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51 【解けない熱】
しおりを挟む僕の日常は、相変わらず地獄と研究と、そしてあの男の存在で構成されていた。
だが、何かが微妙に、しかし確実に変わり始めていた。
それは、まるで長年住み慣れた地下遺跡の壁に、いつの間にか新しい染みが広がっていたのを発見するような、そんな捉えどころのない変化だった。
ガルドの訓練は、依然として僕の肉体の限界を試すものだったが、あの実験失敗の後から、明らかに「加減」されるようになった。
ガルド自身は相変わらず鬼のような形相で僕を扱き使うが、以前のように僕が意識を失うまで追い込まれることはなくなった。メニューの途中で、必ず短い休憩が挟まれるようになり、訓練後には回復を促すらしい妙に甘い飲み物まで出されるようになった。
もちろん、ガルド自身の判断ではない。ガイゼルの命令だ。
あの忌々しい銀の輪を通して、僕の限界ギリギリのラインを把握し、そこを超えないように管理しているのだ。
『道具のメンテナンス』。相変わらず腹立たしい理由付けだが、そのおかげで僕が死なずに済んでいるのも事実だった。
そして、夜の共同研究。
これも変化していた。
僕たちの精神が直接繋がったあの日以来、ガイゼルとの「同調」は、より深く、より容易になった。
僕が空間の歪みを読もうと集中すると、彼の意識が、まるで水面に油が広がるように、自然に僕の精神に入り込み、それを補助する。
彼の思考が、僕の思考と混ざり合う。
冷徹な計算、支配者の視点、そして…時折、僕自身ですら驚くほどの、魔術の真理に対する純粋な探求心。
それは、恐ろしく効率的で、僕の研究は飛躍的に進展した。
『エネルギー吸収・空間分散型転移理論』は、もはや完成間近と言ってもいい段階まで来ていた。
だが、同時に、僕は言いようのない「居心地の悪さ」を感じるようになっていた。
精神が繋がるということは、僕の思考も、感情も、彼に流れ込んでいるということだ。
僕の、彼に対する反発心。屈辱。恐怖。そして…認めたくないが彼への複雑な依存心や、彼の才能へのある種の敬意。
それら全てが、彼に筒抜けになっているのではないか?
そう考えると、背筋が寒くなる。
彼は、そのことについて何も言わない。
いつも通り、僕の隣に座り、僕の研究を「指導」し、僕の成果を「検分」する。
だが、彼の僕に対する「接触」は、明らかに増えていた。
「…ここの術式、昨夜のシミュレーション通りに修正した」
僕は、クッションの上で羊皮紙を広げ、隣に座るガイゼルに示した。
「これで、理論上は安定するはずだ」
「…見せてみろ」
ガイゼルは、僕の肩越しに羊皮紙を覗き込んだ。
近い。
彼の息がかかるほどの距離。
僕は、もうそれを注意する気力もなかった。
彼の手が伸びてきて、僕が修正したルーンを指先でなぞった。
(…素手だ)
最近、彼は僕に触れる時、必ず手袋を外すようになった。
「…なるほど。お前自身の魔力特性に合わせて、循環パターンを最適化したか。悪くない」
彼の指が、ルーンから滑り、僕の手首…あの銀の腕輪の上を、そっと撫でた。
「…っ!」
僕は、反射的に手首を引こうとした。
だが、彼の手が、それを許さなかった。
彼の指は、腕輪の下、僕の脈打つ皮膚に触れ、まるで僕の「生命」そのものを確かめるかのように、そこに留まった。
「…問題は、これを実用レベルで『制御』できるかだ」
ガイゼルは、僕の手首を掴んだまま、僕の顔を覗き込んだ。
その青い瞳は、術式ではなく、僕自身を見ていた。
「…前回の失敗を繰り返すわけにはいかん」
「…分かってるよ」
僕は、視線を逸らした。
彼の手が触れている場所が、熱い。
「…だから、精神力強化の訓練も、やってるんだろうが」
「…ああ。その『成果』は認めよう」
ガイゼルは、僕の手首から手を離すと、今度は、僕の「首筋」に、その指を這わせた。
(…!)
