの匂い、好き」
「やだ……エリザちゃん、やめて……」
いったい私はどんな臭いがするのか。恥ずかしくなった。
いつものことだけれど、まだ私は彼女の距離感に慣れなかった。
ただ今日はいつもと何か雰囲気が違った。
私の首に顔を埋め、私を抱きしめたまま、しばらく無言だった。息が、彼女の温度がくすぐったかった。
おもむろにエリザちゃんが言う。
「ねぇ。ハナちゃんは、キスしたことある?」
「え、ないよ……」
エリザちゃんの指が私の唇をなでた。
思わず彼女の手を振り解こうとしたけれど、強く抱きすくめられて、逃れることができなかった。
「気にならない?」
「え?」
「どんな感じなのか」
耳元でエリザちゃんが囁く。
私は今まで誰かとキスをすることや、キスをしたいとか考えたこともなかった。
「ねぇ、ハナちゃん。キスしてもいい?」
「え、でもそれって……」
「ダメ?」
「キスって、好きな人同士でするんでしょ?」
「そうだよ」
エリザちゃんが私を離す。私の手を引いて、振り返らせた。
エリザちゃんの琥珀色の瞳が、熱っぽい眼差しで、じっと私を見つめていた。
「私はハナちゃんのこと、好きだよ。ハナちゃんは私のこと、好きじゃないの?」
「え、私は……」
エリザちゃんの手が、私の頬をなで、髪をかきあげ、耳に触れる。
彼女の息が顔にかかる距離にあった。
私はエリザちゃんのことは、友達として好きだけれど、その好きと、キスをする好きは違う気がした。
「ねぇ、ハナちゃん。私の恋人になってくれる?」
「え? どういうこと?」
「私の恋人になってほしいの」
私は生まれて初めて告白をされた。そんなに誰かに想われていたことが嬉しかった。けれど私は、自分自身が誰かと付き合うことや、誰かを好きになることを今まで想像したこともなかった。
どう答えたらいいかわからない。
私はエリザちゃんから目を逸らした。
「エリザちゃん。私たち、女同士だよ?」
「うん、そうだね。ダメ?」
私はエリザちゃんのことが大好きだけれど、恋愛の相手として考えたことはない。
それにもしかしたらエリザちゃんは冗談で言っているのかもしれない。これも友達同士なら普通の会話の可能性がある。
とにかく私はエリザちゃんを傷つけないように断る。
「その、女の子同士だと、お母さんが、悲しむから……」
「そっか」
エリザちゃんは傷ついた様子もなく、いつものように微笑んでいた。相変わらず私の手を握って、肩を寄せてくる。ただの冗談だったのだろう。
私は心臓が痛かった。
もしもエリザちゃんに嫌われたら。
冗談でも、いいよ、と答えればよかったのだろうか。
* * *
今日は朝から土砂降りの雨だった。梅雨にはまだ早いのに。
朝が灰色のせいか、雨音のせいか、私は不安で気が重い、嫌な気分だった。
いつもの時間になってもエリザちゃんは来ない。
ずっと待っていたけれど、彼女が迎えに来る様子がなかった。
「雨だからじゃないの?」
お姉ちゃんはそう言ったけれど、昨日のことがあったから私は不安だった。もしかしたら私はエリザちゃんに嫌われたのではないだろうか。
私はエリザちゃんのことを嫌いではない。好きだと思う。ただその感情は、彼女と付き合いたい、キスしたいというものではない。友達として好き。けれどエリザちゃんの好きは違ったのかもしれない。
エリザちゃんの好きは、私と恋人になりたい、そういう好きなのだろうか。私なんかに、そんなふうに思っているとは信じられないけれど。
どうして私なんかのことを──もしも本当に私のことを好きなら、私はエリザちゃんの気持ちにどう応えたらいいのだろうか。
嘘の恋人になればいいのだろうか。でもそれは間違っている気がした。私にとってエリザちゃんは大切な友達だ。私に初めてできた友達だから、嘘をつきたくなかった。
エリザちゃんのいない通学路。雨風に、傘が裏返りそうだった。彼女が隣にいないと、怖くて不安だった。それがどうしてなのか、私はよくわかっている。
一組の教室の前を通ったとき、エリザちゃんの姿を探してみたけれど、彼女の姿を見つけることはできなかった。ちょうど教室のドアの窓から死角になっているのかもしれない。立ち止まって探すわけにも行かないので通り過ぎる。
そして私の教室を前にして、足がすくみそうになった。
エリザちゃんがもう私のことをどうでもいいと思っていたら、砂村さんは再び私をブタに選ぶだろうか。
深呼吸してから教室に入る。そこでは相変わらず加藤さんがブタだった。砂村さんは私に見向きもしない。私は加藤さんがブタであることに安心した。
