惑星の止血〜私が、噴火を止めるんですか!?〜

仁川路朱鳥

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第七章 第三節 生きた証

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 矢は、ナヤリフスに命中した。そして宣言通り、『邪神ナヤリフス』を他の形に変えてではなく、『神』として討ったのだ。これで、犠牲によって利益を受け取る人間はいなくなった。つまり、ラヴァラサ村は滅んだ。
 先ほどの矢が命中したとき、村の方では何が起こっていたかというと、ひとえに『信仰の終わり』であった。矢が起こした衝撃が伝わって、生き残った村の人々が手分けして、山の神を祀る社を壊す。それも、村に残ったすべての社を。まともに攻撃を喰らってしまった上、神として存在しているナヤリフスにとって、信仰を失った傷は深かった。結果的に、ナヤリフスはこれまでの力を失う。人間と同じぐらいの大きさにまで戻り、体幹機能を失った彼の体は、ちょうど仰向けになる形に倒れた。
 再び立ち上がれず、頭もこれまでのようには働かない。ただ発話だけが残る中、ナヤリフスは愛し子の名前を呼ぶ。

「……マイト、こっちにおいで」

 記憶の中にある、優しい声がマイトの中で蘇った。実母の胎内にいた時に、聞こえてきたあの声……まだ顔も出していない自分に名前をつけた、洞穴のような優しい声……ずっとその隣に行きたかった。声の意外な正体だったが、マイトは特に驚くわけでもなく、ナヤリフスのもとへ向かった。
 もはや敵意はなく、彼はマイトをじっと見ている。その表情はこれまでの余裕めいた感じもあるが、少しだけ悲しみが調合されている、柔和な微笑だった。

「ずっとそばにいたつもりなのに、気づけなかったな……私の知らないところで、こんなに大きく育っていてくれた」

 四肢は動かず、触手も出せないから、大好きな子どもを撫でられないし、抱きしめられない。これまでのナヤリフスであれば考えられない事態であったが、不思議と今は落ち着いていた。当の……『大きくなったね』と告げられたマイトは、涙を隠すように、そっぽを向く。それでも隠しきれず、言葉に表すと規制がかかるほどひどい行いをされたにも関わらず、三度目の親の死に、戸惑っていた。実母は殺してしまったし、実父は旅に出て、還らぬ人となってしまったから。そして今目の前で、育ての親が死にゆくところだ。

「母さんは死なない……お前が連絡を取りたい時、念じてくれればいつでも相手ができるから。だから落ち込まないで、いつでも会えるから」
「落ち込んでなんかない……」
「お前をひとりにしてしまうのは心苦しい。少しだけ、別れてしまうだろうから。次に迎える誕生日だって、一緒にいてやれないだろう……心残りがないと言えば嘘になるが……そういえば、これまでずっと、お前は私を『母さん』と、呼んでくれなかったな……お願いを、聞いてくれるか? 私を母さんと、呼んでくれないか……?」

 長い沈黙の後、マイトは慟哭とともに、小さく呟いた。

「わかったよ……母さん……」
「母さんはお前を、愛しているよ。お誕生日、おめでとう」

 そう確かにナヤリフスは呟き返して、動かなくなってしまった。人間であれば歴史に乗って当然なほどの力ある呪術師は、母乳よりも甘い呪いを残し、盤上から去っていった。
『ひとりにしてしまう』……先ほどまで、誰かがいたはずだ。マイトは怪しんで、周りを探し、その誰かを見つけようとした。ちょうど傍に、少女が落ちていた。

「私からも呪いの仕返しをしてやる……だから……聞いてね……」

 今から村に運んで行ったとしても、手遅れなほどに消耗している少女が、マイトに語りかけた。その少女は自分にとって、大事な存在ではなかっただろうか、とマイトは考える。駆け寄って、楽な姿勢にしてやった。せめて息を楽にできれば、少しは長く生きれると思って……それでも少女は、急激に体力を擦り減らして、苦しそうにしている。仕方なくマイトは、少女をかき抱いて運ぶ。それに少しだけ、楽になったらしい少女が、まるで以前から知っていたかのようにマイトに、来世を委ねていた。語りかける優しい未来を生きる資格が、マイトにあるとでも言わんばかりに。

「『互いに罪が許されて、互いに気楽に会えるようになったなら、その時は同じ時代に、同じ土地に、同じ生物のつがいとして生まれ変わる。私たちは同じ時を生きて、同じ時に終わる』」
「どう考えても、俺の方がお前を待たせてしまうんじゃないか……?」
「ううん。マイトは十七人でしょ。私は仮に邪神であったとしても……神様を殺してしまったから。私の方が、待たせてしまうかもね。でも……一度繋がれた魂の繋がりは、剣でも切れない……強く、それを望まない限りは……」

 そう言って、少女は事切れた。体温が冷たくなっていく少女を、ひとりで死なせておくのは嫌だった。どこか、いい死に場所を探さなきゃ……マイトは山頂から少しずつ、降りて行った。目的地はなく、自身の体力の尽きるところまで。
 この山の養分を担う、山の頂上の少女は死に、村の政治を牛耳った山の神は信仰とともに消え去った。主をなくした山の生命は、あるべき姿へ戻っていく。マイトが土を踏み、息をする生命もいない山を降りている。木々や草はたちどころに枯れてゆき、岩間のこけやきのこまでも消え去って、後には静寂だけが残っていた。しかし、ここはまだ完全な静寂ではない。闇夜獣はえさにできるような生物がいなくなったから、じっと動かないで時を待っている。おそらく、頃合いが来たら別の土地に移動して、また暴れ回るのだろう。地鳴鳥や螺旋牛はとっくに逃げた。食べられる危険しかないこの山に、まともな生命は残っていない。そんな中、マイトは少女を抱え、滑り落ちないように気を使いながら降りていく。
 ふと、山の中腹にある小屋が気になった。そこは、かつてマイトがナヤリフスと一緒に過ごしていた頃の、あの暖かな家だ。今となっては、全て思い出として葬れる。天上華が舞い散って、そのにおいを空間にまき散らしながら枯れていく。マイトは決意し、小屋の扉を開けた。

