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第四章 第四節 邂逅

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……
 マイトは、呼吸を浅くして読んだ。自分がおかしいんじゃないのか、怖がっているのは自分だけなのか、判別がつかなくなっていたが。感覚が正しく、正解だったと知ってから、マイトは少しだけすっきりした。
 もう一度だけ、マイトは周りに誰もいないか確認した。誰もいない。ここまで来て、一気に情報を入れて、マイトは少し疲れてしまった。近くの土に座り、疲労がなくなる時を待つ。

 視点を変えて。キトリの背後へ……



 さて、キトリが何をしに村長宅(地理的には、先ほどまでマイトが捕らえられていた座敷牢の裏。世間的にはこちらが表)へ向かったかというと、『レトカセナ=エレカが失踪した? どこかに行ってしまった』件について、事情を聞きにいくところだったからだ。何かを予感して、キトリは剃刀を持っていったが、その予感は正解だったようだ。服の奥底に隠して、キトリは村長の家の扉にあいさつをする。
 程なくして扉は開かれ、中から伸びた手がキトリを招待する。キトリは入っていいと考え、扉の前の空間に足を入れる。しかし……

「なんじゃお前は? まだ、何か用があるのか?」
「こんにちは。村長さんですよね? 巫女さんの中に……」
「お前はダメだ! さっさと持ち場に帰れ!」

 中にいた老人は、ずいぶんと老いた様子で、キトリを迎え入れた。若干認知症が入っているからか、自分の発言を忘れており……この場でもっとも重要な『キトリも火山を倒しにいく』という使命を渡した事実を忘れていた。と、キトリは解釈して話を進めているも、あるすれ違いを感じた。『まだ、用が』、『お前はダメ』……など。
 すれ違いの正体に関しては、若干の心当たりはある。きのう、宿場から連れ出されて、無断で血液を採られた時。なんのために行われたかについては、黙秘されたままだった。キトリとしては、その部分しか疑う余地はない。さらに、村長とナヤリフスが裏でつながりを持っているとの情報も、キトリは持っている。
 そして、この二人が同じ場所にいるという事実も、キトリは知っている。

「おや? キトリじゃないか。きょうは店じまいをしているから、薬が欲しいならまた今度来るといい。それとも、おしゃべりに花でも咲かしに来たのか?」

 キトリにとっては、もはやこの人物が優しいのか、恐ろしいのか判断材料がない。ないのではなく、ありすぎて困っている。この時のナヤリフスは、まだ優しいように聞こえた。しかし、最初に出会った時や、マイトとの関係や、連れてかれて血を抜かれた時や、エレカとの確執や、きのう聞いた夢……キトリはどうしたらいいかわからなくなって、とりあえず疑問を全て投げてみた。

「私だって、火山を倒しに来ているというのに……どうして村長さんも、あなたも、私を一般の村民のように扱うんですか? この前私から血を盗んでいましたけど、それとこの扱いは何かしら関係があるんですか? あと……レトカセナのエレカさんが、けさから姿を消しているんですけど、何か知りませんか?」