もしかしたらエリザちゃんは風邪を引いて、今日は休んでいるのかもしれない。こんなときに連絡手段があればいいのに。今まではそんなにうらやましいとも思わなかったスマートフォンがほしくなった。
* * *
休み時間になってもエリザちゃんは来なかった。
私はエリザちゃんを探しに一組の教室の前に行った。しかし彼女の姿は見えなかった。
誰かに、エリザちゃんのことを聞けたらいいのだけれど、私は声をかけることができなかった。知らない人と話すのは怖くて無理だった。
どうすることもできず、私は一人で、いつもエリザちゃんといた場所に隠れていた。もしかしたらエリザちゃんが来てくれるかもしれない。そう思ったけれど、彼女が来ることはなかった。
昼休みには、雨はまだ降っていたけれど、校舎の裏に行ってみた。やはり彼女はいなかった。
私は生きた心地がしなかった。エリザちゃんがいないこと、見放されたかもしれないことを、砂村さんに知られるのが怖かった。
結局、放課後になっても彼女は見つからなかった。やはり今日は風邪か何かでお休みなのかもしれない。
ホームルームがおわり、放課後になると、私は帰ろうと後ろのドアに向かった。そのとき、私は誰かに、強引に腕をつかまれる。突然のことに、私は心臓が止まるかと思った。驚いて振り返ると加藤さんだった。
「あ、加藤さん……な、なに……?」
「咲良さん、話があるんだけど」
加藤さんは大きく目を見開いて、私を睨んでいた。二週間前には一緒の図書委員で、友達のいない私を気にかけて、優しく接してくれた。私がブタになった時は、生き物係として鬼のようにいじめてきた。そのどのときとも違う、暗い目にやつれた顔で、別人のように思えた。
私はとっさに砂村さんを探した。こんなところを見られたら、私も目をつけられるのではないかと不安になった。
ただ砂村さんたちは、加藤さんにも興味がないようで、取り巻きと一緒にすでに帰ったようだった。
「咲良さん、私のこと助けてよ。こんなことになったの、咲良さんのせいなんだよ」
私は彼女の手を振り解こうとしたけれど、加藤さんは私の腕を離してくれない。彼女の指が痛いぐらいに私の腕に食い込んだ。
「え……わ、わたし……ど、どうすれば……」
「咲良さんがブタになってよ。砂村さんが、咲良さんがいいなら代わってもいいって。私とブタを。だから、私の代わりにブタになって」
私はその言葉に身がすくみそうになった。私はエリザちゃんに守られていたはず。それなのに砂村さんが加藤さんにそう言ったということは、私はエリザちゃんに見捨てられた。
「や、やだ……」
「はぁ? あんたのせいなんだよ? 私がこんな目に遭ってるの。あんたがあのとき、逃げたから!」
「でも……私……」
「友達のいないあんたに優しくしてあげたのに、恩を仇で返して。この恩知らずの陰キャ女!」
突然ぶつけられた加藤さんの怒声に、私は身を縮こまらせた。
加藤さんは急に顔を崩して、泣きそうな顔になる。声もうわずっていた。
「ねぇ、お願いだから助けてよ……」
そこで加藤さんは私の腕を離し、その場に土下座した。
「お願いします! お願いします!」
私はこんなところ、ほかの人に見られたくないと思った。ただクラスの人たちは、私や加藤さんに関わりたくないからか、誰も教室に残っていなかった。
私はどうしたらいいかわからず、土下座する加藤さんを見ていることしかできなかった。
しばらく無言でいると、加藤さんが体を起こす。
「もういい……砂村さんには、咲良さんが代わるって言った、って伝えるから……」
「え?」
加藤さんが駆け足気味に教室を出て行く。
「待って、加藤さん!」
私は加藤さんを止めようとして、腕をつかんだけれど、簡単に振り払われた。
私はブタを代わるなんて言っていない。それでも砂村さんは気にしないのではないだろうか。私がエリザちゃんに見放されたことを知って、加藤さんにブタの交代を持ちかけたのかもしれない。
嫌だ、ブタになりたくない──
加藤さんはほとんど駆け足だった。砂村さんのもとに向かっているのか、ただ帰ろうとしているだけなのかわからない。とにかく私は加藤さんを必死に追いかけた。
階段に差しかかった。加藤さんはもう踊り場に降りていた。このままでは追いつけない。
私は階段の昇り降りが苦手だった。一階分を昇りおわる前に息が切れる。降りるのも遅い。それでも急がなければならない。段差に踏み出したとき、私の足は空を駆けた。体が浮いたような感じがした。そして目の前に階段の面が迫ってきた。私は段差を踏み外し、転げ落ちようとしていた。
悲鳴をあげた気がする。どこか遠くに鳥の長い鳴き声を聞いた気がした。それは私の悲鳴だったのかもしれない。
私は手を突き出す間もなく、胸やお腹をぶつけた。
