支配者は深淵の扉をこじ開ける

舞米

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3 【黒猫の残滓】

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意識が浮上する。

地下室の空気は、僕が眠る前と何一つ変わらず、冷たく、湿っている。

(……朝、か?)
いや、地上での時間感覚など、ここにはない。あるのは、僕の体感時間だけだ。
おそらく、丸一日ほど眠っていた。
のそりと体を起こすと、骨がきしむ音がする。
クッションの山から這い出し、凝り固まった首を回した。

と、その時。
僕の足元の影が、不自然に揺らめいた。
水面に墨汁を垂らしたように、影がじわりと広がり、その中心から「それ」は音もなく這い出してきた。

「……ニャ」

痩せた黒猫。
僕の「切り札」である使い魔は、影の中から物質化すると同時に、その場にぺたりと座り込んだ。
緑色の瞳は、眠る前よりも明らかに光が弱く、消耗しきっているのがわかる。

「影」の中を高速で移動し、物理的障害をすり抜けるスキルは、この小さな体に多大な負荷を強いる。

「ご苦労」

僕は短くそう言うと、床に膝をつき、猫の前に屈み込んだ。
黒猫は、最後の力を振り絞るように僕の膝に頭をすり寄せてくる。
僕はその小さな頭に、ゆっくりと手のひらを乗せた。

これが、僕の「深淵の情報屋」たる所以。
第二の、そして最も重要なスキルだ。
使役動物が持ち帰った「情報」を、直接読み取る。
目を閉じる。

手のひらから、猫が「見た」光景、「嗅いだ」匂い、「聞いた」音が、冷たい奔流となって僕の脳内に流れ込んでくる。

これは、リアルタイムで同調するのとは違う。
一度記録された「映像」を、早送りで再生するような感覚だ。

――影から影へ。王都の地下水路を疾走する感覚。
――"銀の天秤"亭の床下の影。
――酒と料理の匂い。
――地下倉庫の扉。魔術的な封印。
――猫が、その扉の「影」に溶け込み、すり抜ける。
――地下倉庫の中。ひんやりとした空気。
――そして、"荷"の姿。

