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1巻
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二、剣友
何か月ぶりかに訪れた城下の街並みは、政頼の記憶よりも小綺麗になっていた。
城の南西に広がる居残り組家来衆の長屋周りとは違い、こちらは人通りが多い。のんびりと半刻かけて歩いてきた政頼には些か騒々しいと感じるほどだ。
町方や評定所の下役連中が詰める番所も真新しくなり、見知った顔もちらほらと見えるが、全体的に若くなっているようにも思える。
「代替わり、か」
まさか下級武士まで大挙して連れてきたわけでもないはずで、おそらくは居残り組の跡継ぎ息子たちか。藩主の交代に際して前藩主に義理立てのつもりで当主が隠居し、代替わりした家も多いのだろう。
政頼は前藩主の時代に隠居しているので、そういうごたごたには巻き込まれずに済んだのだが、そのせいで陽一郎が時流に乗り遅れた感は否めない。
「不器用なのは、婿どのも同じか」
そんなことを考えているうちに目的の場所へたどり着く。
間口が大きく開かれ、土間が見える普通の旅籠と違い、立派な門構えに手入れが行き届いた庭がある登龍旅館は、一見すると料亭のようにも見える。
誰ぞが書いた読みにくい揮毫の看板があってようやく旅館だとわかるのは、政頼の無教養さゆえか。
「中に入るわけにもいかんな」
時間だけはたっぷりある。
少し離れてはいるが、どうにか旅館の門を見張れる場所に一膳めし屋を見つけた。表の床几に腰かけて、茶と適当な団子か饅頭があるかを尋ねる。
年老いた店の婆さんは愛想も何もあったものではないが、黙って奥に引っ込んだかと思うと、熱い茶と握り飯を二つ、皿にのせて持ってきた。
「ふ……そうさな、ここはめし屋だものな。これが正しい」
金を払った政頼は、ゆっくりと茶を飲みながら往来の人々を眺めていた。ちらりちらりと視線を旅館に移してはいるが、決して凝視はしない。
半刻ほど見ているうちに、先ほどからの違和感がどこから来ているのか気づいた。
通っている人々の顔つきだ。
政頼が登城していた頃とは違い、人々の顔に生気がある。
「藩主交代は、商売っ気のある連中にとっては好機に見えるわけか。新しく来た連中も、人気取りのつもりで金を使っているんだろうな」
不景気なのは居残り組の家来衆ばかりというわけだ。
商売人たちも、相手をするなら金を持っている連中が優先になるのは当然だろう。わずかな扶持からちまちまと金を使う連中に比べて、支度金を渡された新参者たちのほうが良い客なのは間違いない。
ある意味では侍より商売人たちのほうが強靭なのかもしれない。
「あれ、か」
塩だけで味付けされた具のない握り飯を二つとも平らげ、一切れだけ添えられた沢庵を齧っている間に、藤岡と思しき人物が現れた。
旅館の前に止まった駕籠から、肥えた身体が出てきたのだが、その風体は鹿嶋が言っていた通りだ。着ている物も武家のそれであり、仕立ても良い。
駕籠かきたちは金を受け取ると何度も頭を下げて早々に旅館を離れていく。
顔を見た。
これといった傷はない。やや鷲鼻ではあるが、一目見てわかる特徴などはない。丁寧に剃り上げた月代に、つやつやと光沢のある整った髷がのっている。
育ちの良い、荒事には縁がない武士だ。
剣術道場で生傷を作りながら腕を磨いてきた政頼とは違う。彼の周りにはいなかった種類の侍だ。
「泰平の世にあっては、どちらが本当の武士の姿か」
刀を振り回す野蛮な連中と、手練手管で政治を動かす者たち。
時代遅れはどちらなのかは明白だと政頼はわかっている。ゆえに、自分が長々とここにいる必要はない。陽一郎たち次代へと場所を譲らねばならぬのだ。
多少は生きた証を残しておきたいと思うのはわがままだろうか。
藤岡が旅館へ入っていくのを見届けてから、政頼は店の老婆に短く礼を言ってのっそりと立ち上がる。
腰の一刀を確かめるように握り、しばらくは城下の賑わいを目に焼きつけるように歩き回ったが、ふと思い立って八幡神社がある方向へと向かった。
城の北方へ。
城を囲む堀をぐるりと迂回して新しく作られている街道の近くに、一軒の道場がある。
「ここは、変わらんな」
たどり着いたのは、政頼が若い頃に切磋琢磨した場所。そして今は陽一郎が懸命に腕を磨いている剣術道場であった。
元は地主が持っていた建物を譲り受けて改装した道場で、もう五十年は経っている。
門下生たちが少しずつ補修していて、見た目は不格好だが雨風を避けて木刀で向き合う場所としては問題ない。
身体中に痣を作って、時には叫び、時には歯ぎしりをしながら、いつか命がけで戦う日が来ることを信じて、鍛えていた。
「嫌な思い出もあるが……懐かしい」