「ぐぅっ」
そのまま何度も体を打ちつける。転げ落ちるというよりも、滑り落ちるような感じだった。
それから階段の踊り場の床面に腕を強くぶつけて、斜面に逆さに這うような姿勢で私の体は止まった。
「あ、あ……」
痛すぎて、どこが痛いのかもよくわからなかった。床に手をついて体を起こそうとしたけれど、体が斜めになっていて、うまく起き上がることができない。
その私を加藤さんは見ていたようだ。彼女のふるえた声が聞こえた。
「違う……私、頼まれただけで……」
「い、痛い……助けて……」
加藤さんが私のことを助けてくれるとは思っていなかったけれど、彼女に助けを求めた。
「ひっ……ごめんなさいごめんなさい!」
階段を駆け降りていく加藤さんの足音が聞こえた。
私は一人残されて、苦しくて、痛くて、さびしくて、怖かった。涙が込み上げてきた。
誰か、助けて──そう祈ったとき、声がした。
「ハナちゃん?」
「……エリザちゃん?」
エリザちゃんだった。私は一気に緊張がゆるむのがわかった。
「どうしたの? 平気?」
エリザちゃんは私の体を支えて、私は彼女にすがりつくようにして、階段の段差に腰かけた。
「頭ぶつけてない? 怪我はない?」
頭はぶつけていない。どこか骨が折れている感じもしなかった。ただ腕やぶつけた胸やお腹が痛い。ただ痛みよりも、制服のボタンがとれて、ブレザーが傷んでしまったことが嫌だった。
「もう安心して。私がいるから」
「うん……」
私はその言葉に、エリザちゃんに抱き支えられて、安心して涙が出てきた。
エリザちゃんは、いつもと同じで優しくて、私に寄り添ってくれる。
だから聞くことができなかった。どうして今日は会いに来てくれなかったのか。どこにいたのか。私を階段から突き落としたのは誰なのか。
* * *
保健室には誰もいなかった。
私はエリザちゃんに支えられながら、ベッドの上に腰かける。
こんなことが前にもあったのを思い出した。私が加藤さんに追いかけられて転んだとき、エリザちゃんが助けてくれた。
エリザちゃんはいつも私のことを助けてくれる。
「どこか痛いところない?」
「腕と、胸とお腹が……」
「見てみようか。上、脱がすね」
私はエリザちゃんにブレザーを脱がされる。リボンタイに手をかけられたとき、思わず身構えてしまった。エリザちゃんは気にした素振りもなく、私のタイを解き、ブラウスのボタンに指をかける。私はエリザちゃんに下着姿を見られるのが、なんだか不安で恥ずかしかった。姫山さんに脱がされたときに、エリザちゃんに裸を見られたけれど、とにかく怖かったのと、助けられたことに安心して、恥ずかしいとか考えている暇もなかった。それなのに今、彼女に見られることが不安で仕方なかった。
だからといって拒むこともできず、露わになった私の両腕の外側には、内出血の跡が赤くシミのように広がっていた。
「骨は折れてないみたいだね。手や指にしびれるような感じはしない?」
「うん、平気……」
じんじんと痛むけれど、エリザちゃんが心配するような症状はなかった。
「お腹は?」
不意にエリザちゃんが私のキャミソールをまくった。
「え……」
「もってて」
私はエリザちゃんに裾を渡されて、自分で持った。まるで私からエリザちゃんに裸を見せるようなかたちになった。
エリザちゃんは私の体に顔を近づける。彼女の息が肌に触れた気がして、体がビクッとした。おもむろに彼女はその冷たい指で私の胸をなぞる。
「ん……」
変な声が漏れそうになって、私は必死に堪えた。
「内出血しているけど、腕ほどじゃないね。少し触るよ」
エリザちゃんは手のひらを私の胸に重ねる。
いやらしい手つきではないけれど、私の体が警戒して強張るのが分かった。
私はお母さんやお姉ちゃんほど胸がない。そもそも膨らみもほとんどない。そんなものを触っても何も楽しくないだろう。
仮にエリザちゃんが私のことを好きだったとしても、かえって幻滅するのではないだろうか。
そうわかっているのに、なんだか緊張して、じんわりと汗がにじんでくる気がした。呼吸も早くなっていく。そのことを知られるのが恥ずかしくて、私は息をするのを我慢した。
「骨は問題なさそうだね」
エリザちゃんが手を離す。
「ほかに痛いところはない?」
「右の足首が……」
「見せて」
エリザちゃんが私の前に屈み、右足を持ち上げて、上履きと靴下を脱がした。素足にエリザちゃんの顔が近づく。彼女の頭が私の腰の高さにあって、変な気分になった。とっさにスカートを手で押さえる。
「安心して、軽い捻挫みたい」
エリザちゃんが顔をあげて微笑む。