 突きつけられた三つの疑問に対し、ナヤリフスはしばし閉口して、村長と口を合わせようとしていた。それから彼はキトリに対して口を開き、疑問に答える。

「まず、第一の疑問と第二の疑問はおおよそ同じだな? と言っている理由もあって、第二の疑問の答えがそのまま、第一の疑問に繋がってくるから。答えはするが……」

 少しだけ言いよどんだ後、ナヤリフスは扉を完全に開き、少しだけ強張ったキトリの右手をそっと握って、

「立ち話もなんだし、少し休んで行かないか? お茶もあるぞ」

 招き入れられた、というよりも半ば強制的に、キトリは村長宅の中へ足を踏み入れた。
 それから、ナヤリフスは四人ほどが囲める大きさの机の前に、キトリを連れて行き、三つほど並んだ椅子を一つ選び、机から少し離し、ナヤリフスはキトリの方を向いた。キトリはどうしたらいいのかわからなくなって、ただ立つままだった。ナヤリフスが指先だけで、離された椅子の背を叩く。その音でようやく、キトリは全てを察して、その椅子に座ることにした。
 当時のラヴァラサ村においては、いい家には必ず、地熱を取る用の掘り穴が空いている。取った地熱で何をするかと言われれば、生活の役に立つような使い道である。例えば、掘り穴に地鳴鳥の卵を入れておくと、小さな個体が生まれてたり、もしくはまとまって美味しくなっている時がある。他にも、熱いお茶が飲みたい時に、汲んできた水を密閉して(当然だが、現代でも温めるときに水を密閉しなければならない。そもそも、密閉しないと下に落ちるだけだから)、掘り穴で温める……と言った用途に使っている。もちろん、過去には拷問にも用いていた。キトリの実家、ミファース家にももちろん掘り穴はあった。キトリ自身も何度か利用した覚えはあるが、自分の実家の掘り穴よりも、ずっとずっと大きかった。村長の家の掘り穴は、まるで怪物が口を開けたかのような大きさだった。
 自分も家族の一員だと主張するかのように、無遠慮に村長宅の掘り穴にナヤリフスは手を入れて、そこから何かを取り出す。村長からは咎める声も上がらない。キトリの前に杯が置かれ、熱気を放つ液体が注がれる。どことなく落ち着くような、それでいて活気をもたらすようなその匂いに、キトリは少し気を取られた。

「第二の疑問の方から答えようか、こちらの方が答えが明確だからな」

 念を乗せて発された言葉の、次を待つ。

「━━栄養不足だ。キトリ、お前はふだん何を食べて暮らしている? 一日にどれだけの量を、どれだけの頻度で食べている? まさかとは思うが……一日に一食もしない日があるのではないか?」
「最近は結構、よく食べている方なんですけど……半年前に、一週間ぐらいは、何も食べなかった時があって……あの頃は大変だったなぁ」

 本当は、キトリは過去に心因性の拒食症にかかっていて、二週間近くかけてようやく一粒の鉛苺を食べられたほどだが、それを言うとまた怒られそうだったから、期間を半分にしておいた。それでも、ナヤリフスには『結構』の時点で、嘘だと思われていたようだ。

「……生きていてくれて良かった。だが、私の前で嘘を吐こうなどと思うな。お前の心ぐらい、私には簡単に読めるのだから……私が何年生きてきたと思っている?」
「えっ……? わからないです、年齢で人を判断しちゃいけないって、言われて育っているから……」
「そこまで育ちのいい人間が、拒食症になって放置されているわけがないだろう? どうして世話をしてくれる家族から離れて、自分だけで暮らそうとした? そこまで、自分が嫌いなのか?」

 ものの一瞬で。キトリにとって踏み込まれたくない領域に、平然と口を出されたものだから、キトリはあたふたして、次の言葉を話せなくなってしまった。どうにかして理由か、言い訳でもと探しているものの、どうしても形にならない。何を言ったって、彼の前ではすぐに判別されてしまう。そんなキトリに対して、さらに襲いかかる言葉がある。

「お前の血から分かったんだが、火山討伐には向かないだろう。中途半端に胸を膨らませておいて、まだ生理も来ていないようだから……心因性の拒食症から来る栄養不足、強くなれるわけがないし、村長の目的とも合わないみたいだからな……だから、火山討伐などやめて、実家にでも帰って、幸せになって欲しいところだ」

 キトリは一度全ての言葉を受け入れてから、改めて噛み締めていく。自分が非力で、火山討伐に向かないなんて、痛いほど良く分かっている。まだ体だって育ちきっていないし、心もまた弱いままだ。それだって分かっている。しかし、村長の目的なんて知らないし、何より……キトリの幸せは、実家にはない。どうにか言葉にできる考えをまとめて、やっとの思いでキトリは言った。

「それが、第一の疑問、に対する答えですか?」

 ナヤリフスは何も発さず、表情も変えなかった。キトリは『私の答え、間違ってたのかな』と思いながら、他に答えられる言葉がないか考えている。あたりには、キトリの浅い呼吸の音だけが響いていた。ついにキトリが姿勢を崩し、机にひじを乗せて頭を抱え唸り始める。一連の流れを聞きかねたのか、やっとナヤリフスは自分の言葉を発し始めた。