恋の記憶もある。
つまらないことで友人と喧嘩したことも、友を守るために白刃を振るったことも。
風通しのため常に開け放したままの格子戸から中を覗き込むと、昔を思い出すような光景が広がっていた。
高い天井に板張りの床。三十坪の広い道場内は、汗と男の臭いでむせかえるようだ。
甲高い掛け声や、痛みに耐える低い声に、木刀同士がガシガシとぶつかり合う乱暴な響きと力強い踏み込みの足音が入り混じる。
「もっと身体全体でぶつかれ! 怯えて距離をとれば不利になるだけだ!」
「相手から目を逸らすな!」
などと指導者や先輩たちからの叱咤が飛ぶのも、変わらない。
数十年前には、この中に政頼がいたのだ。鹿嶋も、まだ武家の次男坊という身分であった勢庵も。
友人たちがまだ若かった頃の相貌を思い出しながら稽古を見ていた政頼は、今を生きる若者たちの中に、陽一郎の姿を見つけた。
彼と相対しているのは、がっしりとした体躯の青年である。頬骨の張った四角い顔つきに、らんらんと光る大きな目をしている。
どこかで見たような顔だと記憶を探ると、なるほど鹿嶋の息子だ。鹿嶋よりも細君に似ているので、思い出すのに時間がかかった。確か父親と一字違いで弥四郎なる名前であったはず。
二人の腕前は拮抗しているようだが、踏み込みの思い切りの良さは陽一郎が上で、ここぞという時には半歩早く打ち込みが届いている。
今朝のことが影響しているのかどうかわからないが、陽一郎には相手がよく見えているらしい。若いと言うのは新しい技を真綿のように吸い取ってしまうものか。
「鋭っ!」
「応!」
と威勢の良い声をかけ合いながら、二合、三合と木刀を打ち合わせる。
弥四郎が鋭く攻め、それを陽一郎が器用に捌くような動きが続いている。もしやすると、あえてそうすることで弥四郎の動きを観察する稽古にしているのかもしれない。
「今日は随分と大人しい」
言いながら、弥四郎は息を弾ませて相手の木刀を上から厳しく叩く。
これをひょいと受け流しながら、陽一郎も楽しげにしていた。
「攻めるばかりが剣術ではない……などと、偉そうに言いたいところだが、これはこれで我慢させられる!」
「はは、お前の性格では、やきもきするだろうなぁ」
今度は陽一郎が攻勢へと転じる。
打ち合う同士ながら、息が合っている。いや、互いの力量が近いのであろう。陽一郎の打ち込みは鋭く、力強い。決して手を抜いているわけではない。
しかし弥四郎のほうも、これを丁寧にいなしてゆく。彼も目が良いのだろう。一手一手、木刀の動きに無駄がない。
攻守を交代しながら続く二人の稽古は、激しい音を立てつつも軽快で、二人の息が合っているのが傍から見ていてよくわかる。
「見えた!」
「あっ!」
手元でくるりと木刀を回転させた陽一郎が、気合と共に押し込むように小手を打つ。
直接叩かれることはどうにか避けたものの、弥四郎は鍔元を強かに打ち据えられて木刀を手放してしまった。
床板を木刀が跳ねて、乾いた音が響いた。
「参った、参った。これほどきつく打たれては、たまらん」
「いやはや、弥四郎もよく見ているもんだ。小手を打ったつもりが避けられた」
互いにあれこれと動きを反省し、指摘し合いながら汗を拭い、笑い合う。
朗らかで、爽やかで、政頼には何より眩しく見えた。自分たちがいつか通り過ぎた研鑽の日々が、この時代にもまだ、ここにある。
再び幾度かの打ち合いの後、二人は休憩となって他の門下生たちに場所を譲った。
「喉、渇いていませんか?」
縁側に出た陽一郎たちに、手桶ごと水を渡した女性がいる。
年の頃は二十かどうかの見た目だが、誰かの女房というよりうぶな少女の雰囲気が強かった。
二人は手ぬぐいで乱暴に汗を拭きながら礼を言って受け取ると、喉を鳴らして半分ほどを飲み、残りは頭からびしゃりとかぶった。
「ああもう、乱暴なんだから。こっちまで水がかかっちゃいましたよ」
「いや、これはすまぬ」
そう言いながら、三人とも笑っている。
よくよく見れば、陽一郎とその少女の視線が頻繁に交差しており、鹿嶋の息子はそれを微笑ましく眺めているといった様子だった。
気づいた政頼は一瞬、娘婿の浮気現場を見たような気持ちになったが、すぐにそういうわけではない、と思い直した。
「これで良い。小夜が死んでからこっち、陽一郎には浮いた話などなかったが、なかなかどうして、ちゃんとやっているではないか。水臭い……いや、そんな話、おれにできようはずもない、な」
亡き妻の父を相手に、想い人がいるなどと話す男がいるだろうか。
政頼はいよいよ自分の存在が陽一郎にとって触れるのも厄介なつっかえ棒であることに頭を抱えた。
「死ぬ前に、やっておかねばならぬことが増えたな」
お節介であるのは百も承知ながら、政頼は暗殺決行までの間に少女について調べ、陽一郎と彼女の気持ちさえ同じならば、一緒になってもらう段取りを組む気になっていた。