「足首に湿布を貼るね。腕の打ち身は冷やすといいよ。用意するから待っててね」
「ありがとう……」
私はそんなエリザちゃんに、単純なことに、彼女の気持ちに応えたいと思ってしまった。
ただ私はまだ彼女のことをよく知らない。それが私を不安にさせた。
エリザちゃんは今日一日、何もなかったように、いつもどおりの彼女だった。私に優しく微笑んでくれる。
エリザちゃんが何を考えているのか、どうして私のことを好きなのか、私には彼女がわからない。
私はエリザちゃんの用意した氷枕を両腕に当てられ、ベッドに寝かされた。足首には湿布。貼られるときに、エリザちゃんの指より冷たくて少し驚いた。
「しばらくそのまま冷やしててね。冷たくなってきたら少し離して、また冷やすんだよ」
「うん……」
「私、お姉さんに連絡しておくね。迎えに来てもらう?」
「ううん、平気……」
「そう。それじゃハナちゃんの荷物は私がもっていくから、一緒に帰ろう」
重い教科書は教室に置いていってもいい気がしたけれど、また隠されたりしたら怖いので、エリザちゃんの言葉に甘えることにした。
「うん、ありがとう……」
「どういたしまして」
エリザちゃんがにっこりと笑う。
* * *
私はベッドでしばらく横になっていた。
ただ先生の許可をもらわず勝手に使っているので、私は落ち着かなかった。
私はエリザちゃんに言われた通り、腕が冷えすぎて痛くなってきたら離して、少ししてからまた氷枕にのせた。
エリザちゃんが教室に私の荷物をとりに行って、もう三十分は経っただろうか。
いつまで経ってもエリザちゃんは戻ってこない。保健室から教室まで、普通に歩いても二、三分ぐらいで着くと思う。私の遅い足でも五分はかからない。
エリザちゃんは私の席を知っているから、荷物をとって戻ってくるのに、十分もかからないのではないだろうか。
私の中に、さっきとは別の不安が生まれた。
加藤さんは砂村さんに私のことを伝えに行ったようだった。もしかしたら砂村さんはまだ学校に残っているのかもしれない。
エリザちゃんは三組の教室に行った。そこで砂村さんに会って、彼女の身に何かあったのではないだろうか。
砂村さんはエリザちゃんに借りがあって、それで私へのいじめはなくなったけれど。あの砂村さんが、どんな理由があるにせよ、誰かの言うことを聞くとは思えなかった。もしかしたら邪魔をしたエリザちゃんのことを恨んでいるかもしれない。
加藤さんが砂村さんに私をブタに戻すように言って、そのことで二人がもめて、エリザちゃんが砂村さんに傷つけられるかもしれない。
考えれば考えるほど、不安な気持ちが大きくなった。
私のせいで、もしも彼女がひどい目に遭ったら。そんなことがあってはならない。
私は体中が痛いけれど、心の底から怖いけれど、教室まで彼女を探しに行くことにした。
保健室は校舎の一階にあって、私たちの教室は二階にある。服がこすれたり、一歩ごとに痛みが響く。それでも私は教室に向かった。
二階に昇ったとき、いつの間にか雨がやんでいることに気づいた。
廊下の窓からは、ちぎれた雲と晴れた空が広がっていた。西に傾いた日差しは黄色みを帯びて、影は青かった。
廊下には誰もいない。校舎にも人の気配はなかった。一年生は十七時には完全下校で、部活動の部屋は地下や別棟の校舎にあったと思う。外の、ぬかるんだグラウンドに誰もいなかった。今日の雨で運動部は休みか、体育館にいるのかもしれない。
妙な静けさが、私の不安を加速させた。
ようやく私のクラス、三組の教室の前に差しかかった時、前側のドアが開いていることに気づいた。話し声が聞こえてくる。
私はその声がエリザちゃんと、砂村さんだとわかった。私はとっさに息をひそめて、壁際に隠れる。
「私、もう嫌よ……こんなことするの……」
「もう少しだけ、お願い」
「だって……それなら、私でいいじゃない……?」
「ダリアちゃんはダメだよ」
「どうして……?」
「だってダリアちゃんは、私の親友だから」
二人が何の会話をしているのかわからない。ただ険悪な雰囲気はなかった。それよりもエリザちゃんが砂村さんのことを親友と言ったのが気になった。二人の間に何かあるのはわかっていたけれど、そんな親密なことは知らなかった。
「どうして、あの子なの……?」
「ときめいちゃったから」
「確かに、エリザの好きそうなタイプではあるけれど……」
エリザちゃんはいつもと変わらないか、それ以上になめらかにしゃべっていた。対して砂村さんの声はどこか弱気に聞こえた。
「ハナちゃんね、とっても可愛いの。小さくて弱々しくて、怯えながら、健気に生きている姿が愛しくて。こんな気持ちになったの初めて」
