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第三章 いつも隣に
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長い残暑が終わる気配を見せ始め、日中はまだまだ暑いが日の沈みが少しずつ早くなったと実感できるようになってきていた。それもあり、暗くなると寒さを感じて、ゆきの苦手な季節が始まりかけていた。
平日の家のリビングで一人、ゆきは珍しくワイヤレスイヤホンで音楽聴いて、仕事に集中していた。時間を忘れて集中していたのだが、とうとう耐えられず作品の中から現実に飛び出す。
「あぁー、カルボナーラ食べたーい」
一人だからこそ、イヤホンで声量がおかしくなっているのもお構いなしに願望のまま叫ぶ。そして大きく息を吐いて、背後のソファーに背中を乗せるように伸びをした。
その状態のまま脱力して、目を閉じる。
「はぁ、カルボナーラ」
頭の中ではカルボナーラがぐるぐると回っていた。
けれど、諦めて目を開けた。
「ひゃっ」
心臓が止まるほど驚いたゆきをいないはずの目雲がのぞき込んでいた。
「なんで」
目雲は自分の耳を指さしていた。
すぐに意図を察してイヤホンを外す。
「帰りました」
「もう、そんな時間ですか!?」
慌てて起き上がったゆきは部屋の暗さに驚いた。
「いつの間に」
「珍しいですね。イヤホン」
ソファーの背から回ってきた目雲はスーツのままゆきの隣りに座る。
「いや、ちょっと邪念を飛ばさないとやってられなくて」
「邪念?」
音楽のせいでいつも以上に集中していたゆきは、その訳を説明する。
「普段は音楽の影響とか没入し過ぎるのもあって何も聴かないんですけど、今回の作品はちょっと異次元に難しくて」
ゆきがそこまで仕事の苦悩を話すのは初めてのことだった。
「そんなに難解なんですね」
「難解と言うか、うーん」
黙ったまままた考え込え始めてしまって、仕事との切り替えが上手くできていないこともまた初めてだった。それほど難しい作品に取り組んでいるんだと労わりの気持ちが目雲に湧く。
仕事を続けさせてあげたくもなるが、放っておくとまた食事を無視するので、それは放置できない。
「ところでゆきさん」
「はい」
声を掛ければゆきはすぐに目雲の方を向く。
「夕ご飯はカルボナーラにしましょうか?」
その一言で自分が声を出していたことを思い出す。
「あっ、聞いてました? いつ帰ってきたんですか」
「ゆきさんが叫ぶ瞬間にリビングの扉を開けました」
ゆきは殴られでもしたように姿勢を崩す。
「おぅ、なんてナイスなバッドタイミング」
ゆきの珍しい言葉のチョイスに目雲は微笑んだ。
「ナイスタイミングです」
ゆきの願いを聞けたのだから目雲にしてみたら最高なタイミングだった。
けれどゆきはただただ頭の中だけで回り続けるそれを発散したかっただけで、目雲がしっかり計算している食事計画を壊すつもりは毛頭ない。
「予定通りの献立でもちろん」
「折角ですし、食べたいものを食べた方がいいです」
「それだとこれからしばらく毎日カルボナーラになっちゃいます」
ゆきが困り顔で笑う。
「カルボナーラだけの料理本でも訳してるんですか?」
「半分正解です」
材料もあるという目雲の誘惑に負けて、夕飯はカルボナーラになった。
目雲が作ってくれた念願のカルボナーラに、ゆきはしっかり魅了されながら目雲にこうなっている理由を説明していた。
「要約すると旅行先で初めて食べたカルボナーラに感動した男がカルボナーラばっかり作る話です」
「小説なんですか?」
レシピ本ならどんなに良かったかとゆきの方が思っていた。
「それはもう完璧な。創作じゃなかったらこの人大変ですよ。もうカルボナーラに取憑かれてて、一応女性に出会ったりスリにあったりもするんですけど、そんなことよりカルボナーラなんです」
