支配者は深淵の扉をこじ開ける

舞米

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52 【不協和音のオルゴール】

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「……お前は、この籠の中で、歌を忘れたか?」
ガイゼルの問いは、重く、僕の心に突き刺さったままだった。

僕は、答えられなかった。
俯いたまま、彼の視線から逃れるように、自分の膝を見つめていた。

歌?
僕が、歌など歌ったことがあっただろうか。
地下遺跡で過ごした何百年。僕はただ、退屈を紛らわすために知識を貪り、生きるために情報を売り、眠るように生きてきた。

そこに「歌」があった記憶はない。
ガイゼルは、それ以上、僕を追及しなかった。
彼は、ただ静かに立ち上がり、
「……休息も、メンテナンスのうちだ。今夜はもう寝ろ」
とだけ言い残し、部屋を出て行った。


カチャリ。

鍵の音は、いつもと同じはずなのに、その夜は妙に重く響いた。
一人、豪華な檻の中に残され、僕はクッションの山に倒れ込んだ。

眠れない。
彼の言葉が、頭の中で反響している。
籠の中の鳥。歌を忘れた鳥。
それは、僕のことか?

この、完璧に管理された、安全で、退屈しない「檻」の中で、僕は、何か大切なものを失いつつあるのだろうか。

自由?
いや、僕は元々、地下遺跡という「籠」に自分で閉じこもっていた。

なら、何を?
分からない。
分からないことが、何よりも面倒くさい。
僕は、思考を放棄するように、無理やり目を閉じた。

翌日からの日常は、しかし、いつも通りに繰り返された。
ガルドによる地獄の日課。
相変わらず体は悲鳴を上げたが、ガルドは僕が限界を迎える前に必ず訓練を切り上げた。ガイゼルからの命令なのだろう。その「配慮」が、僕をさらに苛立たせた。まるで、壊れないように慎重に扱われる「ガラス細工」のようだ。

そして、精神力強化の訓練。
僕は、自己暗示の基礎である呼吸法と瞑想に取り組んだ。
だが、うまくいかない。

ガイゼルの言葉が、雑念となって僕の集中を乱す。
籠の中の鳥。歌。
僕の精神は、静まるどころか、ざわついていた。

「……どうした、ノア。また精彩を欠くぞ」
訓練後、ガルドが眉をひそめて僕を見た。

「……何か、悩み事でもあるのか」

「……余計な世話だ」
僕は吐き捨て、彼の差し出す回復薬を呷った。


その夜も、ガイゼルは現れた。
彼は、ガルドからの報告書を読み、僕の顔色を検分すると、
「……まだ、昨日の詩を引きずっているのか」
と、核心を突いてきた。

「……うるさい」
僕は、クッションの上で膝を抱え、彼から顔を背けた。

「……お前のせいだ。余計なことを言うから」

「フン。図星か」
ガイゼルは、僕の隣に、いつものように腰を下ろした。

近い。彼の体温と匂いが、僕の神経を逆撫でする。

「……だが、感傷に浸っている暇はないぞ。空間転移の術式は、まだ完成していない」

「……分かってるよ」
僕は、苛立ちを隠さずに言った。

「……だが、集中できないんだ。お前の言う『精神統一』とやらが、うまくいかない」

「……そうか」
ガイゼルは、しばらく黙っていた。

そして、
「……ならば、気分転換だ」
と、呟いた。

彼が、懐から何かを取り出す気配がした。


(……また、新しい巻物か?)
(……それとも、僕を黙らせるための、何か別の『道具』か?)
僕は、警戒しながら、彼の手元を盗み見た。

だが、彼が取り出したのは、僕の予想とは全く違うものだった。


それは、手のひらに乗るほどの大きさの、銀細工で作られた、一羽の「鳥」の形をした、小さな「箱」だった。

「……なんだ、これ」
僕は、訝しげに尋ねた。

「……オルゴールだ」
ガイゼルは、こともなげに答えた。

彼は、その鳥の底にある「ネジ」を、ゆっくりと巻き始めた。


カチ、カチ、カチ……



静かな部屋に、ゼンマイの音が響く。

そして、彼がネジを巻き終えると、その「銀の鳥」から、澄み切った、美しい「音色」が、流れ出した。

それは、僕が今まで聞いたこともないような、繊細で、物悲しく、だが、どこか心を落ち着かせるような、不思議な「旋律」だった。
まるで、星の光が、音になったかのような。
僕は、呆然と、その音色に耳を澄ませていた。
黒猫も、僕の膝の上で、興味深そうに耳をそばだてている。