「だからって、こんなやり方しなくても……咲良さんや加藤さんをブタにする必要があったの……?」
「傷ついて、誰も信じられなくなって、ひとりぼっちになったハナちゃん。その彼女を私が支えて、守ってあげるの。この世界で私たち二人きりになれば、きっと彼女も私のことを好きになってくれるはず。そのためには、加藤さんが邪魔だった。だから二人が憎み合うように、ハナちゃんが加藤さんを怖がるように仕向ける必要があった」
私は全身から血の気が引いていくのを感じた。砂村さんが私をいじめていたのは、エリザちゃんが指示していたことなのか。加藤さんを生き物係にして、私たちが憎しみ合うよう仕向けたのも。
こんな話を聞いても、私が思ったことは、エリザちゃんに捨てられるのではないかということだった。
聞かなかったことにすれば、私たちの関係は変わらないはず。このまま保健室に戻って、何もなかったようにふるまえばいい。
エリザちゃんのことが怖い。あの砂村さんさえも従えて、あそこまでのことをさせた。同じ人間だとは思えなかった。
それでも、そのことを知らないふりをしていれば、きっとエリザちゃんは私にとって優しい友達のままのはず──
不意に誰かに手首をつかまれた。
「ひっ──」
突然のことに心臓が跳ね上がり、私は声が漏れてしまった。私の手首をつかんだのは姫山さんだった。いつの間にか彼女が私の後ろにいた。手が濡れていたから、トイレに行っていたのかもしれない。彼女は無表情で、じっと私を見ていた。
姫山さんは私の腕を引っ張り、教室に向かう。私は抵抗する間もなく、教室の中に連れ込まれた。
さっき私が漏らした声に気づいてか、すでにエリザちゃんと砂村さんが私たちの方を見ていた。
「不注意。聞かれてた」
姫山さんは二人にそう告げると、私の手首を離し、逃げ場を塞ぐように、背後に立った気配がした。
エリザちゃんはいつものように微笑んでいた。
砂村さんは今まで見たこともない顔をしていた。眉を寄せて、困ったような、怯えたような、私のことを憐れむような目で見ていた。
私はその二人を見て、生きた心地がしなかった。
「エリザちゃん……」
「あーあ、聞かれちゃった」
エリザちゃんの表情はいつもと変わらない。
何も聞いていない、そう言ったら、なかったことにできるのではないだろうか。そんなふうに思えた。
「ハナちゃん、私のこと嫌いになった?」
「え?」
「ダリアちゃんに、ハナちゃんをブタにするようにお願いしたのはね、私なの。孤立したハナちゃんを私が助けることで、ハナちゃんが私のことを好きになってくれると思ったんだ」
それにどう返したらいいかわからなかった。
「ハナちゃん、私のこと好き?」
「うん……」
「今でも?」
「うん……」
「私、ハナちゃんにひどいことしたんだよ。ブタにされて辛くなかった? なるべくハナちゃんが怪我する前に、私がとめる予定だったんだけどね。それまで苦しくて辛くなかった?」
ブタになった一週間は地獄のようだった。
「そんなことした私のこと、まだ好きでいてくれるの?」
「うん……」
それ以外にどう答えたらいいのだろう。もし私が嫌いだ、好きではないと言ったら、彼女は私のことをどうするだろうか。
エリザちゃんは晴れやかに笑う。
「わぁ、嬉しい。私もね、ハナちゃんのこと、大好きだよ。だからね、こんなことしたんだ」
私を孤立させて、エリザちゃん自身にすがらせる、それが彼女の望み。それが叶ったのだから、もうこれ以上、何も起こらないはず──
「それじゃ、ハナちゃん、私の恋人になってくれるよね?」
「え?」
かすかにエリザちゃんの表情が曇った。
「私のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ……」
「私のこと好きなんでしょ?」
「うん……」
「それなら、問題ないよね。私の恋人になって」
どう答えたらいいのかわからなかった。どうして恋人にならなければいけないのかも。この話を聞く前の私は、彼女を受け入れることもどこか考えていた。しかしこの話を聞いたあとで、すぐに受け入れる気にはなれなかった。
エリザちゃんが私の手をとる。その冷たい感触に、私は思わず手をふりほどいてしまった。
エリザちゃんの顔から表情が消える。
「ハナちゃん、選んで。私の恋人になるか、ダリアちゃんのブタになるか」
「え?」
「だってそうでしょ。ハナちゃんはダリアちゃんのブタがいいから、私の恋人になってくれないんだよね」
「ちがう……」
「じゃあ、私の恋人になってよ」
私は勘違いしていたことに気づいた。私には選択肢なんてなかった。