「小説になるんですか?」
目雲でもそれ一つで話しが成り立つものかと訝しがるが、そこが難しさの大本とも言えた
「それがちゃんとなってるんです。カルボナーラって日本人がまず想像するものとイタリアで食べられている物ってちょっと違うんです。主人公はまずイタリアの一般の家庭で食べるんですけど、その後レストランで食べると何か違う。そこからもうどんどん深みにはまっていきます。途中日本版のカルボナーラもいくつか登場しますし、それら全部の味の表現が独特すぎて」
「美味しいとかじゃないと」
目雲もなんとなく想像ができた。
「分かりやすく言うと、妖艶な女性のようだとか大地を掛けるシマウマのようだとか、それをもっとずっとすごい量の言葉を重ねて表現するんです、途中はもうカルボナーラなことか分からなくなるくらいなんですけど。それを受けて自分の味覚にはどうして合わないのかを同じように比喩表現で言い募るんです」
難解な食レポに何度も何度も挑み続けているような感覚にゆきは陥っていた。
「すごい話ですね」
「でも不思議と食べたくなるんですよね、だから難しいんです」
だから直訳できず、美味しさが伝わるようにそそる様な表現をこのところ毎日探し続けている。
「それをずっと考えてるからカルボナーラを食べたくなるんですね」
「そうなんです、もう自分の思考を音楽でかき消さないと、やってられないんです」
「終わるまで毎日カルボナーラでもいいですよ」
ゆきは疲れたように首を振った。
「たまに、でお願いします。私がこの主人公みたいにならないように、違う物も食べないと」
「限界が来たら言ってくださいね、いつでも作ります」
「ありがとうございます」
あっという間に食べ終わり、二人で後片付けをする。
「そういえば、ゆきさんイヤホンなんて持っていたんですね。このために買ったんですか?」
目雲が食器を食洗器に入れた後、手洗いの食器を洗いながら、ふと思い出したことをゆきに尋ねた。
ゆきは目雲に食器を渡した後に、テーブルを拭きながら答える。
「いえ、最近はあまり使わないだけで前から持ってました」
「そうなんですね」
そんな風に協力しながら二人の生活はいたって平和に過ぎていく。
そしてイヤホンの謎はそれからすぐ目雲が突然早く帰ってきた時に分かった。
土曜日に出勤していた目雲は昼過ぎに帰ってきた。
「戻りました」
目雲が玄関でいつものように声を掛けるが、ゆきの返事はない。
玄関に靴があっても返事がないことはよくあるので、気にせずリビングに向かうがソファーの前にもダイニングテーブルにも姿はない。書斎かと思いノックをしてそっと覗くがそこにもいなかった。
目雲に焦りが生まれる。
「ゆきさん?」
寝室にも書庫に近いゆきの自室にもいなかった。
いよいよ不安になったとき、バスルームでシャワーの音がした。
そこでほっと息を吐いた。
ゆきが昼間に風呂に入る習慣があることは知らなかった目雲はとりあえず確認しに行く。
この日は天気が良く冬目前にしては汗ばむほど暖かい日だったから、厚着のゆきが外に出ていたならシャワーくらい浴びたくなっただろうと不思議にも思わなかった。
「ゆきさん、戻りました」
扉は開けずに声を掛けたが返事はない。
シャワーで聞こえないのかと考え、とりあえず出てくることを待つことにした。
しかし、そこからが明らかに長すぎた。
湯船にのんびり浸かっているにしてはシャワーが小刻みに使われている音がして、気になって改めて脱衣所に行くと着替えも用意されていなかった。
「ゆきさん、大丈夫ですか」
シャワーが出ていないタイミングで声を掛けるが返事がない。
「開けますよ」
変わらず返事はなかったが、構わず目雲は驚かせないようにそっと開けた。
そこには部屋着でおなじみのTシャツと見慣れない短パンを着たゆきが扉に背を向けてしゃがんでいて、いろんなものを洗っていた。下着にぬいぐるみ、靴下、半分ほど湯の張られた浴槽にはカーテンも漬け込まれている。すでに洗い終えたらしい加工のあるスカートとブラウスが浴室乾燥用の竿に掛けられていた。