政頼自身の願いである空閑家の存続のためにも必要なことだ。
「では、私はお使いがありますから」
「ありがとう、お琴さん」
顔を見合わせて頬を染める二人の姿を見て、鹿嶋の息子はやれやれと嘆息しているのだが、政頼も同じような顔をしている。
若造どもめ、腹いっぱい稽古をして、思うさま恋をしているではないか。
自分の若い頃よりも浮ついているような気もするが、そこはそれ、当世のふうがそうだというならそれで良い。少なくとも、若い頃の政頼のように、悪い年増に引っかかるよりよほど良い。
「陽一郎が帰ってきたら、お琴とやらについて聞いてみよう。あの生真面目な婿どののことだ、おれを気遣って指一本触れてもいまい」
一足先に帰るとしよう、と無音のまま道場を離れた瞬間だった。
視界の端を件のお琴が道場から出てきて通り過ぎた直後、背中をぞわりと逆撫でするような気色の悪い空気を感じ取った。
その感触を、政頼は数十年前に一度味わったことがある。
忌まわしい記憶であり、道場を見たときに思い出しかけて押し戻した経験だ。
「あの男……尋常の者ではないな」
異様な雰囲気を発しているのは、一人の浪人体の男。
先ほどまでは存在を感じなかったのが、今では痩せた見た目以上に大きく、真昼間なのにまとっている空気がどす黒く染まっているかのように目立つ。
周囲を歩く者たちはこれといった視線は向けていないのがほとんどで、危険な雰囲気を感じ取った者は距離を置いて横目で見ている。
「これはいかん」
政頼は男がお琴を追っていることに気づき、疲れた膝に気合を入れて後を追う。
若いお琴の足取りは軽く、それを追う男は一歩一歩が正確無比に同じ幅を保ち、また足音もほとんど聞こえない。
黒くくすんだ着物に汚れた袴をつけ、腰にはやや長めの刀を一振りだけ佩いている。
よく陽に焼けた腕は細くとも硬く引き締まっており、政頼の見立てでは剣術はかなり強い。
どんどんと進んでいく二人を追う。
城下町を過ぎ、周囲の人もまばらになったこの辺りは、政頼が通ってきた場所とはまた違い、町人たちが住む長屋が集まる地域へと向かう中間地点になる。
周囲は竹林や寺が並び、耳を澄ませば読経や鐘の音が聞こえてくるほどの静かな通りである。
不意に、男がお琴との距離を詰め始めた。
「もし、そこの浪人さん」
お琴が襲われてからでは遅いと判断した政頼は、これが機であると判断して声をかけた。
瞬時に距離をとって腰の刀に手をかけるまでの男の動きは、慣れたものだ。
決して政頼は感心しているわけではない。戦場と縁遠いものになった侍ならばこうまで俊敏に反応できようはずもないからだ。
つまるところ、この男は不意に声をかけられて、斬り合いになる可能性を想定していることになる。
「猿のように俊敏だのう。……お前、今何をしようとしていた」
「誰かと思えば、どこぞの老いぼれか。足音も聞こえず気配もしなかったが、死にかけて命が消えかかっているゆえと思えば納得できる」
「そう言いながら、刀から手を離さぬのはなぜだ」
ちらりと窺うと、お琴は気づかぬまま歩みを進めていたようで、随分と遠くまで離れている。
ひとまず危機は脱したと判断して良いだろう。
代わりに、政頼のほうが危険に首を突っ込んでしまったわけだが。
「大方、どこぞで人を斬って逃げてきた口であろう。復讐されるのが怖くて、怯え切っているのか」
「人斬りは否定せん……だが、問題はお前だ。老いぼれだが、どうも危険な臭いが芬々と漂ってくる。俺を殺しに来た刺客ではないようだが、殺しておいたほうが良さそうだ」
浪人は刀を抜いた。
そして即座に踏み込んで斬るつもりでいたようだが、かすかに足を浮かせただけで終わる。
浪人の抜刀に半拍子だけずらして政頼が抜刀し、切っ先を向けていたからだ。
不意打ちを潰す完璧な動き。試合ではない、誰かが声をかけてから始まるわけではない命の取り合いに慣れた動きだ。
「お前も殺し屋か」
「……金を受け取って人を殺す商売、か。実物を見たことはないが、まあ似たようなものになってしまった」
木刀を使い他流試合を行うことは珍しくない。
城での御前試合もあれば、交流として他道場から出稽古に訪れたり、逆に他流の道場へ胸を借りに出向いたりすることもある。知らない技や考え方、身体の動きなどを学ぶ貴重な機会である。
しかし、真剣での斬り合いはそう悠長なことを言っていられない。
知らない技だから対応できなかった、では済まない。
「浪人さん、あんたの名は」
「言うわけがないだろう」
会話はしているが、やっていることは互いの隙を窺う行為。あるいは隙を作り出す、そして隙を見せて誘う。
踏み込む機会は。狙うべきは。頭を狙ってくるか小手を打ちにくるか。脛を狙う技法を使う流派もある。