エリザちゃんの恋人になることがどういうことかはわからない。けれど砂村さんのブタになることの意味はよくわかっている。
「はい……」
「私の恋人になってくれるの?」
私はうなずいた。
それにエリザちゃんは晴れやかに顔を綻ばせた。
「やったー、嬉しい! ねぇ、ダリアちゃん、聞いた? ハナちゃん、私の恋人になってくれるって」
「よかったわね……」
「マリーちゃんも」
「おめでとう」
「本当に嬉しい」
エリザちゃんが私を抱きしめる。彼女の髪が頬に触れる。そのむず痒さよりも、階段から落ちた時の打ち身が、ずきりと痛んだ。
エリザちゃんが私の頬に両手を添える。
「これでハナちゃんは私の恋人」
彼女の顔が近づく。私は顔を逸らすことができなかった。怖くて目をつぶった。
「大好きだよ、ハナちゃん」
唇が重ねられた。弾力のある何かゴムのようなものを押しつけられたような感触だった。私にとって初めてのキスだった。
なぜか涙がこぼれた。頬を伝う感触でわかった。どうして涙がこぼれたのかわからない。
唇が離れる。私は目を開けると、エリザちゃんの琥珀色の瞳に映る、私と目が合った。
「ハナちゃん、私に証をちょうだい。恋人同士になった証を」
「やだ……怖い、やだ……」
彼女の瞳に映る、琥珀に閉じ込められた私は、怯えたような目で私を見ていた。
* * *
私はエリザちゃんのキスを拒むことができなかった。
彼女の柔らかい唇、生温い吐息。いつまでも彼女は唇を離さない。しっかりと頭を押さえられて、私は顔を背けることもできなかった。
「んっ……ん……」
彼女の鼻から甘い音が漏れ聞こえた。
私はキスがどんな感じか、考えたこともなかった。誰かとすることさえ想像したこともなかった。
それでも誰かとキスをすることが、こんなにも空っぽで、何も感じないとは思わなかった。
心のどこかで初めてのキスは特別なものと思っていたのかもしれない。私の中には、お母さんにねだって買ってもらったお菓子についていたシールが、好きだったキャラクターのものではなかったときのような失望感があった。
エリザちゃんにとっては特別な行為でも、私にとっては何の意味も価値もない空っぽな行為だった。これで彼女が満足するのなら、私は我慢できると思った。
不意に、私の唇を割って、何か弾力のあるものが差し入れられてきた。それが彼女の舌だと気づいて、私は彼女の体を押しのけようとした。
「んんんっ……!」
必死に私は彼女から逃れようとした。それでも強引に舌をねじ込まれていく。私の歯を、歯茎を、彼女の舌先がなぞる感触がした。
気持ち悪い、嫌だ──
私は歯を食いしばって耐える。
どうしてこんなことをするのかわからなかった。この行為が何なのかも。彼女の舌先が私の歯を割って、その奥へ入ろうとしている。彼女の舌先を感じるたび、寒気のようなものが背中や腕に、ぞわぞわと這い上がってきた。
エリザちゃんの手首を掴んで、力一杯押し開く。わずかに私の頭を押さえていた力がゆるんで、なんとか抜け出すことができた。そのまま腕を押しやり、体一つ分離れる。まだエリザちゃんの腕には力がこもっていて、私は怖くて手を話すことができなかった。
「ハナちゃん、初めてのキスだったんだよね。どうだった?」
エリザちゃんの唇や口元は、私の唾液か彼女のものによって、濡れて光っていた。
「もうやめて……」
「ハナちゃんとのキス、すごく気持ちよかった。もっとしたいな」
儚げで、血の流れていない人形のようなエリザちゃんの顔は、いつもより熱っぽかった。彼女は腕を広げると、押していた私の力は横に流れて、私たちの間にあった突っ張りがなくなってしまった。彼女は一歩踏み出して私の目の前に立つと、再び彼女の顔が間近に迫った。
鼻先が触れ合いそうになる。息が荒い。私の呼吸も早くなる。痛いほどに心臓が脈打つ。私たちの間にできた暗い影に覆われた彼女の顔の中で、その色素の薄い瞳が、濁った血の色のように見えた。
「やだ……もうやだ……」
「ダリアちゃん、ハナちゃんを押さえてて。マリーちゃん、誰か来ないか廊下を見張って」
砂村さんは無言で、後ろから私の両脇の下から腕を通して、持ち上げるように私を拘束する。私の肩は固められて、腕は左右に広がった。それによって私は砂村さんを振り解くことも、エリザちゃんを拒むこともできなくなった。
姫山さんが教室を出て、ドアを閉める音がした。
エリザちゃんはかすかに熱を帯びた微笑みを浮かべて、私を見ていた。
あと何回かキスをすれば彼女は満足してくれるのだろうか。あとどれだけの時間キスをすれば。
エリザちゃんがおもむろに私に向けて手を伸ばしてくる。またキスを──キスならまだいい、キスだけでなく舌を入れられるかも、そう思うと怖くて、私は目をつぶった。