「ゆきさん?」
未だに気が付かないゆきを観察するとイヤホンをしている。
そして、小さく鼻歌まで歌っている。
それもとても楽しそうに。時折小声ではあるものの歌うのに夢中になって手が止まっていた。
ゆきの歌など聞いたことのなかった目雲は思わず少し聴いてしまっていた。
ゆきの実家から最近送られてきた二匹のぬいぐるみのうちの一匹を洗濯用のブラシで軽くこすりながら埃を取り毛並みを整えていっている。
ゆきがふいにぬいぐるみを眺める。
「よし、キレイになったんじゃないかい?」
手足の長い淡く渋いグリーンのウサギの両脇を抱えて持ち上げると、滴る水滴を絞り出す。ちなみにもう一匹は淡く渋いパープルのウサギで、壁にもたれる様に座らされていた。
別に子供の頃からゆきが大事にしていたということもない、ただ実家に飾られていただけのそのぬいぐるみは、たまたまゆきが実家に行った時に可愛いと言ったので、年末でもなく結婚したはるきの部屋の始末と一緒に実家の大掃除が決行された際に、捨てるのは忍びないという理由で送られてきたのもの一部だ。
その他にも目雲なら使いこなしてくれるだろうと食器やグラス。ゆきの母が福袋で買った未使用の妙な絵柄のTシャツとトレーナー、それと変なポーズのカエルの置物。あとは賞味期限が迫っている保存食だった。
ゆきの妹のはるき曰く、それでも相当厳選された物らしく、はるきの助言でそこまで減ったんだから感謝しろと言われたとゆきは目雲に謝罪と苦笑と共に教えた。
食器類は目雲がちゃんと使っているし、服もゆきの部屋着になっているし、カエルは玄関に飾られている。保存食は早々に二人で夕飯にした。
そんなことを思い出しながら、いつまでもゆきの歌を聞いていたい目雲だったが、流石に気付いてもらうことにして、肩に触れた。
「っひ」
声にならない悲鳴を上げたゆきがゆっくり振り返った。
「っひゃあああああ」
「僕です、ゆきさん」
立ち上がり損ねたゆきが風呂場の壁に背中から激突しながら、口を手で覆って心臓の辺りをぎゅっと握って怯えた目で目雲を見つめている。
「大丈夫ですか、ゆきさん」
目雲の顔を見たあと、視線を少しだけさ迷わせたゆきはそこでようやく声が聞こえないことを気が付いたのかイヤホンを外した。
「ハァ、ハァ、めく、も、さん。なんで」
「午後の打ち合わせが延期になったんです、それで最近ちょっと残業が続いていたので早めに帰って来たんです」
「ハァ、そうなんですね。気が付きませんでした」
「すみません、怖がらせて」
目雲が手を差し伸べると、ゆきもおずおずとその手を取って立ち上がった。
「こちらこそ、なんだかとても驚いてしまって」
「音楽聴いてたんですね」
ゆきは握り込んでいた手を開いてそれを見下ろす。
「一人で家事するときに聴くんです。面倒くさいことするときに気合入れてテンションを上げるために実家にいる時からそうしてて」
「一人の時だけだから僕は知らなかったんですね」
ゆきは浴室を一通り眺めて、暖かかったから寒さが本格的になる前にいろいろ洗っておきたかったのだと説明した。
「ここに来てからはそんなに時間が掛かること一人でやるってなかったので、今日は久しぶりでちょっと楽しくなってしまって、夢中になってたんです。すみません」
「大丈夫ですよ、可愛い歌も聴けましたから」
ゆきは驚愕の表情をした後に両手で顔を覆うと、さらに俯いた。
「……すみません」
「どうして謝るんですか? 上手でしたよ」
ゆきはもう何も言わずにぷるぷると頭を横に振るばかりだった。
「とりあえずこれ終わらせましょうか?」
「……はい」
目雲がカーテンを絞る横で、まだ洗い終わってない物に泡を乗せてさっきまでとは違って手早く洗っていく。
「ゆきさんは歌を聴かれるのが苦手なんですか?」