「茶は嫌いだったか?」

 明らかに場違いな問いに、キトリは意識を混濁させる。確かに、ここに提供された茶は、一滴も啜られずにそこにあった。別に、茶は嫌いではない。落ち着くし、美味しいし、気分を入れ替えさせてくれる、液状の風のような存在だ。キトリは少し怪しさを感じていたから、飲まずにその場をやり過ごそうとしていたところだった。それでも、他に意味がないかどうか、確かめる必要があったから、キトリはあらかじめ聞いておこうと思った。

「すみません、このお茶って、何の意味があって出したんですか? お茶自体は嫌いじゃないんですけど、ちょっと怪しいなと思って……」

 キトリが正直に質問すると、ナヤリフスは少し困ったように喉を鳴らし、少し考えているような雰囲気を出していた。キトリは思う。
(意味がないなら意味がないって、はっきり言ってしまえばいいのに、それなのに何を悩んでいるのだろう?)
(もしかしてお茶に何かを仕込んでいたりとか……ないか、それだと村長さんも引っかかってしまいそうだし)
(何かを入れるとして、何を入れるのだろう? 私はそこまでの恨みを買った覚えはないんだけどな……)
 近くにある茶を警戒し、思考し続けるキトリ。次の手を読むが……なんとそこには、笑い声があった。あざ笑うような、笑い声が。当然、キトリの顔も声も笑っていない。ならば、そこに当てはめるべき人物は。

「ハァ……気づかれてしまっていたか……前々から思っていたんだが、お前にはやはり、何らかの才智があるな……ただ、それがお前の自己嫌悪から来る、遠慮でないかどうかだけは気にはなるが」

 ナヤリフスだった。
 彼はちょうど現在のキトリと同じように、机に右ひじを乗せて、頭を抱えるような仕草をしていた。目的はキトリとは違うようだが、あくまで外側だけを似せて。キトリは発された言葉を整理して、最後の『遠慮』という言葉が引っかかった。
 確かにそうだ。キトリは確かに、友達の家に誘われて、友達の親に出されたお菓子を頂かずに帰る程度の遠慮はある。どうしようもなくお腹が空いていたり、もしくは、自分のためだけに出されたようなお菓子だったなら、普通に頂いてしまうし、もしも自分が食べなければ捨てられるだけの食べ物なら、何も気に留めず食べてしまえるだろう。
 そんなキトリだからこそ、遠慮をするのは当たり前のようであるし、感づいてしまった。『遠慮』をもとに、別の結末に導かれてしまう可能性について。

「私は最初、お前をここに入れる前に、『おしゃべりに花を咲かす』と表現しただろう?」

 ナヤリフスは続けて語る。

「花を咲かせるためには、水が必要だろう? 私だって水は必要だ。ただ、私にだけ水が振る舞われたら、それはそれで不公平ではないだろうか? だから、キトリ。お前にも水を……茶を用意しただけだ。気にせず飲むといい」
「そう言っておいても、ナヤリフスさんも飲んでいない気がするんですが……」
「ああ。私は舌が敏感だから、熱い飲み物は苦手なだけだ。今、ちょうどいい具合に冷めてきているはずだから、そろそろ飲んでも大丈夫だろうな」

 と言って、ナヤリフスは自分の分の茶杯に対して、懐から取り出した入れ物に詰まった……粉? を入れ、杯の底を持ってくるくると回転させた。キトリは少し納得がいかず、さらに質問をする。
 答えはすぐに帰ってきた。

「先ほど入れた……粉のような? あれって、何ですか?」
「一般的に呪術師は、よく頭を使うからな。こういう機会にでも余力を補充しておかないと、いざという時に役に立てなくなる。それに、これを混ぜてやると味が柔らかくなる……甘くなるから。
どうだ? キトリも甘い茶が好きなら、入れてやるが。遠慮なんかするなよ?」