政頼は右手で刀を突き出して半身に構えたまま。浪人者は正眼に構えて動かない。
腕一本で真剣を差し出す格好は些か辛いものがあるが、うかつに動けない。
政頼の刀は二尺三寸五分。対して浪人者の刀は政頼の見立てでは二尺六寸はある。大きな差だ。これを同じ正眼で打ち付けあったとして、政頼の今の膂力では対抗し得ない。
ゆえに、政頼は一撃必殺ではなく相手に対応して手傷を負わせることを選んだ。
打ち込んできた瞬間、その指の一本も落としてしまえば戦意を失うだろうと踏んで。
「……ふ、ふふふ……」
突然、浪人が肩を揺らして笑い始めた。削がれたような頬に一文字の傷があり、唇の片方を上げて笑うと傷が歪んで見えるのだが、それが一層異様な笑顔を作っている。
そうして、じりじりと円を描くように横へと移動しながら浪人は政頼から距離をとった。
三間ほどの距離ができたところで浪人は刀を納め、大きく息を吐いた。
「ふん、今日はやめておく。大金を得られる仕事の前に柔い肉を軽く斬っておくつもりだったが、どうやら今日は巡り合わせが良くないらしい」
「誰を狙っている?」
「襤褸を着た貧乏武士には関係のない話だ。追ってくるなら、今度こそ斬る。そしてあの娘を追いかけて殺す。それが嫌ならば、俺の姿が見えなくなるまでここで呆けていろ」
踵を返し、お琴が向かった先とは別の方角へと走り始めた浪人の背中が視界から消えるまで待ち、斬り合いの緊張から解放された政頼は丁寧に納刀し、肩を押さえた。
「久方ぶりに町へ来てみれば、なんとも面倒なことよ……」
どうやら、死ぬまでに片付けねばならぬことは、政頼が当初考えていたよりも多く、煩雑であるらしい。
「湯治ですか、それは良い考えだと思います。勢庵先生も同行されるのであれば、なおさら心強い」
「折角の湯治だというのに、医者に延々とついてこられるのはぞっとしないが、友連れだと考えれば少しは気楽だな」
「義父上、家はこの陽一郎がしっかりと守りますので、どうぞゆっくりと身体を癒やしてきてください」
道場で稽古をした日の陽一郎はいつも明るい。
憑き物が落ちたと言うのは大げさだが、政頼の体調を気遣い生真面目に家事をこなしている普段の日に比べると、別人のように舌が回る。
これを政頼は若さだと思っているし、決して悪いことだとは思わない。友と剣の道を歩むことの尊さを、理屈ではなく心で楽しんでいるのだから。
それがわかる政頼だから、つられて悪戯心が出るのも致し方ないことだった。
「今日は体調が良くてな。少し歩いて久しぶりに道場を覗いてみたのだ」
「もしや、私の稽古も見られていたのですか」
「ああ、あの鹿嶋の息子もなかなかの腕だとは思うが、陽一郎に比べると少し思い切りが足りぬようだ」
「お声がけくだされば、中に案内いたしましたのに……先生もきっと喜びますよ」
「さ、それはどうかな」
今の道場主は政頼から見て後輩にあたる。
剣の腕は充分であるが、何より人のことをよく見ており、常に門下生たちの仲裁役になっていたような穏やかな人物だった。
道場主になってしばらくは先輩方に相談を持ちかけていたが、ここ二十年はこれといった話を聞かないあたり、立場に慣れて落ち着いたのだろうと政頼は思っている。
「先輩面した老人が来たところで、あいつもやりにくいだけだろうよ。さあ、それよりも陽一郎の話を聞こうじゃないか」
「私ですか。そう申されましても、いつも通りの稽古だったとしか……」
「なるほど、なるほど。ではあのお琴とかいうお嬢さんが甲斐甲斐しく世話をしてくれるのも、いつも通りか」
ぐ、と陽一郎は食べていた煮しめを喉に詰まらせ、慌てて水を飲んだ。
今日の夕餉は、帰り道で政頼が買い求めた蓮根と牛蒡の煮しめ。それと手伝いの婆さんが用意してくれた飯に、先日鹿嶋が持ってきた酒がある。
この数年の間はなかった贅沢な晩酌であり、政頼も舐める程度だが酒を楽しんでいた。
「見られていましたか……ですが、あの子は近所の薬種問屋の娘ですよ。まだ十五かそこらのはずで、私とはとても……」
「あれはお前を好いているように見えたがな」
「兄のように思っていてくれるのでしょう。それに私には小夜がいます」
陽一郎が気にしているのは、亡き妻のことだけではないだろう。
不器用だと言ってしまえばそれまでだが、陽一郎には自分のことなど気にせず自身の幸福を追い求めてもらいたいのだ。
ふと、薬種問屋という言葉が引っかかる。
「薬種問屋とは、もしかすると理京屋のことか」
「ええ、以前より道場に塗り薬などを安く譲ってくださいます。長い付き合いだと師匠は言っておりましたから、義父上もご存じではないかと思いましたが」
「もちろん知っている。なるほど、あのお豊さんの娘がお琴か。なるほどなぁ」
「理京屋の女将さんをご存じでしたか」
「当たり前だ。あの女将は若い頃に……」