目雲が手を動かしながらゆきを見れば、とても渋い顔した姿が目に入った。
「すごく苦手です」
「下手ではなかったですよ、本当に。それにあの感じだと歌うこと自体も嫌いではないですよね」
「……私もしかしたら自分の声が苦手なのかもしれないです。録音した自分の声を初めて聴いたら変な声だと思ったとかよく聞きませんか? それの酷い感じなのかもしれません」
「それで子供の頃はあまりしゃべらなかった?」
ゆきの認識では全く持って周りと同じようにしていると思っていたから、意識しているものではなかった。
「それは全く違って、私としてはしっかり喋っていたつもりだったので、声を気にしたりはしたことないんですけど。それも原因の一部ではあると思います。たぶん自分で自分の声を聴く機会が少なかったせいで、自分のイメージしていた声と乖離が激しかったんだと思います」
人前で歌えないとなると、子供の頃はそれを強制される場面もあっただろうと目雲は思い至る。
「小学生の頃の音楽の授業はどうしたんですか? 歌うたいますよね?」
「中学までは何も考えずに授業では歌ってました。そもそも一人で人前で歌うことも殆どないじゃないですか、合唱の方が遥かに多いので。ただ高校生になって初めて友達とカラオケに行った時にマイクに通して聴いた自分の声が衝撃でそれから人前で歌えなくなりました」
つらい体験をしていたわけではないと分かって目雲は胸を撫でおろし、さっき聴いたその歌声を思い出す。
「可愛い声でしたよ」
ゆきの手は止まってしまい、膝を抱えて小さくなってしまう。
「うぅ、せめてもの慰めだと思っておきます」
「本当ですよ。ついでに言うと普段の声もとても好きです」
ゆきはますます小さくなっていく。
「うっ、くぅ……、意識しだしたら話せなくなっちゃうかもしれないですよ」
「僕はどちらも大好きなので気にしないで下さいってことです」
返事とも呻きとも取れるような声を出したゆきを微笑ましく思いながら、洗濯機で脱水するために目雲は浴室を出た。
平日の家のリビングで一人、ゆきは珍しくワイヤレスイヤホンで音楽聴いて、仕事に集中していた。時間を忘れて集中していたのだが、とうとう耐えられず作品の中から現実に飛び出す。
「あぁー、カルボナーラ食べたーい」
一人だからこそ、イヤホンで声量がおかしくなっているのもお構いなしに願望のまま叫ぶ。そして大きく息を吐いて、背後のソファーに背中を乗せるように伸びをした。
その状態のまま脱力して、目を閉じる。
「はぁ、カルボナーラ」
頭の中ではカルボナーラがぐるぐると回っていた。
けれど、諦めて目を開けた。
「ひゃっ」
心臓が止まるほど驚いたゆきをいないはずの目雲がのぞき込んでいた。
「なんで」
目雲は自分の耳を指さしていた。
すぐに意図を察してイヤホンを外す。
「帰りました」
「もう、そんな時間ですか!?」
慌てて起き上がったゆきは部屋の暗さに驚いた。
「いつの間に」
「珍しいですね。イヤホン」
ソファーの背から回ってきた目雲はスーツのままゆきの隣りに座る。
「いや、ちょっと邪念を飛ばさないとやってられなくて」
「邪念?」
音楽のせいでいつも以上に集中していたゆきは、その訳を説明する。
「普段は音楽の影響とか没入し過ぎるのもあって何も聴かないんですけど、今回の作品はちょっと異次元に難しくて」
ゆきがそこまで仕事の苦悩を話すのは初めてのことだった。
「そんなに難解なんですね」
「難解と言うか、うーん」
黙ったまままた考え込え始めてしまって、仕事との切り替えが上手くできていないこともまた初めてだった。それほど難しい作品に取り組んでいるんだと労わりの気持ちが目雲に湧く。
仕事を続けさせてあげたくもなるが、放っておくとまた食事を無視するので、それは放置できない。
「ところでゆきさん」
「はい」
声を掛ければゆきはすぐに目雲の方を向く。
「夕ご飯はカルボナーラにしましょうか?」