 ナヤリフスが最後の言葉を発し終え、彼の茶が飲まれていった。いい感じの味になったらしく、飲み干した後に微笑んで、キトリに顔を向けていた。
 一方。キトリは自分の舌に問いかける。今飲みたい味。今食べたい味。何があって、何がないのか……人間が食べたい物を想起する時、その想起した食べ物の中に、今足りない栄養素が含まれると言われている。しかし今、キトリには何も思いつかなかった。ただ少し喉が渇いている程度だが、我慢すれば何ともない。今のところ、液体は喉を満たすのであれば特に種類は問わず、味の種類も問わない。つまり、キトリの前に置かれているこの茶が、最適な飲み物であると言える。しかしこれまで何度も、『遠慮はするな』と言われ続けたせいか、かえって奇妙な警戒心を持ってしまった。だからこそキトリは、差し出された茶を飲まなかった。

「もう少し熱い茶の方が、好みだったか? それはすまないな、今新しい茶を……」

 ナヤリフスがそう発言して、キトリの杯を右手に取って立ち上がる。杯は一度どこかに置かれ、掘り穴に置かれた茶の源流へ手が伸びて、手に取られる。古くなった茶は掘り穴へ流され、自然へと還る。そうして新しい茶が顕現し、杯に注がれ、熱気に覆われる。完全に新しくなったようだ。新しく注がれた熱い茶の杯を持ってナヤリフスは席へ戻り、キトリの前へ置き直す。そこでキトリはあらためて、頭をもたげ始めた疑問を投げかけた。

「どうして、最後の一つの質問をはぐらかそうとしているんですか? レトカセナのエレカさんが、けさから姿を消しているって……何も知らないなら、知らないって言って欲しいところですが…」

 ナヤリフスは少し考え、回答した。

「彼女は確か、数年前に突然死したはずだが?」
「それは知っています。彼女の中には、別の人の魂が入っていたはずです」
「ああ、それか? この世界では、死した肉体が動き回るようになっているらしいな。肉体は肉体のみでは動けず、魂は魂のみでは存在できない。で、レトカセナ=エレカの死体は、誰かから存在を知らされているのか?」

 またはぐらかされる、と思って、キトリは次の言葉を考える。下手な問いでは、答えから遠ざかってしまうように感じた。ここからは、言葉を選ぶ必要がありそうだ。
 確かに、エレカの死体に関しては発見していない。ただ単に、きょうは調子が悪いから家にいる、だとかも考えられるし、事前にエレカの家について情報を集めておけば、彼女の安否を直接知れたはずだ。そしてナヤリフスが呪術師として活動しているとき、薬と引き換えに話を求められる。話の内容は、悩みでも何でもいいのだが、その際にこの村の情報や人間関係などを聞き出していてもおかしくはない。彼の店の近くに、女性が多く存在していた理由もおそらく『話を聞いてくれるから』に違いないだろう。ならば、ナヤリフスがエレカの家について知っている可能性もあるわけだ。

 女性は一般的に、話を好む。そして女性が話す内容といえば、『向こうの奥さんが~』だとか、『うちの息子が~』と言った、世間体や文化の実情である事例が多い。
 異邦人が別の村に対して取り入るならば、まずは『声の良さで惹きつけるか』、『無害さや有益さで惹きつけるか』のどちらかをとる。その際、女性に対して行うのが効果的である。彼女たちは話題のために、もしくは仲間外れにされて生存の危機に陥らないために、異邦人の取り巻きとなるのだから。……ナヤリフスはどうも、この二つの手段を同時に行なったように思う。そして、どちらも成功し、女性から、そして男性からも支持される存在となったようだ。

 以上の点から、キトリは『今の時点で、最も聞く価値がある質問』を導き出した。

「ナヤリフスさんは、これまで数多くの、村の女性たちと話してきましたよね? その際、私に行ったように、話を聞いたはずです。ならば……レトカセナ本家の場所を知っていても、おかしくないですよね? 私はまだ、家の場所を聞くまで親しくなかったので、彼女の家については知らないんですけど……」
「そうだな。この村の女性とはたくさん話したな。人によって手法は変えていないから、お前と同じように話をしたし、聞いてきた。ただ、流石に直接家の位置まで教えるような人間はいなかったな……あくまで、『隣に住む~』だとか、その程度の表現だった。だから、私はレトカセナ家の位置は知らないぞ? 知っていたとしても、口頭では伝えられないからな。
……こちらからも質問をしようか。『なぜ、真っ先に私を疑った』?」