そこにあったのは、一つの「檻」だった。
鉄格子ではなく、魔力を帯びた「光」で編まれた、特殊な鳥かごのような檻。
そして、その中にいたのは――

「……人?」
いや、違う。
縮こまって震えている、一人の「少女」だった。
だが、その背には、鳥のような、純白の翼が生えていた。

(……有翼種ハーピィ? いや、もっと神聖な…)
おそらくは、大陸の東方に住むと言われる、希少な亜人種。
その瞳は固く閉じられ、手足は魔力で拘束されている。

"荷"とは、生きた亜人。それも、極めて希少価値の高い「商品」だった。

――檻のそばに立つ、二人の男。
――黒いローブ。顔は見えない。
――だが、そのローブの袖口に、一瞬だけ見えた「紋章」。
――『天秤を噛む蛇』。

「……」

僕は、思わず目を開いた。
あの紋章は、王都の裏社会を牛耳る、いくつかの闇ギルドが寄り集まった「連合体」の印だ。

そして、その「連合体」の頂点に立つのが――『ガイゼル』。

(……面倒くさい)
僕は、深くため息をついた。
王宮魔術師団依頼主は、どうやら裏社会の「人身売買」の証拠を掴もうとしているらしい。

それも、ガイゼルが関わっている(あるいは黙認している)可能性のある取引だ。

(……だから「報酬は望むままに」か)
国家権力が、裏社会のトップに手を出すための「情報」。

その価値は、確かに計り知れない。
深入りすれば、僕のダラダラした日常が根こそぎ吹き飛ぶ。
僕は手のひらに意識を集中し、猫の記憶の「再生」を続けた。

――男たちの会話。
「……明日の夜。"赤い満月"が昇る刻に、"買い手"が来る」
「……ブツは完璧だ。高値がつくぞ」
「……"上"も満足されるだろう」


"上"。
それがガイゼル本人を指すのか、あるいは別の誰かなのか。
そこまではわからない。
だが、必要な情報は揃った。
僕は猫の頭から手を離した。

「もういい。休め」

黒猫は「ニャ…」と力なく鳴くと、僕の膝に顎を乗せ、すぐに深い眠りに落ちた。
僕は近くにあった毛布を、その小さな体にかけてやった。


さて、と。
仕事面倒事の後半戦だ。
僕は立ち上がり、部屋の隅に置かれた、年代物の机に向かった。
羊皮紙を一枚取り出し、羽根ペンをインク壺に浸す。

『"荷"は生きた亜人。翼を持つ少女。
取引は明日の夜(赤い満月)。
現場には『天秤を噛む蛇』の紋章あり』

僕はわざと、紋章の「意味」までは書かなかった。
依頼主王宮魔術師団が、あの紋章の意味を知らないはずがない。

余計な情報を与えれば、余計な「次の依頼」が来る。それは絶対に避けたかった。
僕はあくまで「見たまま」を報告するだけだ。
書き終えた羊皮紙を、丁寧に丸める。
今度は、これを「届ける」使い魔が必要だ。

僕は、天井近くに空いた通気孔に向かい、指を鳴らした。
パサ、という羽音と共に、一羽の「カラス」が舞い降りてきた。
他の使い魔たちと違いこのカラスだけは、僕の地下室への出入りを許可されている、連絡係だ。

「……王城の、いつもの場所へ」

僕が羊皮紙の筒を差し出すと、カラスは器用にそれを足で掴んだ。

「グルル…」と喉を鳴らすと、再び羽ばたき、通気孔の闇の中へと消えていった。


これで、依頼は完了だ。
カラスは、王城の敷地内にある、とある古い石像(僕と依頼主だけが知る、秘密の受け渡し場所)に、この報告書を置いてくる。
すると、数時間後、あるいは翌日には、同じ場所に「報酬」が置かれている手筈だ。

「……あー、疲れた」

一番疲れる「交渉」が残っている。
僕は、もう一枚、別の羊皮紙を取り出した。
『報酬』とだけ書き、その下に、僕の「望むもの」を記していく。


『"霧の古書店"経由にて、以下を要求する。
一、古代エルフ語魔術体系・第四巻
一、"失われた図書館"の地図
一、金貨五百枚』


我ながら、ふっかけたと思う。
特に「第四巻」の写本と「失われた図書館」の地図は、金貨数千枚でも買えるかどうか怪しい、国宝級の「お宝」だ。

だが、相手は王宮魔術師団。
ガイゼルの闇ギルドと事を構えるための「情報」だ。これくらいは出せるはずだ。

もし断られたら、それはそれでいい。その時は縁がなかっただけだ。
僕はその要求書も丸め、再びカラスを呼んだ。

「……これもだ」

カラスは、面倒くさそうに(僕の無気力が伝染っているのかもしれない)それを受け取ると、再び闇に消えた。

「……終わった」

これで、本当に終わりだ。
あとは、報酬が届くのを待つだけ。
報酬が届けば、僕はまたしばらく、この地下室でダラダラと本を読み、眠り、退屈に身を任せることができる。

僕は、寝床であるクッションの山に視線を戻した。
ああ、あの柔らかな山が僕を呼んでいる。
もう何も考えたくない。

(……『天秤を噛む蛇』)
だが、脳裏に、あの禍々しい紋章がちらつく。
そして、あの古書店で出会った、黒髪の男の、深い青い瞳。

(……ガイゼル)
彼が、あの「翼の少女」の取引に関わっている。
そして、僕はその情報を「国」に売った。
間接的に、僕はあの男の「敵」に回ったことになるのだろうか。

「……面倒くさい」

僕は、その思考を無理やり頭から追い出した。
知ったことか。
僕は情報屋だ。情報を売って、対価を得る。
それ以上でも、それ以下でもない。
裏社会のトップがどうなろうと、国がどう動こうと、僕の退屈な日常が脅かされない限り、どうでもいいことだ。

僕は、すっかり冷たくなった黒猫の体を撫でてやると、今度こそ、安らかな眠り怠惰に戻るため、クッションの山へと倒れ込んだ。


地上の騒乱など、この「深淵」には届かない。
――はずだった。






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