頬に触れた感触に、私は唇を固く結ぶ。しかしその手が、私の首へ、肩へ、胸をなぞって、腰に当てられた。そのたびに私は身震いした。
「怖がらないで。安心して。あなたが私のものであること、私の恋人であることを、あなたの体に、心に、記憶に刻むの。これはとても素敵なことなんだよ」
私の腰に回された彼女の手は、スカートの上から太ももの側面を撫で、裾をまくりあげて、中に入ってくる。
何か違う。またあれをされると思っていたのに、エリザちゃんは別のことをしようとしている。
私は目を開けた。エリザちゃんの顔が再び目の前にあった。生温かい息が顔にかかる。かすかに目が潤んでいた。それは透明な膜に覆われた爬虫類の目のようだった。そこには肉食の獣が獲物をなぶるような、絶対的に強い生き物が弱いものにするような、喜びの色があるように感じられた。
「やだ、やだ……怖い……」
変な感覚がした。痺れるような、むずがゆいような。全身に寒気が這い上がってくる。心臓が痛い。指先が緊張に引きつる。足場のない、崖の縁に立たされているような気がして、足がすくんだ。
彼女の指がショーツのゴムにかけられた。
「なんで? どうして?」
私の問いかけにエリザちゃんは一つも答えてくれない。
彼女の指が、私のショーツの中に入ってきた。
「ねぇ、ハナちゃん。恋人同士ですることに、何があるか知っている?」
「キス……?」
「キスのあとは何をするの?」
「え? 一緒に、寝る?」
「そうだね」
エリザちゃんがおかしそうに笑った。
「キスをして、一緒に寝て、何をするのかな?」
それ以外にどんなことをするのだろう。
「わかんない……」
「ここを触るんだよ」
エリザちゃんの指がショーツの中に滑り込んで、私の股の間にある、しこりのような、豆粒ほどの大きさの突起に触れた。
「ひゃっ……⁉︎」
静電気が走ったときのような刺激、その何倍も強い痛みが私を打った。膝から力が抜けて倒れそうになったけれど、砂村さんがそれを許してくれなかった。
「もしかしてこれも初めて?」
「お姉ちゃんが、そこは触っちゃダメって……」
「嬉しい。ハナちゃんのたくさんの初めて、全部私がもらうね」
エリザちゃんはうっとりと笑った。
またエリザちゃんの指が、私のそこに触れてくる。
「痛い、やめて……痛いよぉ……」
何度も何度も擦られて、ひりつくような、焼けつくような痛みが走った。
私がこんなに痛くて苦しんでいるのに。エリザちゃんはどうしてこんなひどいことができるのだろう。本当は私のことが嫌いでこんなことをするのかもしれない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「ごめんなさい……許してください……」
「何も怒ってないよ。ハナちゃんのことが大好きなだけ。これは恋人同士だけがする特別なことなんだよ」
エリザちゃんが私の頬を舐める。気持ち悪い、そう思った。
「怖いよね。不安だよね。だけど安心して。私のことを信じて任せて」
「痛い痛い痛い……」
私がどれだけ泣いても、痛がっても、エリザちゃんはやめてくれなかった。
ずっと終わることなくこの痛みが続くと思っていた。不意にエリザちゃんは指を止めて、私のショーツから指を引き抜く。その指を私に見せて、うっとりと微笑んで舐めた。
「濡れてきたね」
夕日で黄金色に染まる教室の中で、彼女の指がてらてらと、妖しく光って見えた。
「ダリアちゃん、もういいよ」
私はようやく砂村さんから解放されたけれど、立っていることができず、その場にへたり込んだ。ようやくおわった。
エリザちゃんにいじられたところも痛いけれど、階段から落ちて打ちつけた腕や体、捻った右の足首もいたかった。けれどこれでようやくおわったのだ。そう思った。私はそう願った。
しかし私はエリザちゃんに押し倒された。黒い影となって、彼女が私に覆い被さる。おわらない悪夢の一場面のように、情景は続いていった。彼女の黒髪が私を隠すように被さってくる。
それに私は、彼女の柔らかく波打つ長い黒髪が、何か得体の知れない、深海に引きずり込む怪物のように思えた。エリザちゃんの色素の薄い瞳が、沈んだ血の色のように見えた。
私は彼女に押し倒されて、床にぶつけた背中が、その衝撃が怪我にも響いて、痛くて怖くてたまらなかった。
「これで私たち、本当の恋人同士だね」
影の中でエリザちゃんが微笑む。
両肩を押さえつけられて、私の両足は彼女の体に割られて大きく開かされる。押し込められるように体が曲がって、息が苦しかった。
そして私のスカートの中へ、彼女の右手が再び入ってくる。