「……どうだ」
ガイゼルが、尋ねた。

「……気分は、変わったか」

「…………」
僕は、答えられなかった。
確かに、あのざわついていた心が、この音色によって、少しだけ静まっていくのを感じていた。
だが、それ以上に、なぜ、ガイゼルが、こんなものを?
僕に?

「……お前のための『ノイズキャンセラー』だ」
ガイゼルは、僕の思考を読んだかのように、言った。

「……精神集中には、適切な『環境音』が必要な場合がある。
この音色は、古代の『鎮静術式』に基づいて作られている。
お前の脳波を安定させ、集中力を高める効果があるはずだ」

(……また、合理的説明か)
だが、なぜ、「鳥」の形なんだ。
なぜ、こんな「物悲しい」旋律なんだ。

それは、偶然か?
それとも、昨夜の「詩」と、何か関係があるのか?


僕は、ガイゼルの真意を図りかねて、彼の顔を見た。
彼は、オルゴールの音色に耳を澄ませるように、目を伏せていた。
その横顔は、いつもの冷徹な支配者のそれとは違い、どこか、遠い昔を懐かしむような、あるいは、
何かを悼むような、僕の知らない「表情」をしていた。

「……これで、余計なことを考えずに、訓練に集中できるだろう」
彼は、ゆっくりと目を開けると、そのオルゴールを、僕の枕元に、そっと置いた。

そして、立ち上がった。

「……今夜は、もう休め。明日の訓練に、遅れるな」
彼は、それだけ言うと、
部屋を出て行こうとした。

(……待て)
僕は、思わず、彼の「服の裾」を、掴んでいた。

(……!)
自分でも、なぜそんなことをしたのか、分からなかった。
ガイゼルは、驚いたように足を止め、僕の手と、僕の顔を、交互に見た。
その青い瞳に、わずかな「動揺」の色が浮かんだ。

「……なんだ」
低い声。

「……離せ」

「……お前」
僕は、口を開いた。
何を、聞きたかったのだろうか。

あの詩のことか?
あの少年のことか?
僕のことか?
彼のことか?
だが、言葉が出てこなかった。

ただ、彼の「裾」を掴んだまま、彼を見上げることしかできなかった。

僕の中で、「反発心」と「依存心」と、そして、もっと別の、名前のつけられない「感情」が、ぐちゃぐちゃに、渦巻いていた。


「…………」
ガイゼルは、何も言わなかった。
彼は、僕の「手」を、無理やり振りほどくこともしなかった。

ただ、僕の「混乱」した瞳を、静かに、見つめ返していた。
そして、ほんの一瞬だけ、彼の「手」が、僕の「頭」に、触れようとして、迷うように空中で止まり、そして、ゆっくりと、下ろされた。


「……眠れ」
彼は、それだけを言うと、僕の「手」を、
僕が力を抜いたのを確かめてからそっと解き、今度こそ、部屋を出て行った。


カチャリ。

鍵の音。


僕は、一人、部屋に残された。
枕元では、銀の鳥が、まだ、美しい音色を、奏で続けていた。

僕は、その音色を聞きながら、ガイゼルの、最後の「迷うような手つき」と、彼の「瞳」に宿っていた、複雑な「色」を、思い出していた。

(……あいつ)
(……本当に、分からない)
僕の中で、ガイゼルという「方程式」は、ますます「解けない」ものへと、変わっていった。
だが、その「解けなさ」が、僕の「心」を、奇妙に、ざわつかせるのを、僕は、もう…








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