「…だが、まだ足りん。お前の精神は、まだ『不安定』だ」
彼の指が、僕の頸動脈のあたりを、ゆっくりと辿る。
僕の心臓が、ドクン、と大きく跳ねたのが、彼に伝わってしまったのではないかと、焦った。
「…な、何が言いたいんだ」
僕は、かろうじて声を絞り出した。
「…訓練を、もっと増やせってことか」
「…それもある」
ガイゼルは、僕の首筋から指を離すと、立ち上がった。
そして、部屋の隅にある棚から、一つの「箱」を取り出した。
「…だが、それだけでは足りん。『外部』からの安定化も必要だ」
彼は、その箱を開け、中から、黒く輝く、滑らかな「チョーカー」のようなものを取り出した。
それは、僕が嵌められている腕輪や足輪と同じ銀の金属で作られていたが、中央には、小さな「黒曜石」が嵌め込まれている。
「…なんだ、それ」
「…『精神安定化』の魔道具だ」
ガイゼルは、それを持って、僕の前に再び膝をついた。
「…俺の魔力とリンクさせてある。これをつければ、お前の精神の『揺らぎ』を、俺がリアルタイムで感知し、『調整』することが可能になる」
「……は!?」
僕は、絶句した。
「……冗談じゃない! まるで、本物の『首輪』じゃないか!」
腕輪と足輪だけでも屈辱なのに、今度は首にまで!?
「……俺の許可なく、お前が『壊れる』のを防ぐための、最も『効率的』な手段だ」
ガイゼルは、冷徹に言い放った。
「……つけろ。ノア」
彼は、その黒いチョーカーを、僕の首に、嵌めようとしてきた。
「……嫌だ!」
僕は、全力で抵抗した。
彼の腕を押し返し、後ずさる。
「……これ以上、僕を縛るな! 僕は、お前の所有物かもしれないが、奴隷じゃない!」
「……ノア」
ガイゼルの声が、低くなった。
その青い瞳に、危険な光が宿る。
僕の「抵抗」が、彼の「逆鱗」に触れたのだ。
だが、僕は、引けなかった。
これ以上、彼に「繋がれる」のは、耐えられない。
それは、もはや「支配」を超えた、何か別の、もっと恐ろしい「束縛」だと感じたからだ。
僕たちが、睨み合ったまま、動かない。
部屋の空気が、張り詰める。
黒猫が、僕たちの間の不穏な空気を察知し、僕の足元で低く唸った。
「……そうか」
先に沈黙を破ったのは、ガイゼルだった。
彼は、手に持っていたチョーカーを、ゆっくりと箱に戻した。
そして、立ち上がった。
「……分かった。今は、やめておこう」
(……え?)
僕は、彼の意外な反応に、戸惑った。
いつもの彼なら、力ずくで僕を押さえつけ、無理やりこれを嵌めたはずだ。
「……だが、勘違いするな」
ガイゼルは、僕を見下ろし、冷たく言い放った。
「……これは『猶予』だ。
お前が、自力で、その『精神の不安定さ』を克服できないと、俺が判断した時。
……その時は、お前の『意思』に関係なく、これをつけることになる」
彼は、僕の選択肢を奪ったわけではない。
ただ、「最終宣告」までの時間を、与えただけ。
それは、ある意味、力ずくで押さえつけられるよりも、ずっと残酷な「支配」の形だった。
「……せいぜい、励むことだな」
ガイゼルは、それだけ言うと、
僕のガラクタの山に置いてあった『古代竜族の魔力制御秘術』の巻物を手に取り、まるで、僕への「宿題」を与えるかのように
「……ここの『自己暗示』の項目が、参考になるかもしれん」
とだけ付け加え、部屋を出て行った。
カチャリ。
鍵の音。
僕は、一人、部屋に残され、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
彼が置いていった、巻物。
彼の、最後の言葉。
そして、僕の首筋に残る、彼の指の、冷たいようで、熱いような、奇妙な「残響」。
(……なんなんだ、あいつは)
僕の心を読んでいるかのように、
僕の限界を見極め、
僕の成長を促し、
僕を壊さないように、
ギリギリのところで「手綱」を握る。
それは、冷徹な支配者の「管理」なのか。
それとも、何か、もっと別の……。
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