続きを語ろうとして、政頼は口を閉ざした。
何か月ぶりかに訪れた城下の街並みは、政頼の記憶よりも小綺麗になっていた。
城の南西に広がる居残り組家来衆の長屋周りとは違い、こちらは人通りが多い。のんびりと半刻かけて歩いてきた政頼には些か騒々しいと感じるほどだ。
町方や評定所の下役連中が詰める番所も真新しくなり、見知った顔もちらほらと見えるが、全体的に若くなっているようにも思える。
「代替わり、か」
まさか下級武士まで大挙して連れてきたわけでもないはずで、おそらくは居残り組の跡継ぎ息子たちか。藩主の交代に際して前藩主に義理立てのつもりで当主が隠居し、代替わりした家も多いのだろう。
政頼は前藩主の時代に隠居しているので、そういうごたごたには巻き込まれずに済んだのだが、そのせいで陽一郎が時流に乗り遅れた感は否めない。
「不器用なのは、婿どのも同じか」
そんなことを考えているうちに目的の場所へたどり着く。
間口が大きく開かれ、土間が見える普通の旅籠と違い、立派な門構えに手入れが行き届いた庭がある登龍旅館は、一見すると料亭のようにも見える。
誰ぞが書いた読みにくい揮毫の看板があってようやく旅館だとわかるのは、政頼の無教養さゆえか。
「中に入るわけにもいかんな」
時間だけはたっぷりある。
少し離れてはいるが、どうにか旅館の門を見張れる場所に一膳めし屋を見つけた。表の床几に腰かけて、茶と適当な団子か饅頭があるかを尋ねる。
年老いた店の婆さんは愛想も何もあったものではないが、黙って奥に引っ込んだかと思うと、熱い茶と握り飯を二つ、皿にのせて持ってきた。
「ふ……そうさな、ここはめし屋だものな。これが正しい」
金を払った政頼は、ゆっくりと茶を飲みながら往来の人々を眺めていた。ちらりちらりと視線を旅館に移してはいるが、決して凝視はしない。
半刻ほど見ているうちに、先ほどからの違和感がどこから来ているのか気づいた。
通っている人々の顔つきだ。
政頼が登城していた頃とは違い、人々の顔に生気がある。
「藩主交代は、商売っ気のある連中にとっては好機に見えるわけか。新しく来た連中も、人気取りのつもりで金を使っているんだろうな」
不景気なのは居残り組の家来衆ばかりというわけだ。
商売人たちも、相手をするなら金を持っている連中が優先になるのは当然だろう。わずかな扶持からちまちまと金を使う連中に比べて、支度金を渡された新参者たちのほうが良い客なのは間違いない。
ある意味では侍より商売人たちのほうが強靭なのかもしれない。
「あれ、か」
塩だけで味付けされた具のない握り飯を二つとも平らげ、一切れだけ添えられた沢庵を齧っている間に、藤岡と思しき人物が現れた。
旅館の前に止まった駕籠から、肥えた身体が出てきたのだが、その風体は鹿嶋が言っていた通りだ。着ている物も武家のそれであり、仕立ても良い。
駕籠かきたちは金を受け取ると何度も頭を下げて早々に旅館を離れていく。
顔を見た。
これといった傷はない。やや鷲鼻ではあるが、一目見てわかる特徴などはない。丁寧に剃り上げた月代に、つやつやと光沢のある整った髷がのっている。
育ちの良い、荒事には縁がない武士だ。
剣術道場で生傷を作りながら腕を磨いてきた政頼とは違う。彼の周りにはいなかった種類の侍だ。
「泰平の世にあっては、どちらが本当の武士の姿か」
刀を振り回す野蛮な連中と、手練手管で政治を動かす者たち。
時代遅れはどちらなのかは明白だと政頼はわかっている。ゆえに、自分が長々とここにいる必要はない。陽一郎たち次代へと場所を譲らねばならぬのだ。
多少は生きた証を残しておきたいと思うのはわがままだろうか。
藤岡が旅館へ入っていくのを見届けてから、政頼は店の老婆に短く礼を言ってのっそりと立ち上がる。
腰の一刀を確かめるように握り、しばらくは城下の賑わいを目に焼きつけるように歩き回ったが、ふと思い立って八幡神社がある方向へと向かった。
城の北方へ。
城を囲む堀をぐるりと迂回して新しく作られている街道の近くに、一軒の道場がある。
「ここは、変わらんな」
たどり着いたのは、政頼が若い頃に切磋琢磨した場所。そして今は陽一郎が懸命に腕を磨いている剣術道場であった。
元は地主が持っていた建物を譲り受けて改装した道場で、もう五十年は経っている。
門下生たちが少しずつ補修していて、見た目は不格好だが雨風を避けて木刀で向き合う場所としては問題ない。
身体中に痣を作って、時には叫び、時には歯ぎしりをしながら、いつか命がけで戦う日が来ることを信じて、鍛えていた。
「嫌な思い出もあるが……懐かしい」
恋の記憶もある。
つまらないことで友人と喧嘩したことも、友を守るために白刃を振るったことも。
風通しのため常に開け放したままの格子戸から中を覗き込むと、昔を思い出すような光景が広がっていた。