その一言で自分が声を出していたことを思い出す。
「あっ、聞いてました? いつ帰ってきたんですか」
「ゆきさんが叫ぶ瞬間にリビングの扉を開けました」
ゆきは殴られでもしたように姿勢を崩す。
「おぅ、なんてナイスなバッドタイミング」
ゆきの珍しい言葉のチョイスに目雲は微笑んだ。
「ナイスタイミングです」
ゆきの願いを聞けたのだから目雲にしてみたら最高なタイミングだった。
けれどゆきはただただ頭の中だけで回り続けるそれを発散したかっただけで、目雲がしっかり計算している食事計画を壊すつもりは毛頭ない。
「予定通りの献立でもちろん」
「折角ですし、食べたいものを食べた方がいいです」
「それだとこれからしばらく毎日カルボナーラになっちゃいます」
ゆきが困り顔で笑う。
「カルボナーラだけの料理本でも訳してるんですか?」
「半分正解です」
材料もあるという目雲の誘惑に負けて、夕飯はカルボナーラになった。
目雲が作ってくれた念願のカルボナーラに、ゆきはしっかり魅了されながら目雲にこうなっている理由を説明していた。
「要約すると旅行先で初めて食べたカルボナーラに感動した男がカルボナーラばっかり作る話です」
「小説なんですか?」
レシピ本ならどんなに良かったかとゆきの方が思っていた。
「それはもう完璧な。創作じゃなかったらこの人大変ですよ。もうカルボナーラに取憑かれてて、一応女性に出会ったりスリにあったりもするんですけど、そんなことよりカルボナーラなんです」
「小説になるんですか?」
目雲でもそれ一つで話しが成り立つものかと訝しがるが、そこが難しさの大本とも言えた
「それがちゃんとなってるんです。カルボナーラって日本人がまず想像するものとイタリアで食べられている物ってちょっと違うんです。主人公はまずイタリアの一般の家庭で食べるんですけど、その後レストランで食べると何か違う。そこからもうどんどん深みにはまっていきます。途中日本版のカルボナーラもいくつか登場しますし、それら全部の味の表現が独特すぎて」
「美味しいとかじゃないと」
目雲もなんとなく想像ができた。
「分かりやすく言うと、妖艶な女性のようだとか大地を掛けるシマウマのようだとか、それをもっとずっとすごい量の言葉を重ねて表現するんです、途中はもうカルボナーラなことか分からなくなるくらいなんですけど。それを受けて自分の味覚にはどうして合わないのかを同じように比喩表現で言い募るんです」
難解な食レポに何度も何度も挑み続けているような感覚にゆきは陥っていた。
「すごい話ですね」
「でも不思議と食べたくなるんですよね、だから難しいんです」
だから直訳できず、美味しさが伝わるようにそそる様な表現をこのところ毎日探し続けている。
「それをずっと考えてるからカルボナーラを食べたくなるんですね」
「そうなんです、もう自分の思考を音楽でかき消さないと、やってられないんです」
「終わるまで毎日カルボナーラでもいいですよ」
ゆきは疲れたように首を振った。
「たまに、でお願いします。私がこの主人公みたいにならないように、違う物も食べないと」
「限界が来たら言ってくださいね、いつでも作ります」
「ありがとうございます」
あっという間に食べ終わり、二人で後片付けをする。
「そういえば、ゆきさんイヤホンなんて持っていたんですね。このために買ったんですか?」
目雲が食器を食洗器に入れた後、手洗いの食器を洗いながら、ふと思い出したことをゆきに尋ねた。
ゆきは目雲に食器を渡した後に、テーブルを拭きながら答える。
「いえ、最近はあまり使わないだけで前から持ってました」
「そうなんですね」
そんな風に協力しながら二人の生活はいたって平和に過ぎていく。
そしてイヤホンの謎はそれからすぐ目雲が突然早く帰ってきた時に分かった。
土曜日に出勤していた目雲は昼過ぎに帰ってきた。
「戻りました」
