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52 【猶予という名の枷】
しおりを挟むあの黒いチョーカーを見せつけられてから、僕の日常には新たな「プレッシャー」が加わった。
猶予。
ガイゼルはそう言った。
僕が、自力で精神の不安定さを克服できなければ、あの首輪が僕に嵌められる。彼の魔力と直接リンクし、僕の思考すらも管理下に置かれる、完全な隷属の証が。
冗談じゃない。
僕は、絶対に、あんなものをつけられてたまるか。
それは、僕に残された最後の「領域」への侵犯だ。
だが、どうすればいい?
ガルドの訓練は相変わらず僕を肉体の限界まで追い込み、共同研究は僕の精神力を限界まで削り取る。
その上で、「自己暗示」によって精神を安定させろ、だと?
僕の得意分野は、論理と解析だ。魔術もスキルも、全てはその延長線上にある。
感情や精神といった、非合理で曖昧なものを、自分で制御するなど、考えたこともなかった。
僕は、ガイゼルが置いていった『古代竜族の魔力制御秘術』の巻物を、苦々しい思いで広げた。
そこには、確かに「自己暗示」や「精神統一」に関する記述があった。
呼吸法、瞑想法、特定のルーンを用いた精神集中のテクニック。
どれも、僕にとっては「オカルト」に近い、非科学的な代物に見えた。
(……だが、やるしかない)
僕は、ため息をつき、巻物に書かれた最初の呼吸法を試してみた。
ゆっくりと息を吸い込み、魔力を体内に巡らせ、静かに吐き出す。
(……くだらん。こんなことで、何が変わるというんだ)
数回繰り返しただけで、僕はもう飽きていた。面倒くさい。
それでも、僕は続けた。
黒猫が、僕の膝の上で不思議そうに僕を見上げている。
僕の焦りが、伝わっているのかもしれない。
あるいは、僕がいつもと違う「非効率」な動きをしていることに、戸惑っているのか。
地獄の日課は続く。
だが、僕の意識は、肉体的な苦痛よりも、精神的な「課題」に向けられていた。
ガルドの怒声が飛ぶ中、僕は受け身を取りながらも、巻物に書かれた「衝撃受容の瞑想法」を試そうとして、余計に体を打ち付けた。
精神力強化の訓練では、ダスト・スプライトとの同調中に、「精神統一」のルーンを脳内で描こうとして、以前よりも早く意識を引き戻される始末。
「……どうした、ノア。最近、精彩を欠くぞ」
訓練後、僕を担ぎ上げながら、ガルドが訝しげに言った。
「……貴様らしくない、『迷い』のようなものを感じる」
「……うるさい。余計な世話だ」
僕は、彼の腕の中で悪態をついた。
(……こいつにまで、気づかれるとは)
僕の焦りが、パフォーマンスを低下させている。本末転倒だ。
その夜も、ガイゼルは現れた。
彼は、僕の部屋に入ると、まず僕の顔色を検分し、それからガルドからの報告書、おそらく、僕の不調ぶりが書かれているのに目を通した。
僕は、クッションの山の上で、彼が置いていった巻物を睨みつけていた。
「……難航しているようだな」
低い声。
ガイゼルは、報告書を置くと、僕の隣に腰を下ろした。
近い。
僕は、もうそれを指摘する気力もなかった。
「……当たり前だ」
僕は、吐き捨てた。
「……こんな、非合理な精神論、僕の専門外だ」
「……そうか」
ガイゼルは、僕が開いていた巻物のページを一瞥した。
「……『竜の呼吸法』は試したか」
「……試したが、効果がない」
「……形だけ真似ても意味はない。重要なのは、魔力の『流れ』を、呼吸と完全に『同期』させることだ」
彼は、僕の背中に、そっと手を置いた。
(……!)
素手だ。
温かい。
「……息を吸え。ゆっくりと」
僕は、戸惑いながらも、言われるがままに息を吸った。
彼の魔力が、僕の背中を通して、体内に流れ込んでくる。
それは、以前のような強引な「補助」ではなく、僕自身の魔力の流れを「整える」ような、繊細な誘導だった。
「……吐け。魔力を、足元から頭頂へと、循環させながら」
僕は、彼の誘導に従い、ゆっくりと息を吐いた。
体の中を、温かい流れが巡る。
乱れていた精神が、わずかに、静まっていくのを感じた。
「……これが、『基本』だ」
ガイゼルは、僕の背中から手を離した。
「……お前の『器』は、まだ不安定だ。だが、その『流れ』を意識することで、多少は制御しやすくなるはずだ」
「…………」
僕は、何も言えなかった。
彼は、僕に「自己暗示」という課題を与えながら、同時に、その「基礎」となる部分を、こうして不器用な形で「教えて」いる。
それは、僕を試しているのか、それとも、本気で僕の「成長」を望んでいるのか。
「……まあ、焦る必要はない」
ガイゼルは、立ち上がると、テーブルの上に置かれていた「水差し」と「グラス」を手に取った。
そして、グラスに水を注ぐと、それを僕に差し出した。
「……飲め」
「……」
僕は、黙ってそれを受け取り、飲んだ。
ただの水のはずなのに、彼の手に触れたグラスは、妙に冷たく感じられた。
「……お前の『猶予』は、まだ残っている」
ガイゼルは、僕が水を飲むのを、静かに見つめながら言った。
その青い瞳には、いつもの冷徹さとは違う、何か複雑な色が浮かんでいた。
まるで、僕の「葛藤」を、理解しているかのような。
(……こいつ)
(……本当に、何を考えているんだ)
僕の混乱は、深まるばかりだった。
支配者としての冷酷さ。
指導者としての的確さ。
そして、時折見せる、不可解な「配慮」と「熱」。
僕が、そんな思考に囚われていると、
ガイゼルは、ふと、僕のガラクタの山に目を留めた。
そこには、僕が研究の息抜きに読んでいた、一冊の「古い詩集」が開かれたままになっていた。
「……まだ、そんなものを読んでいたのか」
彼は、少し呆れたような声で言った。
「……ああ。退屈しのぎだ」
「……非効率な」
彼は、その詩集を手に取ると、パラパラとめくり、あるページで手を止めた。
そして、その古代語の詩を、低い声で、読み上げ始めた。
『……金色の鳥は、籠の中……』
『……空を知らず、歌を忘る……』
(……!)
僕は、息を呑んだ。
それは、僕が眠れずに、何度も読み返していた詩だった。
まるで、僕自身のことを歌っているかのような、哀しい詩。
ガイゼルは、詩を最後まで読み終えると、本を閉じ、僕の「顔」を、じっと見つめた。
その青い瞳が、僕の心の奥底を、探るように揺らめいた。
「……お前は、この籠の中で、歌を忘れたか?」
その問いは、あまりにも「直接的」で、僕の「仮面」を、剥ぎ取りにくるかのようだった。
僕は、答えられなかった。
ただ、彼の「視線」から逃れるように、俯くことしか、できなかった。
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