高い天井に板張りの床。三十坪の広い道場内は、汗と男の臭いでむせかえるようだ。
甲高い掛け声や、痛みに耐える低い声に、木刀同士がガシガシとぶつかり合う乱暴な響きと力強い踏み込みの足音が入り混じる。
「もっと身体全体でぶつかれ! 怯えて距離をとれば不利になるだけだ!」
「相手から目を逸らすな!」
などと指導者や先輩たちからの叱咤が飛ぶのも、変わらない。
数十年前には、この中に政頼がいたのだ。鹿嶋も、まだ武家の次男坊という身分であった勢庵も。
友人たちがまだ若かった頃の相貌を思い出しながら稽古を見ていた政頼は、今を生きる若者たちの中に、陽一郎の姿を見つけた。
彼と相対しているのは、がっしりとした体躯の青年である。頬骨の張った四角い顔つきに、らんらんと光る大きな目をしている。
どこかで見たような顔だと記憶を探ると、なるほど鹿嶋の息子だ。鹿嶋よりも細君に似ているので、思い出すのに時間がかかった。確か父親と一字違いで弥四郎なる名前であったはず。
二人の腕前は拮抗しているようだが、踏み込みの思い切りの良さは陽一郎が上で、ここぞという時には半歩早く打ち込みが届いている。
今朝のことが影響しているのかどうかわからないが、陽一郎には相手がよく見えているらしい。若いと言うのは新しい技を真綿のように吸い取ってしまうものか。
「鋭っ!」
「応!」
と威勢の良い声をかけ合いながら、二合、三合と木刀を打ち合わせる。
弥四郎が鋭く攻め、それを陽一郎が器用に捌くような動きが続いている。もしやすると、あえてそうすることで弥四郎の動きを観察する稽古にしているのかもしれない。
「今日は随分と大人しい」
言いながら、弥四郎は息を弾ませて相手の木刀を上から厳しく叩く。
これをひょいと受け流しながら、陽一郎も楽しげにしていた。
「攻めるばかりが剣術ではない……などと、偉そうに言いたいところだが、これはこれで我慢させられる!」
「はは、お前の性格では、やきもきするだろうなぁ」
今度は陽一郎が攻勢へと転じる。
打ち合う同士ながら、息が合っている。いや、互いの力量が近いのであろう。陽一郎の打ち込みは鋭く、力強い。決して手を抜いているわけではない。
しかし弥四郎のほうも、これを丁寧にいなしてゆく。彼も目が良いのだろう。一手一手、木刀の動きに無駄がない。
攻守を交代しながら続く二人の稽古は、激しい音を立てつつも軽快で、二人の息が合っているのが傍から見ていてよくわかる。
「見えた!」
「あっ!」
手元でくるりと木刀を回転させた陽一郎が、気合と共に押し込むように小手を打つ。
直接叩かれることはどうにか避けたものの、弥四郎は鍔元を強かに打ち据えられて木刀を手放してしまった。
床板を木刀が跳ねて、乾いた音が響いた。
「参った、参った。これほどきつく打たれては、たまらん」
「いやはや、弥四郎もよく見ているもんだ。小手を打ったつもりが避けられた」
互いにあれこれと動きを反省し、指摘し合いながら汗を拭い、笑い合う。
朗らかで、爽やかで、政頼には何より眩しく見えた。自分たちがいつか通り過ぎた研鑽の日々が、この時代にもまだ、ここにある。
再び幾度かの打ち合いの後、二人は休憩となって他の門下生たちに場所を譲った。
「喉、渇いていませんか?」
縁側に出た陽一郎たちに、手桶ごと水を渡した女性がいる。
年の頃は二十かどうかの見た目だが、誰かの女房というよりうぶな少女の雰囲気が強かった。
二人は手ぬぐいで乱暴に汗を拭きながら礼を言って受け取ると、喉を鳴らして半分ほどを飲み、残りは頭からびしゃりとかぶった。
「ああもう、乱暴なんだから。こっちまで水がかかっちゃいましたよ」
「いや、これはすまぬ」
そう言いながら、三人とも笑っている。
よくよく見れば、陽一郎とその少女の視線が頻繁に交差しており、鹿嶋の息子はそれを微笑ましく眺めているといった様子だった。
気づいた政頼は一瞬、娘婿の浮気現場を見たような気持ちになったが、すぐにそういうわけではない、と思い直した。
「これで良い。小夜が死んでからこっち、陽一郎には浮いた話などなかったが、なかなかどうして、ちゃんとやっているではないか。水臭い……いや、そんな話、おれにできようはずもない、な」
亡き妻の父を相手に、想い人がいるなどと話す男がいるだろうか。
政頼はいよいよ自分の存在が陽一郎にとって触れるのも厄介なつっかえ棒であることに頭を抱えた。
「死ぬ前に、やっておかねばならぬことが増えたな」
お節介であるのは百も承知ながら、政頼は暗殺決行までの間に少女について調べ、陽一郎と彼女の気持ちさえ同じならば、一緒になってもらう段取りを組む気になっていた。
政頼自身の願いである空閑家の存続のためにも必要なことだ。
「では、私はお使いがありますから」