 どのような手段で『真っ先に』と割り出せたのか、キトリには気にする余地もなかったが、今重要な問いはそこではない。ここは正直に理由を話そう、というより本当に、それだけしか理由がないのだから。そしてもし、夢の内容が正しいのであれば、キトリの話の真偽など、瞬時にわかってしまわれるだろう。

「夢を聞いたんです。ナヤリフスさんが、きのう私から奪った血を持って、私が泊まっている宿屋へと向かう夢を。道中にはマイトさんがいて、あなたはマイトさんをなじったり、煽っていました。私は木になっていて、あなたとマイトさんをただ観測するだけでした。ですが、あなたは私の存在を感知して、私を絞めて……そこで意識を取り戻したのです」
「夢か。信憑性は薄いが……それ以外に理由がないなら、信じてやってもいいな」

 そしてもう一つ、キトリが気になった部分がある。『なぜ、真っ先に私を疑った』の、『疑った』という点だ。ふつう、このような言い回しになる理由は、『自分が犯人だから』という、一種の自責感や罪悪感である。

「ナヤリフスさん。もう一つだけ、気になった点があるんですが」
「なんだ? 言ってみろ」
「『真っ先に』、『疑った』。私はそこまで頭が良くないから、当てずっぽうな推理だと思うのですが……あなたが、犯人、でしょうか?」

 ナヤリフスは少し黙り、次の話を考え込む。
 対してキトリは少し多く、話しすぎた。喉の痛みを感じたキトリは、茶を飲んだ。
(そういえば、きょう起きてから一回も水を飲んでいないなあ)
 などと考えながら、全てを飲み干した。生温かった。キトリが茶を飲み干した瞬間、ナヤリフスは少し笑って、キトリの茶杯を手に席を立つ。彼は掘り穴へ近寄って、しゃがみこんで、『先ほどとは別の』茶の源流を取り出し、杯に注ぐ。
 注がれた茶を持ってナヤリフスが席に戻り、またキトリの前に杯が置かれる。

「そうだが、何か?」
「は……?」

 キトリは困惑した。そして同時に、茶を飲むように勧めてきた理由まで、どことなく理解した。理解してしまった。おそらく、何らかの薬剤を混ぜているはずだ。その効能まではわからないが、ともかく現状を不利にする効果を含んでいるだろう。しかし、それでは二杯目を注いだ意味がない。何しろ、先ほどキトリが口にした茶で決着をつけるつもりなら、わざわざ二杯目など注ぎに行く必要がない。しかも種類も違う。
 二杯目の茶が本命の効能か、もしくはただのふつうのお茶か。
(どちらにせよ危険だ)
と悟り、キトリは二杯目の茶には手をつけないと決めた。
 少しだけ、眠気を感じる。人と話している最中だ、とキトリは気を引き締めた。

「ああ、確かに私が殺した。レトカセナ=エレカの中にいる、マイトの妹だろう? 殺した。封じ込めたから、もう二度と地上へは出られない」
「嘘……どうして……」
「世界の成り立ちが未だわかっていないように、神の心情などわかるわけがないだろう?」

 キトリは確信した。そしてこの、ナヤリフスの正体についても少しだけ、わかった気がした。彼が山の神である、という確定的な証拠にはなり得なかったが、何らかの神であるという証明にはなった。そもそも社を壊されただけで、壊した本人ではない人間(人間ではないが)が左手の手先の機能を失うなど、生物学的に明らかにおかしい。
 しかし、今のキトリにはもう、思考能力もない。なぜなら、眠気で思考回路がおかしくなっているからだ。それでも、耳に入れた情報は逃さない。

「大した人間だな、キトリ。お前の推論通り、二杯目が本命だ。と言っても、邪魔をしてこない子供の命を奪うほど、私は落ちぶれていないからな。一杯目は特に変わりのない睡眠薬。そして二杯目は……『直近六ヶ月間の記憶を消去する』薬を混ぜている……お前は賢いから、お前が子供を産んだら、きっと良い子に育つだろう。今から、楽しみだよ」