「やだ、やだ……」
何が起きているのかわからない。これから何が起こるのかもわからない。ただ何かよくないことが起こる、起きている。それだけはわかった。
「あなたのことは気の毒に思うわ」
砂村さんの声だった。彼女は私たちから離れて、教室のドアの前にいた。彼女は哀れむように、呆れたように、私たちのことを見ていた。
「お願い、助けて……」
私はあの砂村さんにさえ、助けを求め、すがった。それは当然のことだけれど、彼女はそんな私から目を背けた。
「ハナちゃんの初めて、もらうね」
どういうことなの──そう聞く間もなく、エリザちゃんの指が、私のショーツの股の部分をずらして、割れ目に触れたのがわかった。
私はエリザちゃんの肩を掴んだ。
「こわい、こわいよ、エリザちゃん……」
彼女が何をしようとしているのか、どうしてそんなことをするのかわからない。お姉ちゃんは、そこは大事な場所だから、あまり自分でも触ったり、ましてやほかの人に触らせては駄目だと言っていた。それなのにどうしてエリザちゃんはこんなことをするのか。
エリザちゃんの指が、私の割れ目をなぞって、何かを探しているようだった。そのたびに痛みが走り、芋虫が股の間を這って、何か入り口を探しているような恐ろしい不快感が込み上げてきた。
「ここかな」
「うっ──」
彼女の指が止まる。何かを探り当てたようだった。それに異質な感じがした。私の中に何かが、彼女の指が、割って入ってくるような。
「入れるよ」
「えっ──」
彼女の指が、ぐっと押し込まれるのがわかった。何が起きているのか理解する間もなく、焼けるような鋭い痛みが、私を刺し貫いた。
どうして、なんで、私の中に彼女が入ってくるの──
「ああっ──」
あまりの痛みに息ができなかった。指なんかではなくて、ナイフか何かで私は刺されたのではないだろうか。そしてそのナイフは爪のような形をしていて、私の中をえぐり、内臓を掻き出すように思えた。
私はエリザちゃんの肩を、自分の指が痛いほどつかんだ。もうやめてほしい、抗議の気持ちもあったけれど、ただとにかく何かをつかんでいないと、この痛みに耐えられそうになかった。
ただエリザちゃんは私の痛みにも、自分の痛みにも、少しも気にかけている様子はなかった。
「いたい、いたいっ、いたい……」
「ハナちゃんの中、温かくて、ヌルヌルしてる」
エリザちゃんは痛みに苦しみ悶える私の様子を楽しんでいるようにさえ思えた。かすかに彼女の息が荒くなっているのが聞こえてきた。
さらに反応を楽しむように、私を刺したナイフは、さらに奥へと突き入れられる。
「あぐっ、うぅ……」
吐き気がした。息もうまくできない。このまま死ぬんじゃないか、そんな不安と恐怖が込み上げてきた。
どうして私なの。どうして私が選ばれたの──私はもう、痛みと涙で、エリザちゃんの顔が見えなかった。
「ああ、これで私たち、恋人だね。こんなこと、恋人同士じゃないと、しちゃいけないんだよ。ハナちゃん、愛しているよ」
唇に柔らかい感触がした。エリザちゃんの唇だった。
どのぐらいそうしていたのか、一秒か一時間か、不意にエリザちゃんの体が離れる。それと同時に私の中からナイフが引き抜かれた。
私は解放されたけれど、そのことに安心したからか、叫び疲れたからか、指先一つ動かすことができなかった。まるで私の体じゃないような感覚がした。
起き上がる気力も、逃げる気も起こらない。ただただ全身が痛い。彼女に押さえつけられた肩が、彼女に曲げられたお腹が、彼女に割られた股の関節が痛い。階段から落ちた怪我が痛い。何よりも、股の間がじんじんと痛む。熱のこもった火種のような痛みが、私のそこに留まっていた。
痛みのせいか、私は頭の芯が麻痺しているようで、もう何も考えられない、何も考えたくなかった。もし誰かが今私を殺そうとしても、私は悲鳴一つあげないだろう。
「ハナちゃん見て」
エリザちゃんが私に、血塗れの指を見せる。それに私は気が遠くなりそうだった。どうして彼女の指は赤く濡れているのだろう。やはり私は彼女に刃物で刺されたのだろうか。ただその手に凶器の姿は見えない。その指で、私の体を刺し貫いたのだろうか。私はこのまま傷口から血を流して死んでしまうのだろうか。だってこんなにも痛いのだから。
「これでハナちゃんは私のもの」
楽しげに、嬉しそうにエリザちゃんは再び指を舐めて、嬉しそうに笑った。
それがどういうことなのかわからないけれど、私はもう昨日までの私ではなくて、何か大切なものを失ったような気がした。
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