「ありがとう、お琴さん」
顔を見合わせて頬を染める二人の姿を見て、鹿嶋の息子はやれやれと嘆息しているのだが、政頼も同じような顔をしている。
若造どもめ、腹いっぱい稽古をして、思うさま恋をしているではないか。
自分の若い頃よりも浮ついているような気もするが、そこはそれ、当世のふうがそうだというならそれで良い。少なくとも、若い頃の政頼のように、悪い年増に引っかかるよりよほど良い。
「陽一郎が帰ってきたら、お琴とやらについて聞いてみよう。あの生真面目な婿どののことだ、おれを気遣って指一本触れてもいまい」
一足先に帰るとしよう、と無音のまま道場を離れた瞬間だった。
視界の端を件のお琴が道場から出てきて通り過ぎた直後、背中をぞわりと逆撫でするような気色の悪い空気を感じ取った。
その感触を、政頼は数十年前に一度味わったことがある。
忌まわしい記憶であり、道場を見たときに思い出しかけて押し戻した経験だ。
「あの男……尋常の者ではないな」
異様な雰囲気を発しているのは、一人の浪人体の男。
先ほどまでは存在を感じなかったのが、今では痩せた見た目以上に大きく、真昼間なのにまとっている空気がどす黒く染まっているかのように目立つ。
周囲を歩く者たちはこれといった視線は向けていないのがほとんどで、危険な雰囲気を感じ取った者は距離を置いて横目で見ている。
「これはいかん」
政頼は男がお琴を追っていることに気づき、疲れた膝に気合を入れて後を追う。
若いお琴の足取りは軽く、それを追う男は一歩一歩が正確無比に同じ幅を保ち、また足音もほとんど聞こえない。
黒くくすんだ着物に汚れた袴をつけ、腰にはやや長めの刀を一振りだけ佩いている。
よく陽に焼けた腕は細くとも硬く引き締まっており、政頼の見立てでは剣術はかなり強い。
どんどんと進んでいく二人を追う。
城下町を過ぎ、周囲の人もまばらになったこの辺りは、政頼が通ってきた場所とはまた違い、町人たちが住む長屋が集まる地域へと向かう中間地点になる。
周囲は竹林や寺が並び、耳を澄ませば読経や鐘の音が聞こえてくるほどの静かな通りである。
不意に、男がお琴との距離を詰め始めた。
「もし、そこの浪人さん」
お琴が襲われてからでは遅いと判断した政頼は、これが機であると判断して声をかけた。
瞬時に距離をとって腰の刀に手をかけるまでの男の動きは、慣れたものだ。
決して政頼は感心しているわけではない。戦場と縁遠いものになった侍ならばこうまで俊敏に反応できようはずもないからだ。
つまるところ、この男は不意に声をかけられて、斬り合いになる可能性を想定していることになる。
「猿のように俊敏だのう。……お前、今何をしようとしていた」
「誰かと思えば、どこぞの老いぼれか。足音も聞こえず気配もしなかったが、死にかけて命が消えかかっているゆえと思えば納得できる」
「そう言いながら、刀から手を離さぬのはなぜだ」
ちらりと窺うと、お琴は気づかぬまま歩みを進めていたようで、随分と遠くまで離れている。
ひとまず危機は脱したと判断して良いだろう。
代わりに、政頼のほうが危険に首を突っ込んでしまったわけだが。
「大方、どこぞで人を斬って逃げてきた口であろう。復讐されるのが怖くて、怯え切っているのか」
「人斬りは否定せん……だが、問題はお前だ。老いぼれだが、どうも危険な臭いが芬々と漂ってくる。俺を殺しに来た刺客ではないようだが、殺しておいたほうが良さそうだ」
浪人は刀を抜いた。
そして即座に踏み込んで斬るつもりでいたようだが、かすかに足を浮かせただけで終わる。
浪人の抜刀に半拍子だけずらして政頼が抜刀し、切っ先を向けていたからだ。
不意打ちを潰す完璧な動き。試合ではない、誰かが声をかけてから始まるわけではない命の取り合いに慣れた動きだ。
「お前も殺し屋か」
「……金を受け取って人を殺す商売、か。実物を見たことはないが、まあ似たようなものになってしまった」
木刀を使い他流試合を行うことは珍しくない。
城での御前試合もあれば、交流として他道場から出稽古に訪れたり、逆に他流の道場へ胸を借りに出向いたりすることもある。知らない技や考え方、身体の動きなどを学ぶ貴重な機会である。
しかし、真剣での斬り合いはそう悠長なことを言っていられない。
知らない技だから対応できなかった、では済まない。
「浪人さん、あんたの名は」
「言うわけがないだろう」
会話はしているが、やっていることは互いの隙を窺う行為。あるいは隙を作り出す、そして隙を見せて誘う。
踏み込む機会は。狙うべきは。頭を狙ってくるか小手を打ちにくるか。脛を狙う技法を使う流派もある。
政頼は右手で刀を突き出して半身に構えたまま。浪人者は正眼に構えて動かない。
腕一本で真剣を差し出す格好は些か辛いものがあるが、うかつに動けない。