 誰に願われるまでもなく、独りでにナヤリフスによって呟かれた言葉を、キトリは残さず聞き取った。しかし今のキトリには、指一本も動かせないほどの睡魔が襲ってきている。そしてそれは、村長も例外ではなかった。

「注ぎに行ったとき、みょうに量が減っていたと思ったら……お前か。カセンデラ=オミン。二杯目まで……こんなに飲んだら、老体には致死量どころでは済まされないな」

 放っておいても直に死ぬだろう、と思い、ナヤリフスは床に倒れた老体を椅子がわりにして、招いていない客を待つ。
 ちょうど、その時だった。あのカルライン=マイトが、「殺してやる」とぶつくさ言いながら村長の家へと入ってきた。

「俺への対応を百八十度近くぐるぐる回しやがって! ぶち殺してやるぞ、この圧政者!」
「カセンデラ=オミンか? もうここで、死んでいるぞ?」

 昏倒している村長の上に座っている、ナヤリフスを確認したマイトは、思わずうめき声をあげてすくむ。有効な対処策はもう手に持っているのに、それでも恐怖が次から次へと湧いてくる。逃げたい、逃げ出したい気持ちを抑えつつ、マイトは現実へ向かっている。そんなマイトをあざ笑うように、ナヤリフスは語る。

「小さい頃のお前から貰った貝殻、まだ持っているんだぞ? 耳元に当てると、海の波のような音が聞こえて……よく眠れるんだ」
「ふざけるな! お前が、俺の『山の神』様を、模倣するな!」
「模倣? お前たち人間が、私を勝手に崇め出しただけだろう?」

 マイトはかつて、山の神にお世話になった覚えがある。それは生まれる前からで、マイトを産む前の母親が、安産祈願のために祈った頃からの付き合いとも言える。かくしてマイトは無事生誕し、ここまで育ってきた。そして、山の神と交わした話や、贈った物の記憶を、マイトは決して忘れていない。そもそも。これまでマイトが、ナヤリフスを殺した回数は一度や二度ではない。確かに噴火が近いと言えども、これまではマイトの精神に踏み入っては来なかった。だからこそ怪しんでいたし、今回だけやたらと『母親』面を推してくる意味が推測できない。

「逆らってくる子供ほど、可愛い生き物はいないな? 抱きしめて、頭を撫で回したい。別に良いだろ?」

 そう言って、マイトの真正面までナヤリフスは近づき始める。立ち上がり、恐怖から足が動かないマイトの側へ、煽るように歩を進め、背中に触れる。右腕が、続いて左腕がマイトに巻きついて、軽く、そして強かに抱きしめられた。

「母さんはお前を、愛しているからな」

 ゆっくりと、ナヤリフスはマイトを横に倒して、いわゆる『お姫様抱っこ』の姿勢にして、先ほどキトリと話し合ったあの机へと運んでいく。マイトには抵抗する気力もない。自由に動かない左手には、まだ軽い方である足を充てがう。そしてナヤリフスは、マイトを空いている椅子に座らせた。マイトは、自分が座っていない二つの椅子のうち、一つが埋まっていると気がつく。
━━眠り込んだ、キトリだった。彼女の前に置かれた杯は倒れている。倒れる前に入っていたであろう液体が、周りに散らばっていた。静かな寝息。背中をも上下させぬ、穏やかな、逆に心配になるような、静かな呼吸だった。マイトは、彼女の様子から危機感を察知した。

「キトリに……何をした? 彼女は関係ないはずだ」
「ああ、彼女は関係がない。だから一般人に戻ってほしかった。だが、マイト。お前は関係があるんだ。あり過ぎるぐらいにな」

 そう言って、ナヤリフスは茶を注ぐ。地熱で温められた茶はほんのりと、良い香りを発している。湯気は天井へ、天高くへと向かい、その過程であらゆる人の心を朗らかにする。しかしマイトは例外的に、心を捻じ曲げていった。まるで、自分を守るように。
 本来ならば、誰しもが警戒心を投げ捨てて、美茶に酔いしれるはずの空間が、戦場と化していた。