目雲が玄関でいつものように声を掛けるが、ゆきの返事はない。
玄関に靴があっても返事がないことはよくあるので、気にせずリビングに向かうがソファーの前にもダイニングテーブルにも姿はない。書斎かと思いノックをしてそっと覗くがそこにもいなかった。
目雲に焦りが生まれる。
「ゆきさん?」
寝室にも書庫に近いゆきの自室にもいなかった。
いよいよ不安になったとき、バスルームでシャワーの音がした。
そこでほっと息を吐いた。
ゆきが昼間に風呂に入る習慣があることは知らなかった目雲はとりあえず確認しに行く。
この日は天気が良く冬目前にしては汗ばむほど暖かい日だったから、厚着のゆきが外に出ていたならシャワーくらい浴びたくなっただろうと不思議にも思わなかった。
「ゆきさん、戻りました」
扉は開けずに声を掛けたが返事はない。
シャワーで聞こえないのかと考え、とりあえず出てくることを待つことにした。
しかし、そこからが明らかに長すぎた。
湯船にのんびり浸かっているにしてはシャワーが小刻みに使われている音がして、気になって改めて脱衣所に行くと着替えも用意されていなかった。
「ゆきさん、大丈夫ですか」
シャワーが出ていないタイミングで声を掛けるが返事がない。
「開けますよ」
変わらず返事はなかったが、構わず目雲は驚かせないようにそっと開けた。
そこには部屋着でおなじみのTシャツと見慣れない短パンを着たゆきが扉に背を向けてしゃがんでいて、いろんなものを洗っていた。下着にぬいぐるみ、靴下、半分ほど湯の張られた浴槽にはカーテンも漬け込まれている。すでに洗い終えたらしい加工のあるスカートとブラウスが浴室乾燥用の竿に掛けられていた。
「ゆきさん?」
未だに気が付かないゆきを観察するとイヤホンをしている。
そして、小さく鼻歌まで歌っている。
それもとても楽しそうに。時折小声ではあるものの歌うのに夢中になって手が止まっていた。
ゆきの歌など聞いたことのなかった目雲は思わず少し聴いてしまっていた。
ゆきの実家から最近送られてきた二匹のぬいぐるみのうちの一匹を洗濯用のブラシで軽くこすりながら埃を取り毛並みを整えていっている。
ゆきがふいにぬいぐるみを眺める。
「よし、キレイになったんじゃないかい?」
手足の長い淡く渋いグリーンのウサギの両脇を抱えて持ち上げると、滴る水滴を絞り出す。ちなみにもう一匹は淡く渋いパープルのウサギで、壁にもたれる様に座らされていた。
別に子供の頃からゆきが大事にしていたということもない、ただ実家に飾られていただけのそのぬいぐるみは、たまたまゆきが実家に行った時に可愛いと言ったので、年末でもなく結婚したはるきの部屋の始末と一緒に実家の大掃除が決行された際に、捨てるのは忍びないという理由で送られてきたのもの一部だ。
その他にも目雲なら使いこなしてくれるだろうと食器やグラス。ゆきの母が福袋で買った未使用の妙な絵柄のTシャツとトレーナー、それと変なポーズのカエルの置物。あとは賞味期限が迫っている保存食だった。
ゆきの妹のはるき曰く、それでも相当厳選された物らしく、はるきの助言でそこまで減ったんだから感謝しろと言われたとゆきは目雲に謝罪と苦笑と共に教えた。
食器類は目雲がちゃんと使っているし、服もゆきの部屋着になっているし、カエルは玄関に飾られている。保存食は早々に二人で夕飯にした。
そんなことを思い出しながら、いつまでもゆきの歌を聞いていたい目雲だったが、流石に気付いてもらうことにして、肩に触れた。
「っひ」
声にならない悲鳴を上げたゆきがゆっくり振り返った。
「っひゃあああああ」
「僕です、ゆきさん」
立ち上がり損ねたゆきが風呂場の壁に背中から激突しながら、口を手で覆って心臓の辺りをぎゅっと握って怯えた目で目雲を見つめている。
「大丈夫ですか、ゆきさん」
目雲の顔を見たあと、視線を少しだけさ迷わせたゆきはそこでようやく声が聞こえないことを気が付いたのかイヤホンを外した。