政頼の刀は二尺三寸五分。対して浪人者の刀は政頼の見立てでは二尺六寸はある。大きな差だ。これを同じ正眼で打ち付けあったとして、政頼の今の膂力では対抗し得ない。
ゆえに、政頼は一撃必殺ではなく相手に対応して手傷を負わせることを選んだ。
打ち込んできた瞬間、その指の一本も落としてしまえば戦意を失うだろうと踏んで。
「……ふ、ふふふ……」
突然、浪人が肩を揺らして笑い始めた。削がれたような頬に一文字の傷があり、唇の片方を上げて笑うと傷が歪んで見えるのだが、それが一層異様な笑顔を作っている。
そうして、じりじりと円を描くように横へと移動しながら浪人は政頼から距離をとった。
三間ほどの距離ができたところで浪人は刀を納め、大きく息を吐いた。
「ふん、今日はやめておく。大金を得られる仕事の前に柔い肉を軽く斬っておくつもりだったが、どうやら今日は巡り合わせが良くないらしい」
「誰を狙っている?」
「襤褸を着た貧乏武士には関係のない話だ。追ってくるなら、今度こそ斬る。そしてあの娘を追いかけて殺す。それが嫌ならば、俺の姿が見えなくなるまでここで呆けていろ」
踵を返し、お琴が向かった先とは別の方角へと走り始めた浪人の背中が視界から消えるまで待ち、斬り合いの緊張から解放された政頼は丁寧に納刀し、肩を押さえた。
「久方ぶりに町へ来てみれば、なんとも面倒なことよ……」
どうやら、死ぬまでに片付けねばならぬことは、政頼が当初考えていたよりも多く、煩雑であるらしい。
「湯治ですか、それは良い考えだと思います。勢庵先生も同行されるのであれば、なおさら心強い」
「折角の湯治だというのに、医者に延々とついてこられるのはぞっとしないが、友連れだと考えれば少しは気楽だな」
「義父上、家はこの陽一郎がしっかりと守りますので、どうぞゆっくりと身体を癒やしてきてください」
道場で稽古をした日の陽一郎はいつも明るい。
憑き物が落ちたと言うのは大げさだが、政頼の体調を気遣い生真面目に家事をこなしている普段の日に比べると、別人のように舌が回る。
これを政頼は若さだと思っているし、決して悪いことだとは思わない。友と剣の道を歩むことの尊さを、理屈ではなく心で楽しんでいるのだから。
それがわかる政頼だから、つられて悪戯心が出るのも致し方ないことだった。
「今日は体調が良くてな。少し歩いて久しぶりに道場を覗いてみたのだ」
「もしや、私の稽古も見られていたのですか」
「ああ、あの鹿嶋の息子もなかなかの腕だとは思うが、陽一郎に比べると少し思い切りが足りぬようだ」
「お声がけくだされば、中に案内いたしましたのに……先生もきっと喜びますよ」
「さ、それはどうかな」
今の道場主は政頼から見て後輩にあたる。
剣の腕は充分であるが、何より人のことをよく見ており、常に門下生たちの仲裁役になっていたような穏やかな人物だった。
道場主になってしばらくは先輩方に相談を持ちかけていたが、ここ二十年はこれといった話を聞かないあたり、立場に慣れて落ち着いたのだろうと政頼は思っている。
「先輩面した老人が来たところで、あいつもやりにくいだけだろうよ。さあ、それよりも陽一郎の話を聞こうじゃないか」
「私ですか。そう申されましても、いつも通りの稽古だったとしか……」
「なるほど、なるほど。ではあのお琴とかいうお嬢さんが甲斐甲斐しく世話をしてくれるのも、いつも通りか」
ぐ、と陽一郎は食べていた煮しめを喉に詰まらせ、慌てて水を飲んだ。
今日の夕餉は、帰り道で政頼が買い求めた蓮根と牛蒡の煮しめ。それと手伝いの婆さんが用意してくれた飯に、先日鹿嶋が持ってきた酒がある。
この数年の間はなかった贅沢な晩酌であり、政頼も舐める程度だが酒を楽しんでいた。
「見られていましたか……ですが、あの子は近所の薬種問屋の娘ですよ。まだ十五かそこらのはずで、私とはとても……」
「あれはお前を好いているように見えたがな」
「兄のように思っていてくれるのでしょう。それに私には小夜がいます」
陽一郎が気にしているのは、亡き妻のことだけではないだろう。
不器用だと言ってしまえばそれまでだが、陽一郎には自分のことなど気にせず自身の幸福を追い求めてもらいたいのだ。
ふと、薬種問屋という言葉が引っかかる。
「薬種問屋とは、もしかすると理京屋のことか」
「ええ、以前より道場に塗り薬などを安く譲ってくださいます。長い付き合いだと師匠は言っておりましたから、義父上もご存じではないかと思いましたが」
「もちろん知っている。なるほど、あのお豊さんの娘がお琴か。なるほどなぁ」
「理京屋の女将さんをご存じでしたか」
「当たり前だ。あの女将は若い頃に……」
続きを語ろうとして、政頼は口を閉ざした。
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