「少しは大人になったか、と思ったが。まだ茶は苦手なのか? 甘い方が好きなら、いくらでも甘くしてやるから」
「……馬鹿にしやがって」
「お前についてなら何でも知っているさ。何しろ、お前が生まれる前からの……付き合いじゃないか」
「……!!」

 マイトは瞬間的に立ち上がろうとするも、そばで寝ているキトリを起こしては悪いと感じ、静かに力を失っていった。原因としては、まるでナヤリフスが山の神そのものであるような振る舞いをしているからなのだが、マイトは幼い頃の思い出を汚されたように感じていて、それがただ、許せないだけだった。
 ふと、マイトは自分の手を気にし始める。これまで、幾多もの血で染めた、両腕を。時には他者の、時には自分の、血が流れ、血を流すための触媒となっていた自分の手。そうだ。何も聞かなければいい。何も思わなければいい。これまでと同じように、無慈悲に残酷に殺せばいい。そうは言っても、決心がつかない。それでも、決意だけは濁らないように。決意の刃だけは、折られないように。

「……殺す、殺す。殺す! お前だけは! 何としてでも! 殺さなければ! 俺はマイトだ、カルライン=マイト、これまで六百七十五人を殺してきた誇りにかけて、血飛沫にかけて、お前を、お前だけを、殺さなければならない! 荼毘に付してやる! 水にも晒してやる! 鳥の餌にしてやる! 土に生きたまま埋めてやる! とにかく……お前の身体で九相図を体現させてやる! 必ず、必ず……!」

 マイトは決心し、口に出して心を固める。少しは凄むかと思いきや……マイトの耳には、笑い声が聞こえた。

「そうかそうか、そんなに私が憎いのか。少し熱が加わるだけで消えるような命なのに、少し水に浸してやるだけで消えるような命なのに、少し風が吹くだけで吹き飛ぶような命なのに……
あんなに小さな手だったのに、武器を握るしか能のない手に育ってしまった。地面の上に立つのがやっとな、小さな足だったのに、今や人を踏みつける喜びを覚えてしまった。悲しくて、笑いが止まらないのだよ……」

 言葉とは裏腹に、ナヤリフスには泣く息すらなかった。すべての息が笑っていた。彼の言葉は、どこからどこまでが嘘で、どこからどこまでが本当なのか、さっぱりわからない。ただ、それでも、今の状況からただ一つだけわかる事実は……

 このままでは、自分だけではなく、キトリも危ない、という事実だ。
 理由はまだわからないが、確かにマイトはそう感じた。だから、最後に残った正義で、キトリを抱き上げ、ここではない別の、安全な場所へ運ぼうとする。当然、ナヤリフスがそれを黙って通すわけもなく、何度か呼び止められた。
 
「もっと話そうじゃないか。せっかくこうして、また話し合えると思ったのに」
「俺についてなら何でも知っているんだろう? ならわざわざ、話し合う必要はないな」
「情報は生の方が良いからな。昔はよく、二人きりで話してくれたじゃないか。門限が来るまで、お前を私の膝に乗せて……今でもできるんだぞ? お前が良いって、言ってくれるなら」

 マイトは何も聞かなかったように振る舞って、キトリを運び出す。何度もナヤリフスは呼びかけ、時折足をくじかせにかかってくるが、それでもマイトは、マイト自身にとっての『安全地帯』つまり自宅に辿り着いた。

 とりあえずキトリについては、自室にあるふわふわの寝台に寝かせておく。体が冷えないように毛布もかけてやった。できれば温石を、と思ったが、倉庫には残っていなかった。ただ、マイトとしての気がかりがある。それは『異性を家に連れ込んだ』件についてだ。
 この件についての対処は簡単だ。口封じ、もしくは一部始終を知っている人間を殺せばいい。だが、この村の人間は、マイトの存在を察知するだけで倒れるような、か弱い性分の者ばかりだ。よもや知る者もあるまい、と思ったマイトは、硬い床の上で一夜をやり過ごすと決めた。
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