白鬼

藤田 秋

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第零章 千年目の彼岸桜 中編

0-13 望まない婚約者

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「な、何をするの!? 離しなさい!」
 真は身をよじって抵抗するが、拘束の手はびくともしない。

 珀蓮は細身であるが背は高く、小柄な真とは体格差があった。それ以前に、真が男に力で勝てるはずがない。

「私の命令が聞けないの!?」
 真は必死で珀蓮に問いかけるが、依然として無反応。ただただ、主人を死んだ目で見つめるだけだ。

「珀蓮……っ」
 彼の暗い瞳から目が離せない。どこまでも続く深い闇に呑まれるような絶望感が、真を引きずり込む。

「は、く……」
 真の目がトロンとし、抵抗する力も抜け始めた。

 どうしてかはわからない。ただ、この瞳の奥に広がる闇が心地よく感じたのだ。

 珀蓮はだらしなく表情を弛める主人を、何も言わずに見つめ続けた。自分だけに見せる姿を、目に焼き付けるように。

 彼の中にはとある感情が芽生えていた。それは独占欲だ。
 無意識に、真を手に入れようとしていた。今の彼に理性は無い。あるのは真を想う貪欲な本能だけだ。

 珀蓮が手を離すと、真はするするとへたり込んだ。反旗を翻した従者を、力無くぼうっと見ている。
 従者は腰を降ろし、主人と目線を合わせた。

 細長い指先を、真の頭、頬、首筋に滑らせ、鎖骨から肩を撫で上げる。その艶やかな指使いに、真は声を上擦らせた。
 触れられただけで、身体の芯が疼くのだ。

「さ、な……様……」
 やっと聞こえた第一声が、真の名前だった。

「珀蓮……」
 彼の落ち着いた声が心地良い。
 幼少期からよく聞いていた単語だが、今ほど嬉しいと思ったことは無かった。

 珀蓮が自分を求めている。そう勘違いしても罰は当たらないのでは、と堕落した思考が巡る。

 しかし、続いたのは予想外の言葉であった。

「お、逃げ……くだ、さい……」
 珀蓮は絶え絶えに言葉を紡ぐ。
 彼の瞳には光が灯っており、正気に戻ったのだと真に訴えた。

「珀蓮!?」
 真も正気に戻り、トロンとした目に力が籠もる。自分の腕を押さえ込んでいる珀蓮に、思わず手を伸ばした。

「なりません! 早く出て行ってください!」
 珀蓮はしっかりとした口調でそれを拒否した。
 彼の剣幕に圧され、真は急いで部屋から駆け出す。

 一人残された珀蓮は、真の背中を見送ると、髪をぐしゃりと鷲掴みにしながら頭を抱えた。

「あのまま行けば、小娘を手籠めに出来たものを」
「見ていたのですか、悪趣味ですね」
 珀蓮は音もなく現れた式神を一瞥した。

「理性が本能に負ける瞬間というものは、なかなか愉快なものぞ」
 狐珱はくくくと笑い、主人を更に挑発する。珀蓮はあからさまに嫌そうな表情を浮かべ、着物を整えた。

「えぇ、愉快ですね……」
 今まで必死で抑えてきた醜い感情。
 願わくば永遠に心中に留めておきたかった代物であった。

 しかし、虚しくもそれは解き放たれ、あろうことか主人を襲い掛けた。なんと滑稽なことであろうか。

 真のことを想えば想う程、珀蓮の狂気は自分自身を蝕んでゆく。
 彼の中の鬼は、純粋な想いを嘲り、蹂躙するのだ。

「どうすれば良いのか、わかりません……」
 珀蓮の心の叫びに、狐珱は答えることが出来なかった。

* * * * * * * *

 自室まで戻ってきた真は、自分自身を抱きしめて座り込んでしまった。
 胸の鼓動は早く、大きい。

「はぁ……はぁ……っ」
 我を失いかけた。珀蓮の暗く甘い誘惑に引きずり込まれて。堕ちても良いとさえ、思ってしまった。

 目を見ただけで正気を失わせるのは、ただの誘惑ではない。呪術的な力が裏で働いていたのだろう。
 珀蓮なら、それが可能かもしれない。

 真は幼少の頃、彼が呪術を使っていたのを見たことがあった。
 幼いながら高度な術を扱える彼は、実は優秀な術師なのではないか。

 九尾を従えられるだけの器があるのが、何よりの証拠だ。

 だが、狐珱が封印から目覚めた日、彼を式神にした日、珀蓮は何があったのかを決して教えてはくれなかった。

「何だ……」
 真はポツリと呟く。

「私……何も知らない……」
 ずっと想っていたのに、珀蓮のことを何も知らなかった。

 彼がどうして真を襲おうとしたのかも、わからない。何を抱えていたのか、あの瞳の奥の闇の理由だってわからない。

「私って何なの……?」
 その呟きは虚空へと消えてしまった。

***

 翌日。昨日はあんな事があったのに、珀蓮は普通に接してきた。
 しかし、どこか淡白で、今までの甲斐甲斐しさは無くなっていた。

 顔合わせのことを話すと、笑顔で『お幸せに』と祝福された。
 まだ祝言も挙げていないのに気が早いと文句を言うと、『遅かれ早かれ、そうなる運命でしょう?』と、やはり笑顔で言われた。