 主の魔力を失ったからか、外面と同じような大きさの部屋がひとつあるのみの、簡素な小屋があった。二人で使う用の机に、二人分の椅子。床の板は痛んでいて、踏むたびに嫌な音がする。この小屋が作られてから、ろくに人の手による整備を受けていないと一瞬でわかるような、ひどい廃墟だった。
 マイトは記憶と現実の違いを探していた。ここら辺にふかふかの寝台があったはずだ、しかしそこには何もなかった。ここら辺に触り心地のいい敷き物があったはずだ、しかしここには何もなかった。思い出だけが、この小屋にあった。今はもう、何もかもがなくなっていた。だが、記憶だけが残っている。記憶のはざまから、ナヤリフスが手を伸ばして誘ってくるような感覚があった。ここに来たら、本人の言葉通りいつでも会えるだろう。それでも、もう甘える資格がないように感じた。マイトは場を崩さないようにして、小屋から出る。

 ふと、死体が動いた。息を吹き返したのかとも思ったが、熱は戻ってきていない。そして、死体を動かした動力は、少女の中にはない。別のところから、動かされていた。この小屋の近辺には、多数の魂が埋まっている。それは暗喩でも比喩でもなく、そのままの意味だ。その魂たちの中に、マイトの妹になるはずだった者がいる。マイトの妹……レトカセナ=エレカの肉体を借りていた彼女は、二度もナヤリフスに殺された。生まれる前に死んで、死んだ後にまた死んだ。普通の人間では味わえないが、誰しもが味わいたくないだろう。天上華のにおいには、魂と身体の縁を切り離す効果がある。魂の主と身体の主が合致しているならば問題はないが、合致していない場合、肉体の権利を失う。エレカのような者が今後の脅威になると考えたナヤリフスは、同じように健康診断と言って誘い込み、同じように胸に瓶を押し当てて、封印していたのだろう。そして天上華のにおいは、瓶からもエレカを切り離した。
 かつて「レトカセナ=エレカ」だった彼女は、今は名も知らない少女の死体に乗り移り、話し始める。周りの様子から、決着がついたのだと、エレカは悟った。

「ぁ、マ……マイトお兄ちゃん。やっと、終わったんだね」
「これで決着はついたさ、お前はそのままでいいのか?」
「いいの。後世に役立てればいい、私はちょっとやそっとでは消えないから。私のような死者が、歴史の生き証人になるって言うのも、面白い話だと思うよ?」

 この原にある天上華がすべて散る時、彼女もまた元の瓶の中へ帰っていった。後には動きも話もしない死体だけが残された。死体の少女を、マイトは愛おしく見つめ、それからまた山を降りていく。死にゆく山の命は、あまりにも軽かった。遠い昔から存在していたが、振り返ってみれば一瞬の命のようで、まるで幼少期のようだった。そしてちょうど今、幼少期は終わった。
 マイトは考え事をしていた。これから先、どう生きていこうか。それよりも前に、どこに住んで、何をしようか。そして、この腕の中の死体の少女を、どう弔おうか。今考えるべきは、急激な生態系の変化による岩盤落下である。これまで山中を張り巡っていた木の根が姿を消して、基礎のない建築物のように脆くなってしまった。当然あるいは必然のように、マイトは崖から少量の大地とともに転落する。
 命と肉体の形は無事だ。しかしマイトの左足は無事ではなく、骨が折れてしまった。いつもならナヤリフスがすぐにでも現れて、治してくれるが、あいにくその相手はもうこの世にはいない。つまり、ここからはどう足掻いてもどこにも行けない。少女の方は幸い、少し髪型が崩れる程度で済んだ。彼女の綺麗な顔を傷つけないために、崩れないであろう洞窟の中にまで、マイトは残った両腕と足を使って運び込んだ。それからマイト自身も、洞窟の中に入る。

「きっと、後はどうにでもなる」

 マイトはひとり呟き、反響に耳を委ねた。
 少女の死体は、確かに誰かを求めていた。寂しそうな顔をしている。こんな俺でもいいなら、とマイトは少女に寄り添う。不思議と、少女の顔が満足げにしているように感じた。
 これまで抱えてきた荷物は、先ほどの落下の勢いですべて失ってしまった。食料も期待できないだろうし、骨折を治したところでどこにいくあてもない。それでもマイトは、ようやく手にした自由を噛み締めて、静かな世界を味わった。

「ああ、とても静かだ、ここは……ここでなら少しは、落ち着いて暮らせるかな……」

 マイトがずっと求めていた世界が、そこにはあった。あたりは静かで、息の音も聞こえない、そんな寂しくて、落ち着いた世界の中。月をこれまで照らしていた、ひとつの光が見える。それはマイトが生まれてくるときに感じた、あの暖かい感触に似ていた。夜明けが訪れたのだ。
 動ける者がすべて山を去り、動けない者は死に絶える。その法則には抗えず、カルライン=マイトは、十五の誕生日を迎えた翌日に、この世を去った。これまでの人生の荒波とは似つかわしくない表情。それはとても穏やかな顔で、まるで少女と一緒に眠るようだった。
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