「ハァ、ハァ、めく、も、さん。なんで」
「午後の打ち合わせが延期になったんです、それで最近ちょっと残業が続いていたので早めに帰って来たんです」
「ハァ、そうなんですね。気が付きませんでした」
「すみません、怖がらせて」
目雲が手を差し伸べると、ゆきもおずおずとその手を取って立ち上がった。
「こちらこそ、なんだかとても驚いてしまって」
「音楽聴いてたんですね」
ゆきは握り込んでいた手を開いてそれを見下ろす。
「一人で家事するときに聴くんです。面倒くさいことするときに気合入れてテンションを上げるために実家にいる時からそうしてて」
「一人の時だけだから僕は知らなかったんですね」
ゆきは浴室を一通り眺めて、暖かかったから寒さが本格的になる前にいろいろ洗っておきたかったのだと説明した。
「ここに来てからはそんなに時間が掛かること一人でやるってなかったので、今日は久しぶりでちょっと楽しくなってしまって、夢中になってたんです。すみません」
「大丈夫ですよ、可愛い歌も聴けましたから」
ゆきは驚愕の表情をした後に両手で顔を覆うと、さらに俯いた。
「……すみません」
「どうして謝るんですか? 上手でしたよ」
ゆきはもう何も言わずにぷるぷると頭を横に振るばかりだった。
「とりあえずこれ終わらせましょうか?」
「……はい」
目雲がカーテンを絞る横で、まだ洗い終わってない物に泡を乗せてさっきまでとは違って手早く洗っていく。
「ゆきさんは歌を聴かれるのが苦手なんですか?」
目雲が手を動かしながらゆきを見れば、とても渋い顔した姿が目に入った。
「すごく苦手です」
「下手ではなかったですよ、本当に。それにあの感じだと歌うこと自体も嫌いではないですよね」
「……私もしかしたら自分の声が苦手なのかもしれないです。録音した自分の声を初めて聴いたら変な声だと思ったとかよく聞きませんか? それの酷い感じなのかもしれません」
「それで子供の頃はあまりしゃべらなかった?」
ゆきの認識では全く持って周りと同じようにしていると思っていたから、意識しているものではなかった。
「それは全く違って、私としてはしっかり喋っていたつもりだったので、声を気にしたりはしたことないんですけど。それも原因の一部ではあると思います。たぶん自分で自分の声を聴く機会が少なかったせいで、自分のイメージしていた声と乖離が激しかったんだと思います」
人前で歌えないとなると、子供の頃はそれを強制される場面もあっただろうと目雲は思い至る。
「小学生の頃の音楽の授業はどうしたんですか? 歌うたいますよね?」
「中学までは何も考えずに授業では歌ってました。そもそも一人で人前で歌うことも殆どないじゃないですか、合唱の方が遥かに多いので。ただ高校生になって初めて友達とカラオケに行った時にマイクに通して聴いた自分の声が衝撃でそれから人前で歌えなくなりました」
つらい体験をしていたわけではないと分かって目雲は胸を撫でおろし、さっき聴いたその歌声を思い出す。
「可愛い声でしたよ」
ゆきの手は止まってしまい、膝を抱えて小さくなってしまう。
「うぅ、せめてもの慰めだと思っておきます」
「本当ですよ。ついでに言うと普段の声もとても好きです」
ゆきはますます小さくなっていく。
「うっ、くぅ……、意識しだしたら話せなくなっちゃうかもしれないですよ」
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ただの客だったはずなのに、彼といきなりの同居。そして、親を安心させるために入籍することに。
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書類上の夫婦と思ったのに、なぜか拓斗は甘々で――。
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