 まるで突き放されたような気分だった。
 少しだけ、ほんの少しだけ期待していたのだ。

 嫉妬してくれると。真の婚姻を嘆いてくれると。
 そんな淡い期待は、彼の笑顔によって粉々に打ち砕かれた。

 珀蓮は真のことを何とも思っていないと、遠回しに知らされたのだ。



 真は今、とてつもなく気が重い。

「此方が龍一郎さんだ」
「初めまして」
 真の父に紹介され、龍一郎は頭を下げた。第一印象は、優しそうな好青年だ。

「……初めまして」
 真も頭を下げる。彼が夫になる予定の男性だ。

 明朗で気品があり、顔も整っている。
 どことなく雰囲気が珀蓮に似ていた。その所為で、真の心はチクりと痛んだ。

「聞いていた通り、真さんはお美しい方だ。あなたの夫になれるなんて、夢のようですよ」
「まぁ、口がお上手ですね……」
 龍一郎に褒められたところで、嬉しくも何ともなかった。この男と一緒にならなければいけないと考えると、憂鬱になった。

 珀蓮に会いたい。今度はきちんと話したい。彼のことをもっとよく知りたい。

 龍一郎の退屈な話を聞き流しながら、真は珀蓮のことを考えていた。この想いは実ることは無いと、目の前の現実が宣告する。

 それでも、真は最後の悪あがきをしたのだった。

***

 真と龍一郎は親睦を深めるために二人で歩いていた。

 廊下を進んでいると、前方に長身の男が見えた。珀蓮だ。
 彼も二人に気づいたようだが、表情を変えずに近づいてきた。

「珀蓮……」
「こんにちは、真様。そちらの方は?」

「真さんの婚約者の神凪龍一郎と申します」
 珀蓮が問うと、龍一郎は一歩出て愛想良く名乗った。真は少し気まずそうな表情で俯く。

「貴方が……。私は真様の従者の珀蓮と申します」
 珀蓮も愛想良く微笑み、少し頭を下げた。
 龍一郎は珀蓮の顔を一瞬だけ品定めをするように見て、またにこりと笑った。

「いやぁ、男の私から見ても美男子だ。真さんを取られないか、気が気でないですよ」
「りゅ、龍一郎さん!」
 龍一郎の目は挑戦的であった。真が慌てて注意するが、彼は意に介していない。

 珀蓮はというと、眉一つ動かさずに微笑み続けていた。

「ご冗談を。私とて身の程はわきまえております」
 彼は朗らかにくすくすと笑う。

「それは良かった」
 龍一郎はこの答えが返ってくると分かっていたのか、特に『安堵している』という様子はなかった。
 真は険しい表情になり、拳をぎゅっと握る。

「では、これで失礼します。ごゆっくり……」
 珀蓮は礼儀正しく一礼すると、二人の横を足早に通り過ぎた。

 彼の頭の下で一つに纏められている長い髪が、ゆらゆら揺れる。髪を縛っている赤い紐は、数年前に真が与えたものだ。

 彼女はどんどん遠くなってゆく彼の姿を、切なげに眺めていた。

「わかりやすいですね」
「え?」
 真は何のことか分からず、龍一郎に聞き返した。婚約者は苦笑しながら巫女の肩を抱く。

 そして耳元で、こう呟いた。

「貴女は彼に好意を持っているのでしょう?」
 彼とは珀蓮のこと。龍一郎は全てお見通しだった。
 真は肩を跳ねさせ、繕うように微笑む。

「ご冗談がお好きですね」
「これは冗談では無いですよ」
 龍一郎は真の手首を掴む。

「なっ!?」
「自覚が足りないですよ、神凪の巫女」
 戸惑う真を無理矢理引っ張るようにして、近くの部屋に入り込んだ。

「きゃあ!」
 真は畳の上に投げられ、倒れ込む。部屋の中には誰もおらず、質素な空間が広がっていた。

 しかし、真には部屋の様子を窺う余裕など無い。龍一郎は障子を閉めると、素早く真に跨がる。

「神凪の巫女が外部の男と結ばれるなど、許されるわけがない」
 彼は冷たい眼差しを真に向ける。

 真は両腕を畳に押さえつけられ、完全に組み敷かれた状態になった。
 今度はこの男に、自分の想いを否定された。

「わかっています……!」
 真は唇を噛み、龍一郎を睨みつける。
 彼には言われたくなかった。この想いを踏みにじられたくはなかった。

「貴方の妻になることは受け入れています! 今だけでも彼を想うことは許されないのですか!?」
「当たり前だろう」
 龍一郎は真の叫びをピシャリと否定した。
 巫女を押さえつける手に力が籠もる。真は少し顔を歪めた。

「あんたは鬼に魅入られている」
 龍一郎から飛び出した言葉は、真の頭を強く殴りつけた。

「